花咲くのはいつの日か

           阿羅本 景



 風はもはや寒さを無くした四月。
 海浜公園の桜の蕾も綻び咲いているが、まだ満開には遠い。枝を折ってみればお
そらく、蕾の方が枝に多いと分かる三分咲き。

 桜並木の中に、背の違う少女が並んで歩く。
 一人は肩まで髪を伸ばした黒髪の、柔和な顔つきをした少女。手にはレジャーシー
トを詰めたバックを抱えていた。
 もう一人は手ぶらだったが、何よりも透ける様な銀髪が目を引いた。黒髪の少女
の胸ほどもない小さな背丈であったが、彼女の方が無言の威厳を放っている。

「どの辺が良いですかねー?」
「場所選びはサクラに任せるわ。サクラ、ねぇ……そういう名前だから、やっぱり
お花見は詳しいんじゃないの」

 辺りを見回す少女に、銀髪の少女が静かに尋ねる。あー、と髪を触って曖昧な笑
みを浮かべる桜。

「そうですけど、あんまりお花見って行ったことがないんですよ、わたし。イリヤ
さんの故郷ではお花見ってないんですよね」
「ええ、私も初めてこっちの国で知ったからね。本当にみんなこれが好きね――」

 イリヤは辺りを、まるで困惑させる何かに取り巻かれた様な瞳で見回す。彼女の
瞳に映ったのは、桜並木の下をすでに占領しているブルーシートの数々であった。

 つまり、花見の先着権を主張する席取り。
 はぁ、とイリヤの肩が溜息と共に落ちるのを、桜が微笑んでフォローしようとし
ていた。

「来週の本咲きになったら、きっと前日夜から泊まり込みしないと場所取れません
よ。これくらいの咲き方だからちらほらって感じで、今日の場所取りもなんとかな
りそうですね」

 梢を見上げる少女の顔は、同じ名前の花を見る喜びにうっすらと色付いている。
イリヤは梢を、そして桜を見上げる。

「ふーん……みんな、本当に好きなのね」
「あはは、どちらかというとお花を見ながら大騒ぎをするのが大好きなんですよー。
藤村先生も花が綻んでくるとうきうきしてきますから」

 話を聞いて、イリヤも目を閉じて困った様に笑う。歩調を狭めて、木々の下を一
本一本確かめていく。

「今の季節は藤村組のお兄さん達も忙しいのに、その中でタイガが一人だけ浮かれ
てるんだからね。ライガお爺さんの苦労が知れるわね」
「藤村先生のお爺さんですか、わたしお会いしたこと無いんですよね……イリヤさ
んは可愛がって貰ってるみたいですけども」
「さて、どうしたものかしらね。サクラも気に入られると思うわよ」

 話の間に、イリヤが笑うとどこか大人びて困ったような雰囲気が、桜が微笑むと
年よりも遥かに幼く見える笑顔になる。
 背の違う二人は背格好も似ていないが――どこか、見る人に近しい関係を感じさ
せる。人の本能に触れる、血縁のように類似性じみたものを。

 だが、朝の公園にはそれを見て取る人は居ない。

「あ……あの木の下がいいですね」
「ふーん……それはサクラにお任せするわ。じゃ、すぐに場所取りの用意をしましょう」

 柵を越えて、芝生に入る二人。
 イリヤがさくさくと大股で、鞄を抱える桜がどこか頼りのない足取りで横切る。
そして、桜の幹を見上げる。

「もうちょっと咲いていれば風情があったんですけどね」
「これで良いんじゃないの? サクラ、シート出して」
「あっ、はいはい!」

 桜が慌てて取り出したレジャーシートを、イリヤが隅を持って広げていく。六人
ほどが車座になれるほどの広さがある、三色のシートが芝生を被う。

「さて……リンもどうにかしてるわよ、私みたいなお嬢様にどーして場所の予約な
んかさせるんだか」

 ブーツを脱ぐと、シートの上に上がるイリヤ。そのままつまんない、と言いたそ
うにごろりとシートに横になる。
 白いスカートと紫のジャケットのイリヤが横になっている姿は、子供がだだをこ
ねているようで愛らしくもあった。その横に、脚を崩した格好で座る桜。

 レジャーシートの上の二人の少女は、くつろいでいて、どこか言葉を言い足りな
いようなもの悲しさが漂わせていた。それは、まだ朝で公園に花見の客が居ない寂
しさゆえからか。

