かくして夜は更けていく――
                               阿羅本

 志貴は、翡翠を従え絨毯を踏みしめて歩いていく。片手に遠野邸の見取り図
を握り、自分の位置をその図の中と見比べていく。
 指で紙の表面をなぞっていたが、やがて部屋の真ん中で脚を止めて、感心し
たように周囲を見回す。

「しかしまぁ……広いなもんだな」

 志貴は背後の翡翠を振り返ってそう感慨深そうに話しかける。
 志貴に付き従う翡翠は、いつもの通り女中装束のままで神妙な顔で志貴の視
線を受ける。腕には遠野邸の鍵束を下げ、志貴に付かず離れずの距離にいた翡
翠、は口を閉ざしたまま志貴の言葉を待つ。

「昔は本当に広く感じたし、戻ってきたときは思ったより広大じゃなかったか
な、と感じたこともあったけど。実際はまぁ……広いな」

 志貴は翡翠を連れて、いろいろな事件の間に特に留意することの無かった遠
野邸を改めて見回りを行おうと思い立ったのであった。翡翠を連れているのは、
今多くの部屋が閉鎖されている為に、鍵の管理者の同行を要したからである、
志貴は部屋部屋で鍵を開けて中を覗き込んでいる。

 部屋を開ける度に志貴は、感嘆の吐息を禁じられなかった。例えば久我峰家
の長男が滞在していた部屋というのは、寝室と化粧室などを併せて五部屋近く
もあり、お付きの使用人の部屋まで付属しているのである。
 さらに、内装や家具の類もほとんどそのままに残されている。ロココ趣味や
新古典など部屋によってモチーフが異なるものがあったが、そのどれも手が掛
かったものであるとアンティークに疎い志貴にも推測が付いた。

「……ああいう部屋は、いつも掃除しているのか?」

 志貴はそう、何気なく尋ねる。閉鎖されて一年以上経つと志貴にはおぼろげ
ながら分かるが、部屋に僅かに埃の臭いがしても、家具の上には真っ白な埃は
積もっていないのが見て取れた。。
 翡翠はその問いに、頷いて答える。

「いえ……全ては私の手に余るので月に一度は清掃業者の方を呼んでおります。
本当でしたら家具などを倉庫に移動して閉鎖するべきなのですが、作りつけの
調度や色々と貴重なものもありますので……」
「そうか……こんなに広いのに、住んでいるのは俺達だけなんだよな」

 志貴はそう、感慨深そうに口にする。生まれた七夜の家こそ全く覚えていな
いが、育った有間の家は普通の中流家庭であった。そして、今住んでいるのは
この広大壮麗な遠野邸。かつて、この邸宅で志貴は様々な出会いと出来事を経
験した――

「そう言えば、翡翠はここが広すぎると思ったことはなかったか?」

 志貴の問いに、翡翠はそうでしょうか?と僅かに首を傾げる。

「いや、まぁ……昔、秋葉とかと一緒に居たときは無性に広く感じたけど、翡
翠はどうだったのかなと……まあ、よく遊んだのは庭だったけどね」

 くすりと笑う志貴に、翡翠も口元を綻ばせる。翡翠は今いる一回の談話室を
ぐるりと見回し、腕に下げた鍵束をちゃりん、と鳴らせる。翡翠はしばらく無
言でいたが、やがてぽうりぽつりとしゃべり始める。

「子供の頃には大きいと思いました。それに、この屋敷に引き取られた私には、
この屋敷が世界の全てだったので……今でもそれは変わりません。でも、私は
庭の方が好きでした、この屋敷には……姉さんがずっと二階にいましたから」

 その言葉を聞き、志貴は眉間に皺を寄せて困った表情を浮かべる。翡翠の姉
である琥珀は、亡義父である槙久の犠牲者であった。志貴にとっても翡翠にとっ
てもこの屋敷での過去の記憶を掘り起こせば、時には糖蜜のように甘く、時に
は塩のように苦いものが層を成していたのだから。
 志貴は表情を暗くして謝ろうとすると、翡翠はその仕草を押しとどめて言う。

「いえ、でも今は志貴さまや秋葉さまにお仕えできるので幸せです。私には、
まだ……この世界しかありませんから」
「そうか……まぁ、迷惑掛けっぱなしだけどね、翡翠には」

