大人の階段を
阿羅本 景
柔らかい明かりの下に座る彼女は、物憂げで――美しかった。
長く繊細の指に握られたカットグラスのタンブラーには、琥珀色の酒精が満
たされている。手首が小さく動くと、カラリ、と氷がグラスと当たって高く澄
んだ音を上げる。
その彼女の黒髪は長く、滑らかでまるで星のない夜の闇を映した河のようだ
った。憂いを秘めた顔ははっとするほどに美しい。それは――帰らぬ恋人を一
人泣きながら待つ美女のようで……
「あら?戻りましたの?兄さん」
だが、俺に酔眼が座り、声に低くくぐもった感情を宿らせているとそんな儚
げな印象は影を薄める。ああ、戻って来ちゃったんだなぁ、とどうしようもな
い感慨が俺の中に渦巻く。まぁ、あのまま消える訳にはいかないのだから。
俺はゆっくりと秋葉の向かい側に座る。俺の一挙手一投足を秋葉はじーっと
座った目で観察している……ああ、もうなんか、面接教官に見つめられている
様で居心地が……
俺はえへんえへんと咳をする。この今の空気の中にはテーブルの上の酒肴の
薫りと、酒精の蒸れた匂い、それに古い丁度の埃に似た匂いと人の汗のわずか
な香り、それにいくつかの香水が混じり合う空気が立ちこめている。
これに煙草の香りが混じるとバーの様な香りになるんだろうけど、幸い喫煙
者は居ないからなぁ、遠野家には。
「いや……まぁ、おまえの誕生日なんだから一人で居させる訳にもいかないだ
ろう?」
そういうことだった。今日は秋葉の誕生日で、本来なら遠野家が盛大な誕生
パーティーを開き、この町の著名人や有力者が訪れ、晩餐会と舞踏会と園遊会
が行われ白いドレスの秋葉が訪れる客に次々にその美しさを褒め称えられ――
てもおかしくない。
だが、そう言うのが嫌いな秋葉である以上、誕生日はごく身内でひっそりと
行われることになった。その代わりに一族から送られたプレゼントが別室には
山を為している訳であるのだが。
……うらやましーなー、と思わないことはない。でも、貰う秋葉が今ひとつ
喜んでないのだから難しいものだ。
「……あら、兄さんは私みたいな酔っぱらいと一緒に過ごすよりも、翡翠や琥
珀と一緒の方が楽しいのに」
「あはは……冗談。琥珀さんもなんか頼りなかったんだし」
俺はあまりお酒に口を付けない――身体の容量が少ないんだから仕方ない。
でも無礼講発言で翡翠が飲み始め、蟒蛇のお酌をする琥珀も飲み始めて陽気に
はしゃぎ始め、結局できあがった酔っぱらいが3人できあがった……で、不安
な二人ととりあえず寝室まで送り届けてきたわけだ。
大丈夫ですよーいやー志貴さん本当に大丈夫ですってばー酔っぱらってませ
んよー、とエンドレスに繰り返す琥珀さんが酔っぱらってないはずはない。有
彦も酔うとエンドレスになっていたし……
秋葉はじーっと顎を引いて、拗ねるように俺の方を見つめる。
そしてグラスに口を付けると――ふぅ、とため息を吐く。そしてグラスを置
くと、もう一つ別のグラスを手に取る。俺が止める暇もなく手酌でウィスキー
を二つのグラスに注ぎ、割ることもなくロックだけで掴んで立ち上がると……
「うわ、大丈夫か秋葉!」
一瞬膝が砕けて、身体が傾きそうになる。
グラスの中の氷がからんと音を立てるが、俺が立ち上がるより前に秋葉はバ
ランスを取り戻した。そして中腰になった俺をじーっと鋭い瞳で見つめてくる
……ちゅ、中腰のままで俺にどうしろと。
「………兄さん、こちらを」
秋葉はすたすたとやってきて、ぐっと俺にグラスを突き出してくる。
えーっと、これは……飲めと言うことなんだろうなぁ。まぁ、秋葉と翡翠が
飲んで居ている中で机の上の生ハムとカマンベールチーズとクラッカーを処分
