十月も末近く、街には冬の足音が聞こえそうな風が吹いている。

強くは無いが、しっかりと肌寒さを感じる風を上着越しに受けながら、わたしは街を歩いていた。

両手には今日の夕食になる食材をいれた袋を下げている。

秋葉さまは業者に持って来させれば、と言うが、やはり自分の目で選んでこその料理だと思う。安価でいい食材も手に入るし。

おかげで今日もよい牛肉が手に入った。今夜はビーフシチュウだ。寒い夜にはいいだろう。


「ふーゆよこいっ、はーやくこいっ。

 にーわの枯れ葉がざあざあとー、ほーきで集めて山にしてー、焼き芋作れとせかしてるー」


気楽に即興の替え歌を、小さく口ずさみながら帰途を歩く。

街は夕暮れ時ではあるが、活気がある。おそらく大多数はわたしと同じく夕食の買い物なのだろう。

しかし、なにか普段と違う気がする。

街が微妙に浮き足立っているというか、なにか騒がしいのだ。

クリスマスにはまだ早い。お正月はもっと遠い。十月──いや、十一月か。なにかイベントがあっただろうか?

首をかしげながら歩きつづける。

街の喧騒も、わたしには関係ない。考えているのだから必要ない。

だから、あの魚屋さんの秋サバおいしそうだなーとか、八百屋さんまたいい野菜仕入れてるなーとかは余計なのである。


ん……? 野菜?


振り返る。今も八百屋さんはいつもどおり威勢のよい声で野菜を叩き売っている。

その店頭に並んだ、濃い緑も誇らかに、でっぷりと太った大きな野菜。その名もカボチャ。ナンキンとも言う。

カボチャはともかく、それで十分答えは出た。


「ああ、ハロウィンかぁ」


カボチャ祭り、ハロウィンは十月末。もうあと三日だ。

とはいえ、ハロウィンは日本では名前は知られていても行われることは滅多にない。この街もその大多数に含まれるだろう。

とてもおもしろそうなのに、残念だ。

外国ではハロウィンの夜にもなれば、家々にはカボチャの明かりが灯り、愉快なオバケ達がお菓子とイタズラを求めて夜を歩く。

不思議で、どこか懐かしさを感じる、古ぼけた風景。

そんなものをいくつか思い出していたら、わたしは余計なことまで思い出してしまった。

その幻想に、足が止まる。

しばしの間、目を閉じて考える。

考えそのものはずさんで。準備は出来ても成功するかは分からない。

わたしが出来るとすれば、ただ場を用意するだけ。結局のところ、相手次第。

でも、わたしには成功するという確信があった。

なんとなく、なんていう曖昧なものじゃない。間違いないと言い切れる。

だから必要なのは、準備だけだ。

踵を返して、わたしはそのちょっとした“思いつき”の材料を集めにかかった。

















カボチャ祭りとイタズラお菓子

















それは唐突に始まった。



いつもは何事も無く終わっていた夕食後の、ささやかなくつろぎの一時。

遠野志貴は言うまでも無く、秋葉ですらいつもの堅苦しさをやや和らげ、口元にやわらかい笑みを浮かべているような、そんな時間。

そこで、それは起こった。

「志貴さま、秋葉さま。ハロウィンのお祝いをしませんか?」

今まで秋葉の隣で控えていた琥珀が、それはそれは楽しそうにそう言った。

その胸には、いつどこからどうやって取り出したのかは知らないが、綺麗に目口鼻を切り抜かれた見事なまでにジャックオーランタンなカボチャが抱きしめられている。くそうカボチャ、今すぐ代われ、とは志貴の心の叫び。口に出したら命はない。

