「誰だ……?」

ふと問い掛けるが、そいつは答えない。
続けることばを失い、残るのは目前に対峙する沈黙。

視界は闇、その中でそいつだけがやけに鮮明だった。

重く問いかけた自身の声、決して返ってこない山彦のように、
硬く、冷たくのしかかって戻って来る。

「…………ふぅ」

そいつがため息をつく。
息は白く、消える事無く広がり、空へと登っていった。
そして、見えなくなる。
また広がる沈黙の闇。

全く知らないそいつの顔。
初めて見るはずのその顔…………なのに、そのはずなのに。

(こいつ………)

その姿を見つめる遠野志貴の目・頭、そして脳は、
今は目を合わせていないそいつの顔を確かに”覚えて”いた…………否、そん
な気がした。

「誰だ……」

志貴はもう一度問う。
すると、そいつは闇の中、ゆっくりと口を開いた。





〜〜月 闇に沈む刻 七夜 交わる時〜〜


                           末丸






瞼の上からの光。
淡白く目に届いた、朝を伝えてくれる合図。
いつもとなんら変わらない朝、大した変化も無く、
それでいてとても楽しい、日常…………であるはずなのに。

すぐに傍らにある眼鏡をかけた。
消える「死」の線。
軽い頭痛を抑えながら、欠伸を一つ。

ふと、体に感じる僅かな重み。

「ふふ、よく寝てる」

自分に寄りかかるようにして丸まっている、黒い小さな体。
志貴はレンを起こさないようにゆっくりと体から引き離し、
そっと隣に寝かせてやる。
その柔らかい体が少しだけベッドに沈むと、
優しく苦しくないように上から毛布をかけてった。

よほどよく寝ているのか、レンからは何の反応も無い。
それを証明するかのように、小さなお腹が呼吸を繰り返していた。

夢魔でも夢を見るのだろうか、などと考えながら志貴は立ち上がり、
ぐっと伸びを一つ。
気温が高い所為か、まだ肌寒いはずの朝なのにそれほどは感じられない。
まぁ、そんな季節でもないので、そう気にすることも無いだろう。

部屋にある時計に目をやると、時刻はまだ六時になったばかりで、

「ぉ、まだこんな時間か………」

それでも既に窓の外の朝は白く、白いといっても雪が降っているわけではない。
こんな季節に雪が降るはずも無いが、確かに外はの景色は白く染まっているよ
うに見えた。


――――――っ


その光に、何かを思い出しそうになる…………が、

「何だっけ………ま、いいか」

と勝手に納得して、少しずれた魔眼殺しを指で直した。
顔でも洗おうと、廊下に出ようと―――――

「失礼いたします」
「っ、翡翠? いいよ入って」

一瞬驚いたように息を呑む音が聞こえてすぐ、
翡翠が部屋に入ってきた。

「もうお起きになられていたのですね、志貴さま」
「あ、ごめんな、せっかくお越しに来てくれたのに」
「いえ、これが私の務めですから」

静かに微笑んで、いつも通りの言葉を掛けてくれる。
赤味がかった髪もいつも通り綺麗。

「でも、いつも起こしに来てくれるわけだし、やっぱりありがと。
 それと、今日もおはよう翡翠」
「はい、おはようございます、志貴さま」

もう一度、優しい微笑みを浮かべてくれる翡翠。

「じゃあ、顔洗ってくるから、着替えを持ってきてくれる?」

はい、と頷いて、廊下を行く翡翠の後ろ姿を見送り、
志貴は洗面所に向かった。




洗面台のひんやりとした感覚が手に伝わってくる。
水道の蛇口を少しだけ回し、開放され、流れ出した水を見つめた。

細い蛇口から洗面台に流れ、排水溝から消えていく水。
はじける水滴、ふと、志貴の目線が上に………

「―――――っ」

鏡。
その大きな鏡面は、目の前に見知らぬ顔を移し………否、
見知らぬなどということは有り得ない、顔を洗うために魔眼殺しを外している
からだ。

「………………」

無言のまま志貴はもう一度、眼鏡を掛け直す前にもう一度、
鏡の中に映る、おそらくは自分自身であろうその姿を見つめた。

「…………七夜」

視界に満ちる死の割れ目、その中で変化は無く、
映るのはただ自分の顔。
ズキッ、時折こめかみのあたりが痛む。
あまりこの状態が続くのはよくない、早めに顔を洗ってしまうことにする。

