かくして、ミッションのときがやってきた。
遠野家恒例のティータイム。
翡翠と琥珀さんは夕食後の食器の後片付けのために厨房にいる。
“笑顔”と“悪人”ってのがイマイチ、ピンとこなかったりするが、とりあえず、
琥珀さんの耳打ちした科白を脳裏に反芻しつつ、行動に移す。
…………………………
「………宜しいですか?志貴さん。“作戦その一”としては、秋葉さまの様子を観察して
ください。特に秋葉さまの表情を仔細に観察してくださいね。人間どんなときでも心の
様子は表情に現われ易いものです。敵を知り己を知れば……って感じです。まぁ、尤も
(もっとも)今回の場合はそれだけが目的じゃないんですけどね……うふふ」
「それだけじゃない……って、他に何あるの?」
「それは秘密です。さてさて、一体どんな秋葉さまの意外な一面が見られるのかと
思うと、今からとっても楽しみです。うふふふふふ」
…………………………
なんだかよく分からないが、とりあえず琥珀さんの言ったとおりに秋葉の表情を観察してみる。
秋葉は凝った意匠が施されたロイヤル・コペンハーゲンのアンティーク・ティーカップを
右手にもち、その深紅のルビーを溶かし込んだような色合いの紅茶が入ったカップを
静かに口元に運んでいる。
その洗練された所作は、どこから見ても完璧な良家のお嬢様そのものだ。
しかし、よくよく考えてみると、こうして秋葉の姿をじっくりと見るのはこの遠野の
屋敷に来てから、あまりなかった気がする。そういう意味では琥珀さんに
“俺が秋葉に関心を向けてない”って言われるのもある意味当然のことなのかもしれない。
秋葉は長椅子に浅めに腰をかけ、背もたれには背をつけず、背筋を伸ばし隙の無い姿勢で
静かに紅茶を啜っている。俺がやると明らかに無理をしてるように見える姿勢なんだが、
秋葉がすると当然かつ自然に見えてしまうから不思議だ。
“秋葉さまは志貴さんの知っている秋葉さまのままですよ…”琥珀さんはああ言っていたが、
凛として隙の無い姿勢の秋葉とは対照的に、ソファーの背もたれに身を預け脱力しきって
琥珀さんの作ったスコーンをたべつつ紅茶を飲んでいる自分の状態とを比較すると、
自分と秋葉との差を感じずにはいられない。それと同時に秋葉は俺が知ってる頃の
小さい秋葉とは違うんだな…と改めて感じ、少し淋しさを感じた。
…………………………
“あ、それともう一つ。志貴さん、秋葉さまの表情を観察するときは、必ず秋葉さまの
目を見てくださいね、そのほうが秋葉さまの心理状態が分かりやすいですから
“目は口ほどに…”って諺もありますし…、お願いしますね。尤もこれも、それだけが
目的じゃないんですけどね。うふふふふ。”
…………………………
とまたもや、意味深な科白を吐く琥珀さんだったが、とりあえず俺は琥珀さんのアドバイス
どおり、秋葉の瞳に視線を移した。
形の良いいやや大き目の二つの瞳、長い睫毛。
最近は俺の同年代の女の子で化粧をしている子も多いらしいが、秋葉は俺の見た限りでは
特に化粧をしているようには見えない。身贔屓もあるのかもしれないが、兄である俺の
目から見ても秋葉は化粧なんかしなくても十分魅力的に見えた。これで性格の方が
もう少し丸くなれば……、彼氏の一人でもすぐに出来るのにな……。
でも、秋葉の彼氏は大変だぞ、なんせあの完璧な秋葉の相手なんだから、ちょっとやそっとの
ヤツじゃ、つぶされるのがオチだろうな……。
……でも、秋葉の相手になるようなヤツって一体どんなヤツなんだろう………。
と一瞬、娘を嫁に出す親父の心境に陥ったが、ふと我に返る。阿呆か俺は、まだ秋葉は
16だっていうのに……。
そんな罵迦な考えを打ち消し、再び秋葉の目を凝視する。
……でも、こんなことで本当に秋葉の心理状態なんて分かるのか?
