「もう手遅れ? それともまだ貴方はサクラなのかしら?」
痛みに身体を丸めていたわたしにそんな言葉が降ってきた。
痛覚を堪えて顔を上げると、雪がヒトガタをとったような白い少女が零度の視線を向けている。
その視線を知っている。その声を憶えている。名前だって思い出せる。
────先輩のときは思い出せなかったのに。
「イリヤスフィール……」
イリヤスフィール・フォン・アインツベルン。わたしの背後にある黒い太陽に照らされてなお白く輝く、聖杯の少女。アインツベルンが千年の悲願を成就するもの。ヒトのカタチを模した生命。その身は根源へと至る扉を開けるためだけに創られた鍵。
わたしと良く似た、故に致命的に異なる存在。
彼女は目を細めて「……驚いた」と、無感動に呟いた。
「あなた、まだマトウサクラでいられてるんだ。へぇ……見たところセイバーも取り込んだみたいじゃない。彼女で六体分──いいえイレギュラーが桁違いだったことを考えると七体分かも知れないけれど──サーヴァントの魔力を抱えている筈。それなのに、まだマトウサクラが残ってるなんて、一体どういう構造なのかしら」
意味が、分からない。耳に入ってくる声は細切れにされて、ぐわんぐわんぐわんぐわんと耳の奥で反響する。それを、ジグソーパズルのように組み立てて再構築して、ようやく彼女の言葉を理解した。
「っ……!」
胸部を抱えて蹲る。肺が灼けているような鋭い痛みがわたしを襲ったのだ。
……気を抜くと痛みがぶり返して理解したことを忘れてしまいそう。左右に頭を振って、途切れ途切れの意識をなんとか現に繋ぎ留める。
「驚いたのは……わたし、です」
そうだ、否、本当に驚いているのはきっと私の方だろう。
だって、イリヤスフィールが此処にいるのは明らかにおかしいんだから。
イリヤスフィールは外見こそ子供だけれど、内面はそんじょそこらの大人に比べても遙かに理性的で論理的だ。そんな賢明な彼女がわざわざコンナトコロに来る意味があるとは思えない。
だって彼女に出来ることなんてもうなにもない。
彼女のサーヴァントであるバーサーカーはわたしが取り込んでしまったし、彼女の魔術なんてたがが知れている。彼女は生粋の聖杯。だから、わたしが纏っている呪影の対魔力を突き破れるほどの威力を持つ魔術を行使するなんて余分な機能など持っていない筈だ。
彼女自身の肉体は普通の子供ほどの強度もない。
なにより……姉さんも、先輩も────もういないんだから。
「ッあ……」
ざくざくと身体の中から貫かれるような痛み。否、痛いんじゃなくて、苦しい。苦しくて、苦しくて、苦しくて堪らない。
なのに、狂えない。苦しくて泣きそうなのに、狂えないなんて。
視界にノイズが走る。否、五感全てがノイズに侵される。切れては繋がれ繋がれては切れる意識と感覚。
地鳴りをあげて揺れる大地は幽か。肌を舐める大気は遠い。大空洞を焼く黒い光が夜道のように薄暗く感じられる。
ぼろぼろと欠落していく知覚。秒単位で曖昧模糊と成っていく世界。
その中で、唯一彼女の声だけが鮮明だった。
「人工の聖杯であるわたしでさえサーヴァントを六体も取り込めば意志を放棄して人形になる以外ない。それに比べてサクラは不完全な聖杯の筈なのに、完全な聖杯(ワタシ)以上の性能を持っているなんて」
「それが……どうしたって、云う、つも……りですか」
「別に。ただ運命とやらが在るとしたら、それはとても皮肉に満ちていると思っただけよ」
だって、アインツベルンの魔術師が千年もの間犠牲と妄執を積み重ねてようやく到達したわたしよりも、偶然が幾つか重なっただけのマキリの実験作の方がずっとずっと優れているんだもの。
そう続けて、イリヤスフィールは無表情なまま口だけで嘲った。
違和感。
まるでのっぺらぼうのように、彼女の貌はなんの感情も映さない。言葉を紡いでも薄く開いている唇から音声が漏れるだけで、頬の筋肉が微動だにしない。
先輩の家で見たイリヤスフィールはころころと表情を変える無邪気な少女だったと記憶している。なのに、今の彼女はまるで人形ではないか。
人形。ヒトのカタチをした、しかし決してヒトではないモノ。ヒトの外観を模した何か。
