オニは……
阿羅本 景
「琥珀さーん、ちょっといいかな?」
俺はキッチンのドアを開いてそう中に呼びかけた。まだ晩飯には早い時間だっ
たから、中にはきっと琥珀さんが居ると思っていた・
はい、何ですか志貴さんー?という柔らかい琥珀さんの声色が帰ってくるもの
と信じて疑わなかった俺が耳にしたのは……
ひゅっ、と言う息を驚いて吸う喉の音であった。
そして琥珀さんと同じ声色だけども、もっと緊張した声が帰ってくる。
「し、志貴さま……!」
俺がキッチンの中にはいると、翡翠が眼を見開いて俺を見ていた。
流しを背にして、後ろ手を隠して俺の方を向いて戦慄いている翡翠……メイド
服の姿のまま、がちがちに固まっている。
……なんで琥珀さんじゃなくて、翡翠が?
「……あれ?琥珀さんは……?」
「姉さんならまだお部屋ですが、その、今厨房は……その……」
翡翠は俺に応えながらごにょごにょと口ごもる。そして、顔を赤らめてその
場で俯いてしまった……一体何が翡翠に起こったんだろう?
俺は黙って翡翠の上から下までじろじろと眺める。気になるのは、腰の後ろ
に隠した手……まるで悪戯をしていた子供が現場を取り押さえられたようにも
じもじしていて……
「もしかして、翡翠……」
俺は状況証拠を探して目線を走らせると……
流しの調理スペースの上のまな板。
はみ出た野菜の山。
流しっぱなしの蛇口。
そして……まな板に突き刺さった包丁。
……推理の余地すらないな、これは。
俺はふぅっと息を吐くと、すたりとキッチンの中に笑いながら入っていった。
でも、俺が入り込むとますます翡翠は緊張して、その場に硬く立ち尽くす。
翡翠は意を決して顔を上げて、厳しい口調で――
「いえ、志貴さま、お早くこちらからお出でになってくだしさい」
「翡翠……もしかして……」
「ここは使用人のスペースであり、主である志貴さまや秋葉さまには相応しく
ありません」
「……料理の勉強をしてたのか?」
翡翠の抗弁を無視してそう尋ねると――結果は一目瞭然だった。
翡翠の意志は砕けてしまい、また顎を引いて俯いてしまう。流しを背にした
翡翠は身動きもせず、まるで「恥ずかしさ」を結晶させて彫刻にしたような風
情がある。眼は前髪に隠れているが、紅い頬は湯気を立てそうな程だった。
翡翠は翡翠なりに弱点の補強を図っているようだけども、その場を見られる
のは完璧主義者故に屈辱なのだろう。
でも、こうやって屈辱に震える翡翠を見ていると……なんというのかこの……
……堪らない物がある、が……
残念ながらまだこんな陽が高い内にケモノになってしまうわけには行かない。
それに、分からない、と言いながら飛びかかるにはあまりにも危険だった。
翡翠は男性恐怖症の気があり、今ここで押し倒そうとしたら……背後にエク
スカリバーの如くそそり立つ包丁が物を言うだろう。
で、今の俺は眼鏡を掛けているし、ナイフも持っていない。デッドエンドだ。
もし持っていたとしても、琥珀さんの聖域でえっちなんぞした晩には何が起
きるか分からない。一部始終をビデオに撮影されてあとあと脅されることすら
も懸念しなければならない。
だから俺は、欲望に思わずぴくりとひくついた右手を左手で握り込んで、口
元を綻ばせて明るい笑顔を作ってみせる。そしてがちがちの翡翠に一言。
「今度、美味くなったら翡翠の料理を食べたいな……それまで頑張って、ね?」
俺がそう呼びかけると、翡翠は聞き取れないほど小さく、はい、と答えた。
あーもう、こう言うところは可愛らしいなぁ……って、また欲情している場
合じゃなかった。
「そうそう、琥珀さんが居なかったら翡翠でもいいや」
「姉さんではなく、私、ですか?」
「ひょっとすると翡翠の方が詳しいかも知れないし……大豆って何処にある?」
俺がそう聞くと、話題が逸れたことに安心してほっと一息ついた翡翠が首を
傾げる。
「大豆、ですか……?」
「うん、大豆というかお豆というか……キッチンのどこかにあるだろうなぁと
思ってきたんだけど。あと、めざしもあれば……っても遅いか」
俺が顎に手を当てて言うと、翡翠はまだ首を傾げたままだった。
やがて翡翠は小首を傾げた姿勢を正し、俺に聞いてくる。
「志貴さま、よろしければ一つお伺いしてもよろしいでしょうか?」
「なんでも喜んで」
