『欧州からの届け物』


 恋する乙女たちが己の意地を掛けて勝負を行った金曜日は、週末の慌しさと
共に瞬く間に通り過ぎて行き、いつもと変わらぬ平凡な1週間がまた新しく始
まった。
 土曜、日曜と引っ張りまわされ続け、疲労感の残る身体を引きずりながらも
退屈な授業を終わらせた志貴は、ホームルームの終わりと共に鞄を手にして立
ち上がり、有彦の呼び止める声を聞き流して足早に教室を後にした。
 慌しく階段を駆け下りる志貴を誰かが後ろから呼び止めた。踊り場で立ち止
まり、後ろを振り向いたそこには、掃除中なのかシエルが箒を握った手を腰に
当てて頬を膨らませていた。

「遠野君、廊下を走っちゃいけませんて言いませんでしたか?」
「ああ、シエル先生。ごめん、ちょっと急いでるんだ」
「それでもです。せっかく掃いた埃が舞い上がっちゃうじゃないですか」

 教師モードの「めッ」という話し方ながらも、にこにこと笑みを浮かべて階
段を下りてくる。ここ暫くの懸案だったイベントが滞りなく済んだ為か、いつ
もであれば瞳の奥で燻っている権謀術数も、鳴りを潜めているように志貴には
見受けられた。

「どうしたんですか、昨日の今日で慌てて帰る事も無いでしょう?」
「ああ、うんまあ、そうなんだけどね」

 金曜、土曜、日曜と、シエル、秋葉、琥珀、翡翠に加えて晶ちゃん、レン、
朱鷺恵さん、一子さんからのチョコレートラッシュを切り抜けた週の頭。多少
時間が遅くなったところで、志貴の帰宅を待つ者達もうるさく言うことはない
はずである。

「ちょっと、寄りたい所があってさ」
「アルクェイドのところですか」

 にこやかな笑みを浮かべながらも、シエルは、ずばと志貴の退路を断つ。
 う、と志貴が言葉に詰まった。

「未練がましいですねぇ、遠野君は。 
バレンタインを忘れて寝こけている相手から、まだ貰えるものと一縷の望みに
縋っているんですから」

 勝者の余裕なのか、はたまた本人が居ないからなのか、胸を逸らしてふふん
と鼻を鳴らす。志貴は苦笑いを浮かべると、階段を数歩下り、首をめぐらして
シエルを振り返った。

「あいつのことだから、向うの日付で送ってくるんじゃないかと思うんだ。 
無駄だと思うけど行って見るよ」
「あのあーぱーのことです。当日まで忘れていたに違いありませんね」
「俺も、そう思う」
 そう言って志貴は階段を駆け下りる。


「でも、届いていると良いですね」

 シエルが、笑顔を浮かべて志貴の背中にそう叫んだ。





















 真祖の姫アルクェイドが休眠に入ったのが、昨年の早秋。夏の騒動でワラキ
アの吸血衝動に当てられてしまい、急遽城に戻って休眠を取る事になってしま
った。晩秋に独逸へ足を運び、アインナッシュの実の手に入れたが、その効果
でも彼女の吸血衝動を消し去ることはできず、数日の後に、再び何時覚めると
も知れない眠りの中へと入っていった。


「それほどかからない筈だし、直ぐに帰るから待っててね」


 そう言われて空港のゲートを潜ったのが、もう二ヶ月も前になる。あれから
既に年は変わり、あちこちでは気の早い梅が蕾を大きく膨らませている。枝で
は盛んにうぐいすが羽根を繕い、間近に迫った春を告げている。
 季節の移ろいを肌で感じながら、志貴はアルクェイドの部屋のあるマンショ
ンまでやってきた。両開きのガラス戸を片手で開き、ホールのエレベータのボ
タンを押して乗り込む。かすかな浮遊感に包まれながら上階へと到着し、閑散
とした廊下を歩きながらポケットの中の鍵を取り出した。
鞄を小脇に挟んで、志貴は手にした鍵を回す。ドアノブに手を掛け、感じる
微かな違和感に眉を顰める。先週彼女の部屋の掃除に来た際に、玄関の鍵を閉
めて出た筈なのだが、今、鍵から伝わったのは明らかに鍵を閉めた感触。玄関
横の電気メーターを確認すると、明らかに誰かがこの部屋の中に居る事がわか
る。アルクェイドが帰ってきたという話は聞いていないし、何より志貴の元へ
やって来ない筈が無い。志貴は、制服のポケットに忍ばせた七ッ夜を握り締め、
鍵を逆方向へ回した。