冷たい水が顔を濡らし、次第に思考を鮮明にさせていく。
高く細い音を立てる蛇口を逆に捻り、水の排出を止めてから、
タオルで、水の滴る顔を拭いた。
その後はもう鏡を見ることはなく、眼鏡をかけると、
志貴はそのままその場を後にした。



部屋の前にまで戻ってくると、
ちょうど翡翠が学校の制服を持って来てくれたところの様で、
部屋を出る時に鉢合わせに。

「あ、志貴さま、制服をお持ちしました」

そう部屋を出ながら翡翠は言う。

「ありがと翡翠。先に下に降りててくれる? 俺もすぐ行くからさ」
「分かりました」

そう一礼してリビングへと去っていく翡翠、
先ほどと同じようにそれを見送ると、
志貴は制服に着替えるために自分の部屋へと入った。

目が覚めた時よりも部屋に光が満ちている。
少しずつ登る暁、ゆっくりと影や闇を日光で埋めていく。

ベッドの上には、先ほど翡翠がもってきてくれたのであろう制服が、
その横に未だうずくまったままのレン。

(ふふ、まだ寝てる)

ほころぶ表情は抑えられず、優しくその体を撫でてやると、
それに合わせるように時折ピクッとその小さな四肢を震わせる。
このまましばらくまったりしていたかったが、
せっかく早起きしたのにいつまでもリビングに行かないと、秋葉に叱られてし
まう。

「じゃ、俺は行ってくるから」

聞こえているのかは分からないが、そうレンに告げると、
音を立てないように志貴は部屋を後にした。




「おはようございます兄さん、今日は早いんですね」
「まぁ、たまには――――

制服に着替え、リビングに入るとすぐに秋葉が優しく迎えてくれた。
いつもの朝なら小言の一つや二つも乱れ飛んでくるのだが、
早く起きた日の朝は、その一面がなりを潜めている。
こっちには嬉しい限りなのだが。

 ――――秋葉と登校前にまったりするのもいいかな、って」

そう言いながら、秋葉の向かいのソファーに腰を下ろす。
翡翠はその後ろで待機していてくれていた。

「私は”たまにじゃない”方が嬉しいんですけど?」
「何言ってんだ、”たまに”だからありがたみがあるんだろ?」
「もぅ、兄さんは………まぁ、いいです、何はともあれ、
 今日は起きてきてくれたんですから、許して差し上げます」

もう諦めました、とでも言うように秋葉は微笑み、
志貴もそれに申し訳なさそうに笑った。
すると食堂の方から足音と声。

「秋葉様〜〜朝食の準備が………あ、志貴さん、今日は早いんですね」
「おはよう、琥珀さん」

これもいつもと同じ笑顔。
朝の光にふさわしい明るさ。

「おはようございます、どうしましょう、
 志貴さんもご一緒になりますか、朝食」
「そうだね、せっかくだし」
「じゃあ、すぐに準備しますね」

先に食堂へと消える琥珀、翡翠もそれに続いた。
そして秋葉が、最後に志貴が立ち上がり―――――

「……………っ?」

――――頭の奥に妙な違和感を覚える。


 軽い―――――



        ―――――眩暈


一瞬視界が暗転し………


『名など………』


そいつは言った。


『無意味だ………』

(なっ………?)

すぐに視界は元に戻り、目の前には見慣れた光景。

見慣れた天井。

いつも翡翠が掃除している絨毯。

皆が毎日目にしている壁………何一つ闇に被われている所など無い。

「………兄さん?」

気がつくと、秋葉が戻ってきていた。
心配そうにこちらを見上げている。

「…………っ、ああ、ごめん、ちょっとぼぉっとしてた」
「もぅ、しっかりしてくださいね」

そうして笑顔で食堂へ向かう秋葉。
気を取り直し、志貴もその後に続いた。



「じゃあ、行ってくるよ」
「いってらっしゃいませ、志貴さま。お帰りは何時ごろになるでしょうか?」

食事も終わり、
普段通り屋敷の門の前まで翡翠が鞄を持って見送りに来てくれる。
いつもよりも気温が高いのか、門の前に立っているだけなのに
体からは汗が少しずつだが噴出してくる。

秋葉は既に黒塗りの自家用車で家を出ている。
冷房の効いている車内には、外の暑さなどほとんど関係ないのだろう、
志貴は噴出し続ける汗を拭って、今はそれが少しだけ羨ましく思えた。

