もう、十年も前の話になります。
その人は、私のまえに突然現れました。
たった一日の、本当に短い記憶。
今でもはっきりと覚えています。
海の香りがする、あの人のことを。
― Leviathan ―
私は、幼い頃に二親をなくしました。
お父さんとお母さんの乗っていた客船は、西にある大きな海で沈んでしまいました。
でも、私は泣きませんでした。
涙はでませんでした。
そして私は、一人になりました。
私が孤児院に引き取られたのはそれからすぐのことです。
友達はできませんでした。
他の子は、お父さんやお母さんから離れてさびしいというけど、私にはそれがわからなかったからです。
よく思い出せません。私を生んでくれた人の顔が。
すぐに死んでしまったから、覚えていないんです。
ゆるやかな丘に建つ孤児院の向かいは、海でした。
海で遊ぶ気にはなりませんでした。院長先生が勧めてくれても遊ぶ気にはなりません。
いつも、夕暮れ時のみんながいなくなったときに、砂浜で海を眺めていました。
白い波が押し寄せて、引いていくのを、晩御飯の時間まで眺めていました。
憎たらしかったのかもしれません。
お父さんとお母さんを殺した海が、憎くてたまらなかったのです。
こんなに空っぽなのは、海のせいだ。
海は、嫌いだ。
ある日、私はいつものように、一人で海を眺めていました。
いつもとかわらない、波の音。潮の香り。
「……う〜ん……」
人の呻き声。
?
人の、呻き、声!?
びっくりしました。
波の音にまじって、苦しそうな人の声が聞こえたんです。
私は慌てて、辺りを見渡しました。
みると、波間の岩場に、人のようなものがうち捨てられたように横たわっていました。
海には毎日、いろいろな物が流れ着いてきます。タイヤのゴミとかプラスチックとか。
嫌な予感がしました。
もしかしたら……。
怖い。
でも、もし、ケガとかしているなら、助けなきゃ。
私は勇気を振り絞って、岩場のほうに走り出しました。
岩場はとてもごつごつした場所で、他の子も時々遊んでケガをする危ない場所です。
私は足と手に力をこめて、人のうずくまっている波飛沫の舞う岩場へたどり着きました。
その人は、岩場に仰向けで寝っ転がっていました。
水色のYシャツにジーパンをはき、この波飛沫の中で、すうすうと寝息をたてている女の人。
よくみると、女の人には右の腕がありません。
なんでこんなところで寝ているのか、こんなにずぶ濡れなのにどうして寝ていられるのか不思議におもいましたが、
とても綺麗な女の人だったので、私はそのまま魅入ってしまいました。
肩にかかるぐらいの赤い髪が、岩場にたまった海水に浮かんで、輝く海草のようでした。
きりっとした眉に、桜色の唇が夕日で淡く染まって、とても美しい人でした。
でも、ずっとそのままにはしておけません。こんなところで寝ていたら、時期に潮が満ちて溺れてしまいます。
私は恐る恐る、その人の肩を揺り動かしました。
起きません。
もっと強めに、揺り動かしました。
「……ん……?」
女の人の目が、ゆっくりと開きました。
私は大丈夫ですか?と声をかけます。
女の人はむずがるように身体をふるわせ、むくっと起き上がり目をパチパチさせて、辺りを見渡しました。
気だるそうに欠伸をして、傍らにいる私に気付きました。
女の人は海に沈む夕日を眺めてしばらくすると、何かを思い出したように顔を青ざめました。
「あ〜! 寝過ごしたー!」
なんのことか、私にはさっぱりわかりません。
「あちゃ〜。
やっぱ酒ひっかけて、回遊するのは控えたほうがいいかもね〜。 ここって大西洋のどっかの沿岸かな?
