樅の木を探しに
                    阿羅本 景



 世界は灰色に包まれていた。
 雪の降ると辺り一面は銀世界になると言う。だがそれは誤りだった。
 しんしんと静かに雪は空から舞い降り、地上の世界に積もってゆく。そんな
雪の欠片を解き放つ空の色は――塗りつぶしたような灰色。

 音がない。
 雪が地上の音を吸い取ってしまうのと、もともとこの広大な敷地の中に立つ
屋敷で音を立てる者がいないためか、耳鳴りがするほどの沈黙が辺りを支配し
ている。

 太陽の光が差せばまぶしいくらいに輝く雪も、この灰色の暗い空の下ではま
るで染められたかのように冷たい、輝きのない青ざめた白になる。灰色の空と
青ざめた雪源、重く湿った雪を葉の上に積もらせる針葉樹の青い枝と焦げ茶の
木肌。目に映る色彩はそんな沈鬱とした色ばかり。

 まるで、冬の沈黙の中で息を詰めて絶えているような。
 いや、ここはもう命のない死に絶えてしまった世界なのかもしれない。私一
人が宿命たる死の定めからこぼれ落ち、物言わぬこの世界の中で永遠に――永
遠に彷徨い続けなければいけないのかもしれない。

 傷ついた心と体を抱えたままで。
 ――いったい何に私は傷ついているのだろう?
 思い出してはいけない気がする。窓。雪。暗い空。ガラスの曇り、暖かい暖
炉の前の黒い影。影は笑う。おいで、おいで、そこにいては寒いだろう?

 マントルピースの中赤く燃える炎。それは暖かさやぬくもりを私に伝えては
くれない。火だ、燃える火。井桁に組まれた薪がじりじりと燃えていく。微か
な燻される煙の香り、そして甘く苦いパイプ煙草の煙、饐えたような――アル
コォルの香り。
 影が、腐臭を纏って光の前で蟠っている。

 ――これが死の影なのか?未だに生き続ける私を物言わぬ闇と沈黙の世界に誘う……

 影は笑う。おいで、おいで。そこにいては寒いよ、さぁ、来るんだ、来ないと――

 影は口が引き裂けるほど笑った。上弦の月の狂気の瞳。下弦の月の哄笑の歪み。
 ちろちろと炎が燃えていた。瞳の奥と喉の中で。それはふいごで熾された炭
火の用に赤く、狂おしく燃えている。

 来ないと……痛い目に……お仕置きをしないと……

 暖炉の灰に刺してある、黒い鉄の火箸。
 影がその手を伸ばすと、長い火掻きの火箸を掴んだ。ずずず、とそれは抜か
れ、黒く忌々しい刃になる。影の持つ刃は細長く、その先端は赤黒く灼けていた。
 さぁ、来るんだ……来るんだ……こっちに……そうしないと……私は……

 影が揺れる。がたがたぶるぶると。
 笑いながら、影が背を伸ばす。天井にぶつかってしまいそうなほどの長い影。
 その手には赤く燃える剣が握られ、その体から獣と煙と死の香を漂わせながら。

 来るんだ。こちらに来て傷ついた私を癒しておくれ。
 お前じゃないと出来ないんだ……だからこっちに来るんだ。
 来るんだ……くるんだ、こちらに。

 ――あそこにあるのは死ではない。
   死よりもさらに苦しい、永劫の苦悶。影と炎は私をじりじりと犯すだろう。

 ガラスの向こうの雪の世界は、静謐に満ちていた。
 あっちに行ければ……あっちに行ければ楽になれる――

 沈黙と静謐、停滞と死。だがそこには安らぎがある。
 永遠に広がった、静止の世界――のはずだった。

 だけど、そこに動く影があった。
 曇ったガラスの向こうに、雪原に誰かが居る。

 手を伸ばして、そのガラスの向こうに手を伸ばそうと……ガラスの向こうに
は、笑う子供たちが居た。男の子と女の子。そして何よりも、己自身の姿がそ
こに。

 ――いけない。あっちにいってはいけない
   あっちにいったら、あの子たちもこの影に蝕まれる。

 子供たちは雪の中で、はしゃいでいた。雪の玉を作っては投げ合う稚い仕草。
 手に掛けたはずの窓枠が、ひどく……遠くなってしまった。
 そして振り返る。影は笑っていた。
 
