序. 紅い、色。 紅い、夜。 紅い、手。 まっか。 まっかだ。 なんだか、とても、たのしい。 だから、おどろう。 くるくる、くるくると。 そしたら、まわりのみんなもおどりだした。 くるくる、くるくる。 なんだかおもしろくて、わらう。 くすくす、くすくす。 こんなたのしいじかん、ずっとつづけばいいのに。 なのに、みんなうごかなくなってしまう。 ああ、たいくつだ。 だから、そらをみる。 見上げれば、空にあるのは、月。 とても、美しい、月。 それなのに。 ――あぁ―― 自分は、こんなことにも気づけないほど、狂ってしまっていたのだろうか。 ならば、いっそ。 何もかも、忘れ、て。 一. がくんと、電車が止まった衝撃で頭が前に泳いで目が、覚めた。 窓の外を見ると、駅。 「あ」 慌てて、足元においていた荷物をつかんで立ちあがる。 勢いをつけて、立ちあがり半歩。 前に傾きかける体の流れを踏み出した足を軸に流し、旋回。 体が反転した所で、旋回させた足を踏み込んで、低く跳躍。 ホームに見事着地したと同時に、背後で電車の扉が閉まった。 「……ふぅ」 一息ついて、周囲を見回すと、視線。 周囲の人々が、目の前で活劇を見せた自分に対し珍奇の視線を向けているのに気づく。 思わず、赤面。 しばしの間を置いて、 「うわ、あ、と……ととっ」 慌てて、走り出す。 向かう先は、改札。 とにかくこの場から離れるために、少年は駆け出した。 少年が足を止めたのは、駅前のロータリーにあるベンチの前まで来てからのことだった。 ……なんとか、離れられたかな。 その場に荷物をおろすと、吐息をつく。 「反射的とはいえ……目立っちゃったかなぁ」 落ちこみながらベンチに腰を下ろす。 ……せっかく、外に出られたのに そう、落ちこみながら視線を上げると。 目の前に、少女の顔が、あった。 「っ!?」 反射的に、距離を取ろうとして。 辺りに鈍い、打音が響いた。 「…………様」 声。 遠くから、声が聞こえる。 たゆとう意識の向こうで、ゆらゆらと。 誰かが揺れながら、声を投げかけてくる。 けど、ここは暖かい。 暖かいから、出て行きたくないと。 冬の布団の中でむずかる子供のような心地よさにつつまれて。 「……夜様」 頭部には暖かい、感触。 ……暖かい? ふと、疑問を感じる。 自分はなぜぬくもりを感じているのだろう、と。 けど、暖かさが、それをゆるさ……な。 少女は、困惑していた。 膝の上には、こんこんと眠りつづける少年の顔。 整った、顔の少年はしかしどことなくあどけない微笑を浮かべて、幸せそうで。 ……起こすのも気が、引けます。 呼びかけることも、あきらめ。 仕方なく。少年の額をそっと撫でつづける。 少年が目を覚ましてくれる時を、待ちながら。 そっと。 そっと。 ぬくもりは、消えていかない。 安堵感の中で、少年は何かが頭を撫でる感触を感じていた。 頭をつつむぬくもりとは違い、ひんやりとしたその手が、額を通るたびに薄皮が剥げ落ちるように意識が覚醒のほうへと向かっていく。 心地よい刺激。 そんな中で、少年はゆっくりと目を開いて。 己を見下ろす少女の顔を見て硬直した。 一瞬の沈黙。 「え! ええっ!?」 「お目覚めですか? 七夜様」 「は、はいそれはもうってえっと……君は、誰?」 「私は、翡翠ともうします。 ……遠野の屋敷よりお迎えに上がりました」 「あ、あー、ありがとうございます」 「お気になさらないでください。 これも使用人の務めですから」 「そ、そうですか……」 なんとなく、沈黙が流れる。 微妙な、時間。 が、ふと自分を見下ろす翡翠、と名乗った少女の視線にかすかな色が動いた気がして、目をこらす。 しかし、七夜様と呼ばれた少年、七夜志貴がそれが何を意味するかを見極めるより早く翡翠は一言。 「ところで、お目覚めになられたのでしたら起き上がっていただきたいのですが」 「す、すみませんっ!」 慌ててがばりと起き上がる。 気がつけば、翡翠の膝は自分の頭の下にあって。 いわば、膝枕。 赤面する志貴にけれど、翡翠は気にした様子もなく、一言。 「いえ、お目覚めになられたようで何よりです」 「は、はぁ。 そうですか」 「はい、そうです。 お客様をお迎えに上がったというのに気絶されてそのままお目覚めになられない、ということでは秋葉様に申し訳がたちませんから」 「なるほど。 