叫び声を上げたかった。勿論俺にはそんな事をする力がない。
千切れていく。歯を立てて、獣が彼女を噛み切っていく。肉を、骨を、眼球を、脳を、神経を、命を、
ソノ、死サエ。
それを、ただ無言で観ていた。
彼女の血が頬にかかる。なんて、熱さ。燃えたぎる火炎でもこれほど熱くはあるまい。
あぁ、と思った。
これは命の熱さだ。これは死の熱だ。
世界が染まる。血の色に染まる。紅い、朱い、あかい、アカイ………
獣は狂う。死の色に、命の熱さに。
彼女の体から、その命その物であるかのような紅色が、吹き出していく。
彼女の体が一片たりとも亡くなってから。
獣は俺にミアカシ シシを返してくれた。
咽返るような血のニオイ。焼け付くような血のアジ。
その総てが。
俺を狂わせていく──────
月姫異録
金の獣
◇ ◇ ◇
目が覚めたそこは暗闇だった。見回しても何もない。そうだ。私は眠っていたのだった。
今までに嗅いだことの無い匂いがして、私は起きなければならないと自覚した。
上体を起こす。と、右手の感覚が亡くなっていた。
あれ? どうしたんだろう、私。痛い。体中が痛いよ……。
耐えられないほどの痛みではない。なのに、そう、体中が欠けている感じがして。
自分が生きているのか、もう死んでいるのか、そんな事さえ判らなかった。
私は声を出した。勿論、叫んだわけではないのだが、いつもならお母さんが来てくれるのだ。
お母さん。どうして、返事をしてくれないの…。
怖いよ……此処は、トテモ、クライ──────
ぎゅっ。
何も無いはずの右腕。その掌を何かが握ったのが判った。
視線を其方に向けて、其処に居たのは、瞳を閉じた赤い髪の少女。
もう一人の、私。
全身の感覚が戻ってくるのが判った。だって、隣に居る私が無事なんだから、こっちの私も無事に決
まっている。
少女は未だ眠っている。あどけない寝顔で、まるでそれこそが完全であるかのように。
もう一度、私の掌を握った。温かい。そう、この子は生きている。
起こさないように、静かに床を立った。
とたん、何かの匂いがして。
それに魅かれていくように、私は匂いの元に向かって行った。
一つの障子の前で止まる。どうやら此処が元であるらしい。
開いてみた其処は。
御伽噺に出てくるような、血だまりの池。業火よりも紅い、世界。
その中で。
まず見えたのはこれ以上ないっていうぐらいの緑色の景。それが瞳が輝く色だと判ったのはその少し
後だった。
そして。
朱色ニ染マッタ少年ガ独リ、起キ上ガッタ─────
◇ ◇ ◇
音も無く。
境界を隔てる壁が、少女の手によって取り除かれた。
少女かいる正気の世界と。少年がいる狂気と。それらの区別はもう、付ける事はできない。
否。
そんな物の境界なんて、初めから何処にも無かったのだ。
少年は動く。己に憑いた血を引きずるようにして。紅の残像が中空に残る。少女は反応できていない。
視得ているのかどうかさえ疑わしい。
少年は少女の首を掴んだ。そして、骨ごと握り潰してしまうかの如くに力を込める。
ぎちっと、乾いた風が鳴った。
少女には、自分に何が起こっているのか全く判らなかったことだろう、それでも。
少女は声ならぬ声で叫んだ。
お母さん、と────────
其処までだった。耐えられるはずもなかった。それ以上はもう無理だった。
少年は、司士は少女を殺してしまおうと、決めた。
その両の腕に力を込めて、
「そこまでにして貰おうか」
ただ、滝の如くにその男の声が聞こえてきて。
気が付くと、司士は文字通り壁に食い込むようにして、吹っ飛ばされていたのだった。
少年の喉から餓、と声が漏れた。同時に、彼の視界の端で少女が倒れるのが見える。
「やれやれ。全てを殺してしまう御積りだったのか?」
先程の声の主、痩身の男性は慇懃にそう言った。
老人、そう呼んでも差し支えない外見をしたその男は、軽く辺りを見回す。
「よくもまぁ、ここまで。さすがは獣の家系、と言ったところか」
そこで彼は首を振って、
「しかし明らかに此はヤリスギだ。私の取り分が亡くなってしまったではないか。どうしてくれるんだ?」
男はそう言いながら、赤毛の少女を抱き上げた。少女は完全に気絶しているらしい、その瞳には涙の
粒が一つだけ。顔の半分は血の色に染まっている。
