痛みに任せて叫び声をあげた。床を転げ回って、でも何も感じない。ただ視界が変
わるだけ。
体の中がおかしかった。これはダメだ。確かにこれは猛毒でしか有り得ない。
瞳に映る物は全て細分化されていく。細胞の核、それが視える。もしかしたら、螺
旋構造まで視得てしまうかもしれない。
血管は焼き切れんばかりに血液を送り続け、心臓は胸を破らんが如く膨れあがって
は拳よりも小さくなるまで収縮するのを繰り返した。
脳は五感の精度を普段とは比較にならないほどに強化して、当然のように強化され
た痛覚で俺を掻き乱す。
ダメだ。耐える事なんて、できやしない─────
こんな事は初めてだった。人間の枠を壊してしまうかのような衝動。
成る程。こんなのは、ヒトでは耐えきれないだろう。
そう。ヒトならば、だ。
獣は歓喜の声をあげる。司士の中で。壊れ逝く、人体という檻の中で。
俺には聞こえる。
これは笑い声だ。それは荒れ狂う嵐の音にも似て。異常なまでに研ぎ澄まされた聴
覚に飛び込んでくるそれは、まるで世界を押し潰してしまいそう。
あの人の笑い声だった。狂ったような、泣いているような。
今や完璧な人形のようだと思った彼女はもう居ないのだ。
此処にいるのは、ただ壊れて狂った人形のみ。
彼女の声が聞こえる。
「ねぇ、苦しいでしょう?」
なんで、
そんなに楽しそうなんですか──────
月姫異録
金の獣
◇ ◇ ◇
誰だろう、と私は思った。
足下でもがき苦しんでいる少年はその黒い瞳をこちらに向ける。
成る程。彼は侵入者だったか。
まだ死んでいないのには本当に驚いた。私はあの毒の家系と契ったのだ。人なんて、
それこそ一瞬あればこと足りるはずなのに。
血を飲ませ足りなかったのだろうか? もっと飲ませた方がいいのかもしれない。
そう言えば先程噛まれた右肩はじくじくと痛みを訴えている。
大丈夫だよ。ちゃんと、報復はしてあげるから。
私は彼が噛みやすいように脱いだ着物を少し持ち上げた。からん───と軽い音が
して、そこから短刀が転げ出てくる。柄のところが木製の古い短刀だった。勿論、私
が隠していた物である。
私は嗤った。可笑しくて、悲しくて、仕方がなかった。
私は何を嗤っているのだろう?
苦しんでいる彼を?
それとも。
「苦しいでしょう?」
湧き上がった気持ちをかき消す為に、私は彼にそう訊いた。そうでないと、悲しい
事を思ってしまうから。
彼は苦しそうに喘ぎながらも私から視線を外さない。
仕方ない。
喘ぐ彼の胸を片足で踏みつけた。
「苦しいでしょう?」
もう一度、繰り返す。
私は自分の右手の人差し指を短刀で切り落として、それを彼の半開きの口につっこ
んだ。
「が、ぁ、……………」
彼が呻く。歯を食いしばって痛みを耐えようとしても、私の拳が殆ど完全に入って
しまっているのだからそれは不可能なようだ。
どくどくと彼の中に私の血が入っていく。
どくどく、どくどく、どくどく、ドクドク、ドク、ドク、ドク、ドク、ドク、ドク、
毒、毒、毒………
愚、とも、餓、ともとれる声が少年の口から漏れる。
「苦しいでしょう?」
訊ねたところで少年は返事をしないだろう。そんなのは判っている。判っているの
だ。
それでも訊ねるのは何の為なのか、私には判らなかった。
自分の口からは断続的に笑い声が漏れる。まるで壊れたオルゴール。ゼンマイが切
れていくようで。
少年は瞳を閉じた。目の端には涙が浮かんでいる。
そこでやっと、少年は控え目に見ても小学生になったばかりのようだ、と思いつい
た。
そう、私の娘達と、同い年ぐらいの─────
「何とか、応えたらどうなのよっ!! 痛いでしょう!? 苦しいでしょう!?」
私は狂ったように叫ぶ。それでさえ、実感に欠ける。
何処か、遠いところから私はそれを見ているようだった。それなのに、視界は私の
それなのだ。
