Dance with Nightmare
阿羅本 景
書き割りの町に、舞台の大地。
私を取り囲む町の影は、切り抜いた紙で作られた黒い影。ビルの作る長方形
の不揃いなシルエットに、なぜか回転木馬のちらつく影と人のない木馬の影が
混じる。私たちの周りをぐるりと取り囲む、切り紙細工の影。
いや、切り紙ではない――その切り紙細工に幻灯を浴びせた影だ。だけども
この影は暗く濃く、私が手に触ればその影のざらりとした手触りを感じるかと
思えるほどの。
そして私が踏んでいるのも、アスファルトに見えるが舞台の床だ。
足の下で朽ちるはずのない大地が、ありえざる悲鳴のような軋みを立てるの
が聞こえる。私が一歩歩くたびにぎしぎしきぃきぃと――気障りな音を立てる。
この音は聞いたことがある。古い講堂の床板の立てる軋み音だ。軋みが耐え
かねその底が抜け、暗渠の中に落ちていく――そしてこれが私たちを暗闇の上
に浮かべる唯一の足がかり、もし落ちれば、もう浮き上がれはしない。
書き割りの町に、舞台の大地。
そして私たちを照らす照明は、天から吊された白い月。
月は嘘のように白くて――何故そこにあるのかが分からない。空に星はなく、
のっぺりとした平たい夜空に、釣り糸で吊されたような月。
ああ、まったく――この世界は偽りに満ちている。私たちを取り囲むのはニ
セモノの世界、観客のない舞台、俳優の居ない舞台、それなのに――
殺し合う私たちだけは本物であった。
「……ほぅ、まだ立てるか。遠野秋葉」
私の目の前から響く低い声は甘くすら聞こえるが、それが私には不快だった。
私は地面に膝をつき、舞台の床を見つめる。床の上に広がる私の髪は――紅い。
紅く、赤く、朱い。
アカ。血の色、戦いの星の色、狂気と劇場の色。
そしてこの――私の色。
――こんなに赤くなってしまったら、もう戻れないかしら
こんな殺し合いの場なのに私は冷静だった。いや、冷静だ――戦うときは常
に冷静で、激情も私の血の中を巡る冷たい水銀となり、腕をより強く重く震わ
せる。冷静なだけに、今の私は味合わなくてもいい苦痛を味わう。
「ふぅ……あ……」
私の口から、内臓の立てる勝手な悲鳴が漏れる。
斬撃をかわし、澱髪を放ち、動体視力の限りを尽くし、戦いのための脳髄を
絞り尽くし――私が食らったのは遠慮のない蹴撃であった。スニーカーのつま
先が起きた尖った足が、私の腹にめり込んだ――何本か肋骨がひび割れ、砕け
る音も聞こえた。
息は半分も出来ない。
つま先のめり込んだ内臓は破裂しそうな苦痛を訴える。胃が裏返り、苦い胃
液を吐き出しそうになる。私は戦いのアドレナリンの中でそれを――忘れるこ
とは出来なかった。
脳内麻薬の心地の良い陶酔の代わりに、私に与えられたのは――沸き上がる
朱色の力。自分が間欠泉の噴流の上に填め込まれた栓のように感じる。もし私
を緩めれば、この舞台を真っ赤な奔流が埋め尽くし、朱色と赤色と紅色で全て
を覆い尽くすだろう。
まるで、パレットの上に混ぜられたレーキとカーマインのような、うねる赤
のマーブルに。
そして、この男が私の栓を掴んで揺さぶる。
この男がそれを望んでいるかのように。
その朱色のパレットに混ぜられた赤が自分の血の色であることを知ってか知
らずか。
「立て、遠野秋葉――混血のお前がこれ如きで小娘のように弊れる訳はあるま
い。確かに俺はお前に手加減はしなかった――しなかった、それがこの舞台で
の流儀ゆえに」
私の上に振ってくる声。
私は散らばる髪に手を伸ばし、その裾を掴んだ。真っ赤な、嘘みたいに真っ
赤な髪。
錆びたワイヤー、朱色の糸束、血に染まった髪。
私はゆっくりと立ち上がり、その男を睨む。
それは片手にナイフを提げ、軽く足を開いている学生服の男。糸のように細
い眼の底に、混じりけのない殺意を、殺すための冷酷な意思のみを宿らせた男。
それが、なんの皮肉か――私の一番愛しい人の顔をしている。
私が奪い尽くさんと睨む瞳に、まるで、彼は銑鉄炉から取り出した窒素の氷
塊のような、あり得ぬ異質の瞳を以て返した。それは燃えるように、冷たい。
憎しみと愛の矛盾した光彩だが、私には分かる――その激情と狂気が。
「立ったか。流石――と言うべきか、いや、だが我が敵としてはいささか物足
りないな。何のためにこの舞台が用意されたと考えている?」
そういって男は気障ったらしく、腕を差し伸べてこの舞台を抱くように示す。
舞台の上の俳優のような――いや、今の彼は間違いなく俳優であった。
舞台の演目はさしずめ、殺戮の円舞劇と云うべきか。
耳になるのは、鼓動と男の声。
ああ、まったく――気の利かない舞台だ。舞台の下にオーケストラのピット
があって、今頃細く悲鳴のようなバイオリンの響きがこの男の声に唱和すれば
いいのに。
「……殺し合いのために?」
「わかっているか。いや、ここで分からぬ愚昧であればこの舞台に昇る資格は
