僕、つまり黒桐幹也の朝食はもっぱらコンビニのおにぎりだ。それも、セブンイレブンの贅沢鮭むすび以外は受け付けない。
式はそんな僕の行動を見て、
「グルメなんだな」
なんて意地悪な顔して皮肉ってくれたけど、今思うと、あれは式にしてみたら本音だったのかもしれない。どっちにしろ、あまり嬉しくないことだけは確かだ。
贅沢鮭むすびは130円と標準よりも若干ながら高値なのだが、味はどこのコンビニも足元にすら及ばないと思われる。悪友の学人に「コンビニマスター」という不名誉この上ない二つ名を授かったこの僕が言うんだから、間違いない。
――――僕は何を威張っているのだろうか。
それは大学を辞めてから自然と身についてしまった悪しき習慣なのだが、あいにく、手軽さと安価に勝てるほどの強靭な意志は僕の中に宿ってくれてはいないらしい。
いつだったか忘れたけど、
「兄さんの食生活に口出すのは好きじゃないですけど、せめてお弁当類にして下さい」
なんて鮮花は言ってたなぁ。
お弁当は好きじゃないわけじゃないんだけど、朝はおにぎりのさっぱりした食感が恋しくなるんだ。こんな世知辛い貧乏青年の感情を、お嬢様育ちの鮮花に説明したところで理解してもらえるはずがない。いや、兄としては理解してもらいたくはないんだけど。第一、説明の仕方がわからない。おにぎりの包みを持って、鮮花相手に贅沢鮭むすびの素晴らしさを力説しろとでも言うのだろうか。それではただのキチガイにしか見えないじゃないか。
夏。盛夏の候。冴え渡る青空。やかましいくらいの蝉の歌。白い白い、燦然たる朝の陽光。
僕は汗を頬に湛えつつも、いつも通りおにぎりをほお張って、仕事場へと続く黒いアスファルトの道を鼻歌交じりに歩いていた。暑さのあまり、道から湯気が立ち上がっているのは、この際だから気がつかなかったことにしよう。
廃墟、もとい仕事場につくと、暑さはいくらかマシになる。涼しさのせいか、幾分か軽くなった足取りで僕は仕事部屋に向かい、扉を開けた。
まずは朝食で出たゴミを捨てることから僕の仕事場での行動は始まる。部屋の隅にあるゴミ箱にゴミをつめた袋を丸めて放り投げると、ゴミは箱のふちにかすることすらなく、吸い込まれるように消えた。7メートルくらいの距離ならばもはや目を瞑っていても外さない。これも、こんな生活を送ってきたために身についてしまった悲しい性だ。
それにしても、ここは涼しい。汗が一気に引いていく。もちろん、影がさしているということもあるのだろうけど、多分、橙子さんが張っているという結界がどーのこーのっていう意味不明な働きのおかげだろう。意味不明ながら、快適な空間を提供してくれる、という点のみにおいては橙子さんの現実離れした力に感謝しなくてはいけないかもしれない。
「『のみ』とはどういう意味かな、黒桐」
「――――お願いですから人の心を勝手に読まないで下さい、所長」
声の主、蒼崎橙子は、部屋の奥にある椅子に腰掛けて、ニヤニヤとこちらを眺めている。魔術師というのは何でもありなのだろうか。最近では意地の悪さがエスカレートしてきて、いかなる理屈か僕の思考まで読まれているらしい。
「意地が悪いとは随分なことを言ってくれるな。そもそも、魔術師にも限界はある。いや、むしろ限界ばかりと言ったほうがいいか」
「だから、人の心を――――」
「勝手に読むな、か。ならば予告すればいいのだな。では、私はこれから日常的に君の思考を覗き見る。その心積もりでいてくれたまえ」
「いや、そういう問題じゃなくて」
僕はため息交じりに自分の席に座った。とにかく、今月の給料を無事に確保するためには、できるだけ今度の仕事は高値で引き受ける必要があるのだ。これ以上、橙子さんに付き合っている暇はない。
「それはおかしな話だな、君の方がそう言ったのではないか」
「……橙子さん、眼鏡をかけていただけますか?」
「ほう、口答えの次は命令か。なかなかいい度胸だ。なるほど、式の影響かな、男らしくなった」
そこで煙草を懐から取り出し、彼女は一息ついた。
さて、と、顔を面白そうにゆがめて、覚悟は出来ているのだな、と橙子さんは笑う。
「日ごろのよしみで聞いておいてやる。何か言い残すことはあるか? ああ、大丈夫だ、ちゃんと式にも伝えておいてやるさ」
