その日は珍しく夢を見た。
元々夢など見ているかどうかさえ怪しいもので、ごく稀に見ても次の日にはきれいさっぱり忘れている。
しかしどうやら今日はそのごく稀なひだったようだ。
辺りはしんと静まり返っている。
そこは見たことも無い森だった。
七夜の森とも違って、完全に森の中は闇で覆われている。
空には場違いだと思えるほど明るく満月が光り輝いていた。
―――ここは、どこだろう。
月を頼りに森の中へと進む。
途中、何かぬるぬるする物やごつごつするものを踏んだ。
それでも先へと進んでいく。
暫く行くとそこだけが何かに切り取られたかのような広場に出た。
そこだけは月明かりを受けて辺りの様子が解った。
そして月明かりが照らし出したモノは、あたり一面の赤。
まるでペンキでもぶちまけたかのようにあたり一面が真っ赤に染まっていた。
そして、その広場のちょうど中心あたりに誰かが立ち尽くしていた。
その誰かは月を見上げたまま動かない。
頭から足先までフードつきのマントのような物を着ていて、ここからだと顔はわからないが体格からして俺より一つか二つ年下。
その誰かと同じように月を見上げた。
先程となんら変わらず月は空に一人ぽつんと浮かんでいる。
ふとその誰かは視線を落としてこちらを向いた。
その目に宿るのは、暗闇の中で月と同じように輝く蒼い瞳。
それはどこかで見たことのあるような錯覚を覚える。
その誰かはこちらに近づいてくる。
本能的にその誰かは自分にとって危険な存在だと理解できた。
手元に七夜の短刀はない。
あるのは自分が自分であるために使っている魔眼封じの眼鏡だけ。
もうあと少しで相手の間合いになる。
不思議とこれから殺されるかもしれないというのに恐怖は無かった。
その誰かは距離にして五・六メートルくらいのところで立ち止まった。
立ち止まったまま蒼い瞳でこちらを見据えたまま動こうとしない。
不思議と目の前の人物が危険だとは思えなかった。
それは矛盾。
体は危険と判断したのに、俺は危険ではないと判断する。
―――ああ、そうか。
それはとても簡単なこと。
つまりは多分、目の前の人物もあの純白の吸血姫と同じように、人ではないが危険ではないものなんだろう。
そう思えるとなんだか不思議な気分になった。
どこか懐かしいような、悲しいような。
ふと、唐突に、何か大事なことを忘れているような気がした。
それが何かは思い出せない。
けどそれはとてもとても大切なことのような気がした。
どんなに考えてもそれは思い出せない。
記憶の輪郭さえ思い出せない。
それでなぜ思い出せないか納得してしまった。
つまり、それは自分がまだ“七夜志貴”として暮らしていた頃の記憶なんだろう。
七夜志貴の記憶はもう取り戻す術はない。
今から九年前、暑い夏、青い空、白い雲の下、蝉の声が遠くに聞こえる中、俺は殺された。
あの“事故”の後、“遠野志貴”の父親によって過去の記憶を忘れるように強い暗示をかけられた。
今になってそれをどうにかしようとも思わない。
過去の記憶が無くとも今の自分は十分幸せだからだ。
昔の記憶。
思い出せるのは“紅い鬼”と、ソレにバラバラにされた“おかあさん”という人。
そして空に輝いていたとても綺麗な満月。
そういえば月が出ていたけど満月だっただろうか?