 影は笑う。どうした?あの子たちがうらやましいのか?
 だが、お前には行かせはしない……お前は私の元にいるのだ、私が終わるそ
の時まで。

 影が広がる。手を伸ばし、灼けた黒朱の剣がぐにゃりと空間を歪ませる。荒
い獣のような息づかい。裂けた口の奥でちろちろとヘビのような真っ赤な焼け
た舌が蠢く。

 窓に背を向けて、がたつく膝を懸命に堪えて立ちふさがる。
 影は部屋のすべてを覆い尽くしていた。もはや背中にした窓から差し込む灰
色の弱い光だけが頼るべき唯一の光であり、その向こうにこの影を――

 来るんだ……私の元に来ておくれ……
 ――コ
 ―――――ハ
 ――――――――――――







「……ああ、ここにいたんだ」

 ガチャリ、と扉が音を立てて鳴るとキィ、という軋みをわずかにびびかせて
開く。
 そして、のんびりとした優しい声が部屋の中に流れる。その声に黒い影は―
―いや、彼女が見ていたはずの黒い影は風に吹かれたかのように消える。

 すっと消え去り、彼女の目には天井まで書架で埋められた書斎が広がる。
 窓に手を付き、指先にひんやりと湿って冷えるガラスを感じていた彼女は、
まるで白昼夢を見ていたかのように辺りを見回した。

 ……いったい何を見ていたんだと?
 それに、あの影は私のことを呼んでいた……コ……ハ……?

「どうしたの?七夜さん」

 扉の中に体を滑り込ませてきた志貴は、心配そうに声を掛ける。
 濃い小豆色の和装に白いエプロン姿の七夜は、窓辺にぼんやりと佇んでいた。
志貴の瞳に写ったのはまずは窓を背にして、うつろな瞳で震えている七夜の姿
であった。
 うつろな目は扉の方ではなく、天井を見上げていた。そこにはガラスのラン
プがある以外に、何ら目立つ者はないのに……あたかもそこから恐ろしい龍が
襲いかかるかのような不安と焦慮にまみれた顔。

 そして、志貴の声を聞くとふっとその震えが止まり、辺りを二三見回した後
でうつろな瞳で所在なさげに立ちつくしていた。自分がここに来たのを気づい
て居るんだろうか?とこんな七夜の様子を見ると不安を覚える志貴。

 だが……だが、七夜であれば無理もないと心の中では志貴は思う。
 この少女の七夜は、この屋敷の中では別の名前があった。その名にまつわる
出来事はあまりにも忌まわしく、悲しく、そして……

 忘れ去られるべきものであった。だが忘却はすべてを癒しはしない。

 七夜はしばらく正体のない様子で立っていたが、部屋の中を進んでくる志貴
を無意識下に顔で追い、そしてようやく気が付いたかのように頭を下げた。

「これは、志貴さん……すいません、ちょっとぼーとしてたみたいです」
「ああ、翡翠も七夜さんも忙しいからねぇ……まぁ、無理もないよ」

 志貴は笑って見せたが、部屋の中だというのに履く息が白く曇るのを見た。
 書斎の空気は冷え切っていて、雪の降る外に比べて風と雪がないだけまし、
というほどの冷え込みようだった。
 この書斎はあまり利用しないので、空調の改装は行われていなかった。暖房
設備と言えそうなのは、書架と机の反対に作りつけられた石造のマントルピー
スぐらいしかない。