橙子さんはさも嬉しそうに煙草に火をつけた。くゆる煙が、外の異常な熱気を思い出させて、頭がくらくらしてくる。
そういえば、なんだか体がだるい。
「式と鮮花に、橙子さんに近寄ると危ないよ、と伝言をお願いします」
半ばヤケになりながらそんな台詞を返すと、橙子さんは
「ますますいい度胸だ、くくく、楽しいな、お前は、本当に、くくくくく」
とか何とか笑いながら、灰皿に煙草の吸殻を落とした。
「確かに伝えておこう。黒桐には運がなかったと」
いえ、伝言の内容が一文字たりとも一致してないのですが。
と、言いますか、どうしてそんなに嬉しそうな顔をしているのでしょうか。
大体、最近の橙子さんの意地の悪さは異常だ。人が悪い、というよりも悪人と言ったほうがしっくりくる。いや、それは出会った頃からあまり変らないか。
「黒桐。君、私が君の心を覗いているのを忘れてないか?」
「いえ、そんなことは」
分かっているのだけど、思考と言うのはコントロールできないものだ。
橙子さんが不機嫌な理由はなんだろうか、という疑問がわいてきてしまっては、思考を停止するなんて容易に出来ることじゃない。
そうか、若々しい式や鮮花と関わっているうちに、自分の年齢が恨めしくなったとか。
そうだ、そもそもまだ橙子さんは結婚してないじゃないか。そろそろ相手を探し出さないと年齢的にも危ない――――。
「黒桐。思考を停止させる方法を教えてやろうか、その体に、直接。多少、荒っぽくなるがね」
「力一杯遠慮します」
「そういうな、らしくないぞ」
いけない、橙子さん、ちょっと本気だ。目が据わっちゃってますね。
あー、参った。トランク出してきちゃったよ、あの人。しかも、大きいほうだし。
げ、小さいほうも持ってきてるよ。もしかして、全力で殺す気なんでしょうか、魔術師でも何でもない、害のない一般人の僕を。封印指定の魔術師が全力で。
こりゃ、死ぬね、僕。間違いなく死ぬね。はっきり言って、死ぬ。
「良く分かってるじゃないか。遺言は?」
「何で殺されなきゃいけないんですか!?」
「私の年齢に減れたものは、例外なくブチ殺すことにしている。他には?」
――――初耳なんですけど、そんな話。
てか、たかだか年齢の話でそんなにムキになるなんて、気にしているっていう何よりの証拠――――。
あ、ヤバイヤバイヤバイヤバイヤバイヤバイヤバイヤバイ。何、あの橙子さんのこめかみに浮き出た血管の量は。よく見ると、空間そのものが歪んで見えるんですけど。
もうだめだ。救いがたい馬鹿だ、僕は。こんにちは、死。さようなら、生。
「殺さないで」
「殺しはしないよ。知っているだろう? 脳髄だけでも人は生きられる。ただ、首と銅が千切れるだけさ」
「それを世間では死ぬ、と表現します」
「そうか、初耳だ。最後にいいことを教えてもらった」
ゆらり、と橙子さんが揺れるのが見えた。
――――いや、揺れたのは僕か。
まいったなぁ、コンビニの食事だけの生活が祟ったのかな。暑さのせいってのもあるんだろうけど。
ああ、ダメだ。視界が歪んでる。
「おい、黒桐。私はまだ何もしていないぞ」
――――いや、『まだ』って。本当に殺す気だったんですね、橙子さん。
最後に、そんなくだらないことを思って、机に突っ伏したとき。
扉から入ってきた式の姿が、見えた気が、した。
***
「幹也!」
入ってくるなり、式はわき目も振らず、幹也の机へ駆け寄った。
意識がなく、顔面は蒼白。呼吸が不定期で荒い。苦痛に歪んだその顔には、玉の汗が噴出していた。見るからに、尋常な事態ではない。
「トウコ、貴様、幹也に何をした」
茶褐色の着物の裾が静かに翻る。風がないにも関わらず。渦巻く激情の奔流。それが支配する静謐。
式の双眸が、蒼い。浮かんだ表情は憤怒でも憎悪でもなく、純粋な殺意。
――――― 一点の濁りもない、"ただの"殺意。
恐ろしいまでの重圧。それは、稀代の魔術師、蒼崎橙子が身震いするほどの恐怖を伴って、部屋の縦横を駆け巡る。
初めて己に向けられた、両儀式という名の死。その存在感は筆舌に尽くしがたい。
あえて言うなら生き地獄。黒桐幹也の意識があったなら、彼はきっとそう言っただろう。
「勘違いしてもらっては困るな、式。私は何もしていない」
「嘘を言うな! 何もしない奴が、そんなものを持ち出すものか!」
