月姫異録 金の獣 (中)


メッセージ一覧

1: into (2002/02/01 01:08:00)[terag at pop06.odn.ne.jp]

 ぎしっ、っと廊下が音を立てた。
 昼間だというのに、そこは果てを感じさせないほどに暗い。まるで夜のようだ、な
どと司士は思った。そんな事は錯覚にはすぎないとわかっているのに。
 ここは夜ではない。
 ただの闇が広がっているのみである。
 それでも、夜だと感じてしまうのは。
 恐らくは、彼女の穢れに由るモノではなかろうか。
 また、ぎしっと音がたった。
 いちいち反応している獅子がいる。
 標的は逃げないのが分かっているのに、何故怯える事があるのか。
 ……それだけ、危険だという事なのか。
 突き当たりには障子があって、そこから誰かの影が炎に揺られている。
 どうしようもなく、どうすればいいか分からなくなった。
 一体何を躊躇しているのか。
 ここに来るまでに、もうオレは汚れてしまっているじゃないか。
 もう、後戻りは出来ないだろう?
 そう言い聞かせるのに。
 司士の足は一歩も障子の方に近づいて行こうとはしない。




  月姫異録

          金の獣




           ◇          ◇          ◇


 雨が降っているのが見えた。と言っても、雨の音が聞こえるわけではないのだから
、本当に降っているのではなさそうだ。
 ならば、この雨は人の心に降る雨なのだろう。
 誰かが来ている。それは、きっと間違いない。
 なぜなら。
 私の心はもう、雨を降らす事もないのだから。
 そこはまるで暗い海の底のようで。
 逃げ出すことも叶わず、ただ私は腐っていくのだ。
 あぁ、これが私だけならどれだけよかっただろう。愛しい子供達まで巻き込まれる
必要など無いのに。
 あの人の穢れ。受け入れる覚悟は出来ていたのに。結局私は自分だけのことしか考
えていなかったのだ。
 だから。それ故に。
 せめて、あの子達だけは。護ってみせる。必ず。
 そう。────必ず。


         ◇           ◇           ◇

「入ってこないのですか?」
 その声を聞いた時、司士ははっきりと鳥肌が立ったのを感じた。凛として、温度を
感じないその声は、まるで風のない冬の空気のようだった。
 戦慄が走る。何故気付かれたのかが全く分からない。音らしい音は殆ど立てなかっ
たというのに。
 ………訝っても意味がない。相手は彼女だ。その程度は出来て当然なのかもしれな
い。元来何も見えない人なのだから。
 彼は音も無しに障子を開けていく。

「ようこそ、で良いのでしょうか。」
 まず見えたのはあまりに真っ白な世界だった。眩しくて、目を開けて居られない。
 出迎えの声が聞こえる。
 なんて綺麗な澄んだ声。まるでセイレーンの声のよう。飲み込まれたら、出られな
い。何て、綺麗で怖い声………。
 ようやく目が光になれてきた。
 一見して、そこは緑の世界だった。畳葺きの座敷に、掛け軸。日の光は入ってこな
いようで、二本の蝋燭の炎が風に舞っている。
 その炎に燃やされるかのようにして、人影が一つ。
 そこにいたのは女性だった。短めに切り揃えた漆黒の髪に、まるで夕日のような緋
の着物。そこからのぞく素肌はまるで羽毛のように白い。
 その瞳は閉じられたまま。
 あぁ………ダメだ。一体どうしたこと。有り得ない。こんなの絶対にあり得るわけ
がない。
 彼女は畳に正座して、顔だけが、こちらを見ている。
 それは非の付け所のない人形のようで。
「何方ですか」
 そう訊ねたその声でさえ。
 その全てが獅子を狂わせていく。

