「……翡翠、兄さんは出かけるのよね?」
「はい、秋葉さま。その予定となっております」
日曜の朝の長閑な遠野家の居間で、一人穏やかに見える黒髪の美少女の言葉
に、後ろに控えているメイド服の少女が答える。ソファに腰を下ろして優雅そ
うにお茶を飲む素振りを見せている秋葉と、その後ろで秋葉の言葉を待つ翡翠
の姿であった。
秋葉の顔は穏やかな様に見えて、内心穏やかでないのは翡翠にはよく分かっ
た。大体、琥珀姉さんが帰ってくるときの秋葉様は不機嫌だ、という事を彼女
は知っている。
それもその筈、秋葉の愛する――その言葉の意義は様々であるが、取りあえ
ずは愛する――志貴は、姉である琥珀と付き合っている。いや、付き合ってい
るという言葉よりも、愛し合っているという言葉の方がしっくりくる。
秋葉と志貴の間の「愛」と、琥珀と志貴の間の「愛」は大分様相が変わるが、
どちらが正しい愛で、どちらが間違った愛だとは言えない。そう、翡翠は思う。
特に、自分を幸せにしようとして言い様のない苦しみを味わい不幸になった
琥珀が、晴れて主人である志貴と結ばれたのは、この上もなく嬉しいことだ――
その結果秋葉が何とも言いようが無く屈折した物を抱えてしまったような気が
しないでもないが。
「で、兄さんと琥珀は?」
そう問われて、翡翠はどう応えたものか一瞬悩む。今朝の志貴と琥珀の事を
それぞれ分けて話す――そういう逃げ道もあったが、どう言っても事実の所は
秋葉に見透かされるだろう。ならばいっそそのまま事を告げるべきか――そん
なことを考える、僅かな時間の反応の遅れを秋葉は鋭く突く。
「……そう、きっと純情な翡翠には言えないことをしているのね、あの二人は」
その言葉を聞いて、翡翠は真っ赤になって俯いた。
秋葉がふん、と鼻を鳴らしてカップを傾ける光景を、翡翠は見ていなかった。
かぁぁ、と熱くなる頬を感じながら視線を、足下の絨毯のペイズリーの模様の
上を走らせて何とか気を静めようとするが、そうすればするほど、今朝見てし
まった光景が頭の中をぐるぐる走り回り、今の自分が何をしているのかが分か
らなくなるほどの恥ずかしさに沈んでしまう。
そう、秋葉の言っていることは図星なのだ。
翡翠が今朝見たものは、志貴の寝室で同衾している志貴と琥珀の姿だったの
だ。それも、二人とも、裸で。
柔らかな週末
阿羅本
翡翠の朝は早い。今の季節には自然と目が覚める時間には、朝陽が東の空に
昇り始めるのだが、冬至に近い真冬などはまだ暁暗の中で目覚めることもある。
そして身支度を整えまるで自分の肌の一部のようなメイド服を身につけると、
早速朝の日課に取りかかる。
秋葉の朝の支度の手伝いや朝食の準備などの日課があるが、日曜の朝は学校
のない秋葉も朝は遅く、絶対に決まった時間まで起きない志貴の性質も相まっ
て大分時間にゆとりがある。
朝の僅かな時間が、翡翠にとっての修行の時間であった――そう、姉である
琥珀が長野の田舎に離れて住んでからというもの、翡翠の不得意分野である料
理も彼女が行わなくてはいけなくなったのだから。
料理人を雇う?という秋葉の提案を固辞しただけあって、翡翠の料理の腕は
週末の琥珀の指導の甲斐もあり、長足の進歩を遂げている。元々、きわめて好
意的な評価の琥珀をして「玄妙な味」と言わしめた翡翠の料理は、昨今では上
手くもないが下手ではない、という領域に達していた――でも、翡翠は思う。
まだまだ先は長い。
そんなことを考えながらも翡翠はひとしきり広い厨房で調理道具やテキスト、
