早暁

早暁



2001/05/15 kindle


 街は、いきものだと誰かが言った。
 街が息を吸えば人は集まり。息を吐けば人は広がり。
 休息をとろうとすれば街という体を巡り人々も帰宅の途につく。
 高みから見ればそれは確かにいきものの活動だ。
 ならば他の、たいていの生物がそうであるように町にも睡眠というものが必要なのだろう。
 
 街が深い眠りの中にある。そんな、時刻。
 丘の上にある古びた、しかし立派な邸宅の一つ。
 遠野邸の自室のベッドで翡翠は目覚めた。
 布団の中で身じろぎを一つ、壁にかかっている時計をみる。
 自分にこの部屋があてがわれる、ずっと昔から稼動し続けている時計は、己の職務を忠実にはたしている。
 時刻は、3時。
 ……よかった。
 安堵の溜息を、一つつくと翡翠はベッドから身を起した。
 
 翡翠が、己の内で起こりだした変化に気付いたのはいつのことだったろう。
 あの方を起すのは自分の責務。
 そう思いつつも毎朝、彼の部屋に赴き彼が起きるまでの間その傍らに立ち、ただひたすらに見守る。
 そんな時間を楽しみにしている自分がいることに気付いたときは、実に狼狽したものだった。
 
 ……あの方に想いを寄せているのは私だけではないもの。
 翡翠の主人は、妙に女性に人気のある少年だった。
 その彼に、想いを寄せている異性は片手の指では足りないくらいいる。
 現に屋敷の中だけでも彼にとって妹にあたる少女――実際には二人の間に血のつながりはないことを翡翠は知っている――それに自分の双子の姉と、自分自身。
 そこまで考えたところで再び溜息を一つつく。
 だがそこに篭められた色は安堵ではなく、落胆。
 
 私が一番……。
 屋敷にいる3人の中で、自分がもっとも見劣りすると言う事実。
 そのことが、翡翠の心に蔭を落とす。
 彼にとって妹にあたる少女――翡翠とその姉にとっては雇い主にもあたる少女――の纏う凛とした美しさ。姉の暖かい雰囲気を感じさせる落ちついた美貌。
 どちらも、自分は持ちあわせてはいない。
 ……私は、人形。
 壁に据えつけられた姿見に視線を動かす。
 姿見は月光を受けて翡翠自身の姿を映し出す。
 そこにあるのは、美しい人形。
 すべらかな肌。整った顔立ち。
 ひいき目でなくとも、自分が世間一般の基準から見て美しい、と言われるに足る容姿を持っていることは翡翠自身も自覚している。
 ――しかしその美しさのなんと味気ないことか――
 鏡を覗きこむたびに、翡翠は悲しくなる。
 あの少女の生命力の万分の一でも。あるいは姉のもつ暖かな笑顔のごくわずかでもいい。私にそれがあれば……あの方も振り向いてくれるのだろうか。
 鏡の中の自分に問い掛けてみる。
 無論、鏡が答えるはずもない。
 鏡も、鏡の中の自分も、ただ、冴え冴えとした月光とともに静かに自分を見つめてくるだけだ。
 だから、翡翠は目をそらす。
 足をそろえ、ベッドから降りる。
 部屋に漂う冷気に貸すかに身震いしつつ、寝巻きから馴染んだ制服に着替えていく。
 流れるような動作は、一分の狂いもなく。
 姿見で確認するまでもなく己自身の姿にメイドとしておかしいところはかけらもない。
 ……これは、鎧。私の中でふるえるこの想いを、覆い隠してくれる鎧。
 鎧を身にまとった翡翠は音が響かないよう注意深く自室を後にする。
 彼女が想いを寄せる、彼の元へ。

 きっと、いつかあの方は自分以外の誰かと行ってしまうのだろう。
 自分にはその隣に立つことは決してできない。
 それでも。
 それでも、あの方にお仕えすることだけは譲れない。
 祝福された二人の後ろに立ち。
 自分自身には日のあたることはなくともあの方の幸せを見守って行きたい。
 だから、翡翠は自分のできる精一杯の笑顔を浮かべる。
 彼の目覚めが少しでも心地よいものになるように。
 彼の一日が少しでも良いものであるように。
 人形ではない、自分が顔を覗かせていること事も知らず。
 そして……。
「おはようございます、志貴様。」



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