――「幕間 壱の弐」――
闇の中で金白の女は跳んだ。途端、割れ鐘にも似た声で哄笑する闇の主、土蜘蛛の殺意、敵意が指向性を持って飛んで来る。風を切るような幾条ものそれが檻のように周囲一面に張り巡らされて一斉に自分を囲おうとしているのを見て、アルクェイド・ブリュンスタッドは周りの空間を引き裂くように腕を振るった。いとも易々と闇に翻るそれは断絶され、張力を失い、つい、と闇の中で垂れる。
糸だった。途切れて頼りなさげに空を舞いながら、混ざるように大気に霧散していく様を見るに、魔力によって編まれたものだろう。
アルクェイドは全身によどみない流れを作ったまま、
「これがあなたの能力ってわけだ」
勝利を確信して、笑みを作った。闇の中で老人もまた笑った。
「明かしてしまうならば、そう。幾百の歳を経て、血をすする妖として生き、見出した我が固有結界の名は『胡蝶色舞』。この闇はすでにそれ」
「へえ、固有結界なんて知ってるんだ。こんな根暗な場所に引きこもってるだけが取り柄じゃないのね」
嘲るように口の端を歪める真祖の姫は、これがかつて対峙した死徒の能力に似ていることを直感している。しかし、吸血種がこんな小さな国の在来種としていることは表情には出さないものの、意外だった。
「無論、世界との接触を試みるものは皆、似たような身になるのであろう? 物の真理、事の本質、求め方は種種様々であろうとも時を経て知識と力を蓄え、やがて、それらが連続した物質の裏側にこそあると理解すれば、この能力を得る資格は十分にあると思うがね。その点において、わしは十分であり、我が能力に囚われた以上、如何なお主といえど、そうそう抜け出しは出来まいて」
「あなた、私のこと見くびっているでしょう?」
冷笑して、老人に向かって空想具現化を行なおうとするアルクェイドに、土蜘蛛はかぶりを振った。
「ふむ……どうも、姫君は直情的すぎるのう。この場合の勝利とはしばらくお主をここに留めておく、それだけ。ただそれだけよ、元より勝てるなどと大それた思考をしたこともない」
土蜘蛛はついと指先をアルクェイドに向ける。
「我が固有結界はな、少し面白い。術者がいなくとも、発生してしまえばわしの分身がその制御を成り代わる」
その言葉に応じて、静かだった闇の中で蠢いていたものが活発に動き出す。わずかな灯火がそれらの爛々と光る目を照らした。
何千、何万の蜘蛛。それらの何百万ものねめつけるような視線が一斉に金白の姫に向けられた。
「では、ゆるりと我が眷属と戯れたまえ」
小さくなる語尾と共に、溶けるように闇の奥へ消えていった土蜘蛛を見送るまいと、アルクェイドは襲い掛かる蜘蛛を散らしながら、前へ進む。
しかし、糸が自分を捕らえようとして、その進路を阻む。やむなく払いながら、右に飛び、たわんだ糸が勢いを伴って追ってくるのを煩げに処理して、再度前へ。
力の発動、世界へと手を伸ばす。一瞬で切り裂く。敵の排除。前へ。
しかし、次の蜘蛛と糸が襲い掛かる。過程の繰り返し、求める結果に届かない。さらに強い力の使用を。辺り一面を一掃。しかし、数は減らず、負けじとさらに襲い掛かってくる。
妙だった。
自分の力の律動が余りに限定されすぎている。単純な力のぶつけ合いに、たかが下等の吸血種の固有結界なぞに負けるはずなどないというのに。
疑問が脳裏をかすめる。しかし、それを深く考える間はない。狡猾な蛇にも似た敵が生理的嫌悪を伴って次から次へと飛び掛ってくる。
「あ〜もう、うっとうしいわね!」
俊敏な猫のような動作で軽やかに攻撃を避けつつ、現状の対処方法を彼女は模索し始めた。
――「第三幕」――
濁った血のような波間が、公園中央から広がり、公園中に張り巡らされた封印にぶつかり錆びのような赤黒い飛沫があがるその様を見て、遠野志貴はわずかにたじろいだ。
「な、なんだこれ?」
「霊脈が飛び地して活力が吹き出している」
