「幕間 弐の一」
遠野志貴とシエルが出会ったのは、公園から離れてそう遠くないところだった。
黒い法衣に身を包んだ彼女は、薄闇を切る風のように走りながら、志貴の顔を認め、直前で停止した。魔に対峙するときに見せる険しい表情のまま、彼女は事情をすでに理解している、と視線で語りかけて、頷く。
「遠野君! 急ぎましょう!」
そして、志貴の手を握り、俊敏な体躯を加速させる。腕が抜けるような強さで引っ張られた志貴はあわてて向き直り、
「うわっ、先輩!? 分かったから、手を離せって」
と手を振り払い、シエルの横に並ぶように全速力で駆ける。
しかし、シエルはさすがというべきか、圧倒的速さを持って、少しずつ遠野志貴との距離を離していく。それに追いつこうとして、体に鞭を打つ。
心臓が早鐘を打ち、肺が酸素を求めて膨張、収縮し、体が熱を持ち、その一方で頭だけが冷えていく。
ああ、これはいつもと同じだ。
遠野志貴はそんな益体もない思考に一瞬囚われた。しかし、本来虚弱な肉体はそれ以上の思考を許すことをせず、ただ走る事を命じる。
そして、公園の入り口に着いた。先に着いたシエルのわずかにひるんだ顔を見て、遠野志貴は、首をわずかに傾げて公園内部を見た。公園の入り口付近からこちらは夜の世界、青い薄闇の此岸、なにやら札が道を作っている。そこから向こうは魔の異界。赤の彼岸。
そこには、赤黒い泥のような肉をした人目で分かる敵と、狂ったかのようにそれを狩り続ける男、九鬼篤志が居た。
「なっ……あいつ!?」
彼の腕から火花が散り、それが一瞬で膨れ上がり、爆ぜて敵を襲いつく。
雷光にも似た青白いそれは、敵を燃え上がらせて、一瞬で蒸発させる。
彼らを見ていると、頭痛がした。
目の前に作られた道から洩れているかもしれない魔にあてられたのだろうか、血がわずかに疼く。
まるで、傷の上から砂を塗りこまれたかのような、ざらついた痛み。
「遠野君? 彼が誰だか、知ってるんですか?」
痛みを追い払うように、横から声をかけてきたシエルに答える。
「あ、ああ……アルクェイドを捕まえに来た日本の退魔組織の人間だって」
「そうですか……妙な技を使っていると思ったら、この国独自のものなんですね」
「どういうことだよ? それ」
「いえ、彼の力はこの間お話した、公園で見つけた妙なパターンの霊子と同じなんです。多分、それを媒介にして、公園に発生した霊脈から力を汲み上げているのでしょう。その彼と霊脈によって受肉した魔がぶつかり合っている。つまり彼と受肉した魔は同士討ちをしているわけです、事実、公園の封印がすこしずつ落ち着きを取り戻しています」
と、解説するシエルの言葉に促されるように、遠野志貴は公園を注意深く見た。
確かに、あの赤い波は少しずつその色を薄くしているように見える。黒い紅蓮だった色が今では薄紅色になっているように思えた。
「それは、いいんだけどさ。俺たち、あいつを助けなくてもいいのか?」
「却下です、見たところ彼は助けを必要としていませんし、私は結界の管理をしなければなりません。弱くなったとはいえ、まだまだ魔は大きい。万が一、破られれば街を飲み込む危険もあります」
「あ、そ……じゃあ、俺だけでも」
足を一歩公園へと踏み出した遠野志貴の首根っこは、後ろからぐいっと掴まれた。
思わずたたらを踏んで、彼は振り返る。
「なにすんだよ!?先輩」
「だめですよ!強い抗体を持つ私や結界内部の霊子が一致している彼ならともかく、あんな大きなフィールドの中に、体が普通の人間のあなたが入ったらアテられて気絶、最悪、昏睡状態になりますよ!」
指を突き立てて、遠野志貴を諌めるシエル。その強い調子からは彼の身を心から案じている真剣さがはっきりと伺え、その言葉に反論することはできない。
「わ、わかったよ……じゃあ、俺はなにをすればいいんだ?」
「よろしい。では、そこにいてください」
満足した調子で、やる気を挫くようなことを口走るシエルに対して、遠野志貴はため息をついて肩を落とす。
「いや、だから……」
「遠野君、後ろ!!」
「え?」
急なシエルの言葉に反応したのかどうか、咄嗟に前へ一歩踏み出すと、風が後頭部のあった場所を薙ぐ。
頭痛がする。軽い吐き気がした。まるで病巣を植えつけられたように。