「……志貴さまも料理をされるのですか?」
……俺は困った顔で翡翠に答えるしかなかった。
やっぱりこの館の中だけにいると、世間の感覚から孤絶されるのだろうか……
テレビどころか新聞すら来ないのでは仕方ないかも知れないけど。
俺は思わず大仰に溜息をつきたくなる衝動を押さえ込んで……
「今日は何日?翡翠?」
「2月の3日……ですが」
「そう、2月3日と言ったら節分じゃないか」
……反応が悪いな。
俺がそう種明かしをしても、まだ翡翠の疑問は解けていないようだった。俺
に向かう顔色は変わらないが、明らかにその瞳は理解に達していない色を浮か
べている。どうも、まだ説明を続けなくてはいけないらしい。
世間では言わずもがななんだけど……遠野家は「世間」じゃないからなぁ
やはり、琥珀さんの方が話が早かったかも。
「……節分ですか?」
「そう、節分は年に4回あるけども2月の節分は春の到来を意味しているから、
この日には柊にめざしの頭をつけて玄関に飾って、豆を蒔く……もしかして翡翠……」
俺がそこまで説明しても「?」という構えを崩さない翡翠に、念のために問う。
「……もしかして、遠野家にはそう言う行事はなかった?」
「……初耳です、志貴さま。なるほど、その為の豆なんですか……」
改めて納得がいった様子の翡翠の知らなくてさも当然、という態度に俺は思
わず言葉を失う。
というか、節分というのは日本国内の標準的な行事で……有間家でもやった
ぞ?流石に北北西の方向を向いて寿司の巻物を食べる習慣はなかったけど……
遠野家にはないのか……
思わず呆然としてしまった俺だったが、冷静に思い返せば思い当たる節もな
きにしもあらず、だ。俺はぽかんと開けた口を閉ざすと、こほんと咳払いを一つ。
「そう言えば、遠野家は年始の門松も鏡餅もないもんな……節分もやらなくて当然か」
「いえ、その、私にはよく分かりませんが、姉さんならきっと……」
そう答えて琥珀さんを呼びに行くためか、歩き始めた翡翠の背中と俺だったが――
いきなりガタン!と台所の窓が開く音を聞いてぎょっとして、振り返る。
なぜか勝手に窓が開かれて、そこからにゅっと金髪の頭が覗く。
「んー、それは考えられるんじゃないのかな?」
のほほん、と窓から首をつっこんで喋るアルクェイドがそこには――
思わず侵入者に驚いて構えてしまった俺だが、馴れた顔が出てくると安堵の
息を吐く。なんというか、緊張して損した。で、弛緩する俺と対照的に翡翠は
馬鹿丁寧に窓に向かって頭を下げてお辞儀をする。
「ようこそいらっしゃいました。アルクェイドさま」
「やっほー、ちょっと早いけど来ちゃった、志貴。それに翡翠ちゃんもね」
「……その窓からではなく玄関からお入りいただければ有り難いのですが……」
やはり、窓からやってくるアルクェイドに難色を示す如何にも使用人らしい
きまじめな翡翠。俺は仕方なく笑って翡翠を止めようとするが、アルクェイド
もにっこり笑って手をぱたぱたと振る。
「うん、後で玄関から入るね。で、志貴……この家の節分のことだけど」
「ん?ああ……なんだアルクェイド、お前節分知ってたのか?」
俺は節分の話をしてきたアルクェイドに驚きの目を向ける。なにしろ正月の
行事も知らなかった、この国の文化音痴のアルクェイドが「節分」なる言葉を
知っていること自体異例だったが……
俺が露骨に驚くと、む、とアルクェイドが頬を膨らませる。
「なによー、1月にはさんざん無知蒙昧って志貴に馬鹿にされたから、この国
の行事を一通り憶えてきたのに、志貴ったらまだ馬鹿にするー」
「ああ……勉強してきたんだ。おまえ」
「うん、そーだよ。で……志貴は遠野家がどういう系統だか、前に聞かせたよね」
俺はアルクェイドに話を振られ、記憶を手繰りながら頷く。
「聞いた。鬼種だったよな……」
「で、節分の時にはなんていう?」
「鬼は外、福は内……あーあーあーあ、なるほど、そういうことか」
俺はぽん、と掌を打つ。その素振りに翡翠も反応して、小さく頷くのが見える。
なるほど……鬼の家系が節分を祝えないよなぁ……
「そう言うこと。まぁ、今の鬼は妹だから、節分なんか以ての外だよねー」
そう言い放ってカラカラと笑うアルクェイド。
だが次の瞬間、そんな窓口のアルクェイドが文字通り――真後ろにぶっ飛んだ。
シャ!
