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暗い。
暗く深い闇。
そんな闇の中に、俺は一人佇んでいた。
粘液状の闇が蛭のように体中を這いずる不快感に身が震える。
目の前に翳した掌さえも見えない深い闇に自分の存在の希薄さを感じ、
軀が闇と同化してしまうような錯覚にとらわれ不安になる。
激しい焦燥感に突き動かされた俺は気がついたら走り出していた。
しかし走っても走っても、絡みつくような闇からは抜け出せない。
呼吸が乱れる。
限界以上の運動に対して心臓が悲鳴を上げているのもかまわず力の限り走り続ける。
やがて酸素の需要に供給が追いつかなくなり、身体がいうことをきかなくなる。
足がもつれ転倒した。
というよりも体中のエネルギーを使い果たして動けなくなったといったほうが
正しいのかもしれない。
肺がむさぼるように酸素を求め、喉の奥からは笛のような音が響き、
口が自分の意に反して、さながら陸に打ち上げられた魚のように開閉を繰り返す。
周りの状況を見回そうと顔をあげると闇が赤く染まっていた。
あかいやみ。
そうそれは血の海にでも飛び込んだかのような赤。
一面に広がる赤い闇。
その赤い闇の中に更に赤く血を濃縮したルビー紅玉を思わせる凶々しい
赤い光が二つ浮かんでいた。
それは二つの眼だった。
その眼を見た瞬間、脳髄に焼けた鉄釘を打ち込まれたような頭痛に襲われる。
背筋に冷たい汗が流れ、肌が瞬時に粟立った。
この存在はヤバイ!逃げろ!!
この存在を殺せ!!
脳が矛盾した命令を同時に伝える。
理性はこの存在に対して危険信号を発しているが、本能は殺せと命じている。
しかしその殺せと命じた本能でさえも相対した瞬間に自分の存在が無に帰する
ことを感じ、また危険信号を鳴らしている理性もこの存在からは、逃れられない
ことを感じている。
絶対的な死の具現。
二つの相反する命令は、結果としてどちらも果たせず、俺の足をその場に
釘付けにした。
不意にルビー紅玉のような二つの光が更に凶々しい光を放ち
俺を睨みつけ、刺すような殺気をぶつけてきた。
「ミツケタ……シキ…」
磨硝子に釘を擦りつけたようなひどくしゃがれた声が頭に響く!!
臨界点にまで達した恐怖が意識を焼き尽くす。
視界がホワイトアウトした。
――――――――。
気が付いたら俺は声にならない叫びを上げていた。
瞼の後ろに光を感じ、閉じていた目をゆっくり開けてみると遮光カーテンの
わずかな隙間から白みがかかった光が射し込んできていた。
外からは、爽やかな朝の到来を感じさせる鳥達の囀りが聞こえる。
呼吸が荒く心臓が早鐘のように鳴っている。
夢か?
俺は額に浮かんだ汗をパジャマの袖で拭い、荒い呼吸を整えようと
大きく一息ついた。
すると早鐘のように鳴っていた心臓が次第に落ち着きを取り戻していく。
動悸が治まってくると、悪夢の記憶は意識の靄の奥深くに埋没し、
そのイメージだけが、林檎の芯のように残った。
落ち着いてくると、再び睡魔が訪れたがこのまま眠るとまた厭な夢を見るかも
しれない。そう思うと再び眠る気にはなれない。
「う…う〜ん…」
悪夢の残滓を払拭するかのように、寝起きの掠れた声で軽く伸びをした俺は、
半ば夢うつつの状態で枕もとのメガネを手繰り寄せようと手を伸ばした。
“むにゅっ”…という使い古した擬音がしっくりくる触覚が右手を襲う。
その右手に感じた違和感に俺は思わず焼けた火箸でも触ったかのように身を引いた。
キングサイズのベッドとはいえベッドの上で急反転してしまった俺は当然のようにバランスを崩し、鈍い音を立ててベッドから転落した。
「あ、あ痛ってててて……」
強打した腰を左手でさすりながら俺は、落ち際に掴んだブランケットに
引っかかって床に落ちたメガネをかけつつ、なんとかベッドに這い上がる。
カーテンから僅かに射し込む光を頼りに、伸ばした手の方向に視線を泳がせると、
光の結晶から梳(くしけず)ったような金髪が視界に入った。
しかもその金髪の所有者はなぜ何故か昨日俺が着ていたはずの、白いワイシャツを
素肌の上に纏って身体を丸め、子猫の様に静かな寝息をたてている。
「……………………」
ちょっと待て!何でこいつがここにいるんだ?
