「幕間 二の弐」
埋葬機関の代行者、シエルは基点にて結界の維持に努めている。凄まじい勢いで波打つ魔を強引に押さえ込みながら、彼女はこの力の中心が霊脈や魔とは少し異なることを感じ取っていた。しかし、それが何であるかに関しては確固たるものがない。確信がない以上、対策は無く、よって今出来ることに最善をつくさなければならなかった。
そうしてしばらく。
波間はずいぶんと静かになっていく。この国の対魔の人間はなかなか優秀であるようだ。それなりに困難なはずの完全に孤立させる結界に出入り口を作り出すことといい、急速に失速していく暴発寸前だったはずの魔といい。
少し安心して、しかし油断はせずに結界の状態を探ってみる。いつの間にか結界の出入り口がなくなっていることに気づいた。その上、力の中心であったはずの「なにか」、いや、中心とはまた別の「なにか」が彼女のよく知った人間、遠野志貴を連れ立って動いているのに気づいた。
途端、彼女は焦燥にかられそうになった。疑問がそれに混じりあい、それらは結界内部に入れという衝動へと変わりそうになる。
けれどもそれは出来ない。ここを守らなければ万が一の時、街が危なくなる。
冷静かつ沈着な代行者としての思考が彼女を指揮する。それを半分憎々しく思いながらも
「遠野君、どうか無事で」
彼女は神に祈り、名前を呼んだ者の無事を願った。
「第四幕」
「ふう、ずいぶんと落ち着いたな」
遠野志貴は少し汗ばんだ額を袖で拭った。公園から出てきた魔の数は、最初こそ多かったものの、それから数分でずいぶんと数を減らしていた。
公園から広がっていた赤い波の色もずいぶんと褪せて、ほとんど夜の色が戻ってきている。魔眼を使うときに起きる頭痛とは別の、訴えかけてくるような自分の頭痛が少し休まったところからも考えるに、順調に終わりが近づいているのだろう。
集中力は欠かさぬまま、自分の服を見る。受肉した魔の返り血。本体が消滅したからか、少しずつ消えているようだったが、血塗れの学生服を着た男とはちょっとしたホラー映画のようだ。
「しっかし、これ、もし残ったりしたらまずいんじゃ……帰ったら秋葉に怒られるんだろうなあ」
気の強い、根っからのお嬢様然とした妹の怒った顔が簡単に目に浮かんだ。少し、憂鬱になる。自分の能力によるものとは別の頭痛がした。はあ、と肩を落とす。すると、
「ほほ、心配せんでもええ。その返り血は放っておいても消えるわい、遠野志貴君」
背後から、好々爺とした声がかかった。振り返ると、黒い袴を着たなんとも時代がかった小柄な背丈の老人がいつの間にか笑みを浮かべて立っている。枯れ枝のような痩躯の彼は、この公園の状態と自分の名を知っているところを見るに、一般人ではなさそうだ。
「あんたは?」
遠野志貴は老人に質問してみる。魔が飛び出してくる様子も無いというのになぜだろうか、衝動にも似た頭痛が広がりをもって現れた気がした。
「わしは、あそこで魔を屠っておる男の上司じゃよ。『大祓讃』が長、土蜘蛛と呼ばれておる身じゃ」
彼がついと指を向けた先には、休むことも無く魔を殺し続けている九鬼篤志がある。中は昏い闇の中で、はっきりとは見えないが、蒼白い閃光が散っては消えているのは視認できる。だが、今この時、遠野志貴を困惑させものがある。目の前の老人だった。彼が声を発するたびに、頭のどこかが殺せ殺せとせっつく。相手に敵意は見えないというのに、なぜだろう?