屋敷の外の道、アスファルトには陽炎が被さり、揺らめき続けていた。
熱き衣を纏いて踊るその透明な煙は、いつもの光景を全く異様な物へと変化さ
せている。

「なぁ翡翠、今日やけに暑くないか?」
「そう言われれば……大丈夫ですか、志貴さま?」

志貴の身を気遣っている翡翠に逆に効き返され、

「大丈夫だとは思うけど………まぁ、駄目なら早退してくるから。
 それに、もしかしたらその方がいいかも」

と、少し微笑みながら返す。
翡翠は、えっ、といった顔で志貴を見つめている。

「だってさ、そうすれば翡翠と長く一緒にいられるし………」
「あ………」

そう短く息を吐くと、翡翠は顔を赤くして俯いてしまう。
そんな表情を見るのもいつものこと、
その顔を微笑ましく見つめるのも、翡翠が恥かしげにそれに返すのも、

そう――――いつものこと………。

「ふふ………………っ!?」

その時――――


   ふらり、と――――


        陽炎が――――


             ――――揺れた。 


視界が、ぼやけて………

「し、志貴さま!?」

誰かの声が聞こえる。
その声が翡翠の物と分かるまで、その声に意識が引き戻されるまで、
数秒の意識の暗黒。

よろめいた体を翡翠が横から支えてくれる。
その振動で、少しだけ思考が正常さを取り戻したような気がした。

陽炎は………もう消えていた。

「志貴さま、志貴さまっ!?」

必死に声をかけながら、揺さぶってくれる翡翠。
もうほぼ体は大丈夫な所まで回復しているはずだが………

「もう大丈夫だよ、翡翠」
「でも、志貴さま………」

心配そうにこちらを見つめる翡翠の支えを離れ、
志貴はゆっくりと自分の脚で地面を踏みしめる。
体が慣れてきたのか、さきほどの暑さもいくらか和らいでいる様にも思えた。

何度か首を振って意識を保つ。
どうやら、そう問題はないようだった。

「大丈夫だから、な?」
「…………はい、でも気を付けて下さいね」

まだ翡翠の心配そうな顔は消えていなかったが、
それを自慢の?笑顔で制すると、志貴は学校への道を歩き始める。

今日は早めに起床したこともあって、時間にはまだ余裕があるはずなので、
無理をしないことの意味もこめ、ゆっくりと歩を進める。
一度慣れてしまえば、今日の暑さはそれほどでもない、
おそらくいつもの眩暈と重なっただけなのだろう。

「ま、いつものことだし……」

勝手に一人ごちて、空を見上げた。
見渡した限り、空に雲は見えない―――――透き通った青。

夜の蒼とはまた違う鮮明さを持っている。
しかし、上に向けた顔に降注ぐ光は容赦ない。
正直………暑い。

「さっさと行くか」

新しい汗が首筋を伝うのを感じ、志貴の両足は再び学校へと向かう。

その影に天より落ちてくる光はただ強く、
地面に張り付く僅かな闇を薄めていた。




                ◆





 キ〜〜ン  コ〜〜ン  カ〜〜ン―――――


「さて、帰るか……」

最後の授業の終了を告げるチャイムが響き、
クラスメイト達もわらわらと教室を出て行く。
志貴も別にやることも思いつかないので、とりあえず家路につくことに―――


「いよぉう〜〜遠野!!」

―――――なるはずだったのだが。

志貴はその声に反応するわけでもなく、足早に教室を出る。
出る………出る………はずなのに。

「出れない………」
「おい遠野っ、彼のライト兄弟をも超える硬い絆を共有してきたこの俺を無視
するとはっ!!」

相変わらず有彦の言葉は意味不明だ。
この間は何だったか………
そう、確か「蜘蛛の糸のように絡まった運命……」とか何とか
訳の分からないことを口走っていた。

「離せ……」

視線を向けるわけでもなく、ただ有彦に捕まれた腕を見て静かに言う。
普段より4割増ほど睨みを効かしていたような気もするが、
まぁ、それはそれとして。

「んだよつれねぇなぁ〜〜」
「何か用か、有彦?」

つかまれていた腕を振りほどき、オレンジに染まった短い髪に、
ピアスの男に面倒くさそうに目を向ける。

「別に用は無い」

そう理由も無く胸を張って断言する有彦。
そのどこから来るか分からないおかしな雰囲気に、志貴は言葉を失う。
そして踵を返し、

「じゃな」
「あ、おいっ、ちょっと待てよ」
「何だよ?」

再び目の前には有彦の顔。
全く、用も無いのに呼び止めるとはこいつも………

「お前、この後暇か?」

ぶしつけに有彦が聞いてきた。

「帰りに何か食ってこうぜ?」
「う〜〜ん、そうだな………


         (ドクン)