金髪の所有者の名はアルクェイド=ブリュンスタッド。
数少ない真祖と呼ばれる生まれながらの吸血鬼らしい。
しかもコイツはその真祖の中でも王族にあたるらしいが、日常のアルクェイドの姿
を見る限り吸血鬼、王族という言葉がこれほど似つかわしくない奴はいないだろう。
しかもここ数百年血を吸った事が無い上、鏡にも映るし、夜に比べれば力は落ちる
ものの日の光の下でも活動ができるときたもんだ。
でもまぁ吸血鬼といっても真祖と呼ばれるアルクェイドの存在は妖し(あやかし)
というよりもむしろ精霊に近いものらしい。
まぁ、こうして眠っている姿だけを見ると確かに妖精や天使の様な純粋で
清らかな雰囲気を感じなくも無いが…。
但しこの例えはあくまで”眠っている”、”動かない”、”喋ってない”姿に
限定した場合のみという事をここに追記しておく……。
まあ王族らしくはないとは言ったものの、決してアルクェイドの容貌が一般人に
劣るという意味では勿論ない。
というよりも俺の今までの人生の中で(といってもせいぜい18年程度だが)
見たことがない程整っている事は認めざるをえない。
実際町を歩いていると、男女の分け隔てなく10人中8人は振り返る。
しかし俺に言わせると、その表情は王族特有の他者を寄せ付けない気品よりも
むしろ無防備と思われるほどの“無邪気さ”を感じてしまい、少なくとも
俺の前での普段のアルクェイドからは王族の貫禄なんてものは全く感じられず、
強いて王族らしいところをあげるとすれば、世間知らずで我侭なところぐらい
かもしれない。
そんな罵迦な考えをめぐらせていると左足に奇妙な違和感を感じた。
足元を見ると、アルクェイドが俺の左足を抱き枕よろしく抱え込んでいた。
左足に感じるやわらかい感触とその無防備な寝顔に、一瞬顔が熱くなったが、
不意にある事実に気がつき愕然とした。
”もうすぐ、翡翠が起こしに来る時間だ。”
その事実は、俺をうつつ現の夢から現実に引き戻すのに十分だった。
しかも、こんな状態を見られてしまったら…と思うと冷や汗が背筋に流れる。
それは不味い。非常に不味い。本当に不味い。不味過ぎる。それはマズイ。
本当にマズイ。非常にマズイ。マズすぎる。ソレハマズイ。ヒジョウニマズイ。
ホントウニマズイ。マズスギル。不味い・まずい・マズイ・マズイ・マズイ・
マズイ・マズイ・マズイ・マズイ・マズイ・マズイ・マズイ・マズイ・マズイ・
マズイ・マズイ・マズイ・マズイ・マズイ・マズイマズイマズイマズイマズイマ
ズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマ
ズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマ
ズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイ。
とりとめのない思考の渦にとらわれている間に、翡翠が起こし来てしまい、
その無表情を形作る端整な顔立ちが、驚きの表情に変わる。
更にこういう時に限って琥珀さんが、どこから嗅ぎつけてくるのか、
翡翠の後ろにいたりする。
翡翠の冷たい視線にいすく射竦められる俺。
そんな俺を琥珀さんが面白いおもちゃを見つけたとばかりに、からかい始める。
そこに更なる追い討ちをかけるかのように学校に行く準備が出来てないと
琥珀さんを探しに秋葉がやって来た。
…そんな、想像としてはあまりにもリアルすぎる悪夢のようなシナリオが脳裏を
よぎり、初夏だと言うのに背筋に悪寒が走った。
……………。
それだけは回避しなくては…。
それだけは、なんとしても回避しなくては、遠野志貴の身の破滅だ。
もしこれが現実のものとなってしまったら、それこそ生き地獄である。
本当ならもう少し眺めていたい寝顔だったが、ここは我慢してアルクェイドを
起こすべく行動に出た。
少し未練を感じつつも俺は、足を抱え込んだアルクェイドの腕をそっと外して
ベッドから飛び起き部屋の入り口のドアに向かう。
少しでも時間を稼げるように、自室の入り口に鍵をかける。
これで、翡翠が起こしに来ても琥珀さんにマスターキーを借りに行く間の10分
ぐらいは時間が稼げるはずだ。
ふうっと大きく息をついて額に浮かんだ汗を拭うと冷静な思考が戻ってきた。
そもそも何で、こいつがココにいるんだ?