しばらくローテーブルを挟んで秋葉の瞳を観察していると、何故か秋葉の顔色がみるみる
紅潮してきて、あれほど洗練されていた所作に綻びが生じた気がした。
でもそんな様子を見てたら、何故だか俺の後を少し遅れてトコトコとついてきた
幼い頃の秋葉を連想して、自然に笑みがこぼれる。
俺のかすかに漏らした笑いに反応した秋葉は顔を紅潮させたまま俺の方に刺すような
キツイ視線を飛ばしてきた。
「に、兄さん!人の顔をジロジロ見て、何か御用ですか?言いたいことがあるのなら
はっきりおっしゃってください」
あ……、気づかれた……。
秋葉の声はキツイ部分があるものの、どことなく、いつもの秋葉らしからぬ様子で
歯切れが悪い気がした。しかし、その迫力は少しも衰えていない。
“志貴さん。”作戦其の二”です。秋葉さまが、志貴さんの視線に気が付いたら次の科白を
言ってくださいね”
とはいったものの、秋葉の剣幕に圧倒された俺は、頭の中が真っ白になってしまった。
「い、いや、な、なんでもないよ秋葉。ただ……」
「ただ?ただ何だとおっしゃるんです!?」
秋葉の顔が更に険しくなり、俺を見据えた秋葉はティーカップを少し乱暴気味にに
ソーサーの上に戻す。
少し経緯は違うが、思いがけず秋葉から琥珀さんの予想の範囲内の反応が返ってきた。
秋葉の言い放った科白を聞いて、秋葉の性格をここまで熟知している琥珀さんに敬意さえ
覚える。
予測どおりの反応が来た余裕からか冷静さを取り戻した俺は、秋葉の剣幕をよそに、
秋葉の様子を観察できる心理的余裕が生じた。
秋葉は怒っていたが、琥珀さんの言った通り、その表情はなんとなく昔の秋葉が拗ねている
のに似ていた。
その所為か、いつもなら到底出来そうにない、怒っている秋葉の目を逆に苦笑めいた笑顔で
見据え、秋葉に思い出したばかりの琥珀さんから教えてもらった科白を告げた。
「別に、ただ、秋葉を見ていたかっただけだよ」
「な……」
秋葉は目を見開き絶句したかと思うと、俺から顔を背け視線を宙に泳がせる。
なんだか分からないけど今日の秋葉の様子は、いつも違う気がする。
言うなら今かもしれない。
「秋葉、実は相談があるんだけど……」
秋葉は、中を彷徨わせていた視線を俺の足元から徐々に上に移してきた。
「な、なんですか?兄さん。兄さんが私に相談してくれるなんて……」
秋葉の顔はまだ紅潮していたが、その表情に険はなく、どこか夢見がちな表情をしていた。
「うん、実は、その、俺、バイトを始めようと思うんだけ……」
「必要ありませんっっ!!」
夢から覚めたように、いつもの秋葉に戻った秋葉は、俺の言葉が終わる前に間髪を入れず答えた。その表情は元に戻っている。
やっぱり、そう来るよな……。
しかし、その秋葉の反応自体も、まだ琥珀さんの予測の範囲内。
「なんで、そう思うんだ?」
俺は用意していた科白を秋葉に言った。琥珀さん曰く…。
“志貴さんが、秋葉さまを説得できないのは、秋葉さまを前にすると萎縮してしまう
ことと、秋葉さまに取り付くしまもない対応をされて、じっくりお話ができないことの
ニ点です。ですから、志貴さんが秋葉さまの前でいつもの志貴さんでいられて、尚かつ
秋葉さまにお話に聞いてもらえれば、問題の大半は解決したのも同然ですよ。それさえ
解決すれば、あとは志貴さんの悪人ぶり次第です”
悪人ぶりってのが不本意かつ、イマイチ、ピンとこなかったが琥珀さんの言うことにも
一理ある気がする。
俺の問いかけに、秋葉はさも当然とばかりに答える。
「そんなの、当然です。遠野家の長男ともあろう者が、他人の下で働くなんてもってのほか
です!」
秋葉が、俺の話に乗ってきた。
俺は、琥珀さんからの最後のアドバイスを脳裏の浮かべた。
………………………………
「もしも志貴さんが秋葉さまに聞く体勢をとらせることが出来たら、私のできることは
お仕舞いです。あとは志貴さんの言葉で秋葉さまを説得してくださいね」
「へ、お、俺の言葉で…?」
「はい、勿論です。ここで私が秋葉はさまの説得するための内容まで考えたら、それは
秋葉さまに対して失礼ですし、志貴さんは文字通り“心にも無いこと”を言ってること
になってしまいますよ」
「まぁ、それは確かにそうだけど、正直秋葉を説得する自信なんて…」
「それは、心配されなくても大丈夫です。志貴さんが悪人ぶりを存分に発揮できれば、
運次第では秋葉さまを陥落できるかもしれませんよ。うふふふふふ」
………………………………
俺は琥珀さんの最後の言葉を噛み締めながら、言葉を選びながら秋葉をたしなめる
ように告げる。
「うん、確かに俺は遠野家の長男かもしれないけど、親父に勘当同然に扱われて、
秋葉が呼び戻してくれなかったら、ここにいなかった訳だし。そして何よりも現在の
遠野家の当主は秋葉であって俺じゃない。だから、俺はいずれ…………」
「兄さん!」
秋葉が、俺の言葉を遮った。
「兄さん!それ以上言うのは許しません!!」
秋葉は命令調でそう叫び両手で耳を塞いだ。更にその柔らかそうな下唇を色が変わる程
強く噛み締め、俺を睨みつけると、俺から視線を外して背を向けた。
しまったー!ひょっとして、いきなり失敗したのか?!