志貴の命運はともかく、秋葉は琥珀に怪訝そうな視線を向ける。

「ハロウィン──というと万聖節の前夜祭ね。どうしてそれをするのかしら? 家はキリスト教じゃないわよ」

むしろ最近どちらかというと嫌いになった、という雰囲気がにじみ出ている。原因はカレーの人だろう事は想像に難くない。

だが琥珀はひるまなかった。まるで百の武器庫、千の兵隊、万の銃弾を揃えている指揮官のごとく、落ち着いたまま返答する。

「はい、ですのでコレは宗教的なお祝いではなく、ただの口実ではあります」

「だったら──」

不許可だ、と秋葉の口が動く前に、琥珀は秋葉に一言耳打ちした。

その一言で秋葉の顔色が変わる。赤色反応を思わせる変わりぶりだ。

さらに続けてぼそぼそと、なにやら妖しい呪文を唱えるように琥珀の口が言葉を紡ぐ。

呪文とは言ったが、確かにそれは魔法じみていたのだ。あの秋葉が考え込んでいるのである。あの、秋葉嬢が。

こうまで来ると流石に志貴は不安になってきた。

なんとなく聞いていたが、よく考えれば琥珀が主体になって企画した事で被害を受けなかった試しがない。

楽しかった事は否定しない。だが、それ以上に命の危険が豊富に盛り付けられてデコレーションにイルミネートしてるようなモノに、あえて近づきたくはない。平和なだけで十分なのだ。

しかも、今回はハロウィン。ハロウィンといえば仮装。脳裏に浮かぶ黒マント。夜闇に光る注射の針と、蛍光塗料のような怪しい薬品。

絶叫したくなるような取り合わせだ。七色に輝く山脈の方がまだマシレベルのそんな魔境に、足を踏み入れる事はできない。

つまり、自分は止めなければならないのだ。あの割烹着の悪魔を。

ようやく、志貴がその事実に気づいたときには全てが遅く。

秋葉お嬢様は、すっかりパーティーをする気になっていたのであった。





そして、日は進んでパーティの日。

遠野志貴は人生最大のピンチに陥っていた。あの死合も、あの殺劇も、これに比べれば生ぬるい。

「しきーこれきてみてー。きっと似合うよー」

にじりよる白い姫君。その手にもったメイド服が、ひらひらと志貴を誘っている。吸血鬼マントを着た白い姫君は、無邪気に言ってるのだろうがそれが脅威であることは違いなかった。

「遠野くーん、これをつければもう悩むことなんてないですよー?」

反対側に目を向ければ、ド派手なピンクのフリルも鮮やかな、全国の夢見る少女達のヒロイン「魔法少女まじかる☆りりん」の衣装を握り締めたシエルがいる。皺になるほど服をつかんで、荒い呼吸で志貴を睨んでいる。まあ確かに悩むことはなさそうだ。悩む精神すら灰になる。

これで二方。残る退路は一方のみ。

だというのに。そこには最大の障壁が立ちふさがっていた。

「仮装パーティですものね。なにか着ていただかないといけませんわよね」

「仰るとおりです、秋葉様」

「しかし兄さんは、仮装と題するほど奇抜な衣装をお持ちでないから、こちらで用意するのは正論だわ」

「はい、そうに違いありません、秋葉様」

「つまりこれを兄さんに着せても良いというわけね、翡翠」

「そのように思われます、秋葉様」

腕を組んだネコマタ秋葉と、その隣に控える幽霊メイドをイメージした、暗いメイド服の翡翠。

普段どおりのような構図だが、明らかに違うその風景。

まず、秋葉はあんなに愉しそうには笑わない。もっと上品に笑っているはずだ。少なくとも獰猛さは隠れている。

隣の翡翠は普段ならば、どんなときでも冷静さを失わない。なら今の、あの挙動不審にも取れる指の動きはなんなのだろう。まるでこちらの服をどう脱がして、別の服をどう着せようとシュミレートしているみたいな、あの動きは。

だが、まだここまでは我慢できる。その翡翠の隣のアレはなんだ。怪しい服を山ほど積み上げたあのカートは。

移動要塞、なんて単語が頭に浮かぶ。服の貯蔵は十分すぎ。不吉もここに極まっていた。

不吉。不吉といえば。

右を見る。左を見る。上を見る下を見る向こうを見るいないいないいない──!?

