俺のバイト先、"アーネンエルベ-紅茶館-"。秋葉の後輩にあたる昌ちゃんが教えてくれた
お店の2号店で場所は繁華街から少し離れた公園の近くにある。今年オープンしたばかり
なんだが、なかなかの繁盛ぶりだったりする。
2号店というからには1号店、所謂本店があるわけなのだが実はこの本店と俺のバイト先で
ある2号店はそれほど離れてなかったりする。東京のような都会ならいざ知らず、俺の住む
美咲町のようにそれほど大きくも無い町で、同じ町内にしかも距離もそれ程離れていない
場所に2号店をオープンするなんて、潜在的なライバル店を増やすわけだから、運営方法
としては、あまり合理的であるとは思えないのだが、両方ともそれなりに繁盛していたりする。
尤もこの両店の繁盛には、それなりの理由がある。
本店は繁華街にある映画館近くに位置しており、昼間はケーキにお茶に軽食が中心で、若者から
暇を持て余した…もとい、有閑マダム(もしかして死語?)などが主な客層だが、夜にはお酒も
楽しめるレストラン的な店舗で、客層も昼間から夕方は比較的若い女性客を意識したケーキや安価な
ランチを中心に提供して、夜はカップルから熟年層までを意識したお洒落で落ち着いた雰囲気での
ディナーを提供している。もっとも雰囲気作りのための間接照明の数が少ないので、見る人によっては
少し陰気な雰囲気ともとられてしまうのが少し難点だが。
それに対して俺のバイト先である、この"アーネンエルベ‐紅茶館‐"はケーキが中心なのだが、なんと
喫茶店の癖にランチは元より軽食自体を取り扱ってなかったりする。
マスターが言うには、"僕はしがないパティシエだから、商品としてお客様にお出しできるような料理
なんて作れないよ"とのことだが、マスターの作る"まかない"は、お世辞抜きで美味しかったりする。
ちなみに"まかない"とは従業員用の食事で、普通は交代で作るんだが、この店ではマスターが良い気分転換
になるから…と言って作ってくれる。まぁ、軽食を出さないって問題もマスター以外にお客を満足させられる
味は出せそうにないのだから、俺がどうこう言う問題ではない。それにただでさえ忙しいこの店を切り盛りしてる
マスターにこれ以上負担をかけてはマスターが大変だ。
更に奇妙な話だが、この"アーネンエルベ‐紅茶館‐"には名前の通り紅茶の品揃えが豊富なのだが、コーヒー党の人
が聞いたら怒り出すかも知れないが、なんとコーヒーが置いてなかったりする。これにはオープン当初はかなり苦情が
あったらしかったが、温和なマスターが唯一折れなかったところらしい、マスターが言うには"僕はコーヒーを紅茶ほど
美味しく淹れる自信がないんだ。だから、不完全なものをお客様にお出ししたくないんだよ"とのことらしい。ちなみに
その苦情を言ってきたお客達も今では常連客だったりするのだから、マスターの人徳とも言えるだろう。しかしコーヒーが
無い代わりに、置いてある紅茶の種類は、紅茶専門店並みの品揃えだ。
しかし、奇妙な話は実はこれだけじゃなかったりする。実はこの二つの店、店舗名こそ同じではあるが、同じメニューが
何ひとつないのだから、まったく以って奇妙な話である。一号店がストロベリーパイが名物商品なら、二号店はラズベリーパイ
が名物商品だったりする。オマケに単に材料を替えるだけという安直な方法ではなく、製法も味もデコレーションも完全に別モノ
らしかったりする。
こんな奇妙な話の理由の一つに、マスターと一号店のオーナー兼シェフとは
ヨーロッパでの修行時代から良きライバルであり、親(悪)友というぐらいの
旧知の間柄で、いつか一緒に店を構える約束をしていたらしい。ちなみに一号店の
店長が言うには、"こいつに期待するのは、自分のケーキのコピーを造らせるため
じゃない"という理由かららしい。ちなみに本店は、当たり前だが紅茶もコーヒーも
