たらりと指先からそれがこぼれ落ちる。
それをどうすることもなく、流れるままにして眺める。
指の先から、指の股へ、手のひら、手の甲へと、ゆったりと崩れ落ちるかのよ
うに垂れていく。
ついには手首をも濡らし、てらてらとした輝きを目に写す。

舌をつきだして、手首の動脈のあたりからじっとりと舐めあげる。
手のひらへ、指の股へ、指の先へと。
舌を動かすのではなく、手を上から下へ流れるように動かして舐め尽くす。
一度では舐めきれないので、もう一度。
それでも、まだ手にその触感が残るので、さらにもう一度。

何度もその行為を繰り返しているうちに、手を濡らしているのがそれだけでは
なく、自分の唾液が混ざっていることに気づく。
ぬとりとしたそれと、てろりとした唾液が微妙な光の加減を創り出している。
手を天井の明かりで透かすように持ち上げて眺める。
手を通した赤い血の色と、それらの光を屈折する働きがあいまって、何とも美
しい。

今度は手を動かさずに、首を下から上へと動かして、舐める。
唾液と混ざった方が、むしろ、甘く感じる。
錯覚にしろ、幻想にしろ、その甘さは私にとっては真実。
その甘さを確かめるかのように何度も舐める。

それと唾液で出来た雫が一滴、糸を引きながらそれの源泉の壺へと落ちる。
ゆっくりと、静かに、確実に、糸を煌めかせながら。
手のひらを舐めている舌をそのままに、落ち行く雫を眺める。

それは、文字通り、甘い蜜だった。



「甘い蜜」

                     のち



みーん、みーんと蝉がうるさく鳴いている。
真夏の暑い、昼下がり。
私は、ぽつんと一人、木の下で膝を抱えてうずくまり、いじけたように口を突
き出して、ただ地面を眺めていた。
木の影に私の小さな影が重なり、淡い影の境界を作り上げているのを、じーっ
と見つめていた。
色々と駄々をこねたのだけど、結局私は置いて行かれてしまった。
理由はいつも言われる、「秋葉はまだ小さいから」という、私にとってあまり
にも理不尽な理由だった。

「シキ兄さんは、ずるい」

そう呟いて、私の影を横切っていく蟻の隊列を眺める。
人差し指で、その一匹を押さえて動けないようにする。
じたばたと指の下で暴れるのが分かるけど、そのままにして、じっと見つめる。
すると、指の先から鋭い痛みがやってきた。

「いたっ」

小さな声で、そう呟く。
痛いのに、あんまり痛いと思えない。
それは痛くないからではなくて、痛いと感じられないからだろう。
実際、すぐに指を離して、あわてて口にその指を含んでいたのだから。

「みんな、ずるい」

指をちゅぅちゅぅと吸いながら、また小さな声で呟く。
今日は庭にある、小さな池のところまでみんな行っているんだ。
そこで水をかけ合ったり、飛び込んだり、泳いだりして、楽しんでいるんだ。

「ずるい」

頬をぷくっと膨らませて、口の中で呟く。
私だって、好きでちっちゃいんじゃないし、好きで女の子なわけじゃない。
だいたい、女の子ということだったら、翡翠ちゃんだって女の子なのに。
みんな、翡翠ちゃんにはなんにも言わないのに。

「うー」

むくれながら、唸る。
視界がぼやけてくることで、涙が浮かんでいることに気付く。
指をくわえながら、空いた方の手で目をこする。
だけど、それは涙を止めるどころか、ぽろぽろとこぼれ落としていってしまう。
悲しいのか、悔しいのか、怒っているのか、いじけているのか、自分の心がど
うなっているのかは分からなかったけれど、とにかく涙が止まらなかった。

「うく、えっく」

口に含んでいる指を噛みながら、嗚咽する。
もう、涙を止めるようなことは考えない。
とにかく涙を流すことだけが、今の自分にできることのように、ひたすらに泣
く。
涙は頬をつたって、自分の影へと落ちていく。
その影に、もうひとつ、影が重なったのに気が付いた。

「どうしたの? 秋葉」

優しげな瞳をした、一人の少年。
今、ここにいるはずのない、私をおいていった張本人の一人。
志貴兄さんが、かがんで私のことを見つめていた。

「えく、うっく」

その顔を見たら、ますます涙が止まらなくなった。
さっきまで、置いて行かれたから泣いていたのに。
なぜか、後から後から止めど目もなく涙が出てきて、声も出なくて、ただ、泣
き尽くしていた。

「指、怪我したの?」

私が指をくわえているから、そう思ったのだろう。
だけど、そうじゃなくて、そういう事じゃなくて、自分にもなぜだか分からな
いけど、とにかく泣いているのだ。
それを伝えようにも、口から漏れるのは嗚咽だけで、そのうえ、涙を流してい
る自分を見られたくなくて、顔すら上げられない状態だった。

すっと、柔らかく暖かいものが私のくわえている方の手を取る。
優しく手を包み込むようにして、ゆっくりと動かしていくと、指先が暖かく湿
ったものにくわえられた。

顔を上げると、志貴兄さんが私の人差し指をくわえている。
ちゅっちゅっと音を立てて、くわえている。
頬を軽くすぼませながら、軽く、優しく、指先を舐める。
やがて、それを終えると、ちゅる、と音を立てて口から私の指を取り出す。
強く噛みすぎていたのか、彼の口と私の指先にかかる透明な糸に、赤い雫がと
ころどころ浮かんでいた。