「千年、か。過ぎ去ればなにもかもが瞬きの間とは云え、それでも矢張り感慨深いものね。積み上げられた骸は数知れず、犯された罪は贖われることなく、遠く崇高な到達点は摩耗し、痕に残されたのは過ぎ去った時間のみ、か。始まりはあれほど大仰だったのに、終わりは呆気ないほどあっさりしているなんて」
物悲しいものね、そう呟く声には情のカケラも浮かんではいない。残念だ、無念だ、と紡がれる言葉はただの音で、その意味を匂わせることさえなかった。
その様は正に感情など知らぬ虚空のよう。モノクロームの貌にはなんの感情も浮かんではいない。
「イリヤスフィール……? あなた、」
思わず問うたわたしに彼女は「あら、そんなに不思議?」と笑った。今度は口元だけじゃない、太陽みたいな笑顔だった。
そんな目映いばかりの頬笑みのままで、彼女は冷たく云い放つ。
「貴方相手に表情を変える必要なんてないでしょ?」
「ああ、つまり……」
つまり、先輩の家で見たイリヤスフィールの笑顔は、人工物だったワケだ。
「別に驚くことでもないでしょ。作り笑顔なんて誰もが使う外交手段じゃない」
「ええ、そうですね……人形には、無表情よりむしろそちらの方がお似合いです」
ヒトに創られた存在には、作られた笑顔の方が、より栄えるから。
「は、あ……」
じくり、と鋭い痛み。うなじの辺りがぎぎぎぎぎと軋む音が聞こえた。
言葉を紡ぐたびに胸の奥が苦しみに染まる。目を見開くことすら困難。言葉を聞き取るにも思考のスペースが殆ど残されていない。なのに、どうしてわたしは軽口なんて叩くのか。
「っふ、は……ぁ」
顔を上げていることも出来なくなって、俯せになる。胸を抱く。苦しい。呼吸してさえ窒息しそう。大気に溺れるなんて、魚みたいだ。
イリヤスフィールが先ほど云ったことは正しい。サーヴァントは第六架空要素、魔力の塊だ。その膨大な魔力はたとえ一体でもヒトのカタチをした器に収まりきるものではない。そも、ヒトのカタチが保持し続けられる魔力など高が知れている。
なのに、わたしは6体ものサーヴァントを体内に取り込んでなおわたしを維持し続けている。魔力許容量とは精神の体積に他ならない。それを遙かに超える量が詰め込まれれば、破裂するか潰れるかのどちらかだ。わたしがわたしであるために必要な心の容量は決まっている。詰め込まれた英霊の魂はその巨大さでわたしを押し潰してしまうのが道理。
しかし現実は真逆。ならば、その道理を覆す要素とは果たしてなにか。
────酷く苛々する。
「戯れ言は此処までです。……一体、なにをしに来たんですか、イリヤスフィール。あなたに出来る事はもうありません。そんなこと、疾うに知っているでしょう? さっさと、アインツベルンの山奥にでも引っ込んだらどうです? そんな事をしてもどうせ結局は──」
痛みを無視して無理矢理顔を上げ、首だけで振り返る。
わたしの背後には天上と大魔法陣を繋ぐ黒い柱が、音もなく燃え上がっている。散らされる炎に熱はなく、巻き上げるような風もない。ただ、煌々と輝く光が空洞を照らしている。
その中心。黒い炎に包まれてなお昏く輝く太陽が、鼓動するように明暗を繰り返していた。それに併せてあてられるような魔力の波が引いては寄せる。
燃え上がる柱は回廊の如く、瞬く太陽は心臓のよう。
大魔法陣からは、生まれいずるための途が刻一刻と伸びては霞と散っていく。その様は、まるで遥か空に伸ばされた巨人の腕のようだった。
巨人が目指すは黒い太陽。今は熱に融かされて触れられないが、もう直にその腕は太陽を掴むだろう。
その瞬間に、黒い太陽は受胎する。
強大な魔力の塊でありながら肉、魂でありながら物質であるそれは、第三魔法と呼ばれる神秘の体現。
冬木における三回目の聖杯戦争より大聖杯に寄生したサーヴァント。
力の塊である無色の聖杯に、殺戮という指向性を持たせた復讐者。
「──この世全ての悪(アンリマユ)が全てを滅ぼしてしまいますけど」
その蠢動を見つめながら、思い出したように呆と呟いた。
イリヤスフィールの方向を向くと、彼女も黒い太陽を見上げている。
「この子については、アインツベルンの方が詳しいでしょう?」
「ええ。アンリ・マユを喚んだのはアインツベルンだもの」
イリヤスフィールは小さく冷たく微笑んだ。
彼女は唱うように告げる。