する係になっているのがばれたか……
俺が秋葉の手からグラスを受け取ると、秋葉は――くるりとその場で回れ右
をする。
「ああ……こんなになみなみと……え?」
秋葉はもう一度向かい側に戻るものだと思った。
だが秋葉は俺に背中を向けたまま、真後ろに倒れ込むように座り込む――そ
れも俺の横にぽすんと座り込むと、ふわりと髪が舞ってさらさらと絹のように
流れ行って……
そんな秋葉の横で、中腰になっている俺は間が抜けている。この秋葉の行動
は一緒の横に座れと云うことなんだろうなぁ。
……いいか。今日は秋葉の誕生日なんだし。
秋葉は俺の傍らに座ると、両手でグラスを包むように持っていた。二人とも
同じソファに座り込んでいるので、視線は平行――なんとなくそれも居心地が
悪くも感じる。それはあれだな、俺も飲んでないからだろうか。
秋葉に倣ってグラスを口に近づけると、なんというのか――古い木の香りと
いぶしたようか香りがアルコールに混じった香りがする。秋葉のやつ、水割り
にもしないで人にこんな物を飲めと……と呟きかけ、頬に刺さる視線に気が付
いた。
秋葉が俺の顔を……というより、酒を飲む顔を見つめている。そのまま下ろ
しては行けません、と無言で命令するように。
「……………」
舌の上にアルコールを浸す。
それはじわっと焼けるような、そして口の中に何か別の気体が吹き上がって
鼻に抜けるような強い味だった。でも、なんとかそれをじりじりと喉に送り込
む。
強い――こんなもんをぱかぱか飲んでいるのか、秋葉は。
「ふぅ……やっと兄さんが飲みましたわね」
「いや、その秋葉……せめて割ってくれないかな?と思ったんだけど……いい
です、はい」
また秋葉に睨まれて俺はすごすごと引き下がる。酒が絡む秋葉は金や権力が
絡むより怖い――と思う、実際のところ。俺が傍らを盗み見ると、秋葉は膝の
上にグラスをのせて気持ちよさそうの瞼を塞いでいた。二重の瞳は切れ長で、
細い鼻梁も整った口元も、顎から首筋に繋がるラインも綺麗で、全く……
「静かにしていると鑑賞価値十分なんだけどな」
「なにかおっしゃいました?兄さん」
へぇ、なにも申しておりません秋葉さま――と卑屈になってしまう俺。
秋葉が綺麗すぎるから気後れするところがある。アルクェイドも信じられな
い美女だけと、秋葉とも違うわけで――それに俺の妹だというのに。
……妹なんだよな、秋葉って。ううん、よく……わからないけども、その。
「……美味しいですか、兄さん?」
「ううう……難しいことを聞く、秋葉……そりゃかこのお酒はこの上もなく高
価なんだろうけども……」
「そのうち分かります。味覚は鍛えるものです、兄さんも遠野家の住人として
恥ずかしくないだけの味を覚えて頂きますから」
……なにかこう、誕生日だというのに心安まらないことしきりの秋葉だった。
ある意味らしくはあるんだけどね……お酒に酔っぱらって「お兄様ぁぁぁん」
なんていう秋葉は逆にぞっとしないし。頭を抱えっぱなしの俺だったが、男の
ケジメでぐいっと空けて――噎せ返って吐き出しそうになる、灼けた食道を押
さえて秋葉に向き直る。
……うぐ、なんだ、胃の中がきゅうきゅうにと拈れるけども。
「秋葉……誕生日おめでとう」
「…………」
「さっきは琥珀さんと翡翠と一緒だったけども、あらためて――」
秋葉の顔を見つめて、俺は笑って頷いてみせる。
秋葉は俺に見せたのは、何かを言い出せない困った表情であった。誕生日を
祝われるのがそんなに嬉しくないのかも?と俺は不安になるけども、秋葉は拗
ねているような、恥じらっているような顔で俯く。
……なにか、こっちが秋葉を恥じ入らせることを口にしてしまったんだろう
か?