ゆっくりと音を立てないようにドアを引き、玄関へ入る。瞬間、濃密な魔の
気を体中の神経が警告する。同じように細心の注意を払って扉を閉めると、ポ
ケットから七ッ夜を取り出し、廊下へ上がった。キッチンを抜け摺り足でリビ
ングの扉へと近寄り、磨りガラスの向うの気配を伺う。志貴の意識の奥では七
夜が目覚めさせろと暴れまわり、身体のそこここに宿った混沌もまた、覚醒の
時はまだかと志貴を催促する。




「何をしている殺人貴、さっさと入ってきたらどうだい?」




ガラスの向うから、突如響く涼やかな子供の声。
その声に、志貴はかすかな聴き覚えがあった。

ノブを握り、リビングの扉をゆっくりと開く。
そこに居たのは、寄宿舎学校へ通いはじめたばかりのようなあどけなさを持
った少年だった。ソファに腰掛け、膝の上で両手を軽く組んでいる。だが、七
夜は緊張を解くどころか、よりいっそうの警戒を身体の隅々へと伝達する。


「誰だお前」


 瞳を細め、志貴なのか、七夜のものなのか冷たい声が響く。だが、あからさ
まな警戒をする志貴の姿を前にしても、少年はそのにこやかな笑みを崩さず、
逆にまるでこの部屋の主でもあるかのように、志貴へ座るように片手で促した。
「その問いに答える前に、ひとつ言わせて貰っていいか、殺人貴」

 凛とした、それだけでその場の空気を支配できる鋭さをもった声が、リビン
グを包む。カラカラになった喉を唾液で湿らせ、志貴は「ああ」とひとつ頷い
た。少年は、ゆっくりとした仕草で左手を上げると、おもむろに志貴の足元を
指差した。




「まず、靴を脱いできたらどうだい?」

「うひゃあ」


 先日磨き上げたばかりのフローリングの床に、薄っすらと付いた自分の足跡
を目にして、志貴は軽い眩暈を感じた。

















「僕の名は、メレム・ソロモン。何処にでも居る普通の少年さ」
「遠野志貴、まあ、見ての通り只の学生だ」

 ソファに向かい合わせに腰を下ろし、二人は志貴の煎れた紅茶を口に運ぶ。
彼の物腰から敵意が感じられない事と、先ほどの失態で志貴の戦意が失われた
事が相成って、ひとまず場を落ち着け、お互いの自己紹介をする事となった。

「直死の魔眼は、浄眼でむりやり押さえ込んでいるのかい?」
「普通の少年がこの部屋に出入りできるか、第五位」

 志貴の言葉にメレムは「ほう」と云う感嘆の声を上げた。自分の名前を聞い
ただけで、その背景、立場を導き出すことができるとは、少し彼を侮っていた
と認識を改める。シエルからの報告で、体内に取り込んだネロ、ロア、姫の力
を制御する術を身につけ、彼らの知識をも中途半端ながら手に入れたと云う彼
を、甘く見ていたようだと自戒した。

「僕の事を知っているとは思わなかったよ。その知識は誰から受け継いだもの
だい?」
「すべて、さ。五感すべてがメレム・ソロモンと云う存在を知らせている。気
を抜くな、とね」

 志貴は、正面に腰掛けた、両膝に肘を乗せくすりと笑みを浮かべた少年の一
挙一投足に対して注意を図っていた。意識の片隅に今も在り続けるロアと呼ば
れた聖職者の記憶が、相手が何者かと云う事を否応なしに伝えてくる。「ビー
スト」と呼ばれ、二八死徒の第二〇位を持ち、さらに埋葬機関に所属する「第
5位」の「宝物コレクター」。総合的な能力では足元にも及ばない相手を前に、
警戒を解くなと云う方がどだい無理な話だと、頬が引きつりそうになるのを笑
顔を作って必死に抑える。