少年が血を吐く。ごぼっ、と鳴って私の腕に飛び散った。
熱い。それはとても熱い。燃やされている。私が灰になっていく。
あぁ、と思った。
コノ少年ハ、マダ生キテイル──────
気が付いたら私は自由な方の手で短刀を振り上げていた。空中で逆手に持ちかえる。
少年が右目を大きく見開く。その目が私を見た。
気のせいだろうか、彼の口が薄く嗤う。
私はハイになっていく。
そして。
「あぁぁぁぁぁぁっ!!」
一気に、それを振り下ろし─────
◇ ◇ ◇
瞼を開く。視界は一気に鮮明になっていく。
司士は始めに見えたそれを可笑しいと思った。
だって、その人は泣いているんだから。嬉しそうに嗤いながら、辛そうに泣いてい
るんだから。
それが見えたのは右目。開いたのは右目だけだ。
彼女は短刀を振り上げた。それが見える。
「あぁぁぁぁぁぁっ!!」
その声は一瞬。
普段よりも鋭角な視覚はそれを捉えた。
スローモーションで短刀の切っ先が落ちてくる。何処に? そんなの、判りきった
事だ。
彼女がしゃがむ。何にも覆われていないその胸が揺れる。
短刀はどんどん近づいて来る。そう。この右目に近づいてきているのだ。
音はない。痛みもいつの間にか消えている。血の臭いも味も感じなくなってしまっ
ていた。
ただ、視覚のみが働いて。
彼女の短刀はどんどん彼に近づいてきている。
飛び降り自殺をしたら、こんな感じになるのかもしれないな、と司士は思った。
もう、視界いっぱいに短刀の刃が光る。
ぷちっ、
と、音が鳴って、
それが消えてしまうまで、
瞳には短刀が映っている。
っ!
声をあげる事が出来ない。痛みを耐えようにも口は彼女の拳で覆われている。空気
が吸いたい。
さっきまで遮断されていた四っつの感覚が一斉に暴れ出した。捌け口を求めて体を
駆け巡る。
痛い、痛い、痛い、痛い、イタイ、イタイ、イタイ──────
熱い。まるで溶けてしまいそうなぐらい、右目が熱い。
唐突にぶちぶちと音が鳴って、そこが熱くなくなった。目が無くなったのだと司士
は悟った。
苦しい。痛い。辛い…………。
もう、ダメだ。コンナノデハ、コワレテシマウ。
彼は死にそうだ、と我は分析した。
成る程。
この女、御倉木と契ったのか。確かに巫浄の血を使って浄めれば、毒は毒でなくな
るかもしれない。
しかし。
そうならない可能性の方が高いはず。この女もそうなのだろう。御倉木の毒に完全
に犯されてしまっている。
我の器が砕ける。それは困ってしまう。我は此処でしか生きる事は出来ないのだか
ら。
ならば、我がする事は唯一つのみ。
始めに感じたのは心臓の鼓動。
次に感じたのは空になってしまっているはずの右目のうずき。
最後に感じたのは、音無き獅子の吠える声。
獣が、起きた。
我は御妖。神代よりの獣なり。御倉木の毒は我には癒しなり。
女。
覚悟するがいい。
司士の右目に変な感覚が趨る。まるで、水が沸騰しているかのような。
体中にあれほど感じた痛みは既に無い。
見上げた彼女は彼女は驚いた表情で司士を見ていた。
心臓が、大きく鼓動した。
どくん──────
獣が、起きた。途端俺の意識は視界のみに閉ざされる。
無音の世界で。
獅子はまず、口の中にある彼女の拳を噛み千切った。彼女は驚いた顔をしている。
まだ。
次に獅子は体を起こして彼女の体に乗っかった。
彼女を喰い始める。
無音。無音。
司士には視える。彼女は獅子を振り払おうと躍起になっている。
それなのに、獣は彼女の顔を覆っている腕を、胸を、腑を、骨を、鼻を、目を、の
ど笛を、脚を、その全てを、喰らっていく。
彼女は叫んだかもしれない。泣き喚いたかもしれない。罵ったかもしれない。
でも、司士には聞こえない────
ぐぁ。済みません、済みません。
っていうか、やっぱり後編でも終わりきりません。
まだネタバレしてないです。あと一回だけ金の獣におつきあい下さい。