あ、と、それでその……俺、何か失礼なこととか、しませんでしたか?」 志貴は、居住まいを正して一番気がかりだったことをたずねてみる。 見たところ、自分とそう年が変わらないであろう少女。 ……いや、あんまり女の人の年齢なんてわからないけど。でも、その。 ――綺麗な子、だよな―― 素直にそう、思う。 赤みがかった黒髪は、肩に届くかかないかのところで綺麗に切りそろえられており。 日本人形のような顔立ちの中の翡翠色の目と、綺麗に調和していて。 ……ほんとに、生きてるのかな。 そんな、疑問まで、抱いてしまう。 それほど、に。 綺麗な、少女が、口を開き。 「失礼、ですか? いえ、一時間以上熟睡されていらっしゃいましたがその間、特に困ったこともございませんでしたが」 「ごめんなさい、私が悪うございました」 きっぱりと、頭を下げて志貴は謝りを入れた。 「はぁ……そうですか? 七夜様に特に謝っていただくようなことをされた覚えはないのですが」 「俺にはあるんですよ。 ああ、ほんとうにすみません、実は昨日寝つけなかったんです、その、こんな都会に来るのはじめてでしてついつい興奮してしまって」 「そうですか」 冷汗を浮かべて謝罪する志貴に対しても翡翠の表情は変わらず。 淡々と、事実だけを確認して、続ける。 「では眠気のほうは取れましたか?」 「はい、ええとその。 翡翠さんのおかげです、ありがとうございます」 「では遠野の屋敷にご案内させていただきたいのですが」 「あ、お願いします」 ぺこりと頭を下げて足元に置いていた荷物を持ち上げる。 「……お荷物ならお持ちしますが」 「良いですよ。 たいした量じゃありませんし。 それに先生から言われてるんです、『女性にだけ荷物を持たせるな』って」 そう言って、にこりと笑う志貴に翡翠は不分明な視線を向けて、一言。 「では、参りましょう」 二. 志貴の目の前には、夕日の光を受けて紅く、染まった屋敷が建っていた。 とても、大きな屋敷。 ……都会なのにうちより大きいな。 自分の家と目の前の家とを比べて妙に、感心してしまう。 都会でも、金はあるところにはあるということを現しているようで。 七夜の家のことを考えて、妙に物悲しくなって立ち止まって屋敷を見上げてしまう。 と、ふと妙な違和感を覚える。 ……あれ、この感じは。 紅く、染まった屋敷。 それに、なぜだか夢で見た紅い光景が妙に重なる気がして。 コ、レ、ハ、 「……七夜様」 翡翠の呼びかけに志貴は我に返る。 見ると、彼女は10歩ほど先で立ち止まってこちらを待っている。 変わらぬ表情に、思考に没入しかけていた自分に気付く。 立ち尽くす自分を、待っていてくれた彼女に対してかすかな罪悪感を感じる。 「あ、すみません。 今行きます」 ……気のせい、だよな。 己の中に浮かんだ衝動をとりあえずしまいこんで志貴は、翡翠の元に急いで駆け出した。 屋敷の中は、さらに豪奢だった。 明らかに、自分が普段目にするものよりつくりのよい調度の数々。 それなのに、嫌らしさを感じさせなくて。 ……これが伝統と格式ってやつか。 妙に、感心してしまう。 そんな、屋敷に圧倒されながら先に立って歩く翡翠の後について居間に案内されると。 ――二人の少女がいた―― 一人は、私服の、少女。 長い黒髪は、腰まで届きそうで。 白い髪留めとの色の対比が、妙に印象に残る、美しい少女。 気の強そうな瞳が、値踏みするように自分を見ている。 一人は、割烹着を着た少女。 にこにこと、面白そうなものを見るような好奇心に満ちた瞳の色は、琥珀色。 顔立ちは、自分を案内して来た翡翠と言う名前の少女と良く似ている。 私服の少女が、口を開く。 「ようこそ、遠野の屋敷へ。 七夜――志貴――さん。 遠野家の党首として歓迎いたしますわ。 もっとも、七夜さんご自身としては気が進まなかったかもしれませんけど」 「いえ。 ずっと山奥で暮してましたから。 正直、都会というものが見れると聞いて感謝してますよ」 志貴は笑顔で返す。 その笑顔に、社交辞令でない響きをうけて少女も微笑。 「変わった方ですね。 七夜のご党首の方々は、随分と隔意がおありの様でしたけど」 「色々あるみたいですから。 