     
          ………………っ!?」

急に胸の奥に強い衝撃。
思わず左胸、心臓の上あたりを強く掴む。
痛みは無い………感じるのは自身の鼓動だけ。


         (ドクン) 


呼吸が乱れ、動機が激しくなる。
しかしそれも一瞬で、すぐに全てが元の状態に戻っていた。

「お、おい遠野、大丈夫か!?」

突然目の前で膝を折った志貴を、
有彦は抱き起こすようにして支えてくれる。

「わ、悪い……いつものやつだ……」

本当はいつもとは少し違うような気もするのだが、確信は無い。
ごまかすように志貴は有彦の肩を借りる。

「そっか、ならいいが……」
「どうやら、今日は無理みたいだ………」

みたいだな、と有彦も納得したように頷いてくれて、
支えながら校門の所まで付き添ってくれた。

「じゃな」
「ああ、すまん……」

有彦に軽く手を振ると、志貴も家へと足を向ける。
早く帰ろう、あまり今日は調子がよくない。
これ以上何か起こる前に、屋敷へ帰った方が利口だろう。
そう考えると、志貴の脚は自然に早まっていた。





「それで、兄さん………?」

食後のお茶会。
普段は大抵、夕食の後はリビングでまったりするのがこの屋敷のしきたりであ
る。

志貴もソファーに腰掛け、秋葉の正面に座る。
琥珀の煎れてくれた紅茶を、翡翠が運んできてくれていた時、
秋葉が思い出したように聞いてきた。

「お体の具合はどうなんですか?」
「え、ああ……大丈夫だよ、あれからは何とも無いし」

目の前に置かれたカップに紅茶が注がれていく、
淡い紅は徐々に円を描き、おぼろげな鏡へとその姿を変えていった。

小さな丸の中に薄っすら自分の顔が揺れている。
いびつに変わる自身の顔の像が………少しずつ………何かを………

(思い――――


   出させて………


      ――――思いだす?)


何を?
分からない、いや、思い出すということは忘れていることの同義。
忘れているのだから、分からないのもまた道理。

「………………」

いつの間にか志貴の目は、自分の持っているカップへと固定されていた。
固まったその顔に、周りの3人がいぶかしげに見つめていることにも
全く気づいていない。

「兄さん?」
「志貴さん?」
「志貴さま?」

ほとんど同時に、3人の声が重なった。
その声に、はっとした表情で志貴は顔をあげる。

「んっ、どうしたのみんな?」

「「「………………」」」

志貴が3人に向かって返すが、
その表情はどれも明るいとは言えない。
一人ずつ目と目を合わせようとするが、その目は皆消極的で、
誰も合わせようとはしてくれない。
すると秋葉が、

「兄さん、本当に体の具合は良いんですか?」
「な、何だよ急に、大丈夫だって」

慌てて否定するが、口と頭の中の意見が一致していない。
志貴自身もよく分かっていないのだから、それも当然かもしれないが。
確かに、今日一日には眩暈が何度かあった、でも、
こんな事が今まで無かったわけでもない。

「無理はいけませんよ、志貴さん?」
「大丈夫だって、心配しすぎだよ」

苦笑いに似た表情で、そう琥珀の目を見つめ返すが、
その目は確実に志貴を信用していない目だった。
で、後ろからも………

「志貴さま………」
「もう、翡翠まで…………って、おっと?」

脚に感じた感触に視線をさげると、いつの間にかそこには、

「お前も心配してくれてるのか?」

にゃあ、と短く鳴く声。
志貴に擦り寄るように、その黒い体毛を脚にすりすりしていた。
その感触が何やらくすぐったい。

「ほら、おいで……っと」

空いている方の手で、優しくレンを手招きする。
すると待ってましたとばかりにレンが膝の上に飛び乗ってきた。
そして朝眠っていたようにその場で丸くうずくまる。
その丸みは、まるで黒い毛糸玉のような。
朝と同じように背を撫でてやる、それに返ってくる反応もまた同じ、
ふふふ、やっぱり可愛い………