メモなどと格闘し、なんとか朝食を仕立て上げ、秋葉の部屋に向かう。
比較的寝覚めの良い秋葉の朝の支度を手伝い、そして朝食の準備や食堂の用
意を手際よく行い、残されたのは志貴の目覚めである――その時、冷静沈着な
翡翠にしては一つ忘れた事があった。
それは、琥珀が今日は帰ってきている、ということであった。
東館二階のドアを軽くノックし、扉をくぐり志貴の部屋の中を一目した翡翠
は、その光景を目にして――その光景は想像できなくはなかったし、想像でき
ても然るべきであったにも関わらず、いざ目にすると一体自分はどうして良い
ものか、まったく分からない光景を前に思わず声も出せず硬直してしまった。
椅子の上には丁寧に畳まれた、志貴の寝間着と琥珀の和服。
ベッドの上には、仰向けになって彫像の如き眠りの中にいる志貴と、その胸
元に幸福そうに頬を寄せて安らかな眠りに付く琥珀。掛け布団からはみ出た二
人の肩や首筋には一糸も纏わず、状況証拠からも、その中の二人が裸であるこ
とは明白だった。
いや、明白だったからこそ翡翠は困じ果ててしまっているのだ。
翡翠は、志貴と琥珀が『共感者』による契約関係であると言うことは知って
いた。そして、共感者というものは異性同士の体液のやりとりで関係が成立す
るもので有るとも知っていた。それに、秋葉や琥珀に説明されて、魂の分量が
他の人間より少ない志貴は、共感者の能力による力の補充が必要であるとも知っ
ていた。
その結果、何が二人の間にあるかは自明である。
よってめでたしめでたし――とは翡翠は己の中で決めてそれ以上は考えない
ようにして、二人の間のディティールに関しては目をつぶっていた。
なにしろ、自分の姉と自分の主人の間の情交などというものは、考えるだけ
でも不義であり不敬であり不孝である――そう決めている翡翠の目の前に、こ
うやってそのディティールが見せつけられたのである。
そのまま進むわけにも行かず、かといって引くわけにも行かないこの状況の
中で、翡翠の目は自分の姉の顔を見つめていた。志貴の胸板に頬を寄せ、安心
しきった安らかな笑顔――人として生きて、これほどに安らかで満たされた笑
顔は無いとも言える、愛する人に抱かれた恋人の笑顔。姉さんが志貴さんに会
うまで、決して見せなかった本当の笑顔。
思わず翡翠はそんな琥珀の顔に見とれてしまう。いつか、自分もこんな安ら
かな顔が出来るのか、と。
そんな琥珀の瞼がゆっくりと動くと、二三度瞬きをして開かれる。まずは志
貴の身体を見て、部屋に差す朝の日差しの柔らかな光を捕らえ、そして、ドア
を開けた姿勢のまま時間が止まったかのように硬直する妹の姿を見て――おも
むろに、今の状況を判断しようとしているかの様であった。
そして、今の状況をおぼろげながらに掴むと、寝ぼけ眼で頭を上げる。。
「……あ、翡翠ちゃん、おはよう」
「お、おはようございます、姉さん……その、姉さん、ご、ごめんなさい……」
翡翠の言葉の真意が掴めない琥珀は、惜しむように志貴の身体から起きあが
り、布団がするりと琥珀の背中を滑って落ち、白くしなやかな琥珀の身体が朝
の光に照らされ――今度は赤面していく翡翠の顔を認めた琥珀には、すべてが
分かった。
「あら、いけない、昨日私ったらそのまま……翡翠ちゃん?」
「あ、の、その、私……お邪魔なようだから……」
消え入るように呟くと、翡翠は音もなくドアを締め、志貴の部屋の前から走
るように逃げ出していった。翡翠にはそうやって逃げ出すような謂われは何も
ないにもかかわらず、翡翠にはそうせずにはいられないものがあった――それ