「仕方ないですよ、今日は遠坂先輩と衛宮先輩がお花見のお重を作ってれるんです
から、わたしたちは先に場所取りって約束だったんですよ」

 そんなに怒らないでください、と頬を和らげて桜は話していた。脚をばたばたさ
せているイリヤが、下から桜を恨めしそうに見上げる。

「リンの食事って、辛いものが多いからねー」
「でも、お花見のお重だと唐辛子とか使わないと思いますよ?」
「山葵とかどっさり入れそうじゃない、あんな鼻に抜けるのを山ほど盛るリンはど
うにかしてるわよ」

 ジャンキーよジャンキー、とイリヤが呟く。
 食の志向の違いは根深いのか、イリヤが思い出して喋る口調は恨み半分、諦め半
分で風情だった。

「そうよ、サクラがシロウと一緒にお料理してくれたらこんな心配しなくてよかっ
たのにねー」

 ごろん、と仰向けになるイリヤ。
 銀髪がブルーシートの上に広がる癖のない真っ直ぐな長い髪。温かい風が吹く
と、銀の髪と桜の黒髪が風を含んでわずかに舞う。

「あの、お台所は二人が精一杯ですからね。それにもしわたしがお料理だったら、
イリヤさんと遠坂先輩が場所取りに――」
「それもぞっとしないわね」

 いいことイリヤスフィール、遠坂家代々の花見の仕来りによってわたしが場所を
選ぶんだから、貴女は黙ってみてなさい――などと口振りを真似るイリヤ。
 いかにも似せた口調に、桜が堪えきれずにくすりと笑う。

「私とタイガでも駄目っぽいからね。私とサクラで丁度良いのかなー」
「良いと思いますよ? わたしたち、仲良しの姉妹みたいな感じですから」

 桜の屈託のない、純粋な笑い。
 梢の下に木々よりも早い花の花開く様を見るような――イリヤも唇を閉じて、そ
の笑いを静かに眺める。

「……先輩、もうすぐイギリス留学なんですよね」

 桜の笑顔が、僅かに曇る。
 頭上の枝を見上げ、その向こうの空を、そしてその奥に異国の空が通じているか
のように、遠くを見つめる瞳。

 この花を見た後に、遠坂凛はその遠い空に旅立つ。
 これは彼女を見送る餞別の宴でもあるのだと、思い出す桜。


「だから、わたしがお弁当を作りますって言っても、しばらく遠坂流厨房術の食べ
収めだから存分に味わいなさい、って遠坂先輩は聞かなくて……」
「姉さん、っていわないの?」
 桜を見つめながら、小さくイリヤが呟く。
 言葉が絶え、風だけがしばらく桜の髪を波打たせ続ける。桜は梢を見上げ、放心
した様にも見える。
 だが、その白く滑らかな喉が唾を飲んで震える。

「……わかっちゃいましたか?」
「サクラも知ってると思うけど、私もあなたも魔術師だから嫌でも気が付くわよ。
気がつかないのはシロウとタイガくらいかしらね、まったく鈍感なんだから」

 よっと、と呟きながら背中を起こすイリヤ。瞳は幼く無邪気な少女ではなく、深
遠な深さを見せる智者の面影がある。

「それ以上に、私と貴女は似ているわ。マキリのしたことも大体予測が付く――あ
の戦争の最中に貴女も私も生き残ったことは、一種の奇蹟だったと思うわ」
「……そこまでわかっちゃってましたか。あー、先輩には内緒ですよ?」

 桜が目を細めて笑うが、明るさがない。肩の当たりにうっすらと曇った何かが見
えるような、力無い笑い。

「当たり前じゃない。シロウに言ったら死ぬほど悩んで大変なことになるわよ。リ
ンも私をなにかと心配するけど、それ以上に自分の妹を気にしなさいって思うわね」
「姉さんはああいう人ですから、今更妹って言ってわたしに接するのは苦手だと思
います」

 風がばさばさとシートの縁を持ち上げる。
 桜は静かに立ち上がると、バックで風上の一端を押さえ込む。そして、座る位置
を変えてまたイリヤに向き直っていた。

 落ちた花びらが、ひとひら風に泳ぐ。

「――リンが居なくなって、ほっとする?」
「いえ。それに姉さんはすぐに戻ってくると思います。その時にお帰りなさい姉さ
んって笑って迎えて、先輩とかみんなをびっくりさせたいなーとか」
「そうね、その頃までは私も貴女も、まだ命は長らえていると思うわね」

 イリヤの声は、カレンダーが逆戻りしてしまったかの様に冷たく乾いていた。一
月の梢と土を凍らせる寒さを彼女の内側に秘めているかの様に。

「……やっぱり、それも分かっちゃいますか?」
「同病相憐れむ……嫌なことわざだけど、リンから聞いたら忘れなくってね。私と
サクラの中にあるものを足して二で割れば良い感じになるんだけど、そんな贅沢
は言えないわね」