「アヴェンジャー。……アインツベルンがルールを犯してまで呼び出した絶対悪。この世全ての悪なる属性を与えられた、哀れな哀れな反英雄。世界中の人間の善を証明するためだけに、傷付けられ裏切られ罵られ貶められ怨まれ憎まれ恐れられ悲しまれ蔑まれ嫉まれ侵され奪われ続けた可哀想な生け贄。神代の悪魔の名を与えられた普通に生まれたただの一般人。世界の平和、人間の善性の実現という『理想』にその生涯を奪われた呪いの具現。それがアンリマユと呼ばれる『人々の願い』。
聖杯は願いを叶える力の渦。それはアンリマユという『願い』ですら例外じゃない」
彼女は視線を落としてわたしを直視し、云った。
「サクラこそちゃんと理解してるの? ────それが受胎してしまったら、起こるのは惨劇でさえない──殺戮だけよ」
……。
その言葉はある意味決定的だった。
イリヤスフィールは云う────このままでは意味も意義も価値すらない、ただの殺戮が始まるぞ、と。
分かっている。そんなの、疾うに知っている。なんたって、わたしはもう十年も前からアンリマユとリンクしていたんだから。
アンリマユはただの殺戮概念。それ以上でもそれ以下でもない。
「そんなこと知ってます、イリヤスフィール」
誕生すれば全人類を殺し尽くす『理想』という力。呪い。それはあらゆる厄災を足したよりも遙かに強大な災いを引き起こす。そうであれ、と望まれたが故に。
そこにアンリマユと名付けられた誰かの意志などない。
彼は一塊の呪いでしかないのだから。
「ずっとずっと昔から、知っているんです」
苦しい。苦しい。苦しい。苦しい。
がりがりがりがりと意識が削られる。マトウサクラの意志が端から端から霧散していく。
だって云うのに、まだ間桐桜はマトウサクラのまま。
この世全ての悪がその暴威でもってわたしを粉々にしようとしているのに、どうしてわたしは壊れないのか。
こんなのは拷問だ。道徳とか、正義とか、思想とか、理念とか、そんなモノはまだわたしに残っている。アンリマユは生まれることすら許されない絶対悪だと認識している。なにがあっても阻止しなければならない厄災であることを、分かりたくないのに解ってしまう。
そして、それを実行する手段も知っている。
「……自殺しろ──とでも云いたいんですか、イリヤスフィール」
そう、わたしが死ねばいい。
アンリマユの受肉を妨げる手段は今この瞬間には二つだけ。アンリマユが寄生している大聖杯テンノサカヅキを破壊するか、大聖杯という大魔法陣に魔力を走らせて起動させている聖杯、つまりわたしが死ぬか。
前者はおよそ実現不可能。イリヤスフィールは大聖杯を破壊するほどの威力を保持して居らず、わたしは大聖杯を攻撃することも叶わない。先輩を殺してからイリヤスフィールがここに来るまでずっと大聖杯を破壊しようと試みているのに、それがどうしても不可能なのだ。
それもその筈、わたしが今行使している呪影は、『絶対悪』という存在しない架空元素(ノロイ)に虚数属性を付与させ、膨大な魔力を用いて力尽くでコーティングした、云わばアンリマユそのものなのだ。だから、如何に術者であるわたしの命令でも、本体の存在を脅かすような行為は出来ぬが道理。
故に、アンリマユの誕生を許さぬのであれば、わたしが死ぬより他になく、
イリヤスフィールにわたしの殺害が不可能である以上、わたしが自分(ワタシ)を殺すしかない。
「でも残念ですね」
わたしは嗤って呟いた。
そう、残念。本当に、残念だ。
────そんなことはね、もうわたしには出来ないんです
わたしは嗤う。わたし自身を嘲笑する。
堪えきれない。堪えきれない。自分自身を憎むことを止められない。
「そんなこと、さっきからずっとやってるんです。裡に向けて破壊の魔術を使ってる。でも、ダメなんです。何度も何度も何度も何度も心臓を潰そうとしてるのに、脳を砕こうとしてるのに、わたしという存在を分解しようと試みているのに、出来ないんです……っ!」
先程から感じる痛みや苦しみはその所為だった。臓腑を圧縮し、脳を破壊しようとしているのに、わたしの中にあるアンリマユがそれを成すための魔術行使をわたしに禁じているのだ。
まったく、これじゃあどちらがマスターでどちらがサーヴァントなのか……っ!