何が悪かったのか、はじめの一歩目にして、いきなり地雷を踏んでしまったみたいだ……。
俺に向けられた秋葉の背中は、小刻みに震えていた。
その後ろ姿を見る限り、臨界点にまで達した激しい怒りに身を震わせているように
見えなくもなかったが、そのときの俺には、何故か、そうは見えなかった。
何故だろう……。
そんな秋葉の様子を見つめていると、既視感めいた奇妙な感覚を覚えずにはいられない。
俺に背を向けた秋葉の後ろ姿は、意外にも俺の思っていたより華奢だった。
スリムな体型なのだから、よく考えれば当たり前なのかもしれないが、その震える肩から
伸びた腕はブラウス越しに見ても、ギュッと掴めば折れてしまいそうな程、細く儚げに見えた。
そんな既視感めいた奇妙な感覚に戸惑いを感じつつ秋葉の背中を見ていると、不意に
その華奢な後ろ姿に幼い頃の秋葉の後姿が重なった。
そうだ、あれはまだ幼い頃シキや翡翠たちと一緒に屋敷の広大な敷地内でかくれんぼを
した時のことだった。
遠野屋敷の敷地全体を使ってのとんでもないスケールのかくれんぼ。
遠野屋敷の広大な敷地全体でやったものだから、まだ小さかった秋葉なんかじゃ見つけ
られる筈もない。
俺は遠野家の敷地内の中でも一番大きい木の上に登って隠れていたんだけど、秋葉が
鬼になって1時間近く経っても捜しに来ないもんだから、こっちから偵察に行ってみた
時のことだった。秋葉は俺たちを捜しもせずに、離れの縁側にちょこんと座っていた。
こんなとこで何してるんだと、声を掛けようとしたんだが、その背中を見て一瞬躊躇した。
秋葉の肩が小刻みに震えていたからだ、その俯いたシルエットは、孤独のためか、はたまた
捜し疲れたからかなのか、押し殺した泣き声が聞こえてきそうな程に、心細げな様子だった。
そんな秋葉にいたたまれなくなった俺が声をかけると、最初は驚いていた秋葉だったが、
俺の顔を見て安心のか、顔をくしゃくしゃに崩して大泣きしだしたんだよな……。
それから、仕方なく秋葉の手を引いて一緒に翡翠とシキを探したっけ。
俺はこの八年ぶりに屋敷に帰って、秋葉に再会して、そのときの秋葉の様子に面食らい、
八年間の間に秋葉も変わったんだと勝手に決めつけていたけど、琥珀さんの言ったとおり、
秋葉はあのころ何も変わって無いのかもしれない。
外見や立ち居振る舞いは変わっても中身は琥珀さんの言うとおり、あの頃の秋葉のまま
なのかもしれない。
そう思ったら体が、自然に行動を起こしていた。
俺は秋葉の肩に手を置いて、笑いかける。
「秋葉、大丈夫だよ」
秋葉は俺のその科白に、少しビクっと肩を震わせ、肩越しに上目遣い気味で俺を見上げた。
「に、兄さん………?」
驚いたように俺を見上げた秋葉は涙こそ流してなかったが、俺にはその目が少し潤んで
いるように見えた。
「確かに俺はいずれ、誰かの下につくかもしれないけど、その誰かが秋葉だったら
良いと思っている。それに、下の者を考えないトップなんて誰もついて来ないと俺は思う。
でも秋葉が誰かの下についている姿なんて俺には想像もできないし、何よりそんなの
秋葉らしくない、俺はそんな秋葉の持ってない部分を補って、これから先もずっと秋葉を
支えていけたらと思っている……」
「に、兄さん………」
秋葉はそんな俺の科白が照れくさかったのか、一瞬俯き加減に視線を外したが、顔を
紅潮させ上目使いに俺を見上げた。
「大丈夫、秋葉が結婚して婿をもらうまでは、俺が秋葉を助けてやるよ。だから、その、
俺、バイトを……」