 イリヤが冗談めかして話すが、お互いに眺める表情にはぎこちなく、出来の悪い
笑いの仮面を被っているように感じていた。

「これくらいシロウも気が付きなさいって言うのも無理な注文よね。変なところに
は敏感なのに身近になると鈍感だから」
「衛宮先輩は衛宮先輩ですから、イリヤさんみたいに無理を言ってもものすごく困
ると思いますね」

 衛宮先輩、と口にする桜の声はまた暖かさを取り戻す。一陽来復で凍った大地が
弛むように。
 イリヤが、ふっと悪戯を思いついたように笑う。

「チャンスよ、サクラ」
「え? ちゃんす? どういうことですか?」

 とぼけるのか、それとも本当にわからないのか目を見開いて小首を傾げる桜に、
唇をすぼめて笑う銀髪の少女。悪戯な瞳が輝いて――

「だって、シロウにここ一年なんだかんだいって付きまとってたのはリンじゃない?
 私もやきもきしてたのよ、サクラも士郎が好きならもっとアタックしなさいって
……」
「い、いいい、イリヤさん! それはちょっと!」

 桜が慌てふためき辺りを察する。それを聞かれたら恥ずかしさのあまりに逃げ出
してしまいそうな――だが、辺りに人影がないので、胸をなで下ろす。
 だが、桜に追い打ちが掛かる。

「サクラの方が胸が大きいから勝ち目があると思ったんだけどなー」
「あ、えーっと、確かに姉さんに負けてませんけどそれだけで全部先輩が決めるの
かなーって?」

 髪を摘んで、こまってよそよそしい笑いを浮かべる桜。もう少し踏み込まれたら
戦線が崩壊しそうな、ギリギリの気張り方。

「でも、家まで通って掃除洗濯料理を作ってくれる女の子に安心しきって、リンば
っかり相手してるのもひどい話ねー」
「姉さんは衛宮先輩の魔術の先生ですから」
「でも、ここ数年はシロウの傍にいるのはサクラだけじゃない? トオサカリンに
負けることはないわよ、私だって応援するんだからー」

 手を握り合わせて、目を輝かせるイリヤ。
 それは純粋に応援というより凛の欲しいままを許さない、という意地が根っこに
あることは、桜にも見て取れた。

 意地悪な笑いを浮かべるイリヤが、ふっと真剣な瞳になる。

「サクラ。貴女もシロウが好きなんでしょう?」
「――――」

 レジャーシートの上で、向かい合う二人。
 イリヤは静かに尋ね、桜はそれを受けて静かに構えていた。悩みや苦慮はなく、
どこか――諦めてしまったかの様な穏やかさ。


「衛宮先輩が好きなのは、セイバーさんですよね」


 柔らかな唇が動いて、その名前を口にする。 
 名前は澄んだ、群青の空を彷彿とさせる。イリヤですらその名前を耳にすると、
遠い目をした。

「わたしが見てても分かりましたし、姉さんが――お風呂上がりに脱衣所でばった
り出会ったんです。お腹に大きな傷跡があって――気にしなくて良いわよ、わたし
が士郎に付きまとってるのはこの傷と宝石の穴埋めをいつかさせようって思ってる
だけなんだから、って」

 姉の強気で素直になれない口振りを真似る桜。だが、今度はそれを聞くイリヤは
笑わなかった。

「モノの穴埋めくらいしてくれるかもしれないけど、あいつはもうセイバーで満た
されているから心の方はね、って。それで、わたしもわかっちゃったんです、やっ
ぱり二人とも姉妹だなって」
「………どんなふうに?」

 イリヤが水を向けるが、深入りするのを避けるような慎重さを見せていた。見か
けの年よりはるかに思慮に満ちた姿勢であった。

 それも気が付いているのか、静かに頷き言葉を付け加える桜。

「二人とも同じ人を好きになって、同じ風に気が付かないうちに失恋してて、それ
でもまだやっぱり同じ人が好きなんだって――でも、似てないところはありますよ?」

 桜が背筋を伸ばし、悲しげな笑いを振り払う。
 髪が薫風の中でゆっくりと揺れる。

「姉さんはああいう人だから、どこかでよし! って穴埋めで収支にケリを付けて
雄々しく進んでいくんだと思います。でも、わたしは姉さんみたいになれません。
だから――」
「シロウを好きなのを、変えないの?」