遮光カーテンを開け室内を見回してみても、やはり見慣れた自分の部屋である。
昨日は確かにアルクェイドをマンションまで送り、泊まっていけという
アルクェイドの誘いを断りつつも玄関の前で別れたはずだ…。
屋敷にも確かに俺一人で帰ってきた。
それなのに……。
それなのに何故こいつがココにいるんだ?
しかもこっちがパニクってるってのに、幸せそうな顔をして眠ってるときたもんだ…。
まったく、こいつときたら。
人の苦労も知らずに幸せそうな顔で寝息を立てているアルクェイドの顔を睨みつける。
しかし、こみ上げてきたものは、深いため息と諦めにも似た苦笑だった。
まぁ、アルクェイドだしな…。
「さてと、夢の世界のお姫様でも起こすとするか…」
…イド…、…クェイド、アルクェイド。
一瞬、幸せそうに眠っていたアルクェイドの表情が不意に曇ったような気がした。
そんなアルクェイドの一瞬の表情に不安に駆られた自分がいかにコイツに
まいっているかを改めて痛感させられた。
とりあえず、翡翠たちが近くにいても気づかれない様に小声でアルクェイドに声を
かけ揺り起こした。
起きたアルクェイドには特に悪夢にうなされたような、表情は認められなかった。
どうやら俺の杞憂だったみたいだ。
「う…う〜ん。…んにゃ…。もう…なによ〜…志貴ぃ〜」
少し寝ぼけた、というか…元々天然が入ってるコイツだから仕方がないと思いつつ、
とりあえずこっちの主張すべき事を述べておく。
「それは、こっちの台詞だ。なんだっておまえが俺の部屋にいるんだ!」
すると彼女は、あっけらかんとした笑顔で
「どうしてって、夜の散歩をしていたら、偶然志貴の家の前を通りかかってね、
そしたら志貴、今どうしてるかなぁなんて思ったわけ。そうやって志貴のこと
考えてたら、なんだか急に志貴に会いたくなっちゃって…えへへ…」
と、いたずらを見つかった子供のような顔をして上目づかいに見上げてくる。
内心ため息をつきつつも自分がこういう表情に弱いことをおくびにも出さず、
厳しい顔つきをしてアルクェイドを睨みつける。
「むー。なんでそんなに怒るのよ。わたしだって志貴に迷惑がかからないように、
妹が琥珀に仕掛けさせた防犯カメラってやつの死角から忍び込んだんだから…」
と猫のような表情で不満げな顔をこちらに向けてくる。
まさに、ぷんぷんという擬音がぴったりの不満顔である。
「当たり前だ!!もしノコノコと正面から忍び込んで来たら。この場で窓から放り出してやるところだ。」
「だったら、なんで怒ってるのよ。」
アルクェイドが頬を膨らませて、拗ねたような顔をしてこっちを睨んでいる。
拗ねた顔もまた、凶悪なまでに可愛かったりするのだが…。
そんな内心を悟られまいと俺は咳払いをしつつ続けた。
「と・とにかくだ。もうすぐ翡翠が起こしに来るから、それまでには帰れよな。」
「翡翠って、あの志貴の世話をしてるメイド?」
翡翠の名前を口にした瞬間、アルクェイドは両腕を組みつつ形のよい眉を
しかめながら下唇を噛み締めて俺を上目遣いに睨んでくる。
見た目にもわかる程機嫌が悪くなった。
完全にご機嫌ナナメモードである。
「う〜。志貴の寝顔を見て良いのは私だけなのに…。」