俺がそこまで言うと、秋葉は突然我に返ったように、目を見開いた。
ん?あれ、秋葉の様子が、なんか変だ………。
そう思った瞬間、秋葉は両腕で目の前のローテーブルを、ティーカップが5センチは
飛び上がるような勢い叩いた。
ティーカップが無機質な音を立ててソーサーとぶつかる。
「兄さん!その科白を、あなたの口から聞きたくなかっ……」
秋葉が最後まで言い切る前に、突然リビングの窓が大きな音を立てて開いた。
すると開いた窓に隣接したテラスからデジタル・ビデオカメラを右手に抱えた琥珀さんが
凄い勢いで入ってきた。
「志貴さん、最後の最後でなんてことを言うんですか!その言いようは、あんまりすぎます。
一部始終を拝見させてもらいましたけど、いくら志貴さんが悪人とは言え、その言いようでは
秋葉さまがお可哀想です」
琥珀さんは、ビデオを左手に持ち替えその手を腰に持ってきて、空いている右手の
人差し指で、俺の鼻のあたりを指差す。
突然入ってきた琥珀さんは俺にそう言うと、俺と秋葉が唖然としているのもかまわず
今度は秋葉のほうに向き直った。
「秋葉さま。お聞きのとおり志貴さんはアルバイトをされたいと言ってますけど、
どうなさるおつもりですか」
秋葉は、最初こそ呆然としていたが、琥珀さんのその科白に我を取り戻したのか、
きっぱりと言い放つ。
「琥珀、そんなの当然不許可に決まってるわ。それに私は兄さんなんかに心配して
頂かなくても今まで遠野グループを纏めてきたし、今後も私ひとりで全く問題ありません!」
俺の科白の何が悪かったのか、秋葉はいつもの凛として隙のない秋葉然とした態度で
言い切った。
しかも秋葉の言葉はそれだけに留まらなかった。
「それだけじゃないわ。宜しいですか兄さん!そもそも遠野家の門限は7時です。
ただでさえ最近の兄さんは屋敷にいないことが多いのに、そんなことまで始めたら
自堕落さに拍車がかかり、学生の本分である勉強の時間が益々減るじゃないですか」
「ふむふむ、ナルホド、要するに秋葉さまは、志貴さんが家にいらっしゃる機会が
少ないのと、志貴さんの成績がご心配ということになりますか?」
「まぁ、端的に言えばそういうことになるわね………」
琥珀さんは暫く考え込んでいたが、懐から何やら紙を取り出すと秋葉に告げた。
「秋葉さま、確かにここ数ヶ月間、ただでさえ少ない志貴さんの勉強時間は減少の
傾向にあります。ですが、秘密裏に入手した志貴さんのゴールデンウィーク後の実力
テストの成績表を見ますと成績は、前よりむしろ上がってます。それにもともと志貴さんは、
授業を要領よくこなすタイプなので、有間家にいたころから、特に勉強はしていなかった
ようです。ですので、とりあえず志貴さんの成績に関しては、それほど心配されなくても
大丈夫かと思われますが……」
秋葉は琥珀さんの科白に、厳しい表情をして答えずにいると……。
そこに、琥珀さんが秋葉に向かって飛んでもないことを告げた。
「秋葉さま。ここは思い切られて門限を夜九時に延ばされて、その上で志貴さんの
アルバイトを許可されはいかがですか?」
琥珀さんの、その大胆な発言に俺も秋葉も驚きの表情を琥珀さんに向ける。
「琥珀、あなた気でもおかしくなったの、そんなこと当然不許可に決まってるじゃない」
「まあまあ、秋葉さま。その代わり志貴さんは、バイトは週3日間平日のみ、時間も
5時から8時半までで、残りの平日のうち1日は必ず真っ直ぐお屋敷にお戻りになる。
更に週末の土日のうちのどちらか1日は必ず屋敷で過ごされると言うのは、どうですか?