「アンリマユを埋め込まれたわたしはアンリマユに汚染されている。この世の悪徳にずっと晒されてきたイキモノとしてのわたしの肉体は、自己を破壊できない。精神も魂も理性もただ肉体に寄生しているに過ぎません。だから、身体が禁忌とした行為は出来ない。出来ないんです!」
吐き出すように叫ぶ。咽せながら、思いの丈を空洞に響かせる。
“自愛”。そは極み窮まれば悪としての属性を持ちうる要素。本能の領域で“死”を恐れないイキモノはいない。それは精神の属性と云うよりも肉体に属する性質なのである。
汚染された肉体は、禍々しいほどの自愛でもって、わたしを律し、圧迫する。
「死にたい、わたし、死んでしまいたいんです! なのに出来ない……生まれ方を決められない人間には、死に方を決めるくらいしか出来ることはないのに、それさえも出来ないなんて!!」
頭を揺らし、髪を振り回して絶叫する。
死にたい、と。
殺して、と。
そんな救われない懇願でさえ、心の底から望んでも許されない現実を嘆き悲しみながら。
朦朧とした頭に響くのは姉さんの悲鳴であり、先輩の絶望だった。
姉さんに認めて欲しかった。
────でも殺してしまった。
先輩に殺して貰いたかった。
────でも殺してしまった。
二人とも、わたしが殺してしまった。否、二人だけじゃない、兄さんも義父さまもお爺さまも見たこともあったこともない多くのイノチを奪ってしまった。
それは悔やんでも悔やみきれない過失。天を突かんとばかりに積み上げられたわたしの罪状。
なのに、わたしの罪悪感はわたしを殺しては呉れないのだ。
なんて醜さ。先輩、わたしは、こんなにもキモチワルイ人間でした。
どうすれば、どうすればいいんですか。どうすれば、わたしは救われるんですか。どうすれば、わたしは奪ったイノチに報いることが出来るんですか。
どうすれば、先輩たちはこんなわたしを許してくれますか。
それは愚かしい問だった。イノチを奪った者に許しなど訪れるはずがない。そんなことは分かっていた筈なのに、それでもなお許しを求めずにはいられなかった。
イリヤスフィールは無言でわたしを見つめている。
なにも云わず、
なにも語らず、
ただ、そこにいる。
詰られれば、罵られれば、貶められれば、まだ、楽だったかも知れないのに。
「ごほっ、あ、が……ふぁ」
咽せる。そんなに長い間叫んでいたつもりもないのに、簡単に息が続かない。
苦しい。思考がままならない。雑音混じりの知覚は認識するだけでも大きな負担を脳に強いた。
頬を撫でる風の感覚が分からない。揺れる大地が感じられない。
アンリマユの受胎が近付いているのか、わたしの知覚ががらがらと崩れ落ちていく。
「サクラ」
なのに、彼女の声だけは相も変わらず鮮明なままだ。
「ねえサクラ」
イリヤスフィールは囁くようにわたしを呼び掛ける。
見上げると、イリヤスフィールが笑っていた。鮮やかに、穏やかに笑っていた。
────その笑顔に戦慄させられる。
それは予想ではなく、予感。
次に紡がれる言葉は、恐らくは致命の一撃であると間桐桜(アンリマユ)は警戒し、
「ねえ、シロウは美味しかった?」
─────────容易く粉々にぶち壊された。
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投稿掲示板が長くなってる!
どうもおはようございますintoです。
投稿掲示板も賑やかになってきましたね。嬉しい限りです。
頑張りましょう(^^)
さよならわたし2は容量的に収まりきらないだろうと思いまして、キリの良いところで分割します。
とはいえ、まだ後編書いてませんが。
前回投稿したinterlude2があまりにヘボかったので改訂しようかとも考えたんですが、
取り敢えず話を先に進めてしまおうと結論しました。
二度死んだ物語り。新たに生まれ変わるならば、別の場所が相応しいかと。
何はともあれ頑張りますので何卒宜しくお願いします。
ではでは。