を人は純情と無垢と言うかも知れないが、今の翡翠には分かろう筈がない。
その後、志貴の朝の目覚めを促したのは、完全に身支度を整えた琥珀であり、
いつものように一人先に朝食を取ることになった秋葉の側に仕えていたのが翡
翠であった。秋葉の目には、どうにも落ち着きがない様子の翡翠から何が朝に
起こったのかを察するの如何にも容易いことであった。
そんな翡翠を見ながら、秋葉はどうやって朝から志貴を苛めてやろうか、と
考えを巡らせるのであった。このように秋葉の中の志貴に対してのコンプレッ
クスなものは彼女の中に根付いて拭い難く、なおかつそれを――秋葉は楽しん
でいた。
☆ ☆
「ま、いいですわ、兄さんも琥珀もしなきゃいけないことがありますものね。
私が大活躍して兄さんの足りない分を足そうとしたら、兄さんが泣いて止して
くれ、って頼み込むほどに大変なことになるんだからー」
妙な節回しを付けて唄いたくなるような口調で秋葉が言ってのける頃には、
なんとか翡翠は立ち直っていた。拗ねと陽性とは言えない楽しみを混ぜたよう
な態度が、志貴に対しての秋葉の日常である。翡翠の目から見てもそれは素直
な情動だとは見えなかったが、秋葉の身の上に起こった様々な物事からする
と、それは仕方ないと思う。
それに、翡翠はだんだんそんな秋葉に調子を合わせる事を覚えつつあった。
今日は朝に思いも寄らぬ光景を目撃したもので乗りが悪いが、秋葉の拗ねに
逆らわずに巧みに返して行くことで、そんな態度がだんだん諦め含みの穏やか
な態度になってくる事を翡翠は体得しつつある。その結果、秋葉に直面した志
貴がそのとばっちりを喰う形になるのだが――
そんな翡翠の学習を、志貴は「翡翠も世慣れした」と悲しむ素振りを見せて
いたが、何とはなしにその事すらも翡翠には楽しく思えるのが不思議であった。
「秋葉様、そう物騒なことを仰らずに。志貴様に聞こえたらまた脅えられます」
「ふん、いいのよ兄さんは、いつもそれくらい言っておかない私のことに気を
配ってくれないんだから……あーあ、いつも苦労させられている翡翠もなにか
兄さんに何か言ったらいいのに」
そう秋葉に言われても、翡翠は表情一つ変えずに答える。
「そのことに関しましては、喩え何がありましても申さないのが私の勤めです」
「ふーん……ま、兄さんも翡翠にまで素っ気なくされたら立つ瀬がないものね。
それに兄さんも、あんなに脅え方や焦り方をされるから悪いのよ、遠野として
の鍛えが足りません、まったく」
秋葉の結論は第三者にはまったく要領を得ないが、彼女とその側にいる翡翠
には理解できる論理であった。なにしろ、焦る志貴の姿ときたら――嗜虐心を
そそるものがあるのだから。
その時、居間の扉が開かれ、和装の琥珀に伴われた志貴の姿が見えた。既に
居間に陣取っている秋葉の姿を見て、顔色に明るくない予兆を感じている志貴
に比べ、腕を取るように間近にいる琥珀の表情には一点の曇りもない朗らかな
笑顔であった。
「……あー、おはよう、秋葉、翡翠」
その声を聞いて、秋葉がぴくり、と眉を動かす。そして、カップをテーブル
に戻すと無駄のない動作で立ち上がり、志貴に向かって軽く会釈する。その後
ろで、深々と一礼する翡翠。
「おはようございます、兄さん。今日もずいぶんゆっくりですのね。
せっかく今日は琥珀が居るのだから、兄さんも早起きすればよろしいのに」
先制の一撃を見舞い、秋葉は艶やかに笑う。どうにも毒があるような気がし