あ、自己紹介するね。
あたしスミレっていうの。 姓はスミレ、名もスミレ。 覚えといてね♪」
胡座をかく女の人は、私が何も聞いていないのに自分から色々話し掛けてきました。
スミレさんはきょとんとしている私に名を尋ねました。
彼女は私の顔を覗き込んで、屈託なく笑います。
私は、しどろもどろしながら自分の名前をいいました。
「いい名前だね。 あなた、ここに住んでるの?」
私は、黙って頷きました。
突然あらわれた奇妙な女の人に、多少というか、かなり変な印象をおぼえました。
私よりずっと背の高い人で、左手には茶色い瓶にはいった酒をもっていました。
スミレさんの吐く息は、とても言葉では例えられないほど酒臭かったのが今でも忘れられません。
スミレさんは、おもむろに後ろに振り向くと、岩場のくぼみにたまっている浅瀬に目をやっていました。
目にも止まらぬスピードで、スミレさんの左手が水面に吸い込まれます。
スミレさんが捕まえたのは、黄色のサボテンのような生き物でした。
「海鼠だ〜! いただきま〜す♪」
スミレさんは満面の笑みをうかべると、その生き物の頭からかぶりつきました……。
もしゃもしゃ美味そうに喰っています。ぐちゅとか、きちゅとか変な音が聞こえます。
綺麗な女の人の口から、なんか触手とも足とも見分けがつかないモノがはみ出ています。
私はその場から逃げたくなりました。
「あなたも食べる?」
スミレさんは食いかけの、まだうねうねしている生物を私に差し出しました。
誰が食うか! と心の中で叫びましたが、とりあえず私は黙って首をふります。
「そっか〜。 海の幸に恵まれているのに勿体ない」
スミレさんは残念そうに呟くと、食いかけたものを口に放りこみました。
私は、スミレさんのない右腕が気になっていました。
私の視線に気付いたスミレさんは、少しさみしそうな顔をして、
『これはね、昔女の子をいじめたバチがあたったんだわ』と、いいました。
「あなたは、海が嫌い?」
え?
「いや、なんか、あなたが海をみる目って、すごく辛くて、悲しそうなんだよね」
嫌なものを見られた気がして、私はスミレさんから目をそらしました。
海は嫌いです。眺めるだけで、そのほかには全く興味がありませんでした。
「あ、気に障ったらごめんね。 でもね、海ってサイコ―だよ♪」
スミレさんは、堰を切ったようにしゃべりはじめました。
魚は美味しい、深層水は絶品とか嬉しそうな顔で、楽しそうに話します。
私は、急にしめつけられるように悲しくなって、その場を逃げてしまいました。
ひどい人だとおもいました。
海が嫌いなのを知っていて、
わざとあんなに楽しそうに話して、
酷い人だ。
私はそのまま、逃げるように帰りました。
夜、ベッドのなかで、私は眠れずにいました。
スミレさんと別れて、私は急に寂しさを覚えました。
何もいわず逃げて、なんて失礼なのだろう。
苦しくて、苦しくて、眠気はちっとも起きませんでした。
みんなが、寝静まった頃、ドアをたたく音がしました。
院長先生がはいってきました。
こんな時間に何の用だろうとおもい、私は薄目をあけて先生をみていました。
私のねむる部屋は、4人の共同部屋です。ダブルベッドが二つありました。
私はダブルベッドの下で寝ていて、院長先生はとなりで寝ている子に、近づいていきました。
ジュ。
え?
ジュ。
ジュ。
ジュ。
私は、見てしまいました。
寝ている女の子の蒲団からはみでた手が、嫌な音とともに、みるみる細くなっていったのです。
窓から、月の光が差し込んだとき、院長先生の口元が、赤黒いもので汚れていました。
女の子はもう、寝息もたてていませんでした。
私は、恐ろしくて動けませんでした。
院長先生は動かなくなった女の子を満足そうに見下ろすと、ベッドの上によじのぼって男の子ににじり寄り、
同じことをしました。
恐怖で縮こまるなか、私はようやく理解しました。
院長先生が、血を吸っている―――――!?
四人部屋の三人は、もう動かなくなっていました。
院長先生が、私に向かって近づいてきます。
口元に、犬みたいな牙がはえていました。
私は、死ぬ。
そう直感しました。
私は、死ぬ。
院長先生の手が、私の元に――!