わからない。
「…………兄さん?その……」
「……」
「それを言うために……わざわざ……あ、あ……」
ありがとう、と秋葉は言いたかったのだろうか。でも秋葉のプライドがそれ
をすんなり言わせないようで――そう言う素直じゃない所はいつもは頭にくる
のだが、今日がかわいく思える。どうしたんだろうか、飲んだばっかりのアル
コールが頭に回ってきたのか。
俺はぐっと秋葉に上体を寄せる。目線が俯いている秋葉を下から伺うように。
「……秋葉ー」
「な、何ですか兄さん!」
「今日は誕生日なんだから、少しは素直になっても……そうだな、うん」
どぎまぎしている秋葉を前にすると、なにか気分が大きくなってくる。
秋葉が驚くことをしてやれ、と頭の中で考える。いきなりキスする――のは
ちょっと気が早い、じゃぁ……これがいい。
「そんな……きゃ!」
俺は素早く腕を伸ばすと、座る秋葉の背中と膝裏に腕を差し込む。
そして秋葉の身体を腕に押さえて抱え込むようにする。秋葉はグラスを握っ
たまま、傾く身体にびっくりして俺の顔を見つめていた。秋葉の身体は腕の中
で横になり、残り少ないグラスの中身がこぼれ落ちそうになる。
長い髪がさらりと流れ、落ちる。
俺は踏ん張って秋葉の身体を持ち上げる――が、思ったより秋葉の身体は軽
かった。両腕のうちに横たえて抱え上げる、花嫁を抱き上げるようなスタイル
で。
俺が立ち上がり、腕の中に秋葉の体重を感じる。
「よぉ……いしょっと……」
「に、兄さん、何をするんですか!?」
「ん?お姫様だっこ……ほらほら、秋葉の誕生日なんだからこれくらいしても
罰は当たらないって」
……もしかすると秋葉は俺が落っことしかねないのが不安なのかも知れない
けども。
秋葉はあのどうしても払いきれない警戒とプライドの重なった仮面が外れ、
素の表情が露わになっていた。それは俺の目をじっと底までのぞくような熱い
瞳と、ほのかに濡れた唇と――信じられない夢を見ているような面持ちだった。
俺は軽く秋葉を揺すっていたが、ぴたり、と腕を止める。
俺は腕の中の秋葉をじっと見つめる。秋葉と俺の顔が近づき、お互いの吐く
息を感じるほどに近い――俺は秋葉以外の物が見えなかった。
秋葉の唇が言葉を形作ろうとする――に、い、さ、ん……
「兄さん……私……ありがとうって……言いたくて……」
「……わかってるって。そう簡単に言い出せないところが秋葉らしいし、俺は
秋葉らしいところは嫌いじゃない――おめでとう、秋葉……また一つ大人にな
ったね」
「……大人……ですか?大人になったら兄さんは、私のことを――」
秋葉は、俺に、どうしてほしいのだろうか?
……俺と秋葉は兄妹だけども、本当の親が違うことは知っている。いや、そ
んなのはたいした問題じゃなくて、俺と秋葉は本当は……本当に……
……言葉でどういえばいいのか分からない。
ただ、俺がどんな言葉で言っても陳腐に思えるほどの、なにかの大切な関係
であった。恋人同士、とアルクェイドとかと言えるようなものよりも、入り組
んでいてそれでいて……大事な関係であった。
俺は秋葉の事を――秋葉は俺のことを――
幼い日から、俺は秋葉を――
「……………好き、です……」
秋葉の漏らした言葉。
それは俺の中にも共振する言葉だった。愛している、結ばれたい、ずっと一
緒にいたい――とか、いろいろ言い換えが出来るかも知れない。でも、そんな
多彩な言い換えよりも一言の言葉の中にある意味の方が、ずっと俺たちを結び
つけていた何を言い表すような。
何と秋葉に言えばいいのか、分からない。
それは嫌いだって事じゃない。だけど、俺が出来るのは……
「……好き、兄さん……だから……私のことを……」
俺は秋葉に唇を寄せる。そうするのが当然だった。
秋葉も瞳を閉じ、俺の唇にその桜色の唇を迎える。俺は腕に秋葉を抱き上げ
たまま、二人で口吻を――
唇は柔らかく、暖かく、そして……
「じーーーーーーーーーーーー」
!
俺は急いで秋葉から唇を離し、辺りに視線を走らせる。
秋葉も今の声に気が付いたようで、俺と一緒にその擬音を口にする主を捜し
た。でも抱き上げられいる秋葉は途端に居心地が悪そうにもじもじと身じろぎ
し始める。この声は、間違いな――おれが見つけたのは、向かいのソファの影
で爛々と瞳を輝かせる、青いリボンの頭であった。
「こ、琥珀!」
秋葉は一声叫ぶと、急いで俺の腕から降りようとする。
そりゃだっこされたままというのは情けないと分かるけども、そんなに急が
れると……危ないっちゅーのに……
秋葉は俺の首に縋り付きながらばたばたと落ちていく。それでも掴んでいる
グラスの中身が飛散しているが、大したことじゃない。それよりも、ソファー
の影に身を小さくしてうずくまっている琥珀さんの方が――って、なんで?
琥珀さんは一緒に寝室に寝かせてきたはずなのに!