退魔の七夜が異端の遠野に世話になるのは、耐えられんとかなんとか言ってましたけどね」 でも、と志貴は続ける。 「所詮、異端を狩る退魔とて、人から見れば異端なんですよ。 ましてや、その異端の中でも異端を全否定して人の力のみで異端を狩ろうとする、なんて思想も異端。 俺は自分が異端であることから目をそらして、助けの手まで振り払うような礼儀知らずにはなりたくありませんから」 そう言って、微笑む。 対する少女も、微笑。 「結構。 あなたとは、うまくやっていけそうですわ……早速、依頼の件に入らせていただいてよいかしら?」 言って、真剣な目になる。 たったそれだけで、凛とした空気が周囲に張り詰める。 血筋と、薫陶が産み出した紛れもない貴種。 そんな彼女の向かいに、腰を下ろすとすかさず先ほどから控えていた少女が紅茶を注ぐ。志貴は紅茶を入れてくれた少女に軽く頭を下げて感謝の意を伝えると向き直って改めて会話を続けようとする。 「はい、遠野……えっと」 「秋葉、です。 遠野、秋葉。 それが私の名前ですわ」 「はい、よろしくお願いします遠野秋葉さん。 それで依頼の件ですが、遠野さんご自身の口からもう一度詳しい話を伺いたいのですが」 「そうですね……最近、この町で行方不明者が増えている、という話は聞きましたか?」 「はい、伺いました。 けど、行方不明者自体は普通の町でもたまにあるそうですし、そうそう騒ぎ立てることじゃないんじゃないですか?」 「ええ、私もそう思っていました。 七夜さんにお越しいただいたのも念のためのつもりだったのです。 けど……」 そこで、妙に口篭もる。 瞳を宙にさまよわせて、わずかに間があく。 けれど迷いをすぐに立ちきり、向き直る。 「……昨夜、とあるホテルに宿泊していた人間全員が謎の失踪を遂げました」  「なっ!?」 「従業員も含めその時間帯にホテルにいた人間全員の消息が不明です。 防犯カメラも何故か停電したらしく黒い画面のみ。 ただ……部屋といわず通路といわず壁、天井、床、一面に大量の血痕が飛び散っていたそうです。 警察はもっか犯人を捜索中ですが、それだけの事をしてのける相手です、まず見つからないでしょうし、見つけたとしても恐らくは」 「返り討ち、ですね」 「ええ……どうします? ご依頼した時とは明らかに状況が変わっています。 それも悪い方に。 あなたがこの依頼を断られても責はありません。 無論、半金の方も返せとは言いませんわ。 あなたが七夜とはいえ明らかに分が、悪過ぎますもの」 「そうですね……」 志貴は、秋葉から視線をはずして考えこむ。 敵は、明らかに自分より強い。 少なくとも、自分には一晩のうちに一つのホテルにいる人間全員を殺し尽くすことはできそうにはない。 ……けど。 目の前の少女を含め、この部屋にいる二人の少女を見る。 皆、一様に自分の返答を待っている。 その姿に志貴は一つ、息を吸いこむと秋葉に向き直り一言。 「お引き受けさせていただきます」 そう、告げた。 三. 遠野家、二階。 通されたのは、調度こそあまりないが水準以上に整った、部屋だった。 「ここが、七夜様に使っていただく部屋になります」 ベッドの脇に荷物である旅行鞄一つを、置いて志貴はここまで案内してくれた翡翠の方に向き直った。 「当家に滞在していただく期間中の食事は一階にある食堂で取っていただく事になります。 入浴は部屋に備えつけてある浴室で行えますが夜の23時を過ぎますと火元の安全の為に給湯設備の火をおとしてしまいますのでそれ以降は水しか利用出来なくなります。 それと、セキュリティの関係上夜半にお出掛けになる、あるいはお戻りになる場合にはあらかじめ私か姉にお申し付けください」 志貴の方を一直線に見つめ、説明を続ける少女の服装は、いつのまにか制服めいたものに変わっている。 ……遠野さんと話してるあいだに着替えたのかな? 説明を聞き流しながら少女の姿を見て、違うことを考える。 ……似合うよなー、メイドって奴なのかな?うーん、七夜の家にもこんな子がいてくれたらずいぶんと潤いが増すのになー。 「……七夜様」 「そうそう、こんな声で毎朝起して貰えたらって……あれ?」 いつのまにか、少女は説明を止めていた。 どころか、眉を顰めてこちらをにらんでいる気がする。 翡翠色の目に浮かぶのは、明らかに非難の色。 じっ、と。