あの、紅い夜と蒼い空の下の悲劇からはや一月が経った。
 遠野シキ――結局の所志貴の顔を知らなかった殺人鬼――が志貴の手によっ
て塵と化し、彼を駆り立てた琥珀という名の、虚ろな少女の存在が消え去った。
あの、悪夢の様な日々は遠野の館の下に住まう人々に耐え難い傷を残したが、
幸い――その傷は癒えつつある。

 琥珀、という少女は消えた。その代わり、七夜という少女が遠野の家にいる。
 蝦色の留め袖に白い割烹着という恰好の彼女は、かつて琥珀と呼ばれた少女
と同じようにこの遠野家で働いている。かつて琥珀と呼ばれた少女の浮かべて
いた、あの沈痛なまでの笑顔は無い。いまそこにあるのは――にこにことした、
屈託のない七夜の笑顔。

 秋葉も、志貴も、そして琥珀の双子の妹であった翡翠も、もはや琥珀という
名を口にする事はなかった。琥珀と言う名は、遠野の屋根の下の者たちの傷口
であり、それに触れるべきではない――それは忌まわしい過去、シキと琥珀と
いう名に封印され、塵となって消え去るべき過ぎ去った冬の闇の名残。
 
 晩冬の雪と風は過ぎ去り、自然が春の息吹を宿す季節。
 そんな人々が住まう遠野の屋敷の庭に、黒い人影が疾る――



 Odi et amo 〜私は憎しみ、そして愛する〜

                            
阿羅本


「兄さん」

 居間でソファに身を預け、ティーソーサーを片手にカップを傾けていた秋葉
が志貴に話しかける。時はあたかも夕暮れを過ぎ、夜を迎えようとしている。

「秋葉、どうした……いや、昼間のことか?」
「いいえ、その……そのことはごめんなさい、私あの方と会うとつい……」

 志貴の言葉に、ついと秋葉は視線をそらせる。

 昼間のこと。それは卒業を間近に控えたシエル先輩がどういう風の吹き回し
か有彦と一緒に遠野家を訪れたのであった。そして、何の因果かシエル先輩に
先に顔を合わせたのは志貴ではなく秋葉だった――致命的に相性が悪いこの二
人が遭遇して、何も起こらないという法はない。

 結局、翡翠に呼ばれた志貴が目撃したのは、一悶着を演じた後でむくれかえっ
てその場を去る秋葉と、いつもと変わらない笑顔――に見える複雑な表情をし
たシエル先輩と、事の成り行きに脅える有彦の姿であった。
 その場に居合わせた有彦こそいい災難である。

 その後、三人は卒業後の事などを応接間で話し合ったが、その際にシエル先
輩は翡翠と七夜を怪訝そうな瞳で眺めていたのが志貴の気に掛かっていた。
 翡翠はともかく、七夜という名をシエル先輩には言っていなかったからかな、
と志貴はふと思ったが、そもそも琥珀という名前もシエル先輩には話していな
い以上、別にどうと言うことはない――そう思えば、余計なことに思い悩むべ
きではない。

 そしてシエル先輩と有彦が辞去し、晩餐前のくつろぎの一時に秋葉の言葉である。

「おまえな……なんだってシエル先輩とああも仲が悪い?二人とも仲良くしないと……」
「それは、その……いえ、それよりも兄さん、お願いがあります」

 秋葉は志貴の前で居住まいを正す。志貴もつられてカップを置き、秋葉に向
き直る。

「……なんだ?」
「七夜を……七夜をお願いします。今日は館の中に引き留めて下さい」

 秋葉の言葉の真意が把握できない志貴の眉間に皺が寄るが、秋葉はそんな志
貴に構わずすらりと立ち上がり、居間の扉に向かって歩き出す。秋葉に背を向
けられる形になった志貴は急いで立ち上がろうとしたが、出来なかった――秋
葉の物言わぬ背中に圧倒されたかのように、脚が意志に逆らって固まる。

「兄さんも今日は外に出ないで……翡翠にも同じ事を伝えて下さい」
「秋葉?一体どうしたんだ……」
「……遠野の当主として、やらなければいけない事があるからです。いや、遠
野のこと、だけではありません……
 琥珀、の為にもやらなければいけない事が」