少年は男と少女から視線を外した。
「貴様の取り分はその少女達と言うことにしておけ。俺はもう充分だ」
絞り出したかのような、苦い物を噛み潰したような、そんな声で司士は言った。
「ふん。そうさせて貰う」
「元からそのつもりだったくせに!!」
自分でも無意識のうちに、彼は叫んでいた。頭の中がぐちゃぐちゃで、巧く物事を考えられない。
男は返事をしなかった。ただ、その部屋から出ていこうと少年に背を向ける。
「おい」
少年の声に、その背中は動くのを止めた。「何だ?」と男は返す。
「忘れるな。約束は、守ってもらう。七夜の少年の命は確かに俺の物だ。殺すことは許さない」
「ああ」
「月姫にも手を出すな」
「分かっている」
「もし約束を反故にしたら、その時は、」
そう言って、俺は血まみれの拳を突き出した。
「貴様を、殺してやる。貴様の大切な物、その全てを食いちぎってやる。何処まで逃げようが、何処ま
で恐怖しようが、何処に居ようが、貴様が死んでしまってからでさえ」
「お前を、殺してやる」
そう、司士は言い切った。その声は、何処か泣いているかのようにも聞こえて、男は振り返った。
少年は、泣いていなかった。
男は彼から視線を外し、言葉を紡いだ。
「約束は、否、契約は守る。我が名、遠野槙久の名に懸けて、な」
静かにそう言った後。
男は少年の前から消えた。
さて。
彼が未だ少年だった頃の物語を、そろそろ終わらせることにしよう。
司士は何をする出もなく、屋敷を出た。
何処を目指すでもなく。
何かの理由があるでもなく。
ただ、屋敷から一歩一歩ゆっくりと、損傷のない体を引きずるかのようにして、歩いていく。その姿
はまるで戦争を終えて、それでも戦争を引きずっている兵士であるかのようだ。
体に付いた血を、そのままにして。
司士はただ、屋敷から離れていった。
どれ程経っただろうか、空からは雨が降り出した。
初めは少しづつ。だんだんその勢いを増して。
司士はそれでも気付かないのだろうか、そのまま前を見ないで歩いていく。
ざー、と。
彼が気付いたその時には、まるで空が水道になってしまったかの如くに雨は振り付けていた。
何とはなしに、彼は自分の体を見た。
そして、その一瞬後に走り出した。
彼は逃げていた。雨から。体を流れるその水から。
ただ皮肉なことに、雨を妨げるような物は其処には何一つ無いのだ。
ただ少年は走る、ひたすらに。
やがて、少年は何かに躓きでもしたのだろう、大きくバランスを崩して俯せに倒れた。
雨は降り止まない。
ざーっと。
少年は顔を上げた。其処には雨しか見えない。あるはずの地面、触れているはずの大地でさえ、其処
にはない。
ただ、色のない雨が、その全てを塗りつぶしていた。
色や、音、全てを無くしてしまう、雨色の世界の中で。
少年はただ、前を見た。
少年は思う。
雨なんか降らなければいいのに。
雨なんて、降らなければいいのに。
自分は汚れているべきなのだ。
彼女を殺した。
彼女を喰らった。その全てを。文字通り、その総てを。
あまつさえ、その娘さえ殺そうとした。
そうでなくても、遠野に少女を売り渡した。
在っては為らないことだと思う。
自分の大切な物を護るためとはいえ、それ以外の者を犠牲にしても良いという法はない。
だから。
俺は穢れていたいのだ。
俺の大切な者。
ユキタカ。蒼香。四季。
彼らにはもう触れることすら叶わないのだとしても。
俺はその血で永遠に穢れているべきなのだ。
雨なんて、降らなければいい。
それは俺の穢れを洗い流してしまう。
それは彼女の命を薙がしてしまう。
綺麗になんて成りたくないのだ。
ただ、穢れたままで────────────
天からは雨が降る。
ただ、色も、音も、穢れも、全てを消し去るようにして。
雨は降り止むことなく、ただ少年を消し去っていく。
彼は其処に倒れたままだ
金の獣 了
さて。
何とか書ききりました。やっと、ネタバレ。
ずーと月姫ではないように書いてきたので一寸しんどいですが。
次は、長い間停滞していた「蒼ノ姫 月ノ香 ソノ、カケラ」の続きです。
ああ、何時になったら本編に入れるんだろう(汗)?
気長に待ってもらえたら…………有り難いです(苦笑)。
では。
感想待ってますね。