      喰らいたい

 ワケが分からなかった。一体どうしたというのか。体の中の獅子がそれを喰らいた
いと叫んでいる。

 殺して。

 血を啜って。

 肉を噛み砕いて。

 その、魂でさえ。

 全てを奪い尽くしてやりたい───────

 欲と言うにはあまりに強い感情が司士の体を荒れ狂っている。
 その衝動をなんとか抑えて、司士は言った。質問には答えない。そんな余裕はなか
った。
「貴方と、貴方の子供達をいただきに来ました。」
 聞こえただろうか、彼女は凍ってしまったかのように動きを止めている。
 構わず続ける。そうしないと、今にも獣に飲み込まれてしまいそう。
「貴女方の家系に伝わる力が必要なのです。」
 彼女はそれでも止まったまま。
「自分と、あと、一人。」
 そして、それが感染したかのように、司士も動きを止める。
 二人はまるで糸が切れた操り人形。操る人がいなければ、司士も彼女も動くことは
ない。そして、糸を切った者は、その糸をいつまでも繋ごうとはしない。
 それは完全な調和だった。世界から切り離された深淵の夜のよう。たった二人だけ。
司士の背後にある障子も、彼女の背後にある壁も。それら全てが世界を区切っている。
 司士は、それに圧迫感を覚えた。もう少しでも此処にいると、自分は一生此処から
出ていけなくなるのではないだろうか?
 はぁ、と吐いた息の音がやけに響く。
 静かに。ただ、静かに時が流れて、
「貴方は」
 やっと彼女が口を開いた。
「私が穢れていることを知っているでしょう?」
「はい。」
「なら、何故私たちが必要なのですか?」
 彼女の声に、責める意図が見いだせなくて、司士は狼狽した。
 何故、この人は、こんなにも穏やかなんだろう。
「そこまでせっぱ詰まってるのでしょう。彼も。もちろん自分も。」
「そうですか。」
 そういって、彼女はまた己の時を止める。
 あぁ、と司士は思った。何でこんなにも穏やかで静かなんだろう。
 罵ってくれればいい。
 怒鳴ってくれればいい。
 涙を流してくれればいい。
 何故、その全てをしてくれないのか。痛いのは嫌だ。苦しいのは嫌だ。悲しいのは
嫌だ。でも、それ以上に。

 ただ、誰かを殺していく自分が嫌だ。

「娘達は、奥にいます。」
 考え耽っていた司士に、彼女はそう言った。ただし、と続ける。
「私を殺してから、あの子達のところへ行ってください。」
 そう、静かに宣ってから。
 一挙動で彼女はその着物を脱いで、裸体を司士に曝した。
 数瞬、司士の思考が停止した。全ての場所でとれている均衡。きめ細やかでまるで
輝いているかのような、白糸の肌。表情を無くした人形。
 その全てが。
 獅子を狂わせていく。
 時が動いた。司士はゆっくりとその一歩を踏み出した。
 ダメだった。彼との取り決めとか、取り分とか、後のコトなんて一切考えになくな
った。ただ、喰らいたい。それだけ。
 そして、無音で、世界を壊すかのように、獅子が吠えた。同時に、駆け出す。フェ
イントも、虚構も一切無い直線の動き。
 とん、と音を立てて獣が跳躍した。金が空に線を描いて。
 獣は彼女の肩口にその歯を突き立てた。音を立てずに血を啜ってそれを飲み込む。
 甘美な味が喉を通って、

 え?

 どん、と音が響いたのを、司士は感じた。世界が反転している。
 何が起こったのか全く分からない。体が全然動かない。体がおかしかった。どこか
が変。潰れそうな勢いで心臓は膨らんだり、小さくなったりしている。それに押し出
された血液はまるで血管を焼き切ってしまうかのように勢いよく体中を駆け巡ってい
る。目に見えるモノは全て細分化され、耳に聞こえるものは全てが世界を揺らすかの
如くだ。口からは発作を起こしているかのような息が断続的に出て行っている。
 これは──────────

 何かが笑っている。まるで狂っているかのように笑っている。世界に笑い声が木霊
している。
「気分はどう?」
 そう、彼女が呟いた。彼女はまるで逆さまになったかのように司士には見えた。
 呟いた彼女の表情は、先程の人形のそれではなく、そう、人間そのものを映したか
のように司士には見えた。
「苦しいでしょう?」
 そう。
 彼女は本当に、楽しそうに司士に微笑んでいるのだった。



 …………前回後編を期待!とか言ってたのに中編です。
 ごめんなさいです。っつーか、時間がありません。
 次回こそは後編………

 kindleさんの闇鍋本企画に参加させていただいています。
 弓塚さつきのSSが載っています。是非見て感想を下さい。

 金の獣の感想も待ってます。掲示板とかメールとか。


記事一覧へ戻る(I)