抗うようにポケットに手を滑り込ませてナイフを取り出す。刃が飛び出すと振り返りざまに後ろに向かって無造作に腕を振るった。
肉に刃が潜り、すぐさま飛び出る生々しい感触が手に残る。悲痛な叫び。断末魔にも似た、こちらの力を失わせるような声を無視して、さらにもう一閃。血と肉が地面に落ちる粘ついた重い音。それが入り口から這い出てきた魔物だと遠野志貴が理解するとシエルは、彼に向かって教師のように諭す声で言う。
「ということです。魔が逃げ出さないように抑えてくださいね」
言いながら、遠野志貴の答えも聞かず、彼女は夜闇の中にその姿を消した。
「ああ、」
言われずとも分かっている、シエルの言葉に裡で答えながらも、衝動めいたものが遠野志貴を叩く。
鐘のような心臓が、さあ、殺せと告げている。
ためらいもなく魔眼殺しである眼鏡を取った。
血流が増幅して、神経が圧迫され頭痛がする。
死の線と点が瞳に写りこむ。人ならざる魔業。それに酔いしれることがないように巧みに舵を取りながら遠野志貴は洩れて這い出る魔を冷静に冷徹に殺していく。
「幕間 壱の参」
アルクェイド・ブリュンスタッドは自らの身に張り付いて粘りつく蜘蛛の糸を空想具現化で排除しようとして、それができないことに違和感を覚えた。それを考える間もなく迫る糸を回避し続ける彼女はさしずめ薄闇に淡い燐光の尾をひきながら翻る蛍。だが同時に、軽やかな跳躍が阻害されてはさしもの彼女も、羽を捥がれた蝶のよう。続けざまに、無数の糸が彼女の体にからみついて、あっという間に彼女は体の自由を奪われた。そして、まるで強引に眠りに誘うような脱力感が現れる。
「あっ……」
思わず、喘ぎ声を漏らす。身動きが取れない。苦しい。身がしまるようなこの糸の張力。
だというのに、その身はまだ身動きが取れるような感覚。不思議な既視感。まるで置いてきぼりにされた思考と認識。
彼女は、それでようやく理解した。
ああ、そうか……このデジャビュはそれだ。始めは混沌と呼ばれた者が蛇と呼んだ男の助力によって見出した、私を捕らえるための檻に近いと思ったが、それは違う。
これはかつて対峙した死徒、独力では排除できなかった者の技、強力な催眠。あれとよく似たヒュプノシスの一種だ。
事態を飲み込むやいなや、彼女は目を瞑り、自らに呼びかける。
これは幻覚だ。幻惑だ。感覚を消えうせた本来の領域から引き上げる。
これは嘘で虚構で偽りだ。私は何にも負けることなく、何者にも捕らわれることもない。自らが自らである認識を蘇らせる。
じわりと血が滲むように、ぞくりと全身が穿たれるように、ざくりと心を貫かれるように、ぎちりと魂を縛るように。
彼女の世界の鎖は彼女を元へと連れ戻した。
網にからめ取られ、力なくしたモンシロチョウのように蜘蛛の巣に張り付けられた彼女は赤い瞳をかっと見開いて、網を引き破り、周りに敷き詰められた蜘蛛達を見受け、
「消えなさい、下郎共!!」
一喝し、闇に潜んでいた蜘蛛全てを一瞬で微塵とした。
塵となって跡形もなくなった蜘蛛達の亡き後、翳って消えた濃い闇の後、灯火がゆらめく薄闇を見渡して、もぬけの空になった蜘蛛の住処の中心でアルクェイドは自分の髪を撫でた。
「まったくもう」
腕を組んで、己の失態にため息をつく。
「あ〜あ、どのくらい経っちゃったのかな? 今から三咲町に戻っても絶対間に合わないだろうし」
まるで待ち合わせに派手に寝坊してあわてて一通りの準備まではしたのに、結局あきらめたときのようにがっくりと肩を落とした。
ここに来たときのように肉体と精神を転送する手も考えたが、あれはあんまり気分のいいものではないし、普通に戻るよりは早いだろうけどやっぱり時間がかかって間に合わないのでやめた。
「ま、あんな三下。志貴がなんとかするでしょ、いざとなったら妹だっているし、シエルもいるしね」
と自身の大事なものと、彼への好意を阻むが、自分と同じく彼の身を守ろうとしている点では認めてやっている女達の名を出して、彼の生まれ持った素質、そして培われた能力からこの事態を片付けることができることへの信頼を、確信した声で口にする。
「そうと決まれば……」
彼女は少し、逡巡して……
「ラーメンでも食べにいこっと。確か雑誌に、この辺においしい店があるって載ってたのよね」
軽い足取りで、蜘蛛の巣、闇の洞穴を出た。