元凶ともいえる、あの割烹着の悪魔がいなかった。こんなイベント、絶対逃しそうにないあの人が。

不在が逆に恐怖をあおる。見えないものこそ本当の恐怖だ。

だが、今このタイミングでは、その警戒心が災いした。取り返しのつかないミスだった。

「つかまえたーっ」

琥珀の姿を探しているうちに、アルクェイドががっしりと志貴の右手を取っていた。

慌てて振り返る。肩越しに見た、アルクェイドの顔は無邪気な笑顔でいっぱいだった。

多分彼女は本当に志貴と遊ぶ事が目的なのだろう。ただ、時に無邪気さは害悪になるのである。

「うわああああああああああ!」

寄り来る三つの影。もう抵抗など無意味だと、理解していても納得できない。

己の存在を賭けて、死力を振り絞る志貴の思考からは、もうこの場にいない琥珀のことは綺麗さっぱり消えていた。



その数分後。長く遠い絶叫が遠野家から響いたが、大きい庭に阻まれて外には聞こえなかったという。










◇  ◆  ◇  ◆  ◇










木の葉も枯れ落ちだした森の中。

わたしは奥のとある広場に立っていた。

きっと今ごろ、屋敷のほうではお楽しみの時間だろう。さっき、なにか色々と絶望を煮詰めたような悲鳴が聞こえた事からも間違いない。

志貴さん、ずいぶんイジメられてるなぁ。秋葉様最近たまってたみたいだし。

しかし悪いけれど、これならわたしのことはすっかり忘れられているだろう。それを狙ったのだから、そうなってもらわないと困るのだが。


切り抜いたような夜空を見上げて、月の鮮やかさに嘆息する。

かすかに木々をなぞる風は、淡く晩秋に色づけられているようだった。


そんな思考も、すべてはただの暇つぶし。

わたしはそんな事を考えるためだけにここにくるほど、風流な人間ではない。

わたしは人を待っているのだ。大切な、人を。ここでしか会えない人を。

…………

……


上天では風が強いのか、雲の流れは早く、時折月光を薄いものに変えている。

秋の空は高い。そのためか、光まで地上にたどり着く前に随分弱々しく、儚いものに変わっているようだ。

それとも、この場所が特別だからだろうか。だから、そんな風に見えるのだろうか。

わたしには後者も十分な理由に思えてしまった。


……

…………

しばらくの間、そこにいたが誰の気配もない。いる気配も、来る気配も。

ため息をつく。間違いないと、思っていたのだけれど。予想はやはり予想ということか。

自分の考えの甘さに苦笑しながら、屋敷に向き直る。

屋敷の方ではまだ騒がしい声があがっている。宴もたけなわ、といったところだろう。

しばらくは大丈夫だろうけれど、いつかは誰かが私の不在に気づく。

だからそう長い間ここにいられるわけでもなかった。

時間切れは迫っている。わたしはためらいながら、歩き出して──


「Trick or Treat──だぜ、琥珀」


──その声に、立ち止まった。

懐かしい、声だった。まだ一年とたっていないのに、その声音はひどく懐かしかった。

その声が、しっかりと、わたしを、呼んでいた。


「来て──くださったの、ですか?」


振り返りながら、問い掛ける。

ゆっくりと。ゆっくりと、風景が回る。

視界の端に写る青い着流し。あの方がいつも着ていた、お気に入りの服。

白い肌。冷たく、熱かったあの身体。細い指からしなやかな肩、すらりとした首へのラインは憧れるくらいだった。

色素の抜けた白い髪。赤い眼。兎みたいですね、と言ったら、そんな可愛いものじゃないだろうと笑われた。

意思の強そうな口元は、いつもイタズラでも思いついたかのように笑っている。その笑みだけが──声と同じく、他より少し遠い記憶のものだった。

その全身を見納めて、上から下まですっかり見直して、わたしはこらえきれずに笑ってしまった。

「どうされたんですか、その格好? あちらでまでお怪我なされたんですか?」

「おいおい、今夜はハロウィンだろ? なら仮装するのが礼儀じゃねェか。手間かかったんだぞ、おかげでちょいと遅れちまった」

全身白い包帯でぐるぐる巻きにしたその姿は、きっとミイラ男をイメージしているのだろうけれど、そんなものがハロウィンにでてきていいのだろうか?