「ああ、そう」
疑問と衝動を強引に打ち消すように、人見知りしない彼には珍しいつっけんどんな返答を老人に返した。
「ほほ、まあそう初対面の老人には冷たくするものではない、さて……」
口では言うものの、若者の無愛想な態度を大して気にした様子も無く、土蜘蛛と名乗った老人は、志貴の傍らを通り過ぎる。
「あ、おい! じいさん、そこはあぶな」
「大丈夫じゃよ、ほれ、この通り」
と、志貴の言葉を背中で受けながら、老人は易々と公園へと入った。九鬼篤志が作った札による道を越えるところで立ち止まって、枯れ木が年月で曲がるようにゆるりと振り返る。その好々爺とした表情には翳りも強張りもない。
「充満しておった魔のことごとくは掻き消えておる。入っても問題はないぞ?」
土蜘蛛はどこを見るわけではなくただ漫然と天を見上げて、そう言った。その中にはまるで、志貴を少し侮るような棘があるかに聞こえる。そう考えて改めて見ると、赤と青の闇のちょうど最中に立つ老人の自分を見る顔には、まるで探るような品定めをするような目があった。ああいう視線はあまり気分がいいものではない。
志貴は、少し考えたが、彼もまた公園の中へと入った。わずかに頭痛が増したが、耐えられないというほどでもなく、意識が明転することもない。一番心配した眩暈もない。馴染んでしまえば、外と大して変わらなくなってしまった。覚悟して入ったつもりだったが、それには少し拍子抜けした。老人は彼の行動に満足したように頷きながら笑い、
「ほほ、それでよい。若いうちは少し向こう見ずなのがよろしい。行動は思考を凌駕する、思考などについて苦慮するのは無意味な偶像を崇めるにも等しいのじゃよ」
まるで説法をするような言葉を吐いた。
「ああ」と曖昧な返事を返して、横に立った小柄な年寄りを無視して、構わず辺りを見渡す。あの男、九鬼篤志はどこだと、ひび割れた死の降りてきた世界を見た。
轟音が遠雷のように響く。だが、反響してよく分からない。先輩が結界を強化したのだろうか?
「ふうむ、埋葬機関の代行者め、どうやら結界の力を締めたようじゃな」
まるで、思考を読み取ったかのようになんとも言えない間で傍らの老人の声がした。
「ほんとか? それ」
「うむ、あれを見てみい」
いつの間にか入り口のほうに向き直っていた老人に倣い、志貴は入り口を見た。
すると、道を作っていた札が宙に浮き上がり、ボッと音を立てて燃えてしまった。
薄暗い赤が公園全土を覆う。空気がこごって服を着たままぬるま湯に浸かるかのような不快感が頭から襲ってきた。
「これで、下手な出入りは出来んようになってしもうたなあ」
老人のその言葉には危機感も、焦りもなかった。ただ、泰然と事実を受け止めているにすぎない。遠野志貴はそれにどこか違和感を覚えた。この土蜘蛛と名乗る男への得体の知れない嫌悪感とでも言おうか、それがせっつく頭痛とは別に彼の中からこみあげてくる。しかし、それも堪えた。そして勤めて冷静に、言葉を返す。
「どうやって出るんだよ、これ」
「なあに、あそこに向かえばおのずと分かろう」
土蜘蛛は答えになっていない答えを返して、ゆっくりと威厳ある老人特有の大股な歩幅で前を歩いていく。
「あ、おい……」
「心配せんでええ、敵は辺りにはおらんよ」
そう言いいながら、志貴の伸ばした手をするりと抜けて先へ行く老人。それを見て志貴は「まったく」と呟き、頭をくしゃりと掻く。ため息をつくと、魔眼殺しの眼鏡をかけて仕方なく彼を追いかける。
薄暗がりの赤の世界はどこかで響く遠雷や地響きにも似た重い音が断続的に鳴る以外は静かだった。いまだに赤の残る世界だったが、それでも肉を持って襲い掛かろうとする魔はいない。空気はまだ凝っているとはいえ、ずいぶんと夜の清涼な空気に似てきている。似てきているということは、まだ普通の夜そのものじゃないんだな、とどこか皮肉めいたいつもの思考が志貴の頭をよぎった。
ずいぶんと先を行っていた土蜘蛛の後ろ姿が見えた。光が洩れる広場に踏み込まず、立ち止まっている。軽く駆けながら、遠野志貴は、彼にはできれば近づきたくない、と思っていた。
強い殺意が頭からせり出してくるからというのもあるが、あの老人は気味が悪かった。得体の知れないものにただ従事するような、どこか虚ろなあの目は生物的な嫌悪を伴う。
そんなわけで少し距離をとって立とうと思い、老人からそれとなく距離を離して立ち止まり、老人と同じく閃光が走る広場に見る。
音がした。光が爆ぜるような音。まるで金属それ自体が身を震わせて出すようなその高い音は、広場の中央の蒼白い2mほどの光柱からだ。静かだが、なによりも大きい音とそこから発せられる光とはよく似ていて、どこか柔らかな輝きであった。