目の前の人物から目を放して空を見上げた。
そこには暗い空に穴が開いたように輝く満月が一人きり。
―――――――――アア、――――――今夜ハコンナニモ、――――――月ガ――――――キレイダ――――――
「はっ」
両手に持っていた黒鍵を投げつける。
寸分の狂いもなく獲物の急所に命中した。
「ぐぎゃぁぁぁぁぁぁぁ。」
断末魔の叫び声をあげて目の前の獲物は炎に包まれた。
通常の武器は鉄甲作用を施してあるが、普段使う黒鍵にはそれが無い。
教会の概念武装は鉄甲作用の他にも色々ある。
その中の一つ、炎属性の“火葬式典”という魔術が施されている。
その効果で目の前の獲物は黒焦げになった。
「ふぅ、それにしてもなんなんですかねこいつらは。 吸血鬼とも異なるし、この国に元々いた化け物でしょうかね?」
なんて独り言を呟きそこを離れる。
二日ほど前からこの街で不穏な動きが感じられた。
そして夜の見回りをしてみたら“コイツ”らに出会った。
最初は問題なく倒せていたが日に日に敵のレベルが上がってた。
昨日は七、八匹に一度に囲まれて冷や汗モノだった。
ロアが完全に消滅した今、もう不死の体ではない。
だから今までのような無理はできない。
今日の敵も危なかった。
この国独特の魔術というのか、特殊な攻撃をしてきた。
まあもっとも皮肉なことではあるがロアの魔術に関する記憶が残っているのでさして問題ではなかったが。
「向こうに、・・・・・・五、六匹。」
気配を感じた。
それもさっきまでの奴らとはレベルのケタが違う。
そいつらを始末するために移動を開始する。
壁を蹴ってその反動で屋上まで登る。
俗に言う三角跳びというヤツだ。
目標は移動していない。
屋上伝いに移動する。
あと少し。
黒鍵を取り出す。
両手に持って、いつでも投げれるようにする。
あの路地裏だ。
もう見える。
路地裏の上についた。
だが見下ろしても何もない。
あれほど強かった気配も消えている。
移動したか?
猫のように音も立てずに路地裏に降り立って辺りを観察した。
これといった以上はない。
移動したのなら追わなければと思い振り返ろうとしたその時、後ろから突然豪腕が振り下ろされた。
「くっ。」
ぎりぎりでかわして振り向きざまに黒鍵を投げる。
だがそこにいた“鬼”は左腕を持ち上げ盾にする。
ずぶっ、っと音を立てて黒鍵は鬼の左腕に吸い込まれていく。
だが驚いたことに火葬式典が発動しない。
「なっ、そんな。」
火葬式典が通用しない。
それは自分の持ちあわせが殆ど効果がないことを示していた。
「それなら、これはどうですか。」
そういってまた黒鍵を取り出す。
しかし今度はさっきとは違う。
これには火葬式典が施されていない。
変わりに土葬式典というものが施されている。
普段なら持ち歩かないが、相手がこの国特有の化け物とあって万が一を考えて持ってきていたのだ。
「ぐごぉぉぉぉぉぉぉぉ。」
そう叫ぶと目の前の鬼は体から煙を出してきた。
黒鍵が当たる前に煙に隠れてしまい完全に見失った。
「くっ、中々やりますね。 少なくとも知能はそんなに低くはないようですが。」
両手に黒鍵を構える。
煙のせいで全く何も見えない。
この煙は特殊な物だ。
どちらかと言うと霧に近いものがあった。
だがそれとも違う。
体に纏わりついてくる
ブンッ、ドゴォ
そんな音を立てて相手の右腕が振り下ろされる。
それをかわして黒鍵を投げつける。
だがすんでのところでまた霧の中に消えてしまった。
これでは埒が明かない。
そんなことを考えていると突然地面から腕が生えてきて両足をつかまれた。
「 !? いつの間に。」
そちらに気をとられたため、隙ができた。
後ろから別の鬼が現れて両腕を掴まれた。
すると霧が晴れて目の前に更に三匹の鬼が視界に入る。
「クックックックック。 人間だな?」
「そうだ。 それも魔術師だ。 久しぶりに食うか? 魔術師食いは久しぶりだ。」
「五年ぶりか? まあいい、俺は腕を貰う。」
「なら俺は脚だ。」
「俺は胴体だな。」
「俺は頭だ。」
「なら俺は胸だな。 さて人間よ、貴様を食う前に聞いておくことがある。 ここいらで最近同朋を殺して回っているのは貴様か?」
「・・・・・・それが何か?」
「ふん、ならば我等も仲間の復讐といくか。 諦めるんだな、我等に手を出したのが運の尽きよ。 もし生まれ変わったらまた食ってやるぞ。 はっはっはっはっはっはっはっはっは。」