──いいのだろう、そんなつまらないことにこだわる必要、ありはしない。

そんなことより、わたしが文句を言いたいのは。

「はぁ、ではわたしはそのお心遣いのおかげで、来るか来ないかとやきもきさせられたのですね。

 ああ、わたしの苦悩の約十五分。それは帰って来ないのですね、よよよ」

「うわひでェ。せっかく頑張ったのに」

不満そうに睨まれた。睨みたいのはこっちである。

その十五分間、本当に──本当に、不安だったのだから。

だけど、わたしはそんなことおくびにも出さない。出してあげない。

「ともあれ、来てくださってありがとうございます。

 いくらハロウィンが降霊日和だからといって、本当に出て来れる日かどうかは微妙でしたし」

そう、わたしがカボチャ祭りなんて言い出したのはコレが目的。

ハロウィンは妖精の現れやすい日であると同時に、降霊に適した日の一つなのだ。

ただ、それが日本で通じるかどうかは分からない。分からないけれど、やってみたのだ。

その結果が、コレである。

「ま、確かに今日でも普通なら無理だろうな。ココだったからオレも出て来れた」

そう言って周りを見回す。その目はどこか、懐かしそうだった。

森の中の広場。思い出の場所。だからこそ、死してなお残ることができる。

でもそれもつまらないこと。目の前に、四季さまがいるということに比べて、条件がどうだなど、なんて低い次元だろう。

あの方がそこにいる。それだけで、十分なはずだ。



それからいろんな話をした。

秋葉さまの話。

翡翠ちゃんの話。

志貴さんの話。

わたしの話。

最近の館の暮らし。

騒がしい日々。積もっていく毎日。

心から笑うことが出来る──日々。

その全てを、四季さまはうれしそうに目を細めて聞いていた。

ひとしきり話して、息をつく。

合間に見上げれば、綺麗な月が夜空に独り、輝いていた。

「ああ、こんな月夜にゃ酒がさぞ美味いだろうに。うっかり忘れたな」

四季さまはそんな事を言いながらごろりと寝転がる。

「お酒、お好きなんですか?」

「嗜む程度にはな」

その返答に、おそらく底なしだろうなぁ、という気がした。あの妹にしてこの兄あり、だ。

寝転んで月を見上げる四季さまを見ているうち、ちょっとしたことを思いつく。

「四季さま、すこし頭を上げていただけますか?」

「ん……?」

疑問符を浮かべながらも、わたしの言う通り頭を持ち上げる四季さま。その下に膝を滑り込ませる。

「うふふ、いかがですか? 寝心地がいいと良いのですけれど」

「あー、最高ー」

月を見上げていたのに、途端に雑木林の方を向いてしまいながらのおざなりな返答。そんなに恥ずかしがらなくてもいいと思うのだけれど、そういうものなのだろう。



しばらくの間、会話が途切れた。

四季さまはもうさっきと同じく上を向いている。ただ、そこにあるのは月ではなくわたしの顔。

わたしは四季さまの顔を正面から見ている。四季さまの目は軽く閉じられ、いつもの幼げな笑みもない。

風が吹いた。

森を渡る風に、木の葉がゆれ、何枚かが降り落ちる。

暗い夜。白い月。蝶の羽粉のように瞬く月光。

森の木々に切り取られたまるい空。

今、見上げればそんな綺麗な景色が見られるのだろう。

でも、わたしは四季さまだけを見つめていた。そうして、いたかった。

「四季、さま」

長い沈黙を破るわたし。

その声は、震えていたように思う。それくらい、なっていてもおかしくなかった。

「どうして、来られたんですか」

我ながら、なんて質問だろうと思う。呼んだのはわたしだ。四季さまはそれに応えてくださっただけだ。

それを、わたしは。自分から してしまうのか。

なのに、自分勝手なわたしを前にして、それでもなお四季さまは優しかった。だからこそ、確信してしまった。

これは──わたしのユメなのだと。

「琥珀、お前は──」

「言わないで下さい。四季さま、お願いです」

首を振って拒絶する。わたしが、最も求めている、最も浅ましい願望を拒否する。

「どうしてだ? お前はそれがほしかったんだろ」

そう、確かにそれはわたしの望み。この幸福を受けるために、ここにいてもいい様に、わたしが手に入れたかった乗車券。

わたしが犯した罪に対する、四季さまの許しという免罪符。

「はい、そのとおりです。わたしは四季さまに許してほしかった」

でもわたしは、この四季さまからそれを受け取ってはならない。それだけはしてはいけない。

なぜなら、この四季さまは──

「でも、あなたはわたしの願望が生み出した幻影だから。

 本物の四季さまは、わたしを怨んでいるんです。だって、わたしがあの方を追い込んだのだから。全部、わたしのせいだったんだから……!」

そう、それが答え。

ハロウィンというお膳立てをして、降霊しやすいなんてもっともらしい理由をつけて。

結局は、わたしは自分の中の理想の四季さまを呼び出したかったのだ。

だからこの四季さまはわたしに優しい。昔の四季さまが、そのまま今まで無事に成長されたらなるだろう姿。

それは、わたしが許してもらいたい四季さまではないのだ。

「そんなわたしを、四季さまが許してくれるはずがないです! ないんです、そんなこと!

