れんきんちょーきょーでん しおんたん さん がいでん
阿羅本
「はい、シオンさん?ちゃんと着られましたかー?」
ドアをノックすると、琥珀は中の反応も待たずに扉を開けた。
そしてさも愉しそうに口元を袖口で隠し、ひょこひょこと背を屈めて笑いを
噛んで部屋の中に進む。きちんとした調度が整えられた、趣味の良い客間の中
で琥珀はシオンを探した。
ベッドの上にはシオンのいつもの服装がきちんと折りたたまれ、ベレー帽が
その上にちょこんと乗っている。この様子からするとシオンがちゃんと着替え
たのだと分かる……が、その当人の姿が見あたらない。
琥珀はすぐに居所を掴む。ウォーキングクロゼットの扉が開けっ放しだった。
「もう、シオンさん?せっかくお願いを聞いて協力してあげたのに隠れること
ないじゃないですかー?そこに居るのは分かってるんですよー?」
「――――――」
黙っていればそのままごまかせそうなものを――クロゼットの中から手が伸
び、扉を閉めようとする。それを見のがす琥珀では当然なかった。
琥珀は素早く扉に走り寄ると真鍮の取っ手を掴んで――
「こ、琥珀!こんな姿の私を見て笑う気ですね?」
「笑うかどうかは見てみないと分からないですね?だから恥ずかしくてもなん
でもまずは琥珀お姉さんにおとなしく見られちゃってください」
「え……あっ!」
琥珀の腕は扉を回り込み向こう側のシオンの手を掴む。
そしてそのままぐっと引くと、たたらを踏むようにシオンが転げ出て来て――
「まぁ」
その姿を見るや、琥珀は目を輝かせる。それも手を合わせて頬に当てて目を
星のようにきらきらさせている。
二三歩と重心を崩したシオンは危うい態勢で踏みとどまろうとするが、スカー
トの裾に踏みつけてそのまま身体が宙を泳ぐ。そのままだとベッドに向かって
倒れ込みそうに……
「よっと、大丈夫ですか?」
琥珀はすかさず手を伸ばしてシオンを腕を取る。
シオンはようやく姿勢の安定を取り戻すが、その姿というのは――
メイド服であった。
小豆色の色を抑えた肩山のある長袖ロングスカートのワンピースに、白くシ
ンプルなエプロン。さらには長く結って垂らしてあるシオンの菫色の髪の上に
は白いレースのカチューシャが乗っており、その清楚な姿は何とも言えぬ密か
な色気が漂っていた。
だがそれを身にまとうシオンは落ち着きなさそうに自分の姿を見つめ、長い
スカートを摘んで持ち上げて――
「……労働用の作業服だというのにこのスカートの長さは理に反していますね。
やはり活動的になるためにはもっとスカートの寸を詰めて……」
「ふふふ、そんなことないですよ?スカートの要は捌きにありますかし、着物
は日頃の挙措が物を言いますからねー。それに」
琥珀はふふふっと笑いながら、ぐるぐるとシオンの周りを回る。そして背中
のエプロンの結び目を目ざとく見つけると、後ろを振り返えろうとするシオン
シオンの背中に取り付いて。
「もうシオンさんったら、エプロンの結び方が違いますよー?まぁ初めてだっ
たら仕方ないかもしれませんけども」
「そうなのですか?ですが自分で……あっ!」
シオンは背中でしゅるり、と紐を解かれる微かな音と、それに反していきな
り背中を剥かれるような不安を味わう。それも背中にぴったりと琥珀が身体を
寄せており、後ろから耳に囁かれる声が触れる。
縦方向に崩れて結ばれたシオンの背中の結び目は、琥珀の手によって綺麗に
横蝶結びに改められる。だが、結び終わっても琥珀は身体を離さない。
それどころか、ますます身体を近づけて後ろから抱きつくように――
「せっかくシオンさんが『志貴さんのお気に入りの服装は?』と聞いてきたか
ら趣味と実益を兼ねて翡翠ちゃんのメイド服を持ってきたですねー」
「志貴は、こういう服装が好きなのですか?本当に……真祖の姫君の寵臣とも
あろう者がこのような使用人の服装に倒錯した愛情を覚えているなどというの
は……」
シオンは背中に感じる琥珀の存在から身を離そうとするが、手を触れられて
も居ないのに離れることが出来ない。そして耳たぶに後ろから掛かる熱い琥珀
の息。
シオンは疑問を口にするが、それは自分を流されない様にするための気付け
薬のようなものであった。しゃべっていないと琥珀に絡み取られるような、そ
んな錯覚すらも――
「いえいえ、志貴さんはぶるまとかすく水とかそういう制服は大好きですから。
それに」
――それはいったいどういう服装なのだろうか?とシオンは思う。
不思議そうな顔のシオンに琥珀は忍び笑いを漏らすが、それは何か――後ろ
めたい秘密を共有する快感を滲ませたような、危うさのある甘い笑い。
声と言うよりも、耳に掛かる甘い息。それをシオンの敏感な耳朶は感じてい
た。
何よりも理性を重んじる錬金術師の自分が、肉体に惑わされている……いや、
この琥珀という女性はそれをなし得るひどくアンバランスな何かをその内側に