「ありがとな、レン」

と、微笑ましそうな顔をしていると………

「兄さん……」
「志貴さん……」
「志貴さま……」

体に刺さる3つの視線。
何かとても不吉な予感がぴりぴりと伝わってくる。
少ししびれるぐらいの。

「兄さん、何か私たちと対応が違う気がするんですけど?」
「気にするな」

と、軽く受け流し、もう一口紅茶を含んだ。
平静を装ってはいるが、状況が結構ヤバイ所まで来ていることに気づき、
志貴はちらっと、横目で他の二人を見ると、

「志貴さんは、私達なんかよりレンちゃんがお気に入りなんですよねぇ〜〜」
「………………」

琥珀さんは更に事態を悪化させるようなことを口走り、
翡翠に至っては冷たいその視線で志貴の胸を貫き続けていた。

「じゃ、じゃあ、俺はもう寝るから………」
「あら兄さん、まだお茶会は始まったばかりですよ?」

あ、秋葉………。
冷や汗が首筋から舐めるように体を下へ這っていく。
ごくり、志貴が僅かに赤く染まった髪に気圧され、息を呑む。
そして後ろには………

「志貴さ〜ん? 新しいお茶ですよぉ?」
「へぁっ?」
「志貴さま、私と姉さんで考案した新種のお茶です、どうぞお飲みください」
「………………」

ううっ………まさに前門の虎ならぬ秋葉(本気)、
そして後門の狼ならぬ琥珀・翡翠。

「ごめんなさ………………ぃっ!?」

素直に謝って罪状を軽くすることに務めようとしたその瞬間、

「…………っ」
「兄さん?」

秋葉の声を最後まで聞かないうちに、志貴の視界に闇が掛かる。
周りで皆が何か叫んでいるが、徐々にその声も遠く、離れていくようで。

「………っはぁ……はぁ」

動悸がする………息が切れ、荒くな、る………体に力が………

「は、いら……なぃ…………っ」

体の全ての部分が言うことを聞かない。
脚で自身の体重を支えることもままならず、膝を追って倒れこんでしまった。

「兄さんっ、兄さん!? っ……琥珀、翡翠っ!!」

ほとんど意識の無い俺を横から支え、
一瞬だけ焦ったような声を挙げた秋葉だったが、
すぐに冷静に、脇の2人に指示を出す。

おそらく翡翠と琥珀のものであろう足音が耳に響いた。

「兄さん、しっかりし……て………」

伝わる声が力を帯びる。
しかし、その響きも段々と小さくなって………


「―――――」

志貴の意識は、ぷっつりと途切れた。




               ◆




気がつくと、目の前には何も見えなかった。
目を閉じているわけではないのだが、確かに何も見えない。

風も無い、自分の吐息さえ耳には届かない。
孤独感・恐怖感・不安感・劣等感・焦燥感―――――

また、胸が鳴った。

       (ドクン    ドクン)

 (ドクン    ドクン)

血の流れが早くなっていくのが手に取るように分かる。
手が震える、自身の意志で掌握する事が出来ない、
次第に目に見えぬ何かに体の支配権を奪われていくようで………

(くっ………)

確かにそう呟いた、が、何も聞こえない。
自分が一人きりになったこの闇の中で、何もかも失われていくようで………

自分が今まで得てきた物……そして、自分自身さえも、
目の前に広がる深い闇に飲み込まれそうで………


『………………』


不意に、何かの呟きが聞こえたような気がした。
後ろ?横?分からない、でも確かに聞こえる。

(どこだ………どこにいる!!)

必死にその方向を見定めようとする、すると――――


『闇は………』

「っ!?」

無意識の内に叫んでいた。
聞いたことの無い声、初めて耳にする声、しかし、しかしそれは
生まれた時から心の奥にずっと染み付き、刻まれていた印のように、
志貴に強く響いた。

その声が響くのにつられるかのよう、
音の波が響くように、響きの波が広がる………
そして―――――

「誰だ……?」

問い掛けるが、そいつは答えない。
あとにつづけることばを失い、残るのは目前に対峙する沈黙。

視界は闇、その中でそいつだけがやけに鮮明。
先ほどまでは何も見えなかった場所に、向き合っている。

重く問いかけた自身の声、決して返ってこない山彦のように、
硬く、冷たくのしかかって戻って来た。

『…………ふぅ』

そいつがため息をつく。
息は白く、消える事無く広がり、空へと登っていった。
そして、見えなくなり、また広がる沈黙の闇。

全く知らないそいつの顔。
初めて見るはずのその顔…………なのに、そのはずなのに。

服は着物だろうか、浅葱色の和服に濃い色の帯。
足の先しか見ることは出来ないが、背丈は志貴とほぼ同じ。

(こいつ………)