扱っている、だが紅茶よりもコーヒーのほうに力を入れているらしい。そういう意味では、
コーヒー党と紅茶党の客層の棲み分けも計算済みなのかもしれない。
この"アーネンエルベ"の両店がここまで繁盛する背景には、こういった
店舗ごとの客層の相違と、両店のマスター達の至福の味を紡ぎ出す腕に
支えられていると言っても過言ではないだろう。
「あっ、せんぱ〜い。おはようございますデス」
ちょっと変な言葉遣いの挨拶に振り返ると、パティシエ見習いの外国人の少女が
明るい笑顔を湛(たた)えていた。
少女は外国人の割りに、背はかなり低めで俺の肩のあたりにブルネットのショートヘア
の頭がある。そのヘアスタイルのためか、見た目には快活な少年っぽい印象だ。
そのブルネットの頭上には、少し折れ曲がった低めのクラウン帽が載っている。
子犬を髣髴させる、あどけなさの残る白い顔には、くりくりとした大きいモスグリーンの瞳が
好奇心の色を湛(たた)えており、外人にしては小ぶりで若干低目のソバカス混じりの鼻には、
生クリームがついていた。
彼女の名前は、エクレリア=ラスプッチ。
店の皆からは、エクルと呼ばれていたりする。
幼いころ日本に住んでいたことがあるらしく、日本語も危なげなく(?)使える外人の女の子だ。
エクルは先月末から喫茶店"アーネンエルベ−紅茶館−"に入った新人で、厨房でケーキを作る
パティシエの見習い兼ホール担当のバイトの子なんだけど、俺のことを先輩と呼ぶ、ちょっと
変わった外人の女の子である。
俺より年下の16歳らしいのだが、見かけによらず飛び級とかしてるらしく、現在は大学院に
いるとかで、日本の風土に関する論文を書きたいと単身日本にやって来たバイタリティ溢れる
女の子。ちなみにエクルは大学では、民俗学を専攻していたらしく、行く行くは東洋民族学の
博士号を取りたいとか…。
でも、こうして俺なんかと話ていると、とてもそんな凄さを感じさせない、好奇心旺盛で何にでも
興味を持つ、噂とおしゃべりが大好きなどこにでもいる普通の女の子って感じで、エクルも年頃の
女の子の例に漏れず、他人の恋愛話とかも大好きで困ったことに俺とアルクェイドの関係とかにも、
かなり興味シンシンだったりするんだよな……。
あと、なんだかんだ言っても学者肌なのか人を観察するのが大好きみたいで仕事中に、ときどき妙な
視線を感じることがある。
アルクェイドは、エクルがそんな風に俺を見ているのが気に入らないらしく、エクルに対して冷たい
態度を取る。
まぁ、アルクェイドがそんな態度だからか、エクルもアルクェイドには近寄り難いみたいで、あんまり
アルクェイドには近寄らないんだけど、それでもやっぱり憧れ混じりの興味はあるみたいで、俺によく
アルクェイドのことを聞いてきたりするカワイイところもあるんだよな。
とは言え、時々、こっちがヒヤヒヤするような大胆な質問を平気でして来るのは少し勘弁して欲しいけど…。
それはともかく、そんな子がなんで、こんなところでバイトしているかというと、たまたまフィールド
ワークに備えての買出し途中に立ち寄った喫茶店で食べたケーキがかなりお気に召してしまったらしい。
本人曰く"運命を感じてしまったデス"とかで、マスターの生み出した人気商品の"ラズベリーパイ"に
一目惚れをしてしまい、本来の目的の論文そっちのけで、その日のうちに弟子入りしてしまった、
とっても熱心な子だったりする。
「やぁ、おはよう、エクル。できれば、その先輩ってのは勘弁ほしいな…。俺もエクルと同じで、
入ってからまだ三ヶ月の新人な訳なんだし…」
エクルの"先輩"と言う科白にむず痒いものを感じつつも、俺は頭を掻きながら、やんわりと諭す
様な口調でエクルをたしなめるのだが…。
「そ〜ゆ〜わけには、行かないデス!例え3ヶ月でも先輩は先輩デス。日本人はそうゆ〜、