少し不満顔のアルクエイドだったが、何か思いついたのか不意に小気味の良い
音を立てて指を鳴らすと、俺に向かってVサインをしながら会心の笑みを浮かべた。
「そうだ!わたしが、翡翠に注意して志貴を起こすのを止めさせてあげる。」
「は・はぁ?」
わけが、わからない。
「やっぱり志貴もわたし以外に寝顔なんか見せたくないよね。だからわたしが
翡翠に注意して止めさせてあげる。もし翡翠が言っても聞かないようなら
雇い主の妹にわたしが話しをつけてあげるから、そうすれば志貴もわたし以外に
寝顔見られなくて済むでしょ。わたしってば、アッタマいい〜!」
得意げな笑顔のアルクェイドは胸を強調するかのように体を反らしながら
恐ろしい事を言ってのけた。
しかも自分では善意のつもりで言ってるのだから余計に性質が悪い。
「た・たのむそれだけは止めてくれ…」
我ながら情けないと思いつつ言葉を紡ぐ。
「む〜。なんでよう。志貴はわたし以外に寝顔を見られても良いって言うの?」
う〜ん。なんでだろう?なんだか論点がズレてきたみたいだ。
俺は思わず泣き笑いの表情を浮かべた。
ちょっと待ってくれ…。
そりゃぁまぁ、アルクエイドのそんな可愛い嫉妬は俺としても嬉しいし、
同世代の女の娘で、しかもかなり可愛い部類に入る翡翠に寝てる最中の無防備な顔
を見られるのは、多少慣れたとはいえ未だに恥かしいものがあるのも事実だが…。
しかし自慢では無いが基本的に俺は有間の家にいた頃から、自分で目を覚ました
ことは非常に稀であるし、目覚まし時計で起きれた例が無いことも事実である。
そういう訳で朝が弱い俺としては毎日翡翠に起こしてもらえることは、羞恥心云々
ということを差し引いても非常にありがたかったりする。
しかし何よりも、アルクェイドにそんなことをされて、翡翠と秋葉のドライアイスの
ような冷たい視線に晒されたり、琥珀さんに玩具にされて屋敷内で居場所を失うよりは、
眠ってるときの無防備な顔を翡翠に見られる方が、よっぽどマシだったりする。
…とは言えそんなことを今のアルクエイドに正直に話しても、おそらく
イヤ絶対にわかってもらえないだろう。
そこで俺はアルクェイドの思考レヴェルにあわせて、咳払いをしつつ言葉を選びながら
説得を試みることにした。
「あ〜、アルクェイド、まぁ、その、なんだ、確かに俺もオマエ以外に
寝顔なんか見られたくない。だけどアルクエイドがそんな事をしたら屋敷の皆が
オマエの事を悪うかもしれない。ここまでは分かるよな?」
アルクェイドが頷くのを確認して更に続ける。
「…でも俺は、オマエが屋敷の皆に悪く思われるのは厭なんだよ。今すぐにって
訳にはいかないけど、その、まぁ、なんだ…、い、いずれは、秋葉の義姉として
この屋敷に来てもらって、その、なんだ、み、皆で仲良く一緒に暮らしてもらい
たいし…」
赤面しながらの慣れない歯の浮く台詞にドモリつつも、できるだけ言葉を選びつつ
後半の部分を強調してなだめにかかった。
「え?あ・あね…?志貴それって……?」
弾かれた様に顔を上げ、目を見開き俺を見つめるアルクェイドに
確かな説得の成功の手ごたえを感じた。
よしっ!いける!俺はアルクェイドに微笑みかけながら頷いて見せた。