 だから、あなたはわたしが願った虚偽ユメのカタチ。

 なんて醜い。なんて浅ましい。あなたを殺しておきながら、あなたに縋れない事が分かっているから、あなたの幻影に許してもらって済まそうなんて。

 どこまでも、どこまでも、わたしは────!」

握り締めた手が、さらに自分を罰しろと命令する。

そのままぎゅうと握り締めて、傷でもつけてやろうか。

そんな事ですむはずないけれど、それでも少しでも──

そう思って込めた力は、手首に触れた四季さまの手の前に霧散した。

四季さまの顔を、もう一度見る。

その赤い眼は、烈火のような鋭さでわたしを射抜いた。燃えるような怒りが、そこにあった。

「ふざけるなよ、琥珀」

冷たい声が耳朶を打つ。瞳の色に反比例するようなその冷たさに、思わず首をすくめていた。

四季さまの声は続く。零下の声音でわたしを打ち付ける。

「オレが夢だって? よりにもよって、お前に言われるとはな。

 志貴に言われてもまぁ仕方ないかとは思ったが、お前までオレを嘘扱いするのか。

 まったく、付き合いの長さもあったもんじゃないな」

「え…………?」

その言葉は、おかしい。

それではまるで、本当に四季さまみたいではないか。

なんで? どうして? それじゃあ本当に──

「しきさま、なんですか……?」

「おぅ、オレ以外の誰がお前を許していいんだ? 他に誰かいるのかい」


にやりという笑み。四季さまらしい、そんな笑み。

だめだ、まだこの人が本当にわたしの嘘じゃないって言い切れない。本物だ、なんて証拠はない。

だって、これだってわたしのねじくれた仕掛けかもしれないじゃないか。本物のように振舞う四季さまは、本物のように怒るのだから。

だというのに。証拠も何も、ありはしないのに。

わたしは、琥珀わたしだからというだけで、この方が本物なのだと分かってしまった。


「どう、して……」

「お前に会いたかったから来た。単純な答えだ」

「そんな。だって、そんなの。わたしですよ? わたしに、そんなのありえない……」

混乱した頭は、何一つちゃんとした言葉を浮かべてくれない。

わたしはうわごとのように、意味のない言葉を繰り返す。

そんなわたしに、呆れたように四季さまはため息をついた。

「おまえなぁ、志貴に“笑うようになった”って聞かされて、やっとこっちは安心できたのに、なーんも変わってねェじゃん。

 そうやって、ずっと苦しんでいくつもりか? そんなに自分を虐めて楽しいか? そんなの痛いだけだろうに」

不憫なやつだな、と四季さまは手を伸ばしてわたしの頬をぬぐう。いつのまにか、わたしは泣いていたらしい。

いつのまに、泣いてしまったのだろう。この方を前にして、泣いてしまうなんて。

この方を殺したわたしが、泣いてしまうなんて。

「四季さまは、それでいいと思うんですか? わたしはあなたを殺したのですよ?