この国は優秀な霊脈、活力(エネルギー)の溜まり場の群れがある国である。その理由には活火山が多いことも関係しているとかなんとかなんだが、稀に外的要因(霊脈に流れる岐路に鉄の建築物を建てるなど)からその流れが滞り、逃げ場を求めて霊力が高められた場所に吸い寄せられてしまい、一時的な点穴(フィールド)を作り出してしまうことがある。
だが、問題はそんなことではない、環境破壊など昔からだ、最も重大かつ明白なのは、
「まいった、怨音に染まってしまっている」
連綿と続く赤い波は、本来、無色であるはずの霊脈が魔に染まっていることを意味する。
多分、強引に封じ込められた怨霊の慟哭が噴き出す活力をその色にしてしまったのだろう。
奇しくも今は、埋葬機関の代行者によって処されたその封印によって、それが外に洩れなくなっているのだが。
私は振り返り、差し迫った顔で言う。
「遠野志貴、君は、埋葬機関の代行者を呼んでくるんだ、ここは私がなんとかしよう」
「いや、俺も……」
「だめだ!協力はありがたいが、この状態での君の援護は無意味だ。それより早く、封印が裂ける前に執行者を呼んで来い!弱められた結果が崩れてしまっては街中に呪いが覆いかぶさるぞ!だから急げ、早く、速やかに!」
彼の申し出を一蹴し、私は声を荒くして彼に告げた。それほど逼迫した事態なのだと、遠野志貴も理解してくれたらしく、
「わかった。すぐ戻る」
「頼んだぞ」
頷いて、町へと駆けていった。癪に障るが、教会の鬼娘は優秀だと聞いている。ならば、この魔の異常を感知できないはずがなく、すぐにでも状況を理解するだろう。
「さて、彼らが来る前に出来るだけのことをしておかねばなるまい」
私は首を捻って、肩を回しながら、赤の異界へと足を踏み入れる。
その瞬間、ぐにゃりと、平衡感覚が歪むような感覚が私の全身を通った。
「これは、また……」
私の存在が危ぶまれるほどの力の波動に思わずたたらを踏みそうになる。引き付けられるようななにかに引き摺られ、歪んだ感触のまま、足をさらに奥へと踏み出す。
そして、入り口に向き直り、持っていた鞄から、常備しているペットボトルに入った清められた水を入り口に向けて、撒く。
すると、赤が溶解して、水のかかった場所は普通の夜の世界に戻る。穢れを一時的に祓った状態で続けて、魔除けの札を二枚取り出し、足元に貼り付けた。
ジジ、と焦げるような音を立てながら札は周囲を黒く縁取り、私の周囲2mに渡って、夜の蒼を入り口からこちらにかけて道を作り出し、固定した。
札の効力が弱まると多少の霊が洩れてしまう可能性があったが、退路は作っておかなければならない。後は、霊脈を治める方法なのだが……
鞄に入った童子象を見る。霊験あらたかな神木を掘り出して作ったもので、ちなみに大変希少価値がある。
「人身供として、使うか……もったいない、これほどの童子はなかなか手に入らないのに」
背に腹は変えられないとは、昔の人はよく言ったものだ。
ため息をついて、また赤の世界に踏み出す。
しかし、魔の匂い、山の瘴気は歩を進めるほどに強くなっていき、肺を侵し、内臓を爛れさせて、神経を引き抜き、私を阻もうとする。怨霊の叫びは、私の鼓膜を破るために、耳元でがなりたてる。それでも、私は前に進む。飛び地した霊脈、つまりこの状況を生み出しているものに対して、生贄を差し出して、鎮まっていただくのだ。
「ぐ……」
だが……ああ、これはまずい。
私は膝が沈み込むような感覚を覚えた。すでに現世への未練を残した怨霊が活力によってその望みを叶えて受肉したというのに、私になお救いを求めて縋り付いている。悲痛だが、敵意に満ちた叫びが身を震わせる。それだけではなく、彼らは私の体を支配しようと内へ内へと潜り込もうとする。
ひどく、まずい。
私は、状況を見誤ったことを後悔しつつも、せめて、穢れの暴走を祓うために、さらに踏み出そうとして、全身を受肉した怨霊に覆われて、もはや一歩も動けなくなってしまった。
――だが、我に屈することなど許されず――