「……こんな所に居て寒くない?七夜さん」

 さらした指先がかじかむほどの冷気の中で、ずっとこの書斎の中にいたであ
ろう七夜を気遣う志貴。もしかして震えていたのは寒さ故だったのかもしれな
い、とも思う。
 それに、外の雪。日が差さぬ曇天の鈍い曇銀の空ゆえに、全く気温は上がろ
うとしない今日の天気。

 志貴はすたすたとマントルピースに歩み寄ると、屈んでその炉内を覗く。
 ちゃんと乾いた薪が積まれ、粗朶の火口もつくり付けられている。翡翠はこ
う言うところまでちゃんと手入れをしているのか……と思うと、感嘆の吐息す
ら漏れそうな志貴であった。

「いえ、そんなに寒くはないですよ……これくらいなら慣れてますからね」

 七夜はそう言って、自分のことを気遣う志貴に微かに微笑んで見せる。
 志貴はくるりと首だけ振り返ると、窓を背にしたいかにも頼りなさげな風情
の七夜を見つめていた。

 自分の伴侶である翡翠の双子の姉だけあり、立っているだけで絵になる姿。
 だがそれは翡翠と同じように細く、志貴にとっては抱きしめて暖めずにはい
られないような保護の本能を掻き立てるものがある。

「……志貴さんは、何をされにこちらに?」
「ああ……まぁ、七夜さんを捜してたんだよ。キッチンにいなかったからしば
らく探しちゃったけど、翡翠に聞いたらここじゃないのかって」

 志貴は中腰になって手を伸ばすと、マントルピースの上の調度の上をさぐっ
てマッチ箱を手に取る。
 一本マッチを引き出すと、箱の腹に当てて擦りつける。

 しゅっと擦過音が鳴ると、マッチの鱗片に火が点る。
 あかく小さく燃える炎が、志貴の手の平の上に現れる。

「…………」

 七夜の瞳は、そのマッチの炎に吸い付けられていた。
 赤く燃える炎。暖炉の前の人影。
 影。光。あざ笑う影。

 私はいったい何を思い出し、何に怯えるのか。
 七夜にはそれが分からなかった。思い出すはずもない失われた記憶の中の何
かがうずき、自分を苦しめる。
 それは切り離された四肢の先が痛み出すような、不条理で耐え難い心の苦痛。

 あの影は何故私を呼ぶ?
 その名前。あの影は私のことをなんと呼んでいたのか?
 なぜあの影は私を苛むのか――

 赤くちろちろと燃えるマッチ。
 その光は七夜の目の中に虚ろに写り、そして――




 消えた。





「…………」

 不意に炎が消え、七夜は呆然として立ちつくす。
 マッチを擦って火を付けた志貴が、その炎を暖炉の中に入れることなく手を
振って消したからだった。白い煙が一筋揚がり、炎と七夜の幻視は消えた。

 志貴は、冷たいとも思える硬い瞳を眼鏡越しに向けていた。
 マッチを擦って暖炉に火を入れようとした志貴はふと振り返り、七夜を見た。
七夜は窓辺に佇んだまま、寒さも何もかも忘れた様な停止した表情で、志貴を
――志貴の手の上のマッチを見つめて黙っていた。

 いったい何があるのか?怪訝に思った志貴だったが、七夜の白い手が微かに
震えているのを見ると、その手を止めて七夜の様子を見つめていた。
 七夜は怯えていた。この炎に。

 何故?と志貴は思った。だがその原因が思い当たる前に、手の中の炎は耐え
難いまで軸を燃え尽きようとしており、仕方なく消したのであった。

 一流の煙を隔てて、志貴と七夜は向かい合う。
 志貴は軽く手を振って燃え殻を暖炉の中に捨てると、軽く唇を噛む。

「……大丈夫?七夜さん」
「いえ……その、志貴さん。私どうかしていましたか?」

 七夜は表情を取り戻すと志貴に済まさそうに尋ねるが、その顔色もひどく弱々
しい。内心の動揺を隠しきれない七夜の表情を見て、志貴はなんと答えたら良
いのかに窮した。
 いろいろな慰めの言葉を思いつくが、どれもふさわしくない。