「何!」
「志貴さま!」
「――はぅぁぁっ!」
俺の耳に遅れてひゅんひゅん、という礫が空を切り裂く音がする。
それも一つではなく、絶え間ない霰となってキッチンの空気を引き裂き窓に
奔る。
「いたたた!」
「鬼は外!鬼は外!鬼は外!鬼は外!鬼は外!鬼は外!鬼は外!鬼は外!」
甲高い怒号が響き、キッチンの中に躍り込んできたのは――秋葉だった。
それも、一斗枡を抱えて有り余る豆を掴み、散弾銃の如く浴びせかける。
唖然と見守る中で、秋葉の狂乱の豆蒔きはつづく。窓の外に持ち直したアル
クェイドが立っていたが、顔を手で守って打たれるままだった。
「いたたた!妹!そんな論理武装をーっ!」
「鬼は外!鬼は外!鬼は外!鬼は外!出て行け吸血鬼!返してっ!私の兄さん
を返して!この鬼、化け猫、人外、外道、吸血鬼!鬼は外!鬼は外!鬼は外!
鬼は外!」
……なるほど、「鬼は外」なら豆でも吸血鬼にダメージを与える論理武装に
なるのか……というか、そう言うレベルじゃなくて髪の毛を真っ赤にして渾身
の力を込めて豆を投げる秋葉だから、その物理的打撃力も尋常ではないだろう。
俺はちらりと翡翠をみるが、どうもこの秋葉の様には手の着けようがないと
見える。
それはそうだ。「兄さんを返して!」と叫びながら豆を蒔きまくる秋葉に俺
だってなんといったら良いのか……分からない。
「くっそー、妹!妹と鬼の分際で生意気なーっ!見てろー!」
アルクェイドが守勢の中でそう叫ぶと、手元がぼわん、と歪むのが見える。
空想具現化だ――で、取りだした物は……こっちも……豆……
いやもう、なんなんだか
「鬼は外はそっちだー!妹!鬼は外!鬼は外!鬼は外!鬼は外!」
「きぃぃー、小癪な吸血鬼に鬼呼ばわりされたくありません!鬼は外!鬼は外!」
ザバァァ!ビシィィ!!
かくしてキッチンを戦場に変える、秋葉とアルクェイドの豆撒き合戦。
一体どうやって収拾をつけるか、というかこんな豆だらけにキッチンをした
らあとで琥珀さんに怒られる……
コツン
俺の頭に何かが飛んできた。
それは、秋葉とアルクェイドの豆の流れ弾ではなく、真後ろから。
……わからない
「――え?」
俺が振り返ると、そこにはくすくす笑いながら俺に向かって豆を投げる……
琥珀さんの姿があった。
「鬼は外、ですねー、志貴さま?」
そう言いながら、琥珀さんは軽く俺に向かって豆をぶつけてくる。
いや、その……なんで秋葉やアルクェイドじゃなくて、おれに?
わからない
俺に当たった豆はころころと床を転がる……
「……鬼って……俺が?琥珀さん?なんで……」
「はい、だって……志貴さんは殺人『鬼』ですものー」
《おしまい》
【後書き】
どうも、阿羅本です。
クリスマス、正月(と言うか姫初め)をやったので今度は節分です……ああ、
気が付くと季節ネタばかりSSを書いているよ!と(笑)
ちなみに豆が論理武装というのは洒落ですな……あまり深く突っ込まれても
困るのですが、とりあえず吸血鬼を豆で倒した前例はありませんので……もち
ろん殺人鬼も豆は弱点ではありません(笑)
というか、志貴は殺人貴なんですけども、とかなんで琥珀さんが知っているの?
とかそう言うつっこみもぉ……琥珀さんなら知っててもおかしくないのです、
ええ、琥珀さんは森羅万象を支配していますから(笑)
それではどうも、お付き合いいただき有り難うございました〜
でわでわ!!
2002/2/3 阿羅本 拝
|