その姿を見つめる遠野志貴の目・頭、そして脳は、
今は目を合わせていないそいつの顔を確かに”覚えて”いた…………否、そん
な気がした。

「誰だ……?」

志貴はもう一度問う。
すると、そいつは闇の中、ゆっくりと口を開いた。

『名など……』

闇に、

『無意味だ……』

声が、響く、そしてそれは同時に、志貴の胸にも。

未だに闇の中では何も見ることは出来ない、
しかし、何者かも分からないそいつの存在が、志貴に何かしらの
落ち着きをもたらしていた。

その落ち着きは神経を研ぎ澄まし、
鼓動を静め、志貴の五感を取り戻していく。

耳は自身の声、鼓動を感じ、
鼻は精神的なものかもしれないが、闇の匂いをかいでいる、
舌は乾き始めている口の中に満ちる唾液を感じていたし、
皮膚は暗闇に満ちている大気の震えを確かに伝えていた。

唯一目だけは未だ抜け出せない闇の迷路の中にあったが、
それでも視得る、そいつは正面に立っている。

見つめるでもなく、視線を逸らすでもなく、
ぼんやりと志貴の方を見ている、そいつ。

極限にまで研ぎ澄まされた五感は、
次第に新しい言葉を内から呼んで………


コロセ


「黙ってろ………」


コロセ ヤツヲコロセ


「五月蝿い……!!」


コロセ ヤツハ ヤツカラハ チノニオイガスル


「……………っ」


心の裏側からもう一人の、認めたくはないがもう一人の自分が、
志貴を闇へと呼ぶ。

血の匂い………実際にするわけではない、
しかし、感じる、今までにも何度か味わったことのあるこの匂い、
いや、匂いというより何かの感覚に近いだろう。

「あんたは……誰だ…………!?」

先ほどと同じ問い。
まるでビデオテープを巻き戻したかのように、志貴は言葉を吐いた。

『………………』

まだそいつは答えない。
しかし――――

『…………何故』
「えっ?」
『お前は何故……ここにいる……?』

そう、問い返された、そんな気がした――――――




「っ!!」
「きゃっ!!」

目を開けたそこは、見慣れた自分の部屋だった。
勢いよく体を起こし、慌てて首を振り、意識を確かにさせる。

あいつは………いない。
闇にも覆われていない。

―――――大丈夫、確かに自分の部屋だ。

ふぅ、と一人ため息をついていると………

「志貴さま……」

ベッドの横に立ち、心配そうな顔の翡翠。
少し俯いて、何か言いたそうに志貴の方を見ていた。
おそらく志貴が倒れてからずっと、傍で看病を続けていてくれたのだろう、
翡翠の傍らにはタオルと洗面器が一つずつ。

「あ、翡翠………」
「もう、お体はよろしいのですか?」

さすがにうなり声は止んだが、まだ視線は変わらない。
心の声が伝わってくるようだ。

「ずっと、居てくれたんだ………?」
「はい」

確かめるように言う志貴に、翡翠は静かに頷き返す。
その顔はまだ険しさが残っていたが、明らかに最初よりは
安堵の色が強くなっている事が分かった。
志貴が目覚めたことに本当に安心したのだろう。

「そっか、ありがと翡翠、それと、大分体の調子も良くなった」
「まだ無理はしないで下さい、志貴さまは普通の方々とは、
 少し違うのですから」
「ああ、分かってる。でも、無理した覚えはないんだけどな」
「志貴さま」
「はいはい、分かりました」

観念したとでも言うようにそう告げると、志貴は再びベッドに横になった。
窓の外が暗いことから、おそらく夜。
翡翠にも聞いてみたがそれほど志貴が倒れてから時間は経っていないようだ。
といっても数時間は経過していたようで、かなり夜も深まっているようだった。

「志貴さま、何か欲しいものはございますか?」
「う〜〜ん、それじゃ水を持ってきてくれる?」

別に喉が渇いていたわけでもないが、少しだけ一人で考えてみたかった。
恭しく礼をして部屋を出て行く翡翠、そのドアが閉まるのを確認して、
志貴はあの闇の中でのことを思い返していた。