「やめなよ」
院長先生は驚いて振り向きました。
「孤児院と称して子供の血を吸っていたわけか。 とんだゲス野郎だね」
開け放たれたドアの前に、スミレさんがいました。
スミレさんの目は、とても深い、蒼のような目をしていました。
院長先生はスミレさんをみると、今まで聞いたこともない信じられないくらい濁った声で笑い、
爪を逆立てると、私の目では到底おえない速さでスミレさんに飛び掛りました。
スミレさんは、身体を横にずらして避けました。
先生はよけられた瞬間、右足をうえにあげていました。
スミレさんは、左手一本でそれを受け止めます。
院長先生が、宙に浮きました。
スミレさんは先生の右足を掴んで、人形をなげるように先生を投げ飛ばしました。
すごい。
スミレさんは、ものすごい力を持つ人でした。
私とおなじくらい腕が細いのに、自分より一回り大きい体の院長先生を投げ飛ばしたんです。
壁に叩きつけられた吸血鬼は、苦しそうにうめいてスミレさんをにらみつけました。
歯ぐきを剥き出しにして唸り、投げ飛ばされたことにとても怒っているようでした。
でも、
ポッケに手をいれたスミレさんが歩いて近づいてくると、吸血鬼は途端に歯をがちがち鳴らしはじめました。
私は、吸血鬼が怯えている理由がなんとなくわかりました。
怖いんです。
スミレさんの目は、吸い込まれそうなくらい綺麗な青色をしていたけど、
「汚い面しやがって。 あんたは五体バラバラにして、マリアナ海溝に沈めてやるよ」
冷たい氷のような顔をして、背筋が凍りそうなくらい冷たい声で近づいてくるスミレさんは、どんなものよりも恐ろしいのです。
とても、怖い。
おびえて震えていた吸血鬼は、私をみました。
吸血鬼は目尻を醜く歪ませると、私に突然とびかかってきました。
指一本うごかす事ができませんでした。
干からびてしまった子の、顔の中にへこんだ瞳が、私をじっと見ていました。
ああ、私も、あんな風になってしまう。
でも、それでもいいかもしれない。
どうせ、私には友達もいないし、面白いことなんて何もなかったから、
死んでもいい。
赤い血が、私の目の前で噴き出しました。
それは、私の血ではありません。
スミレさんの背中から吹き出た、真っ赤な血でした。
吸血鬼の爪を、スミレさんは自分の体で被ってくれていたんです。
苦痛に顔を歪めるスミレさんは、私を抱きかかえると吸血鬼を片手で振り払い、窓につっこみました。
体が一瞬、軽くなりました。
スミレさんは私を抱いたまま、窓の外に飛び出したんです。ガラスの破片が刺さらないように、私をきつく抱きしめてくれました。
孤児院は陸の崖に建っています。窓から飛び出した先には地面がありません。
ものすごい風が、下から吹きつけてきました。
どすんという音がきこえると、砂浜に降り立っていたのがわかりました。スミレさんは私を抱えたまま走って、岩場の影に隠れました。
岩を背にもたれるスミレさんの背中から、血がどくどくと流れているのがわかりました。
「復元うまくできないみたい。 ネバーモアか。
クソジジイ、絶対許さないから……」
背中からあふれ出てくる血を、スミレさんは痛そうに抑えていました。
私のせいだ。
私のせいで、ケガをさせてしまった。
スミレさんが、私をにらみつけます。
「あんた、死のうとしていたねっ!?」
私はてっきり、スミレさんがケガをしておこっているのかとおもっていました。
でも、それは私の思い違いでした。
「ばか!」
スミレさんは、私の頬を平手で叩きました。
「何で死のうとするの!?
これから楽しいことが手に抱えきれないくらい待っているのに、
どうしてあんたは、なにもかも放り出して簡単に死のうとするのよ!!」
私が死んでもいいっておもっていたことを、スミレさんは見透かしていました。
とても深い、吸い込まれそうな瞳で、私は頬を叩かれた痛さもとっくに忘れていました。
スミレさんは、私を、片方しかない腕で抱き寄せました。
「死んだらだめだよ。 あなたが死んだらあたし、悲しいよ……」
私の顔の横で、スミレさんは泣いていました。
私のために、泣いてくれていました。
どうして。
なにも、得るものがないのに、どうして、この人は。
「あなたは、あたしの友達だから」
友だち……?
私が、友だち?