トランクを指差して、式は語調を荒立てた。彼女がここまで感情をあらわにすることは珍しい。いや、少なくとも橙子は、こんな式は今までに一度だって見たことがない。
誤解にせよ、幹也が苦しんでいるという一事だけで、あの式がここまで取り乱すものか。髪を振り乱し、状況の把握も忘れて、ただナイフだけを握り締めて橙子を見据えている。
――――フン、面白くない。お前、十分すぎるくらい愛されてるじゃないか、黒桐。
それはともかくとしても、これは厄介だ。遊び半分とはいえ、トランクはさすがに持ち出すべきじゃなかったなと、橙子は少し後悔した。何せ、今の式は周りが見えていない。いつだって登場のタイミングが悪すぎるのだ、このヒロインは。
「何度も言わせるな。私は何もしていない。本当さ、なんなら黒桐が起きたときに聞いてみればいい。もっとも、何かをしようとした、というのは事実だがね。これは、そのための道具にすぎない」
式はこれ以上は意味がないと悟ったか、橙子の言には耳も貸さず、ただ幹也の病状を見つめている。ものを殺すことにだけ長けた式は、悲しいことに、治すことには全くの無知である。看病の仕方さえロクにわからない。
結果、ただ幹也の手を握るだけしか出来ないのだ。
橙子は、そんな二人の様子を見て、クスリと笑う。羨望か、子を思う親の心境か、それは彼女にも定かではない。
「もしも、……もしも起きなかったら、どうするつもりだ」
ポツリと、式は今にも泣き出しそうな声で呟いた。
それは耐えがたい恐怖。幹也を失うという、想像を絶する悪夢。気丈な両義式を、ただの少女に戻してしまうほどの絶望。
橙子は式を見て、ああ、と思う。
これは嫉妬だろう、と。自分にも、あれくらいに想える誰かがいたならば、と思うのだ。それがどんな結果を招くのかは分からない。けれども、そんな人生も悪くはないと橙子は思う。結果の良し悪しを決めるのは他の誰でもなく、自分自身であることを彼女は知っている。きっと、彼らがどんな結末を迎えたとしても、それを不幸だったと嘆くことはないだろう。
――――なんとなく、妬けるじゃないか。
羨望でも憧れでも後悔でもなく、この感情は嫉妬。子供みたいだと自嘲してみても、湧き上がる思いは耐えない。
「安心しろ、そんなことは万に一つもない」
ツカツカと幹也の机に近寄って、橙子は彼の顔を伺った。
「ふむ、軽い栄養失調と過労だな。偏った食生活と睡眠不足が原因だろう。熱も大したことはない。
そういえば、コイツはコンビニの握り飯しか食っていないからな。当然と言えば当然だ。
……ああ、なるほど。確かに過労の方は私に原因がないとは言えないな。ま、どちらにせよ、命に別状はない」
これでも、少しくらいは医学もかじっているなんて言う橙子を、式はようやく殺気を解いた目で見据えた。
「本当だな」
「なんだ、嘘を言って欲しかったのか? ならば、黒桐は手遅れだ」
からかう橙子を、式は非難の視線で睨んだ。しかし、眸には、少しの不安と動揺が見て取れる。
――――いつの間にか、本当に可愛らしくなった。
自分の、今日の度し難い底意地の悪さは、嫉妬によるものだと理解してから、橙子は完全に達観している。まさしく親の心境だ。
「さて、私は今から明日の昼まで出かけなければならない。悪いが、丁度いい。黒桐の看病は頼んだぞ。鮮花の奴がが来たら代わってもいい。なに、安静に寝かして、メシでも食わせてやれば問題はないさ。布団は隣に新品のがあるし、メシの材料は冷蔵庫に適当にブチ込んであるはずだ」
式の反論すら許さない速さで、蒼崎橙子は部屋から消えた。残ったのは病で呼吸の荒い黒桐幹也と、何故か呼吸を乱した両儀式。
「勝手な奴め」
顔を真っ赤にした両儀式が呟いた言葉は、橙子ではなく、幹也に向けられたものだろう。
「さて」
廃墟を振り返りつつ、炎天下の下、蒼崎橙子は体を伸ばした。いじらしくなって思わず部屋を貸与してしまったのだが、とにかく、暇をつぶせる場所を探さねばなるまい。明日の昼まで、時間はあまりすぎているくらいだ。
「暇だな」
太陽は容赦を知らない。蒼髪の魔術師は、いつかアレを壊してやるなどと物騒この上ないことを考えつつ、雑踏に向けて踵を返した。
初めてのSSです。続きものの設定ですが、あんまり不評だったら自粛します。
後半をもしも投稿する場合は、きっと無意味に二人でいちゃつくだけの話になります(苦笑