完全には思い出せない、でも、あの顔だけは鮮明に目に焼きついている。
今まであったことも無いはずなのに、初めて見るはずなのに、
でも確かに、”知って”いるのだ。

「………………」

空を見つめ、あの姿を頭の中で思い返す。
歳は20代半ばから後半ほどだろう、今は見かけることも少なくなった
和服………。

「七夜…志貴……」

ふとその名が浮かぶ。
魔眼殺しを外した時の……いや、外していない時でも、
きっとどこかには存在している自分自身の顔。
自分自身であり、自分自身ではない、誰かの顔。

「いや、違う……」

あの色の着物は記憶に無いし、何より歳が志貴よりも上だ、
志貴の影の部分である「七夜志貴」では有り得ない。
では………

「誰なんだあれは………?」

分からない、いや、もしかしたら思い出せないだけなのかもしれない。
本当は心のどこかで覚えていて、自分が無意識の内に封じ込めてしまっている、
それさえ否定も肯定も出来ない。

「気にしても……仕方ない、か………」
「志貴さま? お水をお持ちしました」
「――――っ、入って」

翡翠の声とノックの音で、志貴は現実に引き戻された。
まぁいいか、とりあえず今は。

「ありがと翡翠」

彼女がトレイに乗せて運んできてくれた水を、
受け取ると半分ほどまで飲む。
意識の無い内にかなり汗をかいていたのか、喉を通る水の冷たさは心地よく、
体の隅々まで染み渡っていくようだった。
そして残った水も、一気に飲み干した。

ふぅ、コップをため息と共にトレイに戻し、無意識に視線が窓に踊る。
カーテンは閉まっていたが、外からの光は無い。

「もう寝るよ、時間も遅いみたいだし」
「はい、では……」

最初と同じように、礼をして出て行く翡翠、それに向かって、
志貴は思い出したように、

「あ、そうだ翡翠………」
「?」
「おやすみ」
「はい、おやすみなさいませ、志貴さま」

薄紅く頬を染め、翡翠は笑顔を返してくれた。

かちゃり、とドアの金具が当たる音がする。
遠ざかっていく足音を確認し、志貴はベッドから立ち上がって、
部屋のカーテンを開けた。

蒼黒に染まる夜の闇、曇っているのか空に月は見えない。
空気に黒き霧を纏わせて、ただ夜は深く。
志貴の見つめる先には何も無く、ただ深い意識の底で見た闇の景色。
それが全ての音を吸い取っているのか、何も聞こえない。

「………………」

その闇を一瞥したあと、志貴はベッドの上に横になった。






次の朝―――――


「もう大丈夫だって」
「いいえっ、今日ぐらいは学校を休んでください、兄さんっ!!」

バサバサ、と外で木の葉の擦れ合う音、
おそらく秋葉の叫び声で近くの枝に止まっていた小鳥が逃げたのだろう。

「何言ってんだよ、これぐらいの………(ビクッ)」

オーラが、紅いオーラが………

「志貴さま……」
「兄さん……」

「…………わかりました」

志貴の敬語は”諦めました”と”ごめんなさい”と同義。
小動物のように縮こまって、静かになってしまう。

「分かっていただければ結構です、大人しくしていて下さい。
 学校へは私が連絡しておきますから」
「はいはい」

と、志貴が面倒くさそうに言うと、

「本当、ですよ……?」
「えっ?」

予想外に沈んだ秋葉の声に、思わず志貴は硬直する。

「本当に………無理は、しないで……下さいね………?」
「っ………ぁあ、ごめんな、心配ばかりかけて」
「全くです、もっとご自愛ください」

一瞬だけ暗くなった秋葉だったが、もういつもの表情に戻っていた。
そうだな……心配させるわけにはいかないよな。
自分に言い聞かせるように心の奥で呟いた。

「じゃあ、私は学校がありますから。翡翠、後はお願いね」
「はい、かしこまりました」
「では兄さん、お大事に」

ああ、と笑顔で返すと、少し安心したのか、
最初よりも明るい顔になって、秋葉はドアを閉めた。

そして、一瞬の間。

「じゃ、じゃあ、俺はもう少し寝るから。翡翠は?」
「はい私は――――」


穏やかな日常。
空は、ゆっくりと曇り始めていた………
過ぎ行く雲、ただ緩やかに、流れる風ただ穏やかに、
青い空を染める………灰、そして黒へと………
ゆっくりと、しかし確実に………