"れ〜せつ"には厳しいと聞き及んでますデス。男女6歳にして、一つ屋根の下に住むべからずデス。」
と強い口調で、発育途上(?)の胸を張って主張する。
「エクル、それって、ちょっと違う気が…」
俺のツッコミが、聞こえているのかいないのか、どこ吹く風といった様子である。
ちなみにこの子は、見かけによらず、結構堅いところがあるのか、それとも日本の文化を
誤解しているのか、マスターが"せっかく遠い外国から来たんだから、レシピくらい教えて
あげるよ"と、ラズベリーパイのレシピを紙に書いてあげたんだけど、"東洋では最終奥儀は
修行の最後に、師匠の死を以って伝授されるものと聞いてますデス"などと、物騒なことを
ノタマって固辞していた。
…でもマスターもいくら人気商品とはいえ、たかがケーキのレシピの伝授ごときで殺され
たら堪(たま)らないだろうな…。
ところで、レシピといえば実は俺も前に琥珀さんに頼まれてマスターにレシピを書いて
貰ったんだけど、あの琥珀さんでさえ、あのラズベリーパイの甘みの中にある仄かな
酸味とパイ生地の食感が再現できなかったんだよな…。
そういった意味じゃ、マスターの作る"ラズベリーパイ"はある意味、最終奥儀なのかも
しれない…。
「先輩、今日は随分早いんデスね」
エクルの言葉に時計を見ると、確かにいつもより少し早かった。
アルクェイドとシエル先生達の一件に時間を取られてから、遅れないようにと走って来たんだけど、
どうやら、いつもよりも早く着いてしまったようだ。
「え?ああ、うん。今日はちょっと色々あってね…」
俺は、店の制服に着替えながら言葉を濁す。
制服といっても、黒ズボンにワイシャツに黒ベストと蝶ネクタイといった服装なので、俺の場合は
学生ズボンのままベストを着て、蝶ネクタイを締めるだけだからそんなに時間はかからない。
「ワタシも今日は、これからホールのヘルプをするデスからよろしくお願いしますデス」
そう言うエクルの方に視線を向けると、白い太腿が視界に飛び込んできた。エクルは無防備にも
俺の後で、パティシエの制服からホールの制服に着替えていたのである。
「ちょ、ちょっと、エクル!女子更衣室はここじゃないよ!」
あわてて視線を逸らしつつエクルに注意すると
「え?ああ、そういえばそうデスね。まぁ、別にいいじゃないデスか、ココには誰も居ないデスし」
俺のことを男と認識してくれていないのか、とんでもないことを言うエクル。
「ちょ、ちょっと、ほら、俺がいるだろ!俺が!」
エクルは一瞬きょとんとして、今頃思い出したかのように、ポンと手をたたくと、とても見られた側の
発言とは思えないことを平然と言ってのけた。
「……ああ。そう言えばそうデシタ。まぁ、でも別に見られたからって減るものでもないデスし、
堅いことは言いっこナシデス」
俺は半ば呆れ返り溜息を吐く。
「おいおい、減るもんじゃないって…普通そういう台詞は見てしまった男の方が言う科白だろ?」
「そうなんデスか?ナルホド勉強になりますデス」
両の手で握り拳をつくり真剣な面持ちで何度も頷くエクルの様子に、俺はもう一度ため息をつき肩を竦めた。
「それに、見られても先輩なら別に気にしないデス。それじゃぁ、ワタシ先に行ってますデスね」
着替えを終えたエクルは、そう言って微笑むとバックスペースからホールへ出て行った。
アルクェイドに、シエル先生、先月出会ったシオンに、エクル…。
どうして、俺の外人の知り合いって、変わってるのが多いんだろう……。
今更ながら痛感してしまう。
…しかし、よくよく考えてみると、変わっているのは別に外人だけじゃないか……。
と我ながら妙なことに気が付いた自分に少し悲しくなってきた。
おそらく、ここに有彦がいたら自分のことを棚にあげて、"遠野。オマエの知り合いって
変なヤツばっかだな"とか言ってくる所だろう…。
月下の蜃気楼4−下に続く