 わからない……そのもどかしい沈黙を抱えたままで志貴は軽く顎を撫でると、
暖炉の前から歩き出す。
 自分の方に近づいてくる志貴を七夜は見つめている。志貴は七夜のそばまで
来ると、その目を窓の外に向ける。

 なんとなく気まずそうな志貴の素振りに、七夜は微かに心を痛める。
 自分が頼りないために、妹の翡翠や志貴、秋葉に迷惑を掛けることを心苦し
く思う。だけども、そうなってしまう原因は七夜の手の触れることの出来ない、
別の世界にあるような気がした。

 別の世界のそれは、影になって現れる。
 書斎で、食堂で、廊下で、不意に姿を取り立ちふさがる。影は笑い、七夜を
責めさいなむ手を伸ばす。そして決まってその名前を呼ぶ。

 ――コハク

 いやな名前だった。宝石の名前であったが、その言葉に苦い毒を感じる。
 なんで影が私をコハクと呼ぶのか?私の名前は……翡翠にもらった名前は七
夜なのに。忘れてしまった過去の記憶か、それとも――

「ああ、積もってるねぇ……」

 志貴は窓の外を眺めると、聞かせる訳でもなさそうに呟いた。
 翡翠も振り向いて志貴と同じ窓の外を見る。空からしんしんと音もなく降り
続ける大粒の雪が、庭を白く覆い尽くしている。

 七夜もその白い風景を見つめながら、そっと言葉を漏らす。

「そうですねー、雪かきしないといけませんねぇ」
「ああ、そういう力仕事は俺に言ってほしいね。いつも役立たずだから、俺は」
「もう、志貴さんはそんなことはさせられませんよー。翡翠ちゃんや秋葉さま
に怒られちゃいますから」

 くすくすと七夜は笑うと、自分を見下ろす志貴の瞳を見る。
 先ほどから七夜を見つめる視線に、心配とそして憐憫の色を感じる。そんな
視線は七夜にはいつも、自分が迷惑を掛けるひどく済まないような気持ちにさ
せられる。
 そんな志貴の視線は無意識のものであり、七夜を目にすると志貴も申し訳の
ない心に襲われるのであるが……

 また、二人の言葉は止んでしまう。
 しん、と音を吸い取られた沈黙が広がる。沈黙はこの書斎の空間にその停止
を命じているかのような、言い難い重い空気。

 志貴は手の平でかるく窓ガラスを擦ると、きゅ、と音を立てる。
 その音をきっかけにするように、志貴はゆっくり口を開くと……

「……あんまり俺も覚えていないなぁ……」
「なにを、ですか?」

 ぼそりと呟いた志貴の言葉に、七夜は振り返る。
 志貴の瞳はぬぐわれた窓ガラスの向こうを見つめていた。青に黒を溶かした
ような深い色の瞳は、その向こうの雪景色を見つめている。

「昔この屋敷に居た頃に、雪が降ると遊んだはずなんだけど……秋葉と、翡翠
と……それに」

 そこまで言うと志貴は唇を止め、その次の名前を口にするのを止める。
 志貴の頭の中に去来したのは、あの白髪の、狂乱した叫びを残して倒れた死
徒の名前であった。そして彼を駆り立てたのは、その雪の庭出ることが出来な
かった……

 志貴は軽くガラスに指を突き、唇を噛む。
 言い淀む志貴の姿を、七夜は見上げた。顔に掃かれた表情には、後悔と苦悶
が混じり合っており、それが志貴の中に深く根を張った感情の一部であると感
づく。
 七夜はぼう、とその横顔のまなざしを見つめていた。

 そして――

「雪の日に……こうやって窓辺にいて、窓の外で遊ぶ子供たちを眺めている…
…そんな記憶が私にも」

 七夜が口走った言葉に、志貴は焦りに満ちた顔を向ける。
 その目は信じられないものを見たかのような、また恐れていたものが訪れて
しまったかのような、苦悶を堪える様な顔。
 声が喉の奥で乾いて張り付いたかのような志貴は、次の言葉を待った。

