夢を見た。
そこには何も無い空間が広がっている。
無意識の内に足を進めていく。何も無いはずなのに足を踏み出せばそこに道ができた。極めて不快な気分にさせられた。
私はどこまでも落ちたかったのに。
常の世界
嫌な夢を見たような気がした。今日は兄が家に帰ってくる日だ。それなのにとてつもなく嫌な夢を見たような気がする。
私は逃げるのは嫌いだ。だから、兄をこの屋敷に戻そうと努力した。それは生半可なものではなかった。親戚達からの非難は凄いものだった。死んだ人間をいまさら戻したところでどうなるというのだと言っていた。
そう、彼等の中では死んだことになっているのだ。兄という存在はすでに屋敷の中では存在する場所すら失っていたのだ。兄もそうだろう。
兄が自発的にここに戻ってくることはないだろう。それは昔から考えていたことだ。それに父が生きていればこのような状況を作ることもできなかっただろう。私が当主になる。この同義が兄の帰還にあたったのだ。
朝はすでに本調子になっていた。今では、唯一の使用人である琥珀と翡翠は自分の持ち場で働いているのだろう。
だるい体を持ち上げると頭が活動を開始した。琥珀が用意した制服が置かれている机に手をかける。一通りの着替えを終えると鏡の前に立った。
「・・・・・・・・・」
鏡の中の私も少し怖い顔をしている。
後輩達にも良く言われるのだが、そんなに私は威圧的だろうか。最近は大人しいふりをしていても、怖がられてしまう。
ゆっくりと長い髪にふれる。自分以外がふれたことも無い長い黒い髪。自分でも自慢に思うほど綺麗だと思う。しかし、それが時には滑稽に目に映ることがある。それは簡単だった。反転した時の紅い髪を思い出すからだろう。
下に降りるとすでに朝食の準備がされていた。その匂いにつられた訳でもないが、体がそちらに向かった。
「あ、秋葉様。おはようございます」
「おはよう、琥珀。今日も良い匂いね」
「ええ、今日は志貴様も戻りますし、今の内に準備をしてるんですよ」
この子も多くの業を背負っている。
琥珀は多くの悲しみを知り過ぎたせいか、笑う顔しか見せなくなっていた。それがどういうことか、父が死ぬまで気付かない私でもなかった。そして、琥珀の分け身のような存在である翡翠も同じような状態になっている。
姉妹とはこうあるものなのだろうか。琥珀はともかく、翡翠が全てを知っているとは思えない。兄さんの世話を頼んだ時も最後まで姉に譲ろうとして、聞かなかった。それは琥珀が一言言うだけで終わったのだが、私には印象的な場面だった。
確かに私と兄さんは本当の兄妹ではない。それは私だけが知っていることで、父の記憶操作のせいで本当の事となっている。それはともかく、私はこの二人のように振る舞えるのだろうか。
「無理よね」
「はい?」
「いえ、何でもないわ。それより、早く準備して頂戴」
「はい」
琥珀は一言返事をすると厨房に戻っていった。
朝食が終わると翡翠が煎れた紅茶を飲むことにした。翡翠はいつもより緊張した面持ちで(外見では判断できないが、行動などで考慮すると)カップをわたしてくれた。
「翡翠、今日からね」
「は、はい」
「翡翠はしっかりしてるから、大丈夫でしょうけど」
「はい」
「ふう、翡翠。兄さんは外で暮らして来ています。何かと不自由なことがあると思いますから、よろしくしてね」
「はい、秋葉様。一つ聞いてもよろしいでしょうか?」
珍しく翡翠が表情を変えて質問をしている。私は首を縦に振って肯定の意を表した。翡翠は少し戸惑っていたが、意を決したように顔を上げた。
「どうして、志貴様を屋敷に戻そうと思ったのですか?」
珍しいことだった。
翡翠という子は殆ど場合、自分を出さずに後ろに下がっている。料理に関してだけは断ったりもするのだが。普段は決して自分から前に出ようとする子ではなかった。
「そうね。特に理由が必要なのかしら?」
「え?」
「兄さんは少しの間、屋敷を出ていただけです。この家は兄さんの場所でもあるんです。そういうことよ。反対していた父がいなくなったのだから、戻すのは当然の行為じゃないかしら」
「しかし・・・・・・」
「翡翠、今日から、あなたは兄さんにつくんですからね」
「は、はい」
自分の意見だけを翡翠に押し付けると学校に向かった。
今日は放課後の予定を全てキャンセルしてある。兄さんを迎えるのだからそれぐらいは当然でしょう。
「よう、遠野。今日は偉くご機嫌だな?」
「そ、そうでもないわ」
「本当だー。少し顔が笑ってるよー。何だか怖いよー」
二人の暖かい声援を心からの感謝の気持ちを目で表すと、少し引きつったような顔をして行ってしまった。
何だか今日は一人になりたい気分だった。今までは屋敷に戻っても色々と考えてしまって結果を出せずにいた。しかし、今日は全ての悩みの原点である存在が帰ってくる。それだけで帰りの足は速まった。
屋敷にゆくと琥珀が何やら準備をしていた。
「志貴様の歓迎会の準備ですよー」
屈託の無い笑顔で言っているが本心は知れたものでもない。私はすぐに却下して兄さんを迎える準備をした。
準備といっても簡単なもので、制服から私服に着替えるだけだ。派手な出迎えをやって期待していたと思われるのも癪ですからね。兄さんは勝手に出ていった訳ではないのに本当は心から喜びたいのに。
言えないことが多すぎるのかもしれない。
「兄さんは真実を知った時どんな顔をするのかしら」
不意に言葉が口から漏れてしまった。
私は自己嫌悪に陥りながらも兄さんの顔を思い出すことにした。本当にぼんやりとしか憶えていない。子供の頃の記憶なんていい加減なものなのかもしれないが、それが少し腹立たしかった。
ふと外を見ると夕焼けの風景がひろがっていた。私は帰りの遅い兄さんを待ちながら紅茶を飲むのも悪くないと思った。
そして、多くの感情が入り交じる二人の間に立って兄さんと話をしなければならない。ここにいる三人と兄さんは遠野の呪いにかかっているのかもしれない。ふとそんな考えが頭をよぎるとおかしくなった。
琥珀が玄関に向かう足音が聞えた。チャイムが鳴ったのだろうか。それともノックだったのだろうか。思いを巡らせていると回りが見えなくなるのが私の悪い癖かもしれない。
さあ、兄さんを迎えよう。
心配などさせないよう気丈に振る舞おう。
そうすれば兄さんは安心してくれる。
そうだ。いつのも通りにすればいい。