「どうやってこの部屋に入って来たんだい?」
「普通にさ、ほらね」

 メレムはポケットから、この部屋の主が使っている鳶色のキーケースを取り
出した。それを片手で開き、中の鍵を見せると二人の挟んでいるテーブルの上
へそっと置く。あまりにも丁寧なその扱いに、志貴にはその仕草に恭しさを含
んでいるようにも映った。

「どうしてそれをお前が持っているんだ?」
「もちろん、あの御方から預かったのさ。君にどうしても届けて貰いたい物が
ある、とね」

 メレムの言葉の中に込められた微かな感情に気づいたかと、そっと志貴の反
応を伺う。テーブルに両肘を付き、掌を組んでじっと眼を見つめるが、きょと
んとした表情を浮かべて首をかしげるばかりの相手に、メレムの感情の起伏に
気づいた様子はとうてい伺えなかった。

「なるほど、聞きしに勝る愚鈍っぷりだな」
「初対面の相手にそんなこと言われる筋合いは無いけどな」

 嘆息と共に吐き出したメレムの言葉に、唇を尖らせた志貴が悪態を吐く。い
くらお互いが知識として相手の情報を持っているとは言え、今日ここで顔を合
わせたばかりの相手にまでそんなことを言われる筋合いは無いと、志貴の表情
が語っている。

「先週末は、大勢の女性陣に囲まれて大変だったようじゃないか」
「大きなお世話だ。関係ない事だろう」
「否、これが、私が今日ここに居る理由さ、遠野志貴」

そう言ってメレムは、ポケットの中から二つの包みを取り出した。手のひらに
ちょっと余る大きさの、やや薄い二つの箱が志貴の目の前に丁寧に並べられる。



ひとつは白い包装紙に太陽を意匠化した金色のシール
ひとつは朱い包装紙に宵月を意匠化した銀色のシール



「どちらも姫君からの届け物だ。まさか、断るとは言うまいね」
「まさか、これって・・・」

 志貴は目の前に並べられた二つの箱をじっと凝視した。包装紙の銘柄は欧州
でも有名な菓子ブランドで、日本ではそうそうお目にかかる事のできない品物
である。

「白い方はもちろん姫様から。そして、その朱いのは朱い月様から。遠路はる
ばる運んできたんだ、遠野志貴もう少し感謝の表情を浮かべたらどうだい?」
「あ、ああ。わざわざありがとう。本当に感謝するよ」

 驚きと喜びが入り混じった表情で、メレムに向かって志貴が深々と頭を下げ
る。先ほどまでの刺さるような警戒は何処へ消えたのか、志貴の意識は、目の
前に並べられた二つの包みに向いている。「現金なものだ」とメレムは疲れた
表情を浮かべた。先ほどまでの切れるよな殺気は何処へ行ったのやら、喜色の
笑みを浮かべた年相応の表情に、先ほどまでのやり取りは何だったのかと、頭
を抱えてしまう。


「さ、どうぞ」


 突然掛けられた志貴の言葉に項垂れていた頭を上げると、テーブルの上では
包みが開かれ、ちいさな間仕切りの中に綺麗なチョコレートが鎮座していた。
鼻の奥を擽る香りに思わずごくりと喉が動く。が、それと同時に、憤慨がメレ
ムの心を揺さぶった。「この男は自分を想う人から送られた品物を平気で他人
に振舞う事ができるのか」そう考えると、にこにこと笑みを浮かべ、紅茶を煎
れ直す志貴がとたんに憎らしく思えてきた。溜め込んでいた感情の制御が利か
なくなり、堰を切ったように口を吐いて溢れ出してくる。

「遠野志貴、お前は本当に姫様の想い人なのか。否、お前は姫様を想っている
のか?」
「ああ、もちろん。そうでなければ、好き好んでアインナッシュの森になんか
行かないさ」

 何を当然のことを、と云う表情を浮かべる志貴に、メレムの感情はさらに逆
立った。シエルにすら見せたことの無い激しい表情を浮かべ、襟首を掴んで額
が触れそうな距離まで志貴の顔を引き寄せる。溢れ出した感情とは別の場所で、
醜い嫉妬だと警鐘が鳴り響くが、湧き上がる激情の前では成す術が無かった。