「……あったような気がするんですけども、覚えてませんねぇ……私、ベッド
で目覚めた前のことはみんな忘れちゃいましたから」

 そういって七夜は笑った。微笑んだつもりなのに、今に泣き出しそうな力弱
い顔になっている。弱々しく震え、でも一人で立っていないといけない苦しさ
と悲しさを抱えたような七夜の姿。

 志貴の瞳は、その向こうのもう一人の少女の姿を見ていた。
 あの少女は、己を使い果たして消えていった――

「そう……俺もね、七夜さん」

 志貴もそんな七夜を力づける為に笑おうとしたが、どうしようもなく弱い顔
にしかならない自分を見いだしていた。顔の筋肉に力が入らず頬が勝手にひく
ひくと嗚咽を漏らしたくなるほど震えるような。

 口元をぬぐって、志貴は言葉を続ける。口元を揉みほぐして事もすると絶え
そうになる言葉を暖めて出すように。

「実はこの屋敷の昔のことも、全然覚えていないからね。いろいろあって……
だから俺も七夜さんも同じ様なものなのかもね。だから……」

 志貴ふっと口ごもる。
 七夜もただ、志貴の口元を見つめ続けた。

「……だから、七夜さんも……これからの……」
「ええ、私は……私は今は幸せですよ。志貴さん。秋葉さまも翡翠ちゃんも優
しくしてくれますし、志貴さんも居ますから。だから……」

 だから、あの記憶はもう……私には要らない。
 どの記憶だかは定かではない。でも、七夜の私には要らない記憶。
 琥珀がふと暖炉を見つめると、そこには影は蠢いていなかった。静謐で冷た
い書斎の光景だけが、永劫の過去から未来まで変わらぬ時間の中であり続ける
かのような、そんな……

 志貴はその言葉に胸を撫で下ろした。七夜が何かに苛まれ続け、七夜が折れ
てしまうのではないのかという不安を禁じ得なかった。だが、七夜は雪折れの
しない柳の枝のように、強く息づいていることを感じて。

「志貴さんは幸せですか?」

 ふと尋ねられた言葉に、志貴は微笑む。

「幸せだよ。翡翠がいるし、秋葉も七夜さんも、先輩も有彦も居るしね。勿体
ないくらい幸せだよ……あれだけの悲しみと別れを乗り越えたから、幸せにな
らなきゃいけない義務があるから」
「?」

 謎めいた志貴の言葉に、七夜は首を傾げた。
 自分の言葉とその背後にあった様々な事件を覚えていないであろう七夜に喋
る言葉じゃなかったと感じると、志貴は軽く笑って手を振る。

「……いや、たいしたことじゃないよ……それにしても」

 志貴は改めてこの書斎の中を見つめる。
 暖房も入れられてない冷え切った部屋の中で、履く息が白くなる寒さを改め
て感じる。ここに長居すると風邪を引いてしまうかも、とも思いながらもまた
窓の外を眺めると……雪をかぶった庭の森。

 あの雪の庭に踏み出せば、俺も七夜さんも過去と決別できる……と志貴は感
じた。窓から眺めるばかりで外に出られなかった七夜と、外に出た記憶を失っ
た自分と。今の雪降る静寂の庭に出るにはおあつらえ向きの二人だった。

 志貴は頭の中で、いくつかの考え事を済ませる。

「……ねぇ、七夜さん」
「はい、志貴さん?あ、すいません、寒かったですねこの部屋……」

 志貴の軽い肩の震えに気が付いて、七夜は心配そうに話しかける。

「いや、それはいいよ。それよりも……もうすぐクリスマスだから、ツリーの
樅の木を探しに行かないか?」
「……クリスマスツリー、ですか?」

 不意にそんな提案を出してくる志貴を、不思議そうな目で七夜は見つめる。
 志貴はようやく楽しそうに相好を崩すと、七夜の冷たい手を取る。
 ひやっとした、細く冷たい手の平。