 翡翠の言葉を聞き、妙に気恥ずかしい思いに捕らわれた志貴がぽりぽりと頬
を掻く。翡翠は志貴の次の言葉と指示を待ち、志貴はいったい何を言ったもの
かと悩みながら見取り図を知らず手の内で折り畳んでしまう。

 四つ折りにした見取り図を広げ、それを見ながら次の部屋をどこにするのか
を考えている志貴であったが、視界の片隅に何かが動くのを認める。
 志貴はそちらに顔を向けると――廊下に繋がったドアは開けっ放しで、そこ
から和服姿の琥珀が不思議そうな顔をして部屋の中を覗き込んでいる。

「志貴さま、翡翠ちゃん……もしかして探検中ですかー?」

 志貴に続いて翡翠も琥珀の方に向き直ると、琥珀が僅かに楽しそうな声でそ
う尋ねてくる。琥珀は戸口をくぐって志貴の元まで来ると、静かにお辞儀をする。

「姉さん、その……」
「んー、確かにこの屋敷だと探検っていうのがしっくりくるな。ああ、翡翠を
ちょっと借りてるけど……何か用事でも?」

 志貴は琥珀に話しかけると、そんなことありませんよー、と琥珀は手を振って
誤魔化すように笑っていた。

「いつもは閉まっている部屋に志貴さまがいらっしゃるので、何をされている
のかと思いまして……」

 琥珀はそう言って、志貴の手にある屋敷の見取り図にひょいと横から覗き込
む。志貴はうしろの翡翠をちらりと振り返ってから、にこにこ笑っている琥珀
に話しかけた。

「秋葉が締めた部屋がどうだったのかをちょっと知りたくてね、いろいろ回っ
てみたんだけど……さすがに広いな、この家は」
「それはもう、先代の槙久様の頃にはいつも二十人くらい人がいましたから。
軋間様や刀崎様、それにご家族の方や私たち使用人で……そう言えば、前の使
用人の集合写真をまだ持ってますので、後でご覧になられますか?」

 往時の人間の数を琥珀の口から耳にすると、志貴の口から感心したような声
が漏れる。一つの屋敷に二十人の人がいる、というのは志貴にはなかなか実感
しずらい光景であったし、今のこの閑散とした遠野邸を見ているだけあってな
おさらである。
 
「うん、今度……写真か、そう言えば秋葉の子供の頃の写真ってまだ見たこと
ないな。琥珀さん、知ってる?」

 志貴は琥珀に答えながらそう、思い出したように付け加える。

 志貴も子供の頃の写真というのをほとんど見たことはない。そもそも本来の
出自である七夜一族は抹殺されているし、遠野家に引き取られてからも写真を
撮られたという記憶がない。さらに、七夜と遠野の志貴の偽装工作がある以上、
写真が残っていることは期待できない。

 志貴が見たことがあるのは、有馬家での写真が主であった。過日の自分の姿
はもはや想像するしかない。

 だが、令嬢であった秋葉ならあるだろう――志貴はそう思っていた。
 その問いに、琥珀はうーんと腕を組んで考える。

「そうですねー、書斎にアルバムがあるかも知れませんが……でも、秋葉さまっ
てお写真が嫌いですから、志貴さまのご希望に添えるものは残念ながらあるか
どうか……」
「へぇ、秋葉が写真が嫌いなのか……勿体ないな」

 志貴はそう偽らざる感想を口にする。黒髪の秀麗な美少女である秋葉は写真
映えもするので、幼い頃からさぞかし……という期待もある志貴だったが、そ
んな秋葉が写真嫌いだというのはなんとも惜しいような気がする。

 そんな残念がる志貴の様子に、一歩離れた所にいる翡翠がおずおずと口を開く。

「志貴さま……その、秋葉さまが写真を嫌いになられたのは、志貴さまとお別
れになられた後のことです」
「え?……そうなの?」

 不意に翡翠にそう言われ、驚きを浮かべる志貴。だが、秋葉とは主従ではあ
るが幼なじみの関係である翡翠が言うことであるのだから、まんざら嘘ではな
いと知るために、志貴は翡翠の次の言葉に耳を傾ける。

