さよならわたし   interlude2


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1: into (2004/02/28 11:02:00)[terag at pop06.odn.ne.jp]





 スープを一口、口に含んだ瞬間、びくん、と椅子に座った身体が跳ねた。痙攣するような、唐突さだった。

 思わずがたがたと音を立てて、立ち上がる。と、一緒に食事をしていた義父さまに睨まれて椅子に座り直す。
 なにが起こったのかまるで分からない。
 胸のあたりに痼りを感じた。それが何であるかわからない。
 まあ、気にすることはない、そう思ってスプーンを握り、スープを掬おうとする。

 始まりは刹那。

「っあ!?」
 胸の中心あたりがきゅぅぅっと縮まり始めたような痛みに、スプーンを落として、乳房の間を握りしめた。なにも掴めない。そこにはなにも無いのだから当然だ。
 だけど、どんどん胸の中心にわたしが吸い込まれるような感覚が酷くなっていく。その原因を掴もうとして、なにも無い空間をただ掻き毟った。
「……っぁ!」
 がたんと音を立てて、食卓の椅子から転げ落ちる。
 だん、という音。
 受け身もなにもなく堅い床に打ち付けられた身体が鈍い痛みを訴えたけれど、胸を灼く正体不明の感覚に比べれば刺激とさえ云えないていどの小さな痛みでしかない。
 身体の中心を絞り込まれているような、連続する鋭角な痛覚が脳を灼く。
「っ! ……あ、うぁっ!」
 痛い、痛い、痛い。気が狂いそうな痛み。蟲倉の中で感じる快感を伴う痛みではない。これは、生命に支障を来すような、そんな類の痛みだった。
 こんなのは初めてだ。蟲倉をようやく解放されて、夕食を一口食べただけなのに。
 痛いという言葉の範疇に含まれるのが嘘みたいな刺激が絶え間なくわたしを襲う。
 なにがなんでなんなのかまるで分からない。分かることは、ただ痛いという一点だけ。だけどそれだけで狂ってしまいそう。
 恥も外聞もなく床を転げ回る。埃まみれになったけれど、それんなコトがどうだというのか。それよりも、今は、この胸を突く痛みをどうにかしたかった。
 胸の中心は相も変わらず縮んでいく。まるでそこに孔があって、その向こう側に引きずり込まれているみたい。神経が雑巾を絞るように捻られているような錯覚。痛覚は麻痺してくれず、不断不休の勢いでわたしの脳を串刺しにしていく。
「っ、あ……」
 思わず、喉から声が漏れた。声どころか、呼気とさえ呼べないような幽かな音が喉の奥で鳴る。
 しばらくすると動く気力さえなくなった。あまりの痛覚にそんな余裕は枯らされてしまっていたんだ。堪える。その他にやり過ごす方法を知らなかった。
 絶え間なく流れ続ける涙で滲む視界には、義父の足が見える。一緒に食事をとっていた義父は、わたしの異変に気が付いていないのだろうか。それはあるまい。ずいぶんと長い間暴れ回っているのだから、気が付かないはずがない。
 それじゃあ、どうしてなにも云ってくれないんだろう。
 どうしたんだ、と。
 どこが痛いんだ、と。
 どうして問いかけてくれないんだろう?
 痛い。痛いです義父さま。わたし、どうなっちゃったんですか?
 そう問いかけようとして、息が出来なくなっていることに気が付いた。ついに肺が孔に飲み込まれてしまったのだろうか、呼吸がまるで出来なくなっている。
 そのことに気が付くと、痛みよりも苦しさが先立つようになった。それはそうだ。痛みで発狂しようがなんだろうが、痛みならばわたしは堪えられる。だけど、呼吸できなくなってさえ生きられるニンゲンは在りはしないだろう。
 ぜいぜいと呼吸しようにも息を吸い込むことが出来ない。まるで呼吸の仕方を忘れてしまったような感覚。ぱくぱくと、大気に溺れる金魚のようにわたしは喘いだ。
 苦しい、苦しい、苦しい、苦しい。
 数ある人間の死に方でも、窒息死は焼死や餓死を同じくらいに苦しいと何かの本で読んだことがある。
 そうだ、こんな苦しみを与えたら確実に発狂する。
 窒息の果てに待っているのは確実な死。
 それはイヤだ。
 わたしはまだ死にたくない。
 死にたくない。
 生きていたい。
 だって、まだ姉さんに会ってない。なにもしてない。なにもできてない。なににもなれてない。
 苦しい。
 苦しい。
 苦しい。
 苦しい。
 苦しい……っ!
 喘ぐ。呼吸がしたいと音無き声で叫ぶ。届かない。呼吸するなんて些細なことが、今のわたしにとっては夏の青空みたいに遠いコト。
 だけど諦められない。諦められない。諦められない。
 空に手を伸ばすようにわたしは喘ぐ。喉が渇いて痛いけれど、それがいったいなんだというのか。否、痛みなど如何程のものか。この苦しみに晒される続けることを考えると、肉体の痛覚に堪えることなど児戯に等しい。
 苦しい、苦しい、苦しい。
「……っ」
 呼吸できない。
 まるで水中。まるで真空。呼吸するための大気が無くなってしまったような不自然さ。
 呼吸できない。呼吸できない。呼吸できない。
 思考が白む。酸素が足りない。ダメだ、意志をちゃんと持て。今気絶したら絶対に二度と起きあがれない。この先を手放すことになる。痛くて苦しくて辛いだけの過去を抱えて死ぬことになる。
 そんなのはイヤだ。イヤだ。イヤだ。イヤだ!
 引き千切る勢いで上着のボタンを外し、シャツを破って胸をはだけた。
 呼吸は依然として出来ない。
 掻き毟った乳房の間は引っ掻き傷で真っ赤になってしまっている。じくじくと鈍い重さが思考をキックした。
 ぎちりぎちりと痛みと苦しみで思考が埋め尽くされる。万力に挟まれたようにぺしゃんこになっていくイメージ。
 怖い。自分はいったいどうなってしまったんだろう。わたしはニンゲンの筈だ。ニンゲンは大気中で呼吸できるのが普通だろう。なのにどうしてわたしは呼吸できないのか。まるで魚になってしまったみたいに、この大気が吸い込めない。
 どうして、どうして、どうして、どうして。

