冷え切った土蔵。
士郎にとって居心地の良い工房と呼ぶべきそこ。
そこは彼の鍛錬の場でもあり、衛宮邸の道場のようなものだ。
魔の術を修練するべき場。
幼き頃からの習慣のようなもので、もう随分と鍛錬は続いている。
士郎が使える魔術は唯一つだが、それも今となっては手足と同等の如く扱え
るであろう。それは彼の自惚れではなく明らかな事実として存在。
つまりは、修練の必要は皆無ということ。
それでも、この場に来てしまうのは日々の習慣というものか。
ここまで徹底して通っていると習性とも思えてしまう。
緩やかな胸の内に、魔力回路を走らせる。
軽い投影をこなして、今日は終わらせよう。そう思っていた矢先だった。
「シロウ、いるのですか?」
慣れは、時に油断を生じさせる。
不意に投げかけられた言葉は、どうと言うものでは無かった。
だが、一瞬でも意識してしまうと集中力が編み物を解くように霧散してゆく。
パズルをひっくり返した時にも似た感覚で崩れる構成。
あ、と声を出した時にはもう遅い。
腕の中を何かが駆け抜ける。電撃を喰らったように痙攣する腕だったが、そ
のくらいならまだマシだっただろう。
その後、士郎に訪れたのは絹を破るような厭な音だった。
腕の中から外へと広がる虚脱感。唐突に力を失った腕は、だらん、と垂れ下
がったきり動こうともしない。士郎の意思に反して、というよりも、士郎の意
思を受け付けていないような印象。
そこまで、時間にして数秒もたっていないだろう。
時間が引き延ばされたような中で、士郎はどこか他人事のように思考する。
こりゃ、ヤバイ―――
次の瞬間、士郎は感じた鋭く重い痛みによって。
意識を刹那にして暗転させた。
『動かぬ腕に愛を』
10=8 01
ん、という呻きと共に士郎が覚醒する。
まどろむ意識を強引に正常な状態へと戻し、視線だけを泳がせて状況を確認。
見慣れた天井は間違いなく彼の部屋のものだった。射し込む陽射しから察する
に、もう朝になっているようだ。
靄がかかった視界が明瞭になり、ぼやけていた部分の輪郭がはっきりと映り
始めた。そこには見知った顔が二つ―――いや、二人。
「―――シロウっ!」
まず目に入ったのは、金細工のような髪に彩られた、美しい顔立ちの少女。
言わずもがなセイバーであり、彼女は真剣な表情でこちらを見据えている。
もう一人は遠坂凛であった。彼女はこちらが無事だと解ると、安堵の吐息に
続けていつもの余裕のある表情に戻る。そういう割り切りが出来るのは彼女ら
しい。
「―――あれ? 俺、どうして……」
現状は把握したが、それに至るまでの記憶が曖昧であった。
尋ねる士郎に凛が呆れつつ説明を始める。
「はぁ……士郎は魔術に失敗したのよ」
「失敗?」
「ええ……いつもの鍛錬中でしょうけど、どうも昨日の夜に失敗してから、意
識を失いっぱなしだったみたいよ」
「―――はあ、成る程」
言われてみると、昨夜はそんな出来事があった気がする。確か、いつもの通
りの投影は順調だったはずだが、途中で、何かが、あったような、何だっただ
ろうか。
と、首を捻る士郎にセイバーが身を乗り出す。
「シロウっ。全ては私の責任です! 本当に、本当に申し訳ありませんでした!」
「え、ええ、せいばー? なに、どゆこと、遠坂?」
「……ほら、セイバー。士郎が困ってるでしょ。順序だてて説明しないと」
「あ、は、はい……」
凛に促されおずおずと説明をするセイバー。
士郎は自身の記憶と彼女の話を照らし合わせて、昨晩の出来事を脳内で構成
する。幸いなことに、それほど難しい話ではなかった。
要するに、士郎は毎日恒例の鍛錬を行っていた。ただそれだけだったのだ。
そこへセイバーが話しかけたことで、投影に失敗してこの有様。
難しい話ではないが、簡単すぎて逆に恥ずかしい話だ。
「まったく、話しかけられたくらいで魔術に失敗なんて……大丈夫、士郎?」
「その“大丈夫”は俺を気遣っていない意味合いだというくらいは理解できる」
「脳は正常、っと」
「脳って……ったく、遠坂は―――あ、れ?」
身体を起こそうとした時だった。
腹筋の力だけで持ち上げた身体が傾く。視界がぐらりと左へと流れ、バラン
スを失った。反射的に身体を支えようと手を伸ばすも、伸ばしたはずの腕は一
ミリも動かずに、内側から引っ掻くような痛痒。身体だけが傾いて、そのまま
支えようとしたセイバーの胸元へ倒れこむ。
「ぷげっ!」
「―――っ、し、シロウっ、大丈夫ですかっ!」
「ん、あ、ああ……悪い、助かった」