 そんな人間が──許されていいわけないじゃないですか」

そう、最初から気づくべきだった。

幾ら許しを求めても、許されるはずなんてなかった。

例え四季さまが許してくれても、罪は消えるわけがない。苦しみはなくならない。

わたしが、わたし自身を許せないのだから。

「わたしは楽しい日々を生きながらでも、ずっとずっと許しを請いて苦しみつづけるべきなんです」

泣きながら、言葉を続ける。

四季さまは苦りきった顔でわたしを見上げたまま。重々しく、疲れたようにため息をついた。

呆れられただろうか。救いを求めながら自身で拒絶する、わたしの矛盾の馬鹿馬鹿しさに。

きっと、そうだろう。誰だってそのはずだ。

「琥珀」

身体を起こして、こちらに向き直る四季さま。俯いたままのわたし。

「琥珀」

もう一度、同じ声。わたしはゆっくりと顔を上げ、


目前にいた四季さまに、唇を奪われていた。


「…………!」

慌てて離れようとして、肩をしっかりと抱かれる。

もう、逃げられない。

全身の力が抜ける。ただ、唇を合わせるだけの口付けなのに。

拒否権を放棄する身体。抵抗する意思のないココロ。

わたしはされるがままに、その感触を味わった。


しばらくして、四季さまの身体が離れた。

わたしの眼を見つめたまま、四季さまは言う。

「その感触を覚えていろ。

 お前が自分を許せないというのなら構わない。ずっと苦しむのもお前の勝手だ。オレが止められるもんじゃねェ。

 だがな、琥珀──」

微笑んだ、四季さまは、

「その感触を覚えている限り、オレはお前を許し続ける。

 苦しんでいるときも、嘆いているときも、オレはお前をその都度許してやる。お前の傷を癒してやる。

 だから、ずっと覚えていろ」

そう言って、さっきまでと同じように、わたしの膝の上に頭を置いて、いたずらっ子のようなあの笑みで、こんなことをのたまってくれた。

「あぁ、やっぱいいなぁコレ。もうちょいやってもらっておけばよかった」

「…………」

わたしは、もう何も言うことができない。言葉が見つからない。

四季さま、わたしを許した、許し続ける四季さま。

このお方に、わたしは何が出来るだろう。何をしてあげられるのだろう。

それを伝えると、四季さまは少し笑って、こう言った。

「もう一度、キスさせてくれ」

「……はい」

拒否なんてもってのほか。目を瞑るわたし。四季さまの重さが、体温が、膝から離れる感覚。

そしてわたしの唇に、四季さまのが────


「Trick or Treat──なんてな。それじゃ次まで元気にしてろよ、琥珀」


────触れることなく、言葉だけを耳元に残して、あの方の気配は霧散した。

「え……?」

驚いて目を開けると、そこにはわたし独りだけが座っている。

あの方はもうどこにもいない。

何事だ、これは。

震えながらさっきの言葉を思い出す。

“Trick or Treat”イタズラかお菓子か、だって?

頭が灼熱する。なんだ、それ。

そういえば四季さまはそう言って出てきた。驚きはなかったけれど、とてもじゃないけどお菓子をあげるなんて事は思いつかなかった。

だから、か……? お菓子をもらえなかったからの、イタズラ?

そんな子供っぽいことのために、わたしに、キスを……?

ぷるぷると握り締めたこぶしが震える。紛れもない怒りのためだ。

わたしはいま、とても怒っている。とてつもなく怒っている。

イタズラにも程がある。よ、よりにもよって、キ、キスを要求しながらどこかにいってしまうなんて……!