「うふふふふふー」
ソファーの影からゆっくりと……どちらかというとフラフラと立ち上がった
和服姿。間違いなく琥珀さんで……手を後ろに隠して俺たちの方を面白い物を
見つけました、と言いたそうに笑って眺めてくる。
あそこにいたって……そんな、いつの間に?でもあそこにいたと言うことは
確実に見られてしまった訳で――
「琥珀さん?その、お休みだったはずじゃ」
「なに言ってるんですか志貴さんー、翡翠ちゃんはおねむですけども私は酔っ
ぱらってませんよ本当ですっていやーん」
駄目だ。まだ酔っぱらってる。
琥珀さんは気持ちよさそうににこにこ笑いながら、頼りない足取りで近寄っ
てくる。危なっかしくて手を伸ばしたくなるけども、今はまだ秋葉の背中に当
たっていて――
「もう、私が居なくていったい誰が秋葉さまにお酌するんですかー?大丈夫で
すってきょうはまだまだいけますよー」
「いや、どーみてもマズそうなんだけど琥珀さん……」
「そうです、兄さんの言う通りです。無理せず早く部屋に戻りなさい」
秋葉も機嫌を損ね、早く追い出したがっているような口を利く。
だけども琥珀さんは背中を屈めて、うふふふふふふーと低い笑いを漏らして
いる。おまけに俺と秋葉のさっきのキスを見られちゃったわけだから、もちろ
ん琥珀さんは……
「それはですね、秋葉さま?」
「なんです、琥珀」
「もーっと志貴さんに抱いて貰ってキスされたかったってことですかね?」
琥珀さんの爆弾発言は、横の秋葉が見事に――爆発させた。
ぼん、と破裂音がしそうな程に秋葉の顔が一瞬で真っ赤になるのが分かる。
秋葉は拳を握りしめてぶんぶん振り回す。
あぶねぇ……って言ってももう聞かないな、これは。
「こ、こ、こ、琥珀!あ、あなたはいったい何のつもりで……」
「今日はお祝い、無礼講ですよー秋葉さまー、なにも志貴さんにキスされるの
が悪いって言ってるんじゃないですよー、私も志貴さんに抱き上げられてキス
されたらもー」
「こ、琥珀さんも秋葉も落ち着いて!」
なんか、拙いことになる――と俺は咄嗟に叫んでいた。
でも、落ち着いて、と叫んで落ち着いた試しってないよな……と頭のどこか
で思う。案の定、酔眼が俺の顔に集中する。秋葉に至近距離で、琥珀さんから
真っ正面に座った瞳で見つめられるともうごめんなさいって謝りたくなる……
「あ、あう……」
「飲みが足りませんね、志貴さん?」
「そうですわね……さっきの一杯だけで……」
秋葉はテーブルの上のボトルを見つめる。
琥珀さんは後ろに隠していた一升瓶をひょいと取り出す。これを持ってきた
のか、琥珀さんは……って、日本酒だよな、あれは。
「ふふふふ、そろそろお酒が足りなくなると思ってきて持ってきました、佐渡
の辛口鬼殺しですよー」
「へぇ……それは私への当てつけかしらね。どっちにしても琥珀、あなたも兄
さんも飲みが足りませんわね……ああ、妹の私の切ない誕生日の願いは……」
「…………」
「へべれけになった兄さんが、泣き上戸になって私の膝にすがりながら恥ずか
しい告白を始めることです」
待てー!なんだそりゃー秋葉ー!おまえも酔っぱらってるー!
だが俺の抗議より先に酔っぱらい二号が我が意を得たりとばかりにはしゃぎ
ながら栓を開ける。手際よく秋葉から差し出される別のグラス。
どっくどっくと俺の手の中に押し込められたタンブラーに、透明の日本酒が
満たされる。
……これは悪い夢か?せっかく良い感じだったのに一瞬で……
琥珀さんのせいで秋葉がへんに引っ込みが突かなくなってしまったのか、そ
れとも……本当に秋葉はそんなコトされたがっているのか?
「秋葉っ、おまえ俺のことが好きだと言ったんじゃ……」
「ええ、好きですわ。好きだからこそ兄さんが『秋葉ー、いままで冷たくして
済まなかったー』とおいおいとコップを叩きつけながら泣く姿を見たいのです」
「名案ですね秋葉さま、ささ、志貴さまぐいっと!」
ああ、もうなにがなんだか――わからない。
「さぁっ、志貴さんのちょっといいとこ見てみたいー!」
「なんでそんな俗な囃子ことばを知ってるんだぁぁ!」
「兄さん、私も飲みます、だから一緒に飲みましょう!今日は私も泣きますっ!
遠野秋葉もまた一歩大人の階段を上がってしまいました……こんな私でもステキ
なヒトは迎えに来てくれるんですか!兄さぁぁーん!」
うぉぉぉぉーん!
《おしまい》
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