「い、いえ……わたしの責任ですから」
「で、遠坂。腕が動かないんだけど」
「私は医者じゃないのよ、士郎」
「だな―――すまん」
「いいわよ。一応、診るだけ診たし」
謝る士郎に軽い口調で凛は答える。
それこそ日常会話のようなノリでさらりと、
「士郎の両手、神経断絶してるわよ」
「成る程、成る程…………って、まじすか」
「まじです」
「ううう、すいませんすいませんっ」
一瞬の気の緩みは、予想以上の代償を刻み込んだらしい。腕が動かずに倒れ
こんだ理由を聞き、ようやく士郎は現状を全て把握した。
普通だったら神経断絶なんてまず治療は不可能。だが士郎には、鞘を返還し
たとはいえどセイバーとの“繋がり”が存在していた。それは以前ほどではな
いが、通常では有り得ない超回復を彼にもたらしてくれる。
「ふうん………で、完治まではどのくらい?」
未だセイバーの胸の中にもたれたまま士郎が尋ねると、彼女は軽く微笑んで
「1日で完治する」と告げた。
納得したように何度も頷く士郎へ、ふと横手からセイバーの声。
「シロウ」
「ん?」
「そもそも今回の原因は私がシロウの邪魔をしてしまったことに端を発します」
「……ま、まあ厳密に言うなれば、そう、かも」
きっぱりと、迷い無く言い放つ。
その視線と口調は真剣そのもので、迂闊に反論しようものなら切り捨てられ
てしまいそうな程の決意に満ちた鋭さであった。
「ですから………つまり、シロウに対して私は償いをしなくてはならない、責
務があるのです。だから、私がシロウの腕になります」
鋭く見据えた眸。
士郎は微かに視線を逸らした。
「セイバー、次はこっちのキャベツ……そう、その特売のヤツな」
「はい、シロウ。他には何か買うものは?」
キャベツを籠に入れるセイバーに言われて士郎が軽く唸る。やや思案した表
情だったが、思い出したように大きく頷いた。
「牛乳とコショウが尽きてる。そっちも」
土曜日は授業も午前中で終わるということで、昼食も凛が作ってくれるらし
い。
何せ士郎は腕が動かせぬし、セイバーは料理の経験が皆無。それを考えると
凛の気遣いは非常にありがたかった。
「シロウ……これでよろしいのでしょうか?」
「おう、これで全部だな……もう遠坂も帰ってきているだろ」
刻限を確かめると12時を回った辺り。丁度、士郎たちが帰ってきて鉢合わ
せるといったタイミングになるだろうか。レジ脇の時計から移動時間などを想
定する。
商店街の小さなスーパーは昼時にしては、思ってたよりも込み合っていなか
った。この時間は昼食時だから、少し早くにピークを迎えたのかもしれない。
セイバーがソツ無く荷物を袋に詰めるのを、士郎はぼんやりと眺める。
溜息混じりに、
暇だ。
言葉に出すでもなく、頭の中だけで呟く。
セイバーとの買い物は、慣れない作業をする彼女を見れたりして楽しくはあ
ったが、この腕の状況ではあくまでも傍観しているのみ。それほど多くはない
が、荷物を彼女に持たせているというのも負い目を感じさせる。
何も出来ない不自由さに、なんとなく手持ち無沙汰。
「セイバー、なんか持とうか?」
「シロウ。貴方は自分の腕の状況を理解していますか?」
「勿論」
「なら、動かせない腕で無理はしないでください」
きっぱりと言い放つセイバー。明瞭な語調ではあったが、そこに気遣いの雰
囲気が含まれているのを確かに感じる。動かせぬ腕にもかかわらず“荷物を持
つ”と言った士郎の気遣いが彼女も嬉しいのか、どこか微笑んでいるようにも
思えた。
さらにセイバーは続ける。
「そもそも、これは私が招いた責任なのですから」
「……はぁー」
士郎の溜息を色濃くする要因の一つが彼女の言う責任であった。どうもセイ
バーは士郎の怪我を自分が話しかけたからだと思っているようだが、士郎にし
て見れば彼女に原因は皆無。例え客観的に見てそうだったとしても、実際に集
中を乱したのは純然たる士郎自身の未熟さからだ。
だが、彼女の頑固な性格は士郎も十二分に理解している。
早々、簡単に自分の考えを曲げはしないだろう。
「悪い気はしないんだけどなぁ……」
セイバーの献身が不服という訳ではない。むしろ、セイバーの献身的な態度
は士郎にとっては嬉しくあるくらいだ。凛が作った朝食もセイバーが食べさせ
てくれたし、それは本来喜ばしくあるべきなのだが。
「シロウ……私が貴方の腕と鳴るのは原因から考えても、当然の義務なのです。
ですから、気兼ね無くお願いします」
義務。