「四季さまのばかぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」

大きく息を吸って、わたしは声を張り上げた。

残響する絶叫に、肩で息をするわたし。

そこにひゅうと風が吹く。それがまるで、あの方の子供じみた笑い声のように聞こえて──思わず、笑ってしまっていた。

笑いながら、せめて四季さまの体温が消えるまで、とそこにいた。未練がましいけれど、それくらいはいいじゃない。

やがてそれもなくなって、やっと立ち上がったとき、ふわりと何かが地面に落ちる。

拾ってみれば、それは短く切られた白い包帯だった。

包帯まみれの四季さまの姿を思い出す。これはきっとあの一片なのだろう。

お土産のつもりで置いていったのだろうか──まったく、何から何まで心配させてしまった。情けないなぁ、わたし。


背中は押してもらった。あとは歩くだけだ。重い道のりだけど、もう大丈夫。


わたしは、生きていける。


「ありがとうございます、四季さま。それではまたお会いしましょう」

そのときは、今日よりたくさん楽しい話をしよう。今日悩んでしまった分を楽しもう。

だからそれまでに、楽しい思い出を作っておこう。話しても話しきれないほど、たくさん。

そして今度は、わたしがあの方にイタズラしてやるのだ。

こんな悪質なイタズラを仕掛けられたのだ。タダで済ましてなるものかっ。

「だから、来年は覚悟しておいてくださいね」

その一言を風に残し、静かの森に背を向けて。

四季さまがくれた、“白いリボン”を片手に持って、わたしは今なお騒がしい屋敷に向けて歩き出した。










◇  ◆  ◇  ◆  ◇










志貴が目を覚ましたとき目に映ったのは、やたら高い天井だった。

天井の大きなシャンデリアは、いまも煌々と人工の光を振りまいている。そのまぶしさに瞬き二つ。

時間が経つごとに、だんだん意識がはっきりしてくる。それに引きずられて、さっきの“惨劇”まで思い出した。

人間の──いや、男としての尊厳を、完膚なきまでに搾り取られ、打ち捨てられたあの狂乱劇。

何度着せ替えられたか分からない。幾度服をひん剥かれたか、彼は知らない。覚えていない。

正直、泣いてしまいそうだった。というか、志貴は今泣いていない自信がない。

あまりの仕打ちに気絶したのはいつだったろう。それがこの数時間のうちで、もっとも幸運な出来事だったと断言できた。

現在、あの四人は志貴の周りにはいない。代わりに向こうの方から秋葉の悲鳴が響いていた。

アルクェイドにでもつかまったのだろう。アルクェイドはあれでかわいいものが好きなのだ。この前、街でフリルの人形なんかをねだられたし。

それならば、秋葉が着飾った姿など見たら一発でノックアウト間違いなし。お持ち帰り確定。止める者には光速猫パンチが飛んでくる。

しかし、これはチャンスだ。今ならきっと全員の目が秋葉のほうに行っている。今のうちに脱出するのだ。

逃げる先はどこでもいい。とにかく、この屋敷から逃げなければ。バイオハザードなんて目じゃない恐怖。

様子をうかがいながら、ゆっくりと体を起こす。大丈夫、誰もこちらに気づいていない。

隣の部屋から、アルクェイドがかわいいかわいいと連発する声が聞こえてくる。シエル先輩の感嘆や、翡翠の素直な賞賛も。


……秋葉、いまどんな格好してるんだろう。


気になってしまった。逃げるべきなのに、遠野志貴はそれに興味を持ってしまった。

逃げろ、今すぐ逃げろ、ともう一人の志貴は訴える。服の裾を引っ張り、必死になって逃げようとしている。

だというのに、遠野志貴は踏みとどまってしまった。

彼の頭に浮かんでいるのはかわいい妹の姿である。あのアルクェイドが壊れている。そこまでの威力を誇る秋葉は一体どんな姿なのか。

今見ないと二度と見れない。こんな機会、二回もない。見なければ。見つからなければいいのだ、ゆっくりと覗けば……

そうして志貴は、ゆっくりと一歩、前に踏み出した。二歩。三歩。

もう隣室への扉はすぐそこである。もう、二歩──

そのとき、


「あはーっ」


なんて、アクマじみた笑い声が聞こえてきた。

志貴の動きが止まる。マリオネットの糸が、急にその身体に襲い掛かって自由を奪ったかのように。

その糸は首にまでは及んでいない。だが、むしろ首だけは自由にしたのではないかと思う。

自分は失敗した。迷わず逃げるべきだったのだ。

激しく悔やむがもう遅い。遅すぎる。

絶望を胸いっぱいに抱きながら、ゆっくりと首を動かし、振り向いた。

そこに、ソイツがいた。

口の裂けたような笑み。果てしなく楽しそうなのに、怒り狂っていると分かる笑っていない目。

だらりとたらした手は鉤爪のようであり、尻尾が生えてないことがむしろ不自然にすら思えた。

不思議なまでに素敵なオーラを背後に従え、“しっこくのまじょ”が立っていた。

しかし分からない。遠野志貴にはわからない。何故ここまで彼女は怒っているのか。

その琥珀が、一歩踏み出す。志貴は動けない。

一歩一歩、いたぶるように殊更にゆっくりと歩みを進め、琥珀はついに志貴の隣にまでやってきた。

「こ、はく、さん……」

カラカラに渇いた喉が、やっとのことで彼女の名前を呼んだ。ネロと対峙したときですら、こんな焦燥感は経験してない。

そんな志貴を目にして、彼女は世にも楽しそうに言ったのだった。

「志貴さん、ちょっと憂さ晴らしさせていただきますね?