「――――では、失礼いたします、志貴さま」

ドアの閉まる音がして
空になった昼食の食器の乗ったトレイを持って、
翡翠が部屋を出て行く。

時計の針は2本とも頂点を少し過ぎた所。
規則正しくそのリズムを音で刻む。

チック  タク  

   チク  タック

志貴は、窓の外に目をやる、
しかし雲は厚く、空からの光を遮っていた。
窓から部屋に入ってくる光は殆どなく、
真昼の景色を、もう夜のように闇を染めていた。

「……寝るか」

腹が満たされたこともあって、志貴の瞼は少しその重みを増して、
自身を眠りへと誘う。
すぅーーっと、体が楽になっていく。
視界の端に、黒い塊が見えたような気がしたが、
目は……閉じられた。


沈黙の中を風が吹く。
対峙するのは闇と………

「あんた………」

また……繰り返す。

『………………』

目の前にはあの男。
今は目を閉じ、何かを一身に待っているように見えた。
両の拳を軽く握り、闇と一つになるように静かに。

風が、逃げていく。
闇の中向き合い、その場の2人から、空気が逃げていく。

時……いや、そんなものはこの空間には皆無、
しかし確かに何かが流れ、そして過ぎていく。
ゆるやかで、静かで、怖くて………

そして、その男が、ゆっくりと目を開けた………

「っ!!!」

その「眼」を見た瞬間、
志貴の中、何かが動き出した。


コロス


「五月蝿い……!!」


コロサナケレバ コロサレル


「何を勝手なことを……」


コロセ コロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセ………


「ぅうっ!!」

頭が痛む。
激しく鳴り響く七夜の声を、志貴は必死に振りほどこうとするが、


コロセ ヤツハキケンダ キケンナラコロセ ヤツカラハチノニオイガスル

ヤツハ………


一瞬、七夜の声が途切れる。


………オレトオナジニオイガスル


「な、に………っ!?」


一瞬の思考の隙、それを七夜は見逃さない。
即座に体の機関の主導権を握る。
眼鏡が………外れた。



  意識/が反/転す/る



「ふぅ……」

頭痛が止み、七夜が表へと現れる。
血の巡りが活発化、体の奥のギアがかみ合い、蒼き眼が闇を見つめる。
そして静かに、志貴と同じ問いを繰り返した。

「貴様、何者だ」

音も無くナイフを抜き、逆手に構えながら、
七夜は重心を低く、目は鋭いまま。
しかし、それから動かない……………いや、違う、動けないのだ。

「っ………」

感じる、汗が冷え、流れる冷たさを。
踊る、血が、心が、意志が。

『お前には………』
「っ?」

闇に響くそいつの声。

『お前には……何が視える……?』
「何?」

逆に問い返され、意味も分からないまま少しだけ間合いを詰める。

『まぁいい………』

どこか期待はずれというか馬鹿にしたような顔で、
懐に手を忍ばせるそいつ。

「………………」

取り出したのは、細い棒が2本。
いや、棒と言うよりは、金属で出来た太鼓の撥の方が近いだろう。

『お前の………は………だな………』
「っ!?」

短く呟き、跳んだ。
常人の目になら消えたように見えるかもしれない、
刹那――――二人の交わる音が響く。
キイィィン、と高く闇に広がりながら、金属同士がぶつかり、
闇の中で幾度と煌き、そして消えた。

『なるほど、お前も闇に生きる者か……』
「さて……どうする?」

僅かに笑みを浮かべて、対極に足を止める二人。

『どうもしない、何も…………変わらないっ!!』
「っ!?」

消えた。
今度こそ完全に消えた。
見えない、七夜の眼を持ってしても、その動きは捕らえる事が出来なかった。

「ちっ」

舌打ちをしながらそいつの気配を探る。
キラリ、右後ろ、何かが光った、そんな気がした。

『………………』
「っ!!」

何も見えなかった。
唯一見えた物、視界の端に捕らえる事ができたもの………それは…………



――――――その刹那、闇に七夜の血が散り、一瞬の内に飲み込まれた。



…………黒の中、煌く蒼き瞳だけ。



弾け飛んだであろうその血の跡さえもう見えない。

目の前にはまだ闇が広がっていた―――――


(To Be Continued....)