     まさか、わたしはニンゲンじゃないんだろうか。

 否、そんなことは有り得ない。わたしはニンゲンだ。ニンゲンだ。その筈なんだ。
 だって云うのにどうして呼吸できないのか。おかしい。なにかがおかしいんだ。分からない。何も分からない。なにを分かろうとしたのかも分からない。
 ああ、わたしは狂ってしまったんだろうか。だから呼吸もできなくなった。狂ったイキモノが生き方を忘れたって何の不思議もないだろう。
 でもわたしは狂ってない。狂ってなんか、いない。
 苦しい。
 苦しい。
 狂おしいほどに呼吸することを求める。大気を吸い込む、ただ単にそれだけの行為がどうしてこんなに遠いのか。どうしてこんなに不可能なのか。
「……桜」
 倒れたわたしの上から義父さまの声が降ってくる。だけどそれに気をやっている余裕はない。呼吸がしたい。息を吸いたい。
 だからわたしは気が付かなかった。見下ろした彼の瞳が苦しげに潤んでいたことに。
「桜」
 義父さまは再度わたしの名前を呼ぶ。
「お前の食事に毒を混ぜた。即効性の致死毒だ」
 毒。毒、毒、毒。
 分からない、何がどうなっているのか分からない。何を云っているのか分からない。  分かりたくない  。
 声は云う。毒の性質や効果、持続時間、引き起こされる生理反応。
 聞こえない。分からない。理解できない。
 だっていうのに、言葉は続けられる。
「体内に取り込んでからおよそ一分。そろそろ体内に蓄積された酸素が尽きる頃だろう」
 一分だって。
 もっと、ずっと経っていると思ってたのに。
「生き残りたければ魔力を使って体内の毒素を押さえ込め。もっとも、虫倉を出た直後である今のお前の魔力は空っぽだろう。だから」