「でも、そんな…無理よ…。わたしだって罵迦じゃない…。自分の置かれている立場
ぐらいわかってる…。それにわたしが、どんなに妹と仲良くしようとしたところで、
それが不可能なことぐらいわたしにも分かるんだから。それに、そんなことが
無理だってことは、わたしよりも人間である志貴のほうが分かってる筈でしょ?」
アルクェイドは淋しげに微笑むと軽くため息をついた。
アルクェイドと俺の立場…。
アルクェイドが“人間”と一言言うたびに否も応もなく突きつけられるアルクェイド
と自分との違い。
人間と吸血鬼、種族の違い、時間の流れに埋没して朽ち果てていく者と時間の流れ
から外れている者との相違、加えてアルクェイドに対してあからさまな嫌悪の感情を
ぶつけてくる秋葉。そんな態度の秋葉が自分を受け入れる筈がないと言うアルクェイド。
俺の視線の先でいつもどおり微笑んでいる筈のアルクェイドの笑顔が、今日は
心なしか少し寂しげに感じられた。
俺は正直な話、ある意味天然入ってる…じゃない、人間同士のコミュニケーションの
機微に疎いアルクェイドが妹の秋葉から向けられる敵意に満ちた感情に気づいてない
と思い込んでいた。
だけどそんな事は所詮、俺のエゴイズムが生み出した都合の良い解釈でしかないよな。
俺は、秋葉があからさまな嫌悪の感情をアルクェイドに対してぶつけているのを
見ても、アルクェイドが秋葉の婉曲な嫌味に対して常にあっけらかんとした笑顔で
受け流しているのをいいことに、自分の保身の為にあえて目を背けてきた。
自分に対するあからさまな嫌悪の感情を隠そうともしない秋葉の態度にアルクェイド
がどんな気持ちで平静を装っていたのか考えようともしなかった自分に腹が立つ。
アルクェイドの意地らしさと自分の不甲斐無さに、不意に胸に何かが込み上げてきて
、思わずアルクェイドの肩をつかむと、その宝石のような両の瞳を見つめた。
「…志貴…、痛いよ…。」
アルクェイドは視線を下に逸らしつつ淋しげにつぶやく。
そんなアルクェイドの様子に居たたまれなくなった俺は、アルクェイドの肩を掴んだ
手に力を籠めた。
「すまん!アルクェイド!本当に悪かったと思ってる!!秋葉のことは必ずなんとか
する。俺が傍にいる間はお前に淋しい思いは絶対にさせない!だから…だから…」
それは詭弁だった。自分でも詭弁だってわかっている。
アルクェイドは、俺が死んでしまった後も、俺とすごした時間の何十倍も下手したら
それ以上の時を一人で生きていかなければならない。
でも、俺は言わずにはいられなかった。
「志貴……。」
アルクェイドは顔を赤らめつつ俺を見つめた。
「確かに俺はオマエより寿命は短い、だけど…だけどっ!!」
言い知れぬ焦燥感に言葉を上手く紡げにいるとアルクェイドは、少し照れながらも
困ったように微笑みながら、仕方ないよ…とばかりに溜息をつく。
俺は、居たたまれない気持ちのままアルクェイドの目を見つめた。
「ありがとう志貴。でも…。やっぱり無理よ、“あね”と“いもうと”って
同じ両親を持った女の血縁者のことでしょう?わたしと妹は血なんて繋がって無いし
、まして種族も違うんだから姉になんかになれる訳ないじゃない。
そんなことは人間である志貴の方がわたしなんかよりずっと詳しい筈でしょ?