「はい。あの頃の秋葉様はその、ずいぶんとお静かだったたのですが……です
が、志貴さまとお別れになられた後からその、変わられまして」
「そうだったわねー、翡翠ちゃん。でも、秋葉さまと同じくらい私たちも一緒
の写真がないのがちょっと残念ですね。志貴さまにお見せしたかったのに」

 遠野家の屋根の下に住む者には、何かと子供時代の記憶がよろしくない人間
ばかりが揃っている。ゆえに、むしろ記録が残っていない事はそれはそれで幸
福であるかも知れない。

 ――志貴はそうほろ苦く笑うと、手に持った屋敷の見取り図を取り直して目を落とす。

「……ああ。そうだ、遠野邸にはこんな所もあったんだ」

 志貴はそう言って、指先で見取り図の上の一角を指さしてみせる。横から覗
き込む琥珀は、そこを見ると興味深そうな顔で頷く。翡翠は琥珀のように積極
的な素振りはないが、二人の挙動を見逃すまいとしている。

 志貴が指さしたところとは――

「露天風呂ですかー」

 そこは、遠野邸にある大浴場であった。
 いつも志貴と秋葉が使っている浴場はそれぞれ屋敷の中にある小浴場である
が、遠野邸には露天風呂形式の大浴場が完備されていた。さすがにそれは建物
の中に、と言うわけには行かず、脱衣場から浴場までは通路を経由して繋がっ
ている形式になっている。

「そうだ、ここに来たばっかりの時に秋葉に聞いたな、露天風呂があるって
……でも、ここも今は確か……」
「はい、使用していないので閉鎖されてます」

 志貴の傍らの翡翠にそうすげなく云われて、志貴は口元を曲げて呟く。

「勿体ない。せっかく露天風呂があるのに……そう言えば二人とも、露天風呂っ
て使ったことあるの?」
「いえ、露天風呂は遠野家の方のみで、専ら男性の方が使われていましたので
すねー……翡翠ちゃんはお掃除の時に見たことあるわよね」
「はい。大浴場は和風の造りで……先代のご趣味か大層立派な物だったのです
が、余り積極的に使われなかったのも実際のところありました」

 翡翠の言葉に、志貴は首を傾げる。なぜ?と口が動いて翡翠に問う前に、
先回りして琥珀が志貴に説明し始める。

「露天風呂は造りは立派なのですが、立派すぎて……ご親族の方やお客様で物
珍しさから使う場合もあるのですが、流石に毎日使われる方は少なかったですねー」
「なるほど……なんとなく分かった」

 琥珀の説明に志貴は頷く。温泉などの露天風呂は時々入るからこそその爽快
感が味わえるのであり、毎日入るとなると逆にその壮大さが鬱陶しく感じるこ
ともあるのであろう。志貴はそう推測したが、あながち外れであったわけではない。

 露天風呂にはロマンがあるが、ロマンが日常化するとそれは急激に色褪せる。
むしろ、今は閉鎖されているからこの大浴場にロマンと憧憬を感じるのか――
と、志貴はぼんやりと考えていた。
 ただ、ロマンという物は非常に費用対効果が悪そうな代物であったが。

「なるほど、秋葉も閉めるわけだ……それにしても、勿体ないなぁ」

 志貴はかさかさと見取り図を折り畳みながら、そう未練深そうな声で言う。
 志貴を見つめながら、琥珀は可笑しそうに笑って話しかけた。

「志貴さま、もしよろしければ露天風呂の方をご利用になられます?」
「んー……俺としては興味があるけど、秋葉が何を言うか分からないからな。
まぁ、いずれの機会にでも、と……さて、探検はこれくらいにしておくか。
 琥珀さん、済まないけど、お茶煎れてくれる?」

 そう志貴は琥珀に言うと、横の翡翠に振り返って言う。
 きょとんとした顔の翡翠は、不意に志貴の目を感じて軽く背を伸ばす。

「翡翠、付き合ってくれてどうもご苦労様……一緒にお茶でも飲むか」
「いえ、その……志貴さまがそう仰るのでししたら」
「あ、いいですね。私もご一緒させて貰ってよろしいですかー」

 三人の間にほのぼのとした長閑な雰囲気が流れる。
 広大な屋敷故にともすると寂しいと感じることもあるが、こんな生活も悪く
はない……と心の中で感じる志貴。だが、その心の片隅にひっそりと、露天風
呂に対する捨て切れぬ興味が残されていたのであった。

(To Be Continued....)