それは、二つの命によって律される絶対行使。だから、心、私に心などあったのか? まあ、いい。「それ」は折れず曲がらず、動けなくなったはずの肉体は超越的なものに突き動かされて、ただ歩みを進める。血が昂ぶり、血が高鳴って、私は点穴の中心手前で立ち尽くす。その目の先に移る精練されたガラスのような破片を見てしまったからだ。それが、手痛い失態で、止まった我が身は抗うことを忘れてしまう。
限界だった。もはや、私の内を侵す敵は私を食らう段階へと移り、激痛とともに、焦燥とともに私は膝を折る。
目の前には間欠泉のように力を吹き出す霊脈があるというのに。その中には、なによりも重要なアレが、赫光と蒼白の燐光を湛えているアレが見えると言うのに。我が切片、最後の切片があそこに、駆ければ一瞬の距離にあるというのに……
その時、裡から地の蠢きにも似た声が響く。
ここで、潰えるというのか。
こんなつまらないところで、こんなふざけたところで。
障害に屈して、
敵に屈して、
困難に屈して、
歪んだ世界を是正することなく、潰えると言うのか。
――それは、オレが認めない。
刹那、息も詰まるような緊張が体中を支配する。
そして、
私の核、心臓が我が身から出ようと跳ね上がる。
私の中枢、心臓がその爪を我が身に立てる。
私の本質である心臓が今、まさに我が身から目覚めようとする。
――ヤキ、殺せ。
目の前の敵は障害で、困難で倒さねばならない。
本能めいた認識が生まれる。そして、唐突に理解が起こり始める。
私の本質は、荒ぶるもので、求めるもので、明け渡すもので、打ち破るもの。
――だから、渡せ。それは、オレのだ。
真実の中から、私は封じていた私に従うしかないことを知った。
だから私は心臓の要求に応じることにした。
そうして、私の中にいた荒神の御霊は、現世に再生した。
気づけば、辺り一面には焼け焦げながら霧散していく赤い肉片が撒かれている。
私は、私が自由の身であり、私を敵だと認知した形を持った怨霊達の全身を刺すような死線と、それと引き換えに自らの腕が焼けるような痛みを放っていることを知った。
だが、そんな痛みなど最初からなかったのだ。虚構の認識を放置して、私は目の前の襲い掛かる受肉した赤黒い障害を殺す。腕に雷光が宿り、それに接触しただけで、現界したばかりの虚弱な敵は、爆ぜる光とともに終わっていく。
「雷之迦具槌(カヅチノカグヅチ)」
それが我が技だ。天降る神の力を借り受けるこの能力。
だが、人ならぬこの身とは言え、我がうちにおわす神の末端の力を顕すにはまだ足りず。よって、その過負荷で私は私の腕が焼かれている。私の腕は紙のように燃えている。
どうでもいい。
そんなことは、些事に過ぎず、内より訴える声は唯一つ
「障害を排し、困難を打倒し、敵を討ち、ただ倒せ」
それだけだ。
だから私は、燃える腕から蒼い輝きを放ち、敵を薙ぐ。光を受けて爆散する敵。その度に焼け爛れて壊死する腕。
どうでもいいことだ。元より無かったこの身、この思考、この感覚。
だから私は赤黒く爛れる腕を燃やしながら、次は殴り、次を潰し、次を叩き、次を捌き、次を裂く。
血の高鳴りが生きている証明だった。
血の昂ぶりが癒してくれる真実だった。
疑問の余地などそこに入ることもなく、耳朶に響く敵の終末の感触が今の私の全てだった。
一際大きな赤黒い肉隗が私に向かって目の前で分裂して、飛び掛ってきた。私は地面に根付くように、全身を固めた。
そして、右を砕き、左を崩し、前を切り、後ろを焼き、上を千切り、下を潰す。ただ狂いながら舞い、内からこみあげてくる狂想曲に身を委ねた。
そうだ、これが律動した力、魂の所在を確かめる術、荒魂が求める欲こそが、私が私足る所以。
それが、何によるかなど知ったことか!
確かなのは私の中で暴れる魂。それが命じる慟哭にも似た力。それだけだ。
ただ、それだけにすぎない。
私はねめつけるように辺りを見渡し、魔を薙ぎ払うべく、身構えた。
さあ、次はどいつだ――