志貴は、わたしのこと罵迦って言うけど、わたしにだってそのくらいの最低限の
知識ぐらいはあるって前にも言ったじゃない!」
と得意げに言ってのけた。
「………………………………………………………………」
静寂が場を支配した。
やっぱりコイツはアルクェイドであって、それ以上でもそれ以下でもないことを
再認識した。
それと同時にコイツは本当に最低限の知識しか持ってないという事も改めて認識した。
俺が怒りに握り拳を震わせていると
「どうしたの志貴?急に黙り込んじゃって?」
「アルクェイド……。ちょっと…。」
小声で呼びかけ人差し指で鍵を作り自分のほうに手招きした。
「ん?なあに志貴?内緒話?」
俺はおもむろに息を大きく吸い込んだ。
「このばか女ー!姉じゃなくて義姉だ。英語でいう“ア・シスター・イン・ロウ”
だっ!」
「いったーい!志貴こえ大きすぎー。それに、ばっ……ばか女って、志貴また、
わたしを罵迦って言った!」
「ばかをばかって言って何が悪い!民法の基本も知らんで何が最低限の知識だ!!」
一人で勝手に突っ走ってしまった照れ隠しもあってか俺は半ば八つ当たり気味に
アルクェイドに怒声をあびせた。
「な・なによ。志貴のほうこそいい加減分かってよね。人間の道徳観念から作られた
法律なんてわたしたちには何の意味もなさないことぐらい。それに吸血種は個として
存在するものだから、群としてのあり方の為の法律なんて覚えても仕方ないでしょ!」
俺の怒声に多少怯みながらもアルクェイドも負けじと腰に手を当てて反論してくる。
言いたいことをひとしきり告げると、冷静な考えが戻ってきた。
まぁ、確かにアルクェイドの本来の目的だった吸血鬼狩りをするのに、人間の作った
法律なんて気にするほうがどうかしてるか…。
そもそも学校の前で再会したときも赤信号で車が行き交う交差点を平気で横断して
きたり、明らかな部外者なのに学校に堂々とやってきて、しかも放っておいたら
授業中の教室にベランダから堂々と入って来かねないようなヤツが法律なんて
気にする訳無いか。
ましてや民法の中でも家族という基本的な“群れのあり方”に関する部分なんて
真祖であるアルクェイドの言う最低限の知識に含まれていると信じていた俺のほう
こそある意味罵迦なのかもしれないよな。
自嘲めいた考えをめぐらせていると、コイツの本質を理解せずに一人で突っ走って
しまった羞恥心も相まって、次第に怒気が萎えていったが、今の状況では引っ込みが
つかない。
アルクェイドはそんな俺に構わず、すねた顔をして俺に文句を言っていたが
“そもそも義姉ってなによ……って、ア・シスター・イン・ロウ…?”日本語の
姉と義姉の違いは分からなくても、その英語の意味からようやく気づいたのか
言葉の語尾が次第に小さくなっていった。
「…志貴、それって……」
上目づかいに見上げるアルクェイドの顔は、ほんのり桜色に上気していた。
う……。そんな顔をされると今更ながら、こっちの方が恥ずかしくなってきてしまう。
「ア・アルクェイド、俺も大声出して悪かったけど、俺の言いたいことが分かって
貰えたよな。なら、さっき言ったことも考えてみてくれないか?アルクェイドの
気持ちは嬉しいけど(行為自体は別として…)俺、やっぱりアルクェイドには翡翠や
琥珀さん、そして秋葉とも仲良くしてもらいんだ。だから、あんまり翡翠や秋葉たち
に無理言って、アルクェイドが皆に嫌われてしまうのは厭なんだ。」
この件に関しては、自分の屋敷内での立場云々というのは別にしても俺の正直な気持
ちだった。
アルクェイドは何かを考えるように無言だったが、暫くしてキッパリと言い切った。
「ありがとう、志貴。でもわたし志貴のためだったら、妹たちに嫌われても
平気だから気にしないで。志貴のためだもん、ちゃんと翡翠と妹に言ってあげる。」
誤算だった。
コイツはこういう奴だったんだ。
自分の迂闊さを呪いつつ天を仰いだその時、不意にノックの音が響いた。
しまった!!まずい、騒ぎが階下にも聞こえていたのか、いつもより早い時間に
翡翠が来てしまったようだ。
月下の蜃気楼(1-下)に続く・・・。