かすかなジト目。 「あ、えーっと……」 「聞いて、おられなかったのですね?」 翡翠色の目がさらに険しくなる。 追い詰められる状況に志貴は、視線をそらしつつなんとかうろ覚えの内容をひねり出す 「あ、あの、遅くなる時はあらかじめ言ってから出掛けてくださいってことですよね?」 しばしの沈黙。 やがて翡翠は、軽く溜息をつくと 「……まぁ、良いでしょう。 まったく聞いておられなかった訳でもないようですから。 できれば説明はきちんと聞いていただきたいとは思いますが」 「あはは、すみません。 今度からは気をつけますね」 「よろしくお願いします」 翡翠は志貴に向かって丁寧に頭を下げると出て行く。 その背中を見送って志貴は、安堵の吐息。 「さて、と」 部屋の中を見回す。 きちんと戸締りがされているのを確認した上で志貴は、コートのポケットに手を触れる。 布地ごしに手を触れたそこに、固い感触を確かめると一つうなずいて、七夜志貴は戸を開けて出て行った。 翡翠に案内されて少年が退出していくと室内にドアの閉まる音が響く。 しばしの沈黙のあと、秋葉はかすかに吐息。 同時に、それまで片時も笑みを絶やすことなく己の傍らに佇んでいた少女を見上げ、問い掛ける。 「これで良かったの? 琥珀」 「はい、秋葉様。 ばっちりですよ」 「けど、そううまくいくのかしら? あの子の人見知りは琥珀も良く知っているでしょう?」 「あは、そうですね。 でも、それでも、うまくいってもらわないと困るんですよ」 「そう、ね。 そういってもらわなければ困るわね」 深く、吐息をもらして秋葉はソファに沈み込む。 思索に入った主人を邪魔せぬよう、そっと琥珀の気配が退出していく。 残った秋葉は一人、天井を見上げた。 子供のころ見上げた天井は、今も変らぬ高さを見せている。 変わったのは、自分達住人の方か。 今なお変わることなく自分達のことを見下ろしつづける天井を見上げて、秋葉は小さな声でつぶやく。 「でもね琥珀……私は今でも思うのよ。 他に道はなかったのか、と」 瀟洒な雰囲気をもつ住宅街を、志貴は歩いていた。 向かう方角は、下り。 丘の上にある遠野の家から下るということはすなわち、町に向かうということだった。 「うーん。 出てきたはいいけどどうしたもんだろうな」 そう、一人ごちる。 ……少なくともあれだけ目立つ事件を起こしたってことは力はともかく頭はあんまり良くないやつだよな。 『いい、志貴? いかに、巨象であってもパニックを起こした蟻の群に総出で襲われれば狩られてしまうわ。 同じことが、異端と人との関係にもいえるの。 頭の良い異端はそれを知っているから極力己の存在が周囲に知られないよう注意するわ』 かって先生と呼んだ女性に受けた教えが脳裏をよぎる。 己の経験と、今回の件の情報を照らし合わせてみてもこれほどの力を持つ異端はそうはいない。 しかし、それでも相手が冷静な判断力を持っていないなら怖くは、ない。 「となると、やるべきことは情報収集だよな」 うん、と頷く。 判断力を失っているとはいえ、相手の力は強大。 となれば、志貴が勝つためには少しでも自分にとって有利な状況を作り出すことが必要になる。 勝つためには、猟場の情報収集は不可欠だ。 そこまで自分を納得させる説明を導き出すと、志貴は嬉しそうに歩調を速める。 「多少の役得があっても、仕事のためだもんな」 結論付けて歩いていく少年の姿は、明らかにおのぼりさんだった。 そんな訳で、七夜志貴がその女性に出会ってしまったのはまったくの偶然、だった。 白。 それがその女性を目にした時の、志貴の印象だった。 何故なのだろうか。 ただ、雑踏の中に後姿を見ただけだと、いうのに酷く、心が騒いだ。 はやる心を押さえて、じっと観察する。 白のセーターを着た、女性。 首の後ろくらいまでの長さの髪が、金色なのは確かに珍しい。 けれど、そんなことは。 ――ああ、そう、そんなことはどうでも良いのだ。 ずくん、と視界が痛んだ。 ずきずきと頭痛がする。 頭の中を、割れ鐘のような音が響き渡る。 しかしそんなものには構わず志貴は眼鏡を外す。 それでも。 それでも、女性の背中は綺麗な、ままなのだ。 志貴がこの瞳を得てから、八年。 はじめて見た、真の白。 涙を流し続けながら、志貴はその場に立ち尽していた。