   まわりの全てから、魔力を奪い尽くせ────


 神託のような重みで告げられた言葉は聞こえなかったけれど、何故か意味が理解できた。
「コツはない。手順もない。導もない。出来れば生き残れよう。出来なければ死ぬだけだ」
 積み重ねられる言葉。頭の奥で、意識に掛かった霞を散らしていく。払い除けるのではない。ハンマーで殴りつけるようにして、爆散させていく。
 思考はクリア。意識が加速し始める。
 声は続く。
「出来ぬ、だが生きたいと宣うのであれば、出来るものに変化しろ。お前がお前であるために不可能であるのなら、お前がお前であることを放棄し、棄却しろ」
 生きたいのであれば、生き残れるものになれ、と声は云う。
 死にたくないのであれば、死なずに在れるものになれ、と声は云う。
「自身を自身で歪めてしまえ。曲げてしまえ。捻れてしまえ。お前がお前である必要はない。お前はお前でなくとも良い」
 わたしはわたし。
 だけど、生き残るためにはわたしでない“何か”にならなくては成らない。
「そして、吸え。奪え。略奪しろ。奪取しろ。世界のマナを、存在のオドを、奪って奪って奪い尽くせ。それがお前に唯一残された生き続けるための選択肢だ」
 生き残るために奪う。
 それは、
「善悪など関係ない。正誤など考えるな。生きたいと願うならば、奪う以外に道はない。略奪者になるより他に道はない」
 それは、
「叶えたい願いはないのか。到達すべき目標はないのか。掴み取るべき未来がないのか」
 わたしは、
「ないのであればそこで窒息死すればいい。トオサカを抱えて終わるがいい」
 トオサカ。
「しかし、在るのであれば、マキリとなって生き残るがいい」
 マキリ。
 わたしには、叶えたい願いはないのか。
 わたしには、到達すべき目標はないのか。
 わたしには、掴み取るべき未来がないのか。
 ああ、そんなことは分からない。今まで生きてきてよかったコトなんて無かったから、これから先になにを望んでも無駄なんだろうって思わざるを得ない。だってそれが現実で、わたしの知る全てなんだから。
 でも。
 お爺さまは云った。
 わたしには、姉がいるんだ、と。
 姉。お姉さん。本当の、お姉さん。
 わたしは、間桐桜はお姉さんに会いたい。会ってお話をしてみたい。笑い合いたい。
 でもその為にはわたしは“わたし以外の何か”にならないといけないらしい。
 わたしはわたしのままでいようとすると、此処で死んでしまう。
 わたしが“わたし以外の何か”になれば、マキリになれば生き残れる。
 選択肢なんてない……その筈なのに、思ってしまう。
 それは、意味があるんだろうか。会いたいと願うわたしが、わたしでなくなってしまってからでさえ、わたしの願いに意味はあるんだろうか。その願いが果たされたとして、その願いの成果は果たして誰のものなんだろう。わたしの願い。でもそれを果たせるのは“わたしではないわたし”だけだ。なら、わたしの願いには意味がないのではないか。わたし自身が叶えたいと願うことに意味はないのではないか。
 願いを抱えて死ぬつもりか。それで誰が報われる?
 それじゃあわたしはどうなるんだ。わたしはどうすれば報われるの?
 別に幸せになりたいワケじゃない。普通に生きたいなんて望んだこともない。そんなことは蟲倉で成長してきたわたしには望むべくもない遠い場所なんだ。
 だから、わたしの願いは一つだけ。
 苦しみに堪えよう。痛みに堪えよう。辛さに堪えよう。堪えて見せよう。
 その代わり、

    ただ生きたかっただけ。
    いつか、姉さんと会うその日まで、桜(ワタシ)として生き残りたかっただけ。

 なのに、どうしてそんなコトも叶わないのか。
 これほどの苦しみでさえ、そんなささやかな願いの対価として不十分なのか。
 蟲に玩ばれ別のイキモノに変えられていく恐怖では足りないのか。
 どうして。
 わたしがわたしとして生きることさえ出来ないのか。
 わたしに出来るのは、わたしとして死ぬことだけ、なの?
 イヤ、それはイヤだ。
 わたしは死にたくない。生きていたい。
 いつか姉さんがわたしに会いに来てくれたとき、わたしが死んでいるワケにはいかないじゃないか。
 だからわたしは死にたくない。
 でも、生き残るためにわたしはわたしでなくなるしかない。


 ────選択肢なんて無かった。
 わたしの願いがわたしに叶えられないというのなら。
 “わたしではないわたし”が引き継ぐことで、その願いが叶うのなら。
 選択肢なんて、無かった。
 選ぶ道など決まっていた。
 わたしの願いにとって、わたしが邪魔だというのなら、わたしでさえも切り捨てる。
 そうして叶えられた願いに意味があるかなんて分からない。
 でも願いが叶えられることには意味があるだろう。
 それが偽物でオリジナルではないとしても、意味はあるだろう。
 それを、否定なんかさせない。
 決断すれば後は速やか。
 ばちん、とブレーカーが上がる音。
 魔力回路をフル回転させる。
 神経が断線しては組み替えられていくような違和感。
 ばちんばちんばちんばちんばちんばちん。
 切り替わって、切り替わって、切り替わって、



 わたしは■■■を放棄した───────






1−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

「俺を恨め遠坂。所詮は俺もマキリだと云うことだ」
 そう云って、義理の父であった男はわたしに魔力を奪われて死んでいった。

      … … …

 というのはまた別の話。どうもintoです。
 本来ならば桜が遠坂からリボンを貰うシーンを予定していたのですが、と云うか書いていたのですが、納得がいかなくて、此方にしました。

 毒殺事件簿−こうして桜はマキリになった−

 前回前々回に比べても文章が稚拙で申し訳ないです。日々是精進。でも進めてる気がしないから苦痛に思う、と。
 次はイリヤです。
「シロウは美味しかった?」




最後に、一言推薦文を頂きましたD様、うづきじん様、雨月様、ロックハウンド様には心より御礼申し上げます。
うう、頑張って完成させますのでー。


ではでは。



P.S. 山口遼様の「握れば指の間より落つ」「A Betrayer」は秀逸です。涙腺が緩みます。シリアス好きの方は是非一読を。
   こんなトコロからで大した意味もないでしょうが、intoは山口遼様と花神の夢を応援します!


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