その彼女の言葉がすでに気兼ねを感じさせてはいるのだが、気付く素振は無
い。義務だとか責任だとかで括られると、受けて側としても、どうにもやり難
い。
それが、素直に喜べない理由の一つだった。
きつく眉根を寄せるセイバー。
「セイバーこそ、そういう義務とか気にしなくていいから」
「気にしてなどいません。シロウに酷いことをしてしまったのですから、当然
の行為です」
酷いこと、とは修練途中で話しかけたことだろう。セイバーの言葉とは裏腹
に、本心では罪悪感を感じている様子だ。
それが、どこか士郎の胸中へ内側から引っ掻かくような痛痒を与える。
セイバーの思いつめたような、自分を追い込む表情もそれに拍車をかけてい
た。それから視線を逸らすように、話題を打ち切る。
「んじゃ、昼も近いし帰ろうか」
「はい、シロウ………っ!」
「ん、どした、セイバー」
「いえ、その………問題が起きました」
そう言って外を指差すセイバー。
それで士郎も理解した。そっと耳を澄ませば快い気持ちにさせてくれるので
は、と思わせる穏やかに耳朶を打つ彩音。スーパーの窓ガラスを五線譜代わり
に、細かなスタッカートが雫を打ち鳴らす。
その快音を、ぼんやりと眺めながら士郎は思い出す。
そういえば、天気予報は雨だとか言っていたような。
ふと、セイバーを見やると。彼女はすがるような視線でこちらを見つめてい
た。突然のことに士郎も軽く息を詰まらせる。
「シロウ……いかがしましょうか。傘は持ってきていません」
「あ、そっか……」
手荷物らしい手荷物といえば、買ったばかりの食材各種の入った袋くらいか。
後はこれといって邪魔になるものは持って来ていない。だらん。ぶら下がった
腕が動かせたら、腕組みの一つでもして思案していただろうが、それも叶わず
に垂れ下げたままで思案する。
「そだな、電話するか」
「電話、ですか。でも家には誰もいないんじゃないでしょうか」
「かもしれない。でも遠坂が帰ってきているかもしれないだろ。試す価値はそ
れだけで十分だ」
「解りました、シロウ」
一つ頷き、道路脇の公衆電話を見つける。
横から通り抜ける風が雨を斜めに傾けさせるため、電話をかけるセイバーが
濡れないように士郎が立ち位置を調整。
セイバーが電話をかけて、待つこと数回のコール音。すると、向こうから
「もしもし、衛宮ですが」という凛の声が聞こえてきた。どうやら彼女が先に
帰宅していたようだ。置かれた状況を彼女は伝え始める。
士郎はそれを聞きながら、ふと、思う。おそらくは、凛が傘を持ってくる手
はずになるだろうが、そうなるとセイバーの傘に自分は入れてもらうことにな
るのだろうか。なにせ彼女は衛宮士郎の腕として献身しているのだから。
それは。
世間一般で言う、相合傘という奴ではないだろうか。噂の。
「――――っ!」
拙い。一度でも想像してしまうと、無性に恥ずかしくなってきた。
何とか別のことを考えようと、視界をセイバーの横顔から周囲へと変化させ
る。突然の雨だからか、商店街を闊歩していた人々は目に見えて少なくなって
いる。
そんな中で目立つといえば、雨など関係ない、とでも言いたげに物凄いスピー
ドで走ってくるトラックくらい―――
―――ずばしゃっ!
「……………」
「……………」
思いっきり水溜りを引っ掛けられてしまった。
その勢いは二人とも頭から水を被ってしまうほど。一瞬にして言葉を失う、
セイバーと士郎の耳に、事情の飲み込めない凛の声が響く。
突然の出来事にセイバーは何も考えられないらしい。ただただ困ったような
瞳でこちらを見上げている。
士郎はそんな彼女を落ち着かせるように頷くと、受話器に顔を近づけた。
「遠坂。ちと、水溜りをおもっきし被っちまった………うん、そう、だから傘
はいらない。悪いな……ああ、じゃあ切ってもいいから……え、ああ、そうし
てくれると助かる、ん、じゃな」
そこで、ようやくセイバーが置かれている状況に順じた。受話器を切った手
をあたふたとさせながら、士郎に纏まらない言葉を投げかける。
「あ、あの、シロウ! 雨が降っているのに、傘で、そのっ!」
「まあ落ち着け」
「ですが……貴方を雨ざらしにするわけにはいきません」
「そりゃ、こっちだって同じだ」
どこか冗談めかして、微笑。
「どうせ濡れるなら、二人で一緒にだな」
(To Be Continued....)
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