「美味しいよ、秋葉も舐めてみたら?」

そう言って、私の目の前に私の指を差し出す。
いつの間にか涙の止まっていた私は、言われるがままに自分の指を再びくわえ、
舌先で舐める。

―――――――――――――――――――甘い――――――――――――――
―――――

なぜか、それをとても、甘い。
きつい甘さではなく、ただ甘いのでもなく、薫りが口の中に膨らむような甘さ。
舌先だけでなく、もっと深く味わおうと、さらに指を奥へと押し込み、舐め、
味わう。
ゆっくりと、確実に、しかしながら一心不乱に指を舐める。
ようやく味わいつくしたあたりで、ふやけた指を取り出して、まじまじと自分
の指を見る。
普通の、いつもの私の指。
なぜ、それがそんなに甘かったのか、理解できなくて彼の顔を見上げる。
彼は、満面の笑みでポケットから茶色い歪な固まりを取り出した。

「ちょっと、蜂蜜を塗ったんだ。……遊んでいたら見つけてね。最初に秋葉に
見せようと思ったんだ」

照れくさそうに、後ろ髪をかき混ぜながら笑いかける志貴兄さん。
その笑みは、いつもと変わらない。
だけど私には、その笑みがとても眩しく、優しく、強く、輝いているように見
えた。

そして、一度兄さんとつながり、私とつながった、人差し指に目をやって。

もう一度、軽く、舐めるように、口に含んだ。



音も立てずに、雫は壺へと落ちる。
緩慢な波紋が、壺に満ちている蜜の表面を伝う。
それを眺めながら、あの時のことを思い出す。

それは結局、私の独りよがりの思い出。
兄さんの事だから、そんなことがあったこともすっかり忘れてしまっているこ
とだろう。
そう、私の一方的な、思い出。

だけどあの出来事は、私の想いのはじまり。
その前から淡い想いを持ってはいたのだけど、それを決定づけた、致命的な出
来事。
そう、私の全ては、あの時から始まっていたのだ。

ちょん、と人差し指を軽く蜜につける。
それから、指をゆるゆると蜜の表面に滑らす。
ぬるりとした感触が、指先を揺らしていく。

もしかしたら兄さんはこのことを憶えているかもしれない。
だけどこのことを兄さんに聞くことは、私は決してしない。
なぜなら、兄さんが憶えているか、憶えていないかなんてことは、重要なこと
ではないからだ。
大切なのは、私がこの想い出を、しっかりと掴んでおくこと。
ただそれだけなのだから。

ゆっくりと、指先を上へと上げていく。
蜜壺と指先の間に琥珀色をした糸の橋ができる。
ぷつんと、音を立てずに糸が切れると指を軽く回して、あまった小切れを絡め
ていく。
それが一段落すると、今度は少しも動かさずに、形がなじむまで、待つ。
巻き上げた糸車のようになっていた、蜜はやがて均一に指先をくるむ。
人差し指の、第一関節から上。
爪、指先、指の腹、爪の間に、煌めく光が纏う。

その光は、あの日の日差しを思い浮かばせる。
あの暑い、夏の日。
みんなに置いて行かれた私は、きっと、全てに置いて行かれたような気がした
のだろう。
そんなことではない、ということは今では分かるが、子どもにとっては、自分
の心だけが真実なのだ。
そんなときに、一人だけ、あの人だけが、私を迎えてくれたのだ。
そう、私はあの時から、ただ一人、兄さんさえいればいいと思ったのだ。

指先の明かりを心ゆくまで楽しんでから、ゆったりと口に含む。
あの時の甘さは、忘れない。忘れることはない。
それは、蜜の味だけでなく、血の匂いでもなく、彼と本当につながったのだと
感じた想いの甘さだったのだ。

舌先でぬらりと舐めて、じっとりと甘さを味わい、楽しむ。
舌だけでなく、指もうねるようにして舌の上に踊らして味わう。
ちゅるちゅると、すこしく音が口の中で響く。
ねろりと舐め、ちゅるりと吸い、指先を味わいつくす。

ちゅぽんと、音を立てて指を口から取り出す。
泡が浮かぶ大量の唾液と、ほんの少しの蜜。
混じり、合わさったそれを、唇の上に這わせる。
あまった蜜を口をすぼませて、す、と吸い上げて、作業を終わらす。

そう、これは、私の一人だけの、儀式。
琥珀にも、翡翠にも、そして兄さんにも秘密の、私だけの儀式。
子どもの想いと、少女の想いとの連なりを確認するための。

そして、指先をぬぐい去り、蜜の壺に静かに蓋をし、寝台の下にある箱に入れ、
鍵をかけて、私の儀式を終了する。

そう、今夜の儀式はこれでおしまい。
朝はまた、いつもの通りに起きるだけ。
そうして、寝台に体を横たえて布団をかぶると、一瞬、寝台の底から蝉の声が
聞こえたような気がした。






◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

後書き

ちょーっとエロティックにしてみようとしたんですが、さすがに純情祭になら
なかったので、ふたつの原稿を合わせてみました。
そうしたら、めちゃくちゃ手間がかかってしまい、できあがるまですごい時間
がかかることかかること(笑い)。

だいたい、あんまりエロティックじゃなかったなあ……えろの道は深く、長い
と再認識。
精進せねばなりません。
……純情かどうかすら怪しいし(笑い)。

とりあえず、このへんで。
それでは。

2003年7月10日

のち