 志貴に顔も向けないが、その凛然とした声からもどんな顔を秋葉がしている
のか志貴には見当が付いた。眦に意志の力を宿した、太い筆の一筆で書き記し
たような強い貌。
 そして、あの日から秋葉が口に出そうとしない名前――琥珀、の名が志貴の
耳朶を打つと、志貴には粛然とするものがあった。今の秋葉を志貴は――押し
留めることは出来ないと。

「……私は帰ってきます……絶対に。だから兄さんも心配しないで」

 秋葉はそのまま扉をくぐり、入れ替わるように居間にやってきた翡翠とすれ
違う。いつものように足を止めて一礼をした翡翠は、秋葉の顔を見て――はっ
と息を飲む。
 秋葉は翡翠に応えず、そのまま廊下を大股で歩んで行った。

「志貴さま、秋葉さまは一体……」
「……分からない。……七夜さんはどうしている?」
 
 志貴はつい琥珀の名を口にしそうになるが、なんとかそれを思いとどまり翡
翠に尋ねる。いつもの様子ではない秋葉と焦りに浸る志貴の姿を前にし、琥珀
にも薄く不安と警戒の色が浮かぶ。

「姉さんは厨房です。晩餐の支度を」
「分かった。翡翠……七夜さんを手伝ってくれ。七夜さんが外に出ないように
側にいて欲しい……秋葉に頼まれたんだ」

 志貴を苛む不安は、夕暮れの光の差す居間の空気を浸食する。かしこまりま
した志貴さま、と応えて居間を離れる翡翠を見送りながら、志貴は苛立たしさ
に駆られるかの様にソファに腰を下ろし、宙の一点を凝視してティーカップを
再び手に取る。

 カップの中の紅茶は冷えていた。だが、それに――志貴は気が付かなかった。
 
           ☆              ☆

 秋葉は風に髪をなぶらせながら、庭を進んでいく。

 七夜によって掃き清められた庭園から、徐々に落ち葉や小枝の散らばる木立
の方に秋葉は進んでいった。夕暮れは過ぎ去り宵闇は迫り、東の空の血のよう
な赤い夕暮れが、西の空には群青の夜が――そして沖天には、思いだしたかの
ように昇る白い月が。

 もしその場に秋葉の姿を見る者がいれば、その姿が夕暮れに照らされてまる
で血を浴びたかのように見えたに違いない。そして、秋葉が一歩、また一歩と
枯れ草を踏んで歩むごとに、彼は目を疑うに違いない。それは、秋葉のまっす
ぐな癖のない髪が――血のように赤く転じていくのだから。

 秋葉は足取りも確かに庭を横切っていった。あの日以来、だれも踏み入れよ
うとしない大樹と離れの一角へと――空気が沈滞し、木立の精気が沈み、命の
気配のない空間の中の一角へと――進んでいく。そこには、懐かしくも忌まわ
しい過去が眠っている。そして、その過去を掘り起こそうとする者が、居る――

「……?
 なぜ、貴女が来るのです?」

 大樹の幹に背を預けた人影が、紅い秋葉の姿を見て身じろぎをする。
 その人影は幹から背は剥がし、ゆらり、と立つ。

「ご挨拶ね。遠野の敷居を跨いだ者を遠野の者が出迎えて、何か問題があって?」

 憎々しげに秋葉が吐き捨てる。
 ――よりにもよってこの女は、彼女と七夜の至聖所であるこの樹の下に土足
で踏み込んでいる。秋葉の神経が僅かに昂揚する。
 紅い髪が、風に逆らってわずかに擡げる。

「もっとも……貴女は招かれざる客だわ。遠野の敷地に結界を張るだけは気が
済まず、使用人にも暗示をかけて呼び出そうとする、貴女は……
不遜で無礼ですわ。シエルさん」

 法衣の裾が風に泳ぐ。編み上げ靴のトレッドが草を踏む。
 ショートヘアの蒼い髪の下に宿る瞳には、冷たい糾弾者の光が宿る。
 シエル――志貴の知るシエル先輩ではなく、埋葬機関の異端審問官である苛
烈なシエルが、そこにいた。

〈 To Be Continued..."Odi et amo" part2 〉