ない」
舞台に響く、男の独唱。
それは余裕に満ちあふれ、憎しみに満ちた笑いを歯に含み、眼を細めて私を
したり顔で見下ろしている。舞台を示す手に握られた、冷たく輝く鋼。
鋼には一滴の血も滴ってはいない。なぜならば――
私は動かない左腕をさする。腕は肩にまだ残っているのに、私には肩から先
に腕が着いているという感触がない。まるで細長い砂袋を肩からぶら下げて居
るみたいで、バランスを崩しそうで気持ちが悪い。
そう、私の腕はもう動かない。
「遠野秋葉。お前はこの俺の栄光ある敵手となるにふさわしい存在であった―
―だが、今のお前はあまりに無様だ。その無様さが俺にお前の腕を殺させた」
男は刃をだらりとぶら下げ、苛立ちすら感じる言葉を吐く。
だが、その顔は笑っていた。こんな笑いは――見たことがない。
狂っている笑いではない。これほどに……愉しげな笑いを眼にしたことはな
い。
喜びに酔う、歓喜の瞳が細く輝く。
気に入らない。
何よりも気に入らないのはこんな笑いをするのが――
「だが見事と云うべきか、我が直死の刃にお前は腕だけを犠牲にした。この刃
と瞳、避ける者は指折り数えるほどに折るまい。そしてお前には、腕を殺され
たくらいではその強さには翳りを生むまい。違うか?」
男はくつくつと低く笑う。顔を伏せ、前髪に瞳を隠してさも愉しげに。
私は腕を放すと、軽く歩幅を開く。ふわり、と私の足下から風が湧く。
風が――私の髪を舞い上げる。いやちがう、この髪が舞うからこそ風が吹い
ているのだ。
男の口の端が笑み歪む。
「……やれやれ、お前は今まで本気を出していなかったと云うことだな。舐め
られたものだ、この俺が――混血のお前の片手間で倒せる相手だと思われてい
たとはな」
舞う髪が、紅い。
今までこの男に手加減をしていたわけではない。いや、手加減どころか私は
二人の相手と同時に戦っていたのだから。
直死の魔眼を保ち、殺人を快楽とする異形の刃。
そして……全てを灰燼の中に沈めようとする紅い衝動。もう一人の遠野秋葉
――
もう、それを押さえる必要は無くなった。
この紅い奔流の中に身を投じれば、すなわち私は私でなくなる――だが、そ
の前に見ておきたかった。
この男の顔を――兄さんの顔を。
今はあの兄さんではない。七夜志貴という、もう一人の殺人鬼の姿。
でも、その顔立ちに、面影に、兄さんを感じる――それだけでも消えゆく私
への手向けとなろう。
「おかしいわね……」
私の口がそう呟く。
肋骨が砕けて肺に刺さり、内臓は弾けて血を滴らせる。立ってられない苦痛、
息が出来ない苦しみ。でも、私の口は勝手に喋る。
口から垂れる一筋の血を、私は舐めた。
それに味はしなかった。鉄の混じった血の味も、私には感じない。
ただ、空虚な――死の味がした。
「何がおかしい?遠野秋葉」
「おかしいわよ――兄さんのニセモノと、私のニセモノが殺し合いをするだな
んて。醜悪な戯画だわ」
「成程……面白い。だが、この俺と紅赤朱のお前、それこそが本当の姿だと考
えたことはないのか?俺もお前も呪われた、血と殺戮の運命の子だよ」
七夜は低く笑う。
私も笑った。そのような愚かしげな問いに以て返すは嘲弄がよい。
七夜は鋼の刃を、私は略奪の形無き刃を構える。
私と七夜の間の空気が、空間が不快に歪む。
書き割りの影絵が回り出す。
空の月は銀紙をキラキラと安っぽく輝かせる。
私と七夜、二人の踏む舞台は安普請の軋みをギシギシと上げる。
「さぁ――頃合いは良し。二人存分に殺し合おう」
「お生憎様――死ぬのは貴方よ、兄さんのニセモノが……」
「ほう、我を殺すか、遠野秋葉……面白い、殺しは飽きていたんだ、殺される
のもまた一興」
「ふん……減らず口を」
七夜は私の周りを軽いステップで巡り出し、私は視線を彼に据える。
私の中の私はもう、消える。
紅い。
赤い。
朱い。
全ての色彩が、全ての光が、全ての闇が赤くなる。七夜の姿が赤い闇の中で
浮かび上がる、その顔も赤い血の仮面を被る、ぬるりと空気は液体になり、私
はその血を肺いっぱいに吸い込んで――
七夜の姿が闇の中に赤く融ける。そして
私の髪が、全ての世界の束縛を断ち切った。
私がワタシであった最後の頸木が――
「――――――――――――死ね」
「奪い尽くせ――――――――――――」
まっかなせかいのなかでわたしがにいさんところしあう。
そんなまっかなせかいのなかなのに
どうしておつきさまはあんなにしろくまるいんだろう。
あかいのに、みんななにもかもあかいのに。
えのぐよりも、ゆうやけよりも、きずぐちよりもあかいのに
まっしろなおつきさまがきらきらきらと
それは、まるで――
おひさまのような――――――――
(To Be Continued....)
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