 七夜の手には、包み込む暖かい志貴の手の平のぬくもりが伝わる。

「あ……」
「そう。庭にはツリーになる木があると思うし、庭は七夜さんが一番詳しいし」
「でも、雪降ってますよ?」
「いいじゃないか、雪降る中にツリーを探しに行くなんてロマンチックで。雪
は嫌い?七夜さん」

 志貴の問いに、七夜は笑って顔を振った。
 そしてクスリと悪戯そうに笑うと――

「でも、二人で一緒だったら後で翡翠ちゃんに嫉妬されちゃいますよー」
「あ……それがあったか」

 志貴が咄嗟に焦ったような顔で俯くと、七夜は優しく顔を見上げた。

「大丈夫です、お姉さんがちゃんと翡翠ちゃんに説明しますから」
「そ、そうしてもらえると助かる……じゃぁ、勝手口で支度して待ってるから
七夜さんも」
「はい、わかりました、志貴さん」

 そう言って、最後にぎゅっと七夜の手を握ると、志貴は離して軽やかに歩き
出す。
 七夜もそんな志貴を追って書斎を横切る。部屋の戻って靴とショールを用意
しないと、と思いながら戸口まで来て、ふと――


「―――――」 



 振り返った書斎の中の
 窓辺に、小さな女の子が佇んでいた。
 綺麗なワンピースの、肩まである髪にリボンを結んだ、琥珀色の目をした少女


「……どうしたの?七夜さん」

 志貴の声を感じながら、七夜はじっと戸口の向こうの窓辺を見る。
 その少女は、七夜に軽く手をあげると、そのちいさな手を振って……

「……七夜さん?大丈夫?」

 先に廊下を進み掛けていた志貴は、書斎の中を眺める七夜を不安そうに見つ
める。
 七夜の後ろに立って何を見つめているのかを確かめようかと思ったが――志
貴は軽く頭を振ると、歩き出した。
 七夜の……七夜の、琥珀の記憶は彼女が見つけるべき解決だと思って。

 窓辺の少女は、七夜に手を振る。

 その顔には幼子の笑いはなく、凍り付いたような虚ろな表情がある。七夜は
瞬きを忘れてその少女の姿を見つめ続け――その顔が、自分の今の表情の鏡で
あると気が付く。

 そうだ、この娘を笑わせるには私が、私が笑わないと……
 樅の木を探しに雪の庭に行くから、笑ってこの娘に別れを告げないと――

 七夜も手を挙げる。そして、幼子を見る母のように笑うと。
 その子供も、吊られるように笑う。
 七夜の口がそっと、別れを口ずさむ。

「さようなら……琥珀ちゃん」

                            《END》



【あとがき】


 どうも、阿羅本です。今回のSS、お楽しみいただけましたでしょうか?
 これはクリスマスSSとして公開したのですが、なんというのか……クリスマスは口実
というか、そんな感じで恐縮です(笑)。

 あれですね、阿羅本は根っからの琥珀さんラヴァーであり、故に時々琥珀さんでしん
みりしたSSを書かないと我慢できなくなるのですよ、いろいろと。なので滾る琥珀さん
愛を迸らせながら書きました。

 ……でも、七夜SSじゃないのか、とはおっしゃってくださいますな(笑)

 七夜さんは琥珀のトラウマを抱えているというのはなさそうですがでも七夜という人格
も結構危なそうなのでこんな話もありかなー、と思って……やっぱり幹久は悪だ(爆)

 ちなみにSSを書くきっかけになったのは、2002年12月の関東の早い雪の光景で
すね。灰色と青白の音のない雪原というのは絵になると常々思って居るもので。

 それではみなさま、おつきあい頂きどうもありがとうございます。


 でわでわ!!

                                     2002/12/24 阿羅本 景