あれが、飛び地して噴き出した霊脈か、と納得した。納得して、その光の柱の前でゆらゆら揺れ動く影絵達を見る。音は聞こえない。聞こえるのは荘厳な光の音だけ。一つの影絵は光を放つ。背後の大きな光で分かりづらかったが、影絵は腕を伸ばして光を撃ち出していた。それが、いくつかの影絵にあたるのもなんとなく志貴には分かった。影絵が弾ける。弾けて裂けて、小さな影を散らし、小さな影は消え失せる。
「あそこにいるので、どうやら最後じゃな」
少し離れた場所から老人は言う。その視線は影絵と光に向けられていて、その声は花火を眺めているように弾んでいるようにも思えた。つられて志貴も影絵に目を向ける。一つの影は他を駆逐する。静かな光と影の舞、躍るように裂けて散る多くの影。影絵はやがてこちらへ向かってくる。それで影絵のサーカスの時間は終わり、影は祓い手、九鬼篤志とそれを追う肉をもった怨霊、赤黒い泥人形へとそれぞれ変わる。彼らは志貴から10mほどの距離で戦う。悲鳴、稲光の音、悲痛な叫び、肉が炭化する焦げた臭い、光が弾ける。泣くようにかすれていく怨霊。
助けに入りたいのだが、一瞬で受肉した怨霊を灼く光が乱舞する中に飛び込むのは自殺行為だ、と判断する。
隙を窺う、かけたばかりの眼鏡をとった。神々しい光のためか、死を象徴する罅は見えにくい。
順調に敵を屠る祓い手、九鬼篤志はいよいよ残り3匹となった敵を迎えうつ。彼は腕を構えて、力を撃ち出す。雷が空間を薙ぎながら奔り、二匹を瞬時に貫通し、最後の一匹へと疾走する。しかし、雷は止まった。唐突に、九鬼篤志の体がガクリと地に伏した。まるで糸の切れた操り人形のように。
敵はわずかにひるんだが、改めて倒れた男へと進む。
「むう、まずいのう、これは」
「くそっ!」
悠長な口調の土蜘蛛を放って、志貴は駆け出した。ナイフを逆手に持って、ただ奔る。たかが10mの距離、一瞬だった。倒れた男と汚れた血肉で動く泥人形の間に即座に割り込んだ、青い光の照り返しの中、確かに見える人形に見える本来在らざる線をできるだけなぞった。悲鳴など上げる間もなく敵は絶命。
たやすく屠った敵を志貴は見下ろす。まさしく泥人形のように、偽りの血肉を与えられたそれは、崩れるように死んでいった。
横からの視線を感じる。ふと見ると、土蜘蛛が自分を興味深いと如実に語る細くした目で見ていた。
それを無視して、九鬼篤志に駆け寄った。
「う……」
倒れ伏した男を見て、思わず呻く。それもそのはず、彼の腕は肩口から爛れ落ち、ところどころ炭化していたのだ。
黒々とした赤と焦げた黒の腕。それを見るに、何故か志貴は、これは自分とは違うものではないか、と疑問にとらわれそうになった。
かぶりを振ってそれを無視した、すぐ近くに寄る。肉と、道具かなにかだろうか、紙が焼けている臭いが鼻につく。
「おい! 大丈夫か?」
呼びかけても、答えない。息はある。ひどい火傷をしているためか、息が荒く、汗もひどくかいているが、生きているようだ。
志貴は安堵のため息を漏らす。その彼の横を誰かが横切った。
袴の老人、土蜘蛛だった。その歩調は大股だったが、なにかに魅入られたかのようにふらふらと頼りない足取りにも思えた。
志貴は思わず、そんな彼に声を荒げた。
「お、おい、あんた!自分の部下がこんな怪我を負ってるのに、いいのかよ?」
「ん? ああ、そうか……一応手加減はしたのじゃがな」
立ち止まり、振り返ってよく分からない言葉を返す。志貴は怪訝な表情をした。その言葉もそうだったが、老人の目、瞳の奥底は、輝かしい光を背にしながらも、それ以上に爛々と赤く輝いているように思えた。志貴はわずかに警戒で表情を引き締めながら、疑問を口にした。
「なんだって? どういう」
「共鳴を利用して、わしがそやつを気絶させたと言ったのじゃよ。暴走した入れ物もろとも、抽送した魂に死なれては事じゃからな……まあ、そういう理由から、一応の修理はしておる」
老人の後半の要領を得ない言葉、そしてあまりに前半の当然とした言葉を受けて、遠野志貴は咄嗟に視線を男に戻した。
九鬼篤志の体を淡い光を帯びた紙が覆っていた。彼の呼吸は正常に戻り、汗も徐々に引いていく。気絶から立ち直り始めているのか、わずかに唸り声を上げた。
やがて、光を帯びた紙は腕に収束し、みるみるうちに腕の形を成して、元通りになった。傷や焼け爛れた跡、炭化した部分などどこにもない。
「なっ……」
声が続かない志貴に老人はまるで宣告するように言った。
「それはわしの手足。人ではなく、肉と紙で作られた人形に過ぎない。擬似人格を与えられた少し高尚な自動人形、使い魔の一種じゃ」