志貴さん」
琥珀さんは、そんな提案を俺にしてきたが、それに答えたのは俺ではなく秋葉だった。
「そんなの駄目に決まってるわ!そんな取り決めしなくても、素直に兄さんを毎日帰って
来させれば良いだけの話です!」
「ですが、秋葉さま。志貴さんが、また去年の夏のように夜屋敷を抜け出すようなことに
なっても宜しいのですか?それに、言って聞くような志貴さんなら、私もこんなことは
申し上げません、それに秋葉さま、私に少し考えがあります。少し宜しいですか?」
そう言うと、琥珀さんは秋葉にそっと何やら耳打ちした。
秋葉は、琥珀さんの耳打ちに最初は“そんな、給仕みたいな真似を……”だの
“そんなワケの分らない言葉を使わないで”等、色々と言っていたが、やがて顔を少し
紅潮させて俯きながら、考え込んだかと思うと、不意に俺のほうに視線を向け、俺の目から
微妙に視線をそらしつつ、顔を紅潮させながら告げた。
「コホン、ま、まぁ確かに琥珀の言うことも一理あるわね。分かりました。私も鬼では
ありません。琥珀の言った条件に兄さんが従うのでしたら、特別に許可をします。
尚、アルバイト先は琥珀に一任させます。宜しいですか、兄さん!!」
秋葉のあまりの変わりように唖然としながらも、俺は人形のように首を縦に振った。
何か狐につままれたような気持ちになった俺が、琥珀さんに当然の疑問をぶつけた。
「琥珀さん、一体どんな洗脳方法使ったんですか?」
「洗脳?そんな翡翠ちゃんじゃないんですから……。わたしはただ……、
“どうせ志貴さんが遅くなるなら、どこで何をしてるか把握していらしたほうが安心
じゃありませんか?”ってお伝えしたのと、あとは…、あとは女の子だけの秘密です。
でも、まぁすぐに分かりますよ。うふふ」
琥珀さんは、そう言っていたずらっぽく笑った。
女の子だけの秘密??
わからない。
そう言って無邪気に笑う琥珀さんに俺はもう一つの疑問を投げかけた。
「じゃぁ、最後にもう一つ、翡翠が俺の世話をしてくれているってことは、琥珀さんは
秋葉付きのお手伝いさんってことになるんだよね」
「はい、そうなりますが……」
俺の質問の意図を掴みかねているのか、訝しげに答える琥珀さん。
「その、秋葉専属お手伝いさんの筈の琥珀さんが何で俺のために、秋葉に逆らうような
真似をまでして、俺のバイトの話を秋葉に認めさせてくれたんだい?」
俺の当然の疑問に、琥珀さんは、あらあら、そんなことでしたの?と言わんばかりの笑みを
浮かべて言った。
「それは、やっぱり志貴さんが居ないと面白くないからです。秋葉さまがいて、翡翠ちゃんがいて、
二人に怒られる志貴さんがいて、そしてそれを眺める私がいる。それに志貴さんがいないと
翡翠ちゃんも元気がないですし、こんな風に秋葉さまの意外な一面も見れませんからね」
琥珀さんはそう言うと、右手に持ったデジタル・ビデオカメラを指差した。
どうやら、さっきの一部始終を撮っていたらしい。
しかし、琥珀さんの持ったビデオカメラが突然、琥珀さんの手を離れ宙に浮いた。
否、宙に浮いたかに見えた。
しかし、よく見るとそのビデオカメラは細い赤い糸のようなモノに絡めとられていた。
「兄さんの件では妥協しましたけど、琥珀、このビデオカメラは何?これは私が没収します。
いいですね!琥珀、あなたの不埒三昧もここまでよ。さあ今すぐ他の監視カメラも撤去して、
ついでに怪しげな薬物も投棄なさい!」
キッパリと言い切る秋葉に琥珀さんは、必死の抵抗を試みたがそれが徒労に終わったのは
言うまでもない………。
俺と秋葉2人して琥珀さんの掌の上で踊らされていたかに見えたが、最後に勝つのは、
やっぱり秋葉なのであった。
……と、まあ色々あったが、こうして俺は、とある喫茶店でバイトをしている。その琥珀さんの
選んだバイト先と言うのが、秋葉の後輩の晶ちゃんに教えてもらった喫茶店“アーネンエルベ”の
2号店である“アーネンエルベ紅茶館”だった。
ちなみに、琥珀さんの言っていた“女の子”の秘密とやらは、すぐに分かった。
俺がバイトを始めて以来、秋葉と琥珀さんは秋葉の習い事が終わると、その帰りに
俺のバイト先に客としてやって来るのだった。
それで、俺のバイトが終わると連行…もとい、一緒に帰ることが日課になった。
そんな回想をしているうちに、“AHNENERBE‐紅茶館‐”と書かれたアンティーク調の
木彫りの釣り看板が見えてきた。俺はその釣り看板の脇にある小道を抜け、店の裏口の
戸を勢いよく開ける。
「おはようございます」
扉を開けた俺は夕方にもかかわらず、そう挨拶して中に入る。
…さてと、今日も色々あったけど、お仕事に励むとするか。
了