てならない笑いに志貴は思えるが、気に病むことはない。これがいつもの秋葉
であった――おまけにこの口調から今朝は琥珀と朝は一緒だった事が、どうも
秋葉にはばれていると見えた。琥珀が居たから早起きでなかったと知り、こん
な事を言うのである。
志貴はこの件の情報源とおぼしき翡翠に目をやったが、そこにいるのは涼し
い目をしたいつもの翡翠であった。こんな目をしている翡翠からは、よほど追
いつめられないと助けは得られそうにない、と志貴は思う。多分、今朝の光景
を翡翠に見られた――共にいた琥珀の朝の様子からそのことを気づいた志貴は、
余計にその思いを深くする。
朝から秋葉を如何にやり過ごすか思い悩む志貴の傍らで、琥珀がゆっくり進
み出る。
「おはようございます、秋葉様。今朝は志貴様をお連れするのが遅れましたが……
申し訳有りません、翡翠ちゃんのお仕事を邪魔しちゃったみたいで」
そう琥珀が頭を下げながら秋葉に柔らかく弁明する琥珀の声に、志貴は胸を
撫で下ろす。いつもなら秋葉にいい様になぶられる志貴ではあったが、今朝は
琥珀の助けで切り抜けられるかも、と言う安堵がじわりと胸に広がる。
その志貴の様子を見逃す秋葉ではなかった。む、と不機嫌そうに唸ると早速
第二撃を見舞わんと構える。
「ま、秋葉……朝からそんなに機嫌を損ねないで……」
「機嫌なんか損ねてません!もう、兄さんったらいつもこんな調子で……それ
に、今日は出掛けられるんでしょう?せっかくの休日は短いんですもの、今日
一日目一杯楽しまれるというのにこんなに遅起きでどうするんです?」
言外に「今日は琥珀とお楽しみなのに」と匂わせて軽く詰問する口振りを取
ると、志貴はう、と唸ったまま言葉を失う。
一体いつの間に、今日は琥珀さんと二人でデートだということが秋葉にバレ
たんだ――そう志貴は思うが、志貴以外の人間にはそのようなことは容易にお
見通しであることを彼自身が気が付いていない。
恋は盲目、とは良く言った物である。今の志貴がまさにそんな状態であった。
翡翠は口をつぐんで秋葉と志貴のやり取りを眺めている。
翡翠には秋葉が二三憎まれ口を叩いてから大人しくなると踏んでおり、今日
は自分の出番はない、と思って黙って控えていることにした。
志貴をいたぶっている秋葉もその実、無邪気なものであり、兄である志貴が
言い訳になっているようで全くなっていない事を言いだして逃げ出す、と予測
していた。そうなれば、溜飲は下がるが心の中で、ほんの少しの寂しさも覚え
るであろうとも――それはいつものことだ。
ただ、この場の不安定要因は琥珀であった。
にこにこ屈託無く笑う琥珀は、秋葉と志貴の様子を見る、袖を抱えるように
して僅かに笑うと、すっと手を伸ばして志貴の耳に口を寄せ、小声で何事かを
志貴に教える。
その様子に、秋葉は自分がのけ者にされたかのように感じて、むー、と眉根
に皺を寄せる。翡翠は至って冷静だが、まるで童女のような姉の仕草に微笑ま
しいものを感じていた。
「え?琥珀さん?いいの?」
耳から口元が離れた際に志貴が口にしたのはそんな科白であった。一体何を
言ったのか――秋葉と翡翠は二人の言葉を注目する。
「ええ、その方が宜しいでしょう?私はその方が楽しいですし、志貴様がよろ
しければ……」
そう答える琥珀を前に、志貴は納得した様子で軽く頷いた。そして秋葉に向
き直って、今日は俺の勝ちだ、と言いたそうな不敵な笑顔で、こう告げる。
「そう、今日は出掛けようと思ってたんだ。秋葉、もちろんお前も一緒だ」
〈柔らかな週末 その2 へ〉
|