 いえ、志貴さんは何一つ悪くないんですよ? 強いてあげるなら、ちょっとそのお名前が気に入らないんです、はい。

 まあ──運が悪かったとでも思ってください」

無茶苦茶な理由を彼女は口にしていた。だが、反論は志貴には出来ない。したらヤバイと分かりきってる。

うふふふふ、と子供が見たら泣かすどころか、夜うなされる事確定の笑みを浮かべる琥珀。

その口に、手が添えられる。メガホンの代わりのように、そっと、優雅に。

「みなさっん〜、志貴さんがお目覚めになりましたよぉ〜」

「あああああああああああああああ」

今まで身体が動かなかったのが不思議なくらい簡単に、重力に従って落下する。声まで底のない穴に落ちこんでいるような気がする。

逆にだんだん大きくなる、どたどたというあわただしい足音。地の底から這い上がってくる鬼の足音だろうか、なんて夢想した。大して間違ってなさそうなところが悲しい。

絶望に、再び目の前が暗くなる。

次に目が覚めているとき、穏やかな朝がきていることを、志貴は切に願った。たぶん、叶わないだろうけど。





その後日。

志貴はそのときの惨状を、偶然帰ってきた四季に語った。語ったと言っていいのかどうかは微妙だが。

なにしろ志貴は、四季がいつものように持ってきていた一升瓶をほとんど一人でかっくらい、泣くわ喚くわの大騒動。

近所迷惑極まりないので、なんとか志貴を落ち着かせ、事情を聞いた四季はみるみる血の気が引いていった。もともと白い肌が余計に白くなる。漂白剤でもこうはいくまい。

四季は思慮のある人間である。人間だとか幽霊だとか、細かいことはとにかく、彼はどちらかというとよく気が付くほうなのだ。

そんな彼は、話を聞いて琥珀狂乱の原因をしっかり理解していた。してしまった、といったほうがいいかもしれない。理解したくはなかったし。

仕返しはされると思っていた。それは覚悟していた。

だが、これは予想していた規模なんか遥に上回っている。

やばいやばいやばい。オレそんなに悪い事したのか? オレだって必死だったんだぞ?

後悔してももう遅い。とりあえず今は、どうやって琥珀の手から逃れるかだ。

その時を起点にして、四季の頭脳が高速回転を始める。

現在位置を確認、周辺の地形図を構築、逃走ルートの設計、迎撃策の模索、相手の行動の予測、こちらの打つべき手を考察。

やるべきことを出来うる限りの速度で処理していく。その策のうちには、志貴をおとりにして逃げるなんてものもあった。四季、必死。

そして出た結論に、彼は虚ろに笑う。

もう、間に合わない。

彼の視線の先は、森を形作る木々のうちの一本がある。その陰に世にも愉しそうに嗤う“しっこくのまじょ”がいた。

その手には、どこから手に入れたのか、明らかに対霊捕縛用と思われる縄が。

もう、そんなの笑うしかないではないか。

というわけで、四季は諦めることにした。

あんな笑い方でも、楽しそうに笑っているなら、まあいいか。なんて思ったが、それはたぶん逃避。

かくして、復讐は遂げられる。

その後、彼らがどうなったか────それはまた、別の話。









あとがき。



久しぶりの短編となります。ハロウィーン数日前に、軽はずみな発言をしてしまったのが運の尽きでした。

シリアスなんだかコメディなんだかよく分からない出来になりました。とにかく確かなのは、これは琥珀のためのお話であることです。

わたしの琥珀像は、作中のとおり。一言で言えば自虐的になるでしょうが、それじゃ不正解。なので一言では語れないと言うことですね。

それでも何とかまとめれば、いろいろと後悔と自責を背負いながら、生きているそんな人だろうなぁ、と勝手に思ってます。

そんな彼女の最大の罪悪感、それをベースにハロウィン降霊を味付けして書いてみたのですが、いかがだったでしょうか?

ちなみに「あんなセリフで琥珀さん説得できるのか?」と思われた方。半分正解で半分間違いです。

誰だって一度きりのチャンスで、最高の結果を示すなんてそうそうできません。四季はあの時、あの短い時間で、思いつく最高の解をなんとか提示したに過ぎません。

琥珀さんだって完全に納得したわけではないでしょう。でも、どこかで彼女が自分を許すきっかけになるのなら、あの言葉はきっと正解。

人間やりたいことがすぐできるわけじゃないですよね。でもそれに近づけるよう、なんとかしようとあがくこと。それはきっと大事なことです。

そんな曖昧な雰囲気が、ちょっとでも伝わると幸いです。

それでは、また次の夜にお会いしましょう。

This novel was written by 桜香雪那

GoodNight, and See you again──