「なんでお前なんだ。なんで、お前なんかを選んだんだ。誰が身の回りを世話
してきたと思う、誰が目覚める度に細々した手配をして来たと思う。ああ、見
返りなんか求めちゃいないさ、こっちが好きでやってきた事だし、疎ましいと
言われれば直ぐにでも身を引くさ。なのに、なんで姫様はお前みたいな朴念仁
を選ぶんだ。なんで、たった一人遠野志貴だけに送った物を、平気で他人に振
舞えるんだよ、お前は!!」

 がくがくと、両手が真っ白になるほどに力を込めて、メレムは掴んだ襟首を
揺さぶる。志貴は最初何がなんだか判らないと云う様相で揺すぶられていたが、
ぐい、ともう一度志貴の顔を引き寄せられたタイミングに合わせて、1枚のカー
ドをメレムの目の前へと突き出した。

「これを読んでくれないか、メレム・ソロモン」

 メレムの前に差し出されたそれは、朱い月が志貴へと認めた、チョコレート
へ添えたカードだった。二つ折りにされたカードを奪うようにして志貴の手か
ら受け取り、震える手でそれを開く。中には気品を感じさせる筆跡で、二人へ
の感謝の言葉が短く書かれていた。



     《メレム・ソロモンと遠野志貴
           二人へあらん限りの感謝を        ブリュン
スタッド》



「俺も最初はこれを見て驚いたけど、あいつが変わっていく様に朱い月も変わ
ってきているんじゃないのかな?」

 志貴の言葉に、メレムは「ああ」と一言だけ答え、テーブルに広げられた箱
からチョコレートをひとつ取り出し、口へと運んだ。表面に塗されたパウダー
の芳醇なカカオの香りが口の中で広がり、甘味を抑えたビター風味のチョコレー
トがほろ苦さを纏って舌の上で溶けていく。

「甘く、ない、か」
「甘くない、ね」

 同じ様にチョコレートをひとつ口に運んだ志貴が、メレムと顔を見合わせ同
時に苦笑を浮かべた。お互いの表情に「らしいな」と云う言葉がありありと浮
かんでいる。さらに一つ、二つと口に運び、冷めかかった紅茶で口の中のカカ
オを洗い流すと、メレムは志貴に向かって頭を下げた。

「取り乱してしまって済まなかった。些か感情的になり過ぎてしまった様で申
し訳ない」
「そこまでして貰わなくてもいいってば」
「それじゃあ此方の気が済まないんだ。なら何か謝罪の変わりになるような事
は無い?」

 気にするなと言う志貴に、メレムは頑なに頭を振る。途方にくれた志貴は、
心の隅に引っかかっていた、自身では知ることのできない質問をした。
「昔のアルクェイドの話をしてくれないかな。あいつがどんな存在だったのか
を、かつて城でどんな事をしていたのかを、聞かせてくれないか?」
「それは、・・・」
「判っている、只の破壊の為だけに存在したと云う事はあいつの口から聞いた。
でも、本当にそうだったのか、それを見ていた人の口から聞いてみたい。あい
つの言う『じいや』と云う人がどんな人なのか知っておきたい。だめかな?」
「判った。その代わりひとつ此方の願いも聞いてほしい事がある。」


「どんな?」と志貴が問い掛けると、メレムはいきなり顔を真っ赤にして俯い
てしまった。顔を合わせた当初纏っていた泰然とした雰囲気は霧散し、代わり
に、外見相応の年齢の奥手な少年が持つ興味心と臆病さが身体全体を包んでい
る。ぴたりと閉じた膝の上で拳を二つ握り締めると、恥ずかしそうに上目遣い
で志貴を見上げた。

「この町での、姫様の話を聴かせてくれないかな。どんな些細なことでもいい
んだ、どんな所に行ったとか、どう云うものが好きだとか、そう云う話を聴か
せて欲しいんだけど・・・・・・・・・駄目かな?」
「いいよ、もちろん。なんなら一晩語り明かそうか」

 勢い良くソファから立ち上がると、志貴はキッチンへと向かった。冷蔵庫に
は口を空けていないワインがあったと記憶している。口にするものが無かった
筈だが、必要なら会に出ればいいだろう。今夜は気持ちよく酔うことができそ
うだと、袖をまくりながら笑みを浮かべた。