「くっ。」
ここまでかと本気で諦めかけたそのとき、
「――――――伏せてなさい、シエル。」
とっさに後ろの鬼の押さえつける力が弱くなる。
その隙に抑え付ける手を振り解いて地面に伏せる。
同時に地面から何本もの鎖が出てきて一匹残らず鬼を拘束していく。
そのまま上空まで吊り上げられる。
上を見上げると白いサマーセーターに紫のスカートを穿いた金髪の女性が立っていた。
その姿はこんな場所には似つかわしくないほど美しかった。
「ぐっ、き、貴様。 我等と同属のくせに何故人間に肩入れする?」
「同属? 私と貴方達が? 見くびらないでよ。 たかが東国の下等な鬼の分際で真祖である私と同属だなんて思わないことね。」
「真祖だと? 馬鹿な。 真祖はただ一人を除いて滅びたはずだ。 故にお前が真祖であるはずがない。 ほらを吹くなら出来のいいのにするんだな。」
「その一人がこの私。 アルクェイド・ブリュンスタッドだと言っているのよ。 光栄に思いなさい。 本来ならこんな東国の下等な鬼ごときをこの私が殺しに来るなんて有り得ないことだもの。」
そういって一際鎖の締め付ける力を強めた。
ぎしぎしと音を立てている。
「これで終わりよ。」
そう言ってアルクェイドは右腕を振るった。
ただそれだけで空中に拘束されていた五匹の鬼はばらばらになって落ちてきた。
それと一緒にアルクェイドも降りてきた。
「シエル、らしくないわね? たかがこれしきの相手に遅れをとるなんて。」
「アルクェイド。 何度言ったら解かるんですか? 私はもう普通の人間なんですよ? ですから貴女みたいにばらばらに切り刻まれても復活できないでそのまま死体になるだけだと。」
「だからってこいつらの力はほんとに大したことなかったわよ?」
「もういいです。 とりあえず助けてくれたことには感謝します。 ですがなぜ貴女がここにいるんですか?」
「そんなの決まってんじゃない。 シエルと同じよ。 それに志貴も同じことしてるみたいだし。」
「なっ、このあーぱー吸血鬼! 何で遠野君にそんなことさせてやがるんですか。」
「だって志貴が自分もやるって聞かないんだもん。」
「それでも・・・・・・」
ドクン。
今まで出一番強い気配を感じた。
それも一匹や二匹ではない。
十匹二十匹という単位だ。
「シエル、もう動ける?」
「はい。 行きましょう。」
さっきまでの雰囲気とはうって変わって真剣になる。
そういって壁を蹴って再び屋上に出て跳躍する。
気配はそんなに遠くはない。
この気配からして先程の鬼よりも二回りも三回りも強いだろう。
「シエル、居たわよ。」
アルクェイドに言われて再び気配を探る。
なるほど、確かにもう目と鼻の先だ。
黒鍵を構える。
五つ先のビルの下だ。
こちらにはまだ気付いてはいないだろう。
そう思った時その瞬間ありえないことが起こった。
一瞬にして鬼たちの気配が消えた。
それに、それは気配を消されたのではなく、気配が消えたのだ。
まるで生命活動が停止したような。
「シエル。」
無言で頷いて思いっきり飛んでビルを一気に二つ飛び越えた。
降り立った先で待っていたものは血の海だった。
壁という壁にばらばらに切り刻まれた鬼の体が打ち付けられていて、地面には夥しい量の血液が流れている。
「これは、・・・・・・一体・・・・・・」
切り刻まれた鬼の体を拾い上げて観察してみる。
切り口はどんな切れ味のいい刃物を使っても再現できないような切り口だった。
「ねぇ、シエル。 これって・・・・・・」
「間違いありません。 こんな切れ口に切れるのは直死の魔眼だけです。」
「ってことはこれ全部志貴がやったの?」
「それはありえません。 私たちが気配を感じなくなってからここに駆けつけるまで五秒程度しかたっていません。 遠野君ならわざわざ逃げる必要がありません。」
「それじゃあ志貴以外にも直死の魔眼を持ってる奴が居るってこと?」
「そういうことになりますね。」
自分で言ってみて改めて思った。
ありえないと。
直死の魔眼はこちら側でも御伽噺の世界の物だ。
実際遠野君が直死の魔眼を持ってると知った時も直には信じられなかった。
実際、目の前でその力を目の当たりにした時には自分の目を疑った。
それ程までに希少な存在がこの街に二人もいる。
「この街で一体何が起こっているんでしょうね?」
そう言って空を見上げる。
そこには雲ひとつない空に星が輝く中、月が新円を描いていた。