そのとき、耳につんざくような轟音が聞こえました。
私たちの目の前の岩が,こなごなにくだけました。
吸血鬼は、私たちを追ってきました。
もう、私の知っている院長先生の面影は何一つありません。
岩場には、スミレさんの流した血が道しるべのように垂れていました。
くぼに溜まった血を、動物のようにかがんで長い舌をつかってすする化け物は本当に気味が悪く、私は吐きそうになりました。
吸血鬼が来たことに気付いたスミレさんは、立ち上がります。
私は、血の気がひきました。
スミレさんの背中は、私が想像していたよりもずっと、真っ赤にそまっていました。
たまらず私は、スミレさんにすがりつきました。
こんなに血がいっぱい出ているのに、あの血をいっぱい吸った吸血鬼に勝てるはずがありません。
はじめて、友だちといってくれた人、
いやだ。
やだ。
死んだら、いやだ。
お願い、死なないで。
スミレさんは、私の
「大丈夫。 あいつは、あたしがやっつけてあげるからね」
スミレさんは笑って、あの化け物に立ち向かっていきました。
吸血鬼は激しく体を震わせて笑っています。
岩場に打ち付ける強烈な波飛沫も、そのだみ声の前にはかき消されてしまいます。
「あんた、頭悪いわ」
スミレさんは、心底あきれたように呟きました。
その時です。
急に、波の音がまったくしなくなりました。
さっきまで打ち寄せていた白波の音が、まったくしません。
その静かな間は、一呼吸くらいの短さでおわり、
海が、唸りました。
津波のような巨大な波が、地震のようなうねりとともにきたとおもうと、岩場に迫ってきたんです。
私は、あんな大きな波は生まれて初めてみました。
満月をすっぽり覆い隠す、おおきな、雄雄しい程の大きな波。
スミレさんの手が、弧を描くように動きました。
津波のような波の先端が、ねじが閉まるように集まって、一つの鋭い山のようになりました。
例えるなら、
集まった水は、スミレさんのいうことしか聞かない飼い犬のようにいうことをきく、
おおきな、いつかみた、絵本にでてくる怪物、
ドラゴン……?
私も、吸血鬼も、驚きで声をあげることすらできません。
怯えた吸血鬼は岩場から逃げ出しました。
でも、水のドラゴンは、逃げ足よりずっと速くて、あっという間に吸血鬼を飲み込んでしまいました。
水が散って、どしゃぶりのような霧で前が見えなくなりました。
「水魔に海でケンカ売るなんて、愚の骨頂もいいとこだよ。 ばか」
私が目をようやく開けたときには、もう、何ものこっていませんでした。
海も、いつもの静けさを取り戻していました。
全てが終わり、私は結局生き残っていました。
スミレさんは、死んだ人たちを浜辺に埋めました。
孤児院には、もう誰もいません。スミレさんは私のことを心配してくれましたが、
定期的にお役人のひとがくるので心配しないでと私は言いました。
「怖かった?
まあぶっちゃけ、あたしもあいつと同じ、血を啜って生きている吸血鬼なんだよね」
スミレさんが、吸血鬼?
にわかには、とても信じられませんでしたが、
いわれてみれば、スミレさんの背中の傷は、もう塞がっています。
「だから、もう行かなきゃいけないの。 ……辛いけど」
スミレさん。
私。
「友だち、いっぱいつくって楽しまなきゃだめだよ。
あなたはこれから幸せにならなきゃダメなんだから」
スミレさんは立ち上がると、笑っていました。
私は、これでお別れなんだなというのを、わかってしまいました。
「あなたがいつか海を好きになれたら、あたしとっても嬉しいな。 ばいばい!」
スミレさんは私の頭をなでると、夜の海に飛び込んで、消えていきました。
今、私は、3人の子供を持つ母親です。
あの時、スミレさんに助けてもらっていなかったら、今の私の暮らしはありません。
スミレさん。
私、友だちをいっぱいつくりました。
海にも、家族でいけるようになりました。
父と母を奪った海。でも、海は私を助けてくれました。
時間はかかるかもしれないけど、毎日少しずつ、海が好きになっています。
スミレさん。
あなたがだれであろうと、
私は、いまでもあなたの友だちです。