秘めている。シオンはそう考えるが、逃げることは出来ない――
この服を身につけたときから、あたかも蜘蛛の糸に巻き取られたかのように。
「志貴さんは翡翠ちゃんが好きですから、その翡翠ちゃんのお仕着せも当然好
きなのですねー」
「…………そういうものなのでしょうか」
琥珀のふざけているようでいながら、ひどく自信を感じる口調。
シオンは困惑を感じていた。琥珀は自分を悪ふざけの材料にしている、とも
感じる反面琥珀の琥珀なりの真剣さのようなものも感じる事が出来る。それに、
この使用人のメイド服は――不思議とシオンの思考を鈍らせる。
制服というものは外見ではなくその内面をも支配する――そんな呪の存在を
感じるかのような。シオンはエプロンの上からスカートを掴み、この着慣れな
い長い裾のメイド服を俯いてまだよく分からないような顔で見つめている。
身体の方向を変え、姿見にシオンは自分の姿を見た。
錬金術師の高貴な裔であるシオン・エルトナム・アトラシアである自分がこ
の極東の国で、使用人のお仕着せに身を包んでいる――それは奇妙で、だがな
にか心の引かれる姿であった。こういう自分の姿もそんなに悪いものではない……
シオンは鏡の向こうの自分の、そのまた、向こうにいる琥珀の顔を切れ長の
瞳で見つめる。左右対称の顔の琥珀は、シオンの後ろからさも悦ばしげな瞳で
見つめていて……
その瞳の中は空虚に見えるが、気が付くとなにか――どろりとしたなま暖か
い酒精が波打っているかのような、そんな瞳の色。
その瞳に魅入られそうになったシオンであったが、軽く咳払いをして意識を
保つ。
「……とにかく、琥珀、貴女の協力に感謝します。志貴がこういう服装が好き
だとは知りませんでしたから」
「いえいえ、どういたしまして……でも、志貴さんにもっと気に入ってもらえ
る方法を知ってますよ?」
琥珀は甘く、ささやきかける。
そして耳たぶを噛みそうな程口を近づける。その挙措は鏡に映し出され、シ
オンは視覚は間接的に、聴覚と触覚は直接的に琥珀の存在を感じる。
ぞくりぞくり――とシオンの背筋を怪しい戦慄が走った。訳もなく手込めに
される、と感じてしまうのはこのメイドの制服がシオンを縛る故か――
「志貴にもっと……?」
「そうですね、志貴さんは……」
琥珀はす、と言葉を切って注意を引かせる。
その話術に引き込まれる様に、シオンは聞き耳を立てて――
「……その格好でスカートをめくってガーターとショーツを見せればもっと気
に入ってくれますねー」
どろりと甘くねっとりと絡みつく、教唆の声。
耳の穴になま暖かい蜂蜜を流し込まれるかのような、もはや不愉快の寸前で
はあるが堕ちてしまいたくも感じる誘惑の囁き。シオンはそんな琥珀の声に怒
りを感じるよりも、それを誠と信じてしまう自分の本能を感じていた。
――なぜ?
思いとどまれ、シオン・エルトナム・アトラシア。そのようなはしたない真
似を犯してまで志貴を欲しいのか?
欲しい。私は私でありえなかった。私が私であるのはこの黒く蟠った死徒の
呪われた性だ。私は私で居る為にはこの渇する欲望があってこそ――
それは私ではない。部分だ、不純物だ、切り捨てられるべき不要部分だ、私
の病だ。
そうだ、病だ。存在は病なのだ。なぜ気が付かない?シオン・エルトナム。
エルトナムは病なのだ、錬金術師という病、人の心の中の高貴な暗闇を涜する
故の――
シオンの中をランダムに走る思考。整然たる分割思考の所行ではなく、ウィ
ルスに犯されたルーチンの暴走。なぜこのような理性のないことになるのか…
…志貴を喜ばせたいという思いなのか、このメイドの制服のせいなのか、それ
とも琥珀の誘惑のせいなのか。
動きを凍らせてじっと鏡の中の自分を見つめるシオンに、琥珀はふっと耳に
息を吹きかける。びくん!と身体をよじらせるシオンを面白そうに見つめる琥
珀はするりと身体をシオンから離すと――
「ふふふ、私は楽しいのが好きですから、シオンさんも志貴さまと私を楽しま
せてくださいねー?そうじゃないと面白くないですから」
「琥珀、貴女は………?」
シオンは琥珀に何かを尋ねようとした。だが、口に上がる言葉がなかった。
それよりも先に、琥珀は優雅に一礼すると、なめらかな動きでシオンから離
れて扉の向こうに消えていった。まるで魚がつるりと手から逃げるかのように、
シオンが呼び止める暇もなく。
一人、シオンは部屋の中にいる。
鏡の前で、メイド服を身につけながら。
シオンは軽く上がってきた息を吐く。そして、握りしめたスカートを――
鏡の中の自分は頬を赤らめ、まるで志貴を求めて期待しているかのような。
だから私はこの鏡の中の自分を、志貴の瞳となって犯して――
「……」
シオンはゆっくりととスカートをたくし上げた――
by ASHさん
《END》
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