 はい、と頷く桜。
 頷きは強く、命の息吹を宿した木々のような、根付いた確かさを感じさせる。

「わたしはずっと、先輩を好きだから見守っていきたいです。報われないと思いま
す、でも衛宮先輩のもう満たされた心を見るのが、共有できる誇りみたいにわたし
も嬉しいんです」
「――――――――」
「二人とも腰の曲がった白髪のおじいちゃんおばあちゃんになって咲き誇った桜の
木の下で――ああ、おかしな一生だったな、なんて笑ってお茶を飲んで過ごせるよ
うになりたいなって。あ、でもわたしはだめですよねー」

 桜がふっと、糸が切れたみたいに顔を曇らせる。
 イリヤがその顔に、痛みを感じて唇を噛ませるほどの虚ろでやるせない顔。

「わたしの方が先輩より先に駄目になっちゃうかもしれません。そうしたら、その
後に先輩はどうなっちゃうのか心配です。でも、わたしが満ちるその瞬間に、もっ
たいないほどの奇蹟がやってきてわたしの願いを叶えてくれるのなら」

 その声は、祈祷のように空に吸い込まれていく。

「先輩に、もう一度――セイバーさんに会わせてあげたいな、って。もしかして喜
ばないのかもしれませんけど、無理にでも先輩はありがとうな桜って言ってくれる
かもしれません。わたしは、それでいい……」

 イリヤが唇を噛んだまま、掛ける言葉を失っている。
 それがイリヤにも分かってしまう事を悔いているかのように――だが、唇を開く。

 イリヤの瞳に、強い光が宿っていた。

「駄目よ、これって競争なんだから」
「え? 競争、ですか?」
「リンが時計塔で大成してトオサカの課題を満たせば、いずればシロウの望みを叶
えようとするわね、きっと。私ももし器が充ちる次の周期まで保てば、シロウの願い
を叶えられるかも知れない、そう言う意味じゃサクラはこのレースの一番のドンケツ
なんだから」

 腕組みして、鹿爪らしく頷いているイリヤ。
 呆気にとられた桜が、ぽかんと口をひらいてイリヤを眺めていた。そんな桜にま
た意地悪そうな視線が向けられる。

「だから、こんな勝負ではビリのサクラはその大きい胸とお尻で、シロウと一緒に
いることで別の勝負を仕掛けた方が良いわね。そっちの方がリンよりよっぽど勝ち
目があるわよ?」
「えっ、そんな……」

 慌てて真っ赤になり手を合わせておたおたと落ち着き無く振る舞う桜。イリヤは
、目を細めて笑う。

「だだだ、だめです、そういうえっちなのはいけません」
「ま、おとこはみんなおーかみだからー、ウサギさんはどーなっちゃうことでしょー
か」
「先輩に限っては、そんなことはないです!」
「そう言いながら、頬がにやけてるわよ」

 イリヤの台詞と共に、ぴしゃんと頬を両手で叩いて引き締める。むふっと得意げに
笑うイリヤ。

「サクラがそんな風だと、この勝負も落とせないから私がせまっちゃおうかなー。
ヨバイっていうんだっけ、こういうの?」
「そ、それはいろんな意味で犯罪です!」
「サクラのそれだって犯罪というより反則よ、えーい」

 イリヤが手を伸ばして、ぽいん、と胸をつつく。
 桜の手が頬から胸を庇って、うずくまる

「い、イリヤさん!」
「うわー、リズみたいね。この魔性の胸にお兄ちゃんもめろめろ……ふふん、リン
が倫敦で悔しがるのが瞼に浮かぶわね」
「そんなことないですー! あっ」

 真っ赤になって恥ずかしがってた桜が、上着のポケットの中に手を伸ばす。手に
したのはLEDを輝かせている携帯電話。
 白い指で丸いボディーを開くと、耳に宛う桜。

「はい、間桐ですが……あ、先輩ですか? すいません、連絡遅れましたけど場所
は……ほんとですか! はい、大丈夫です、イリヤさんと二人で待ってますから、
頑張ってください!」
「……電話、シロウから?」

 携帯電話を閉じた桜が、頷く。
 電話越しに声を聞いたことで、桜は笑っていた。屈託のない、静かで愛おしく、
見るものを幸せにさせる笑顔。。

 イリヤも自然と表情が和らぐ。
 さらさらの銀髪が、静かに揺れた。

「はい、あと一時間くらいで来るっていうお話でした。柳洞先輩と美綴先輩も飛び
入り参加みたいですね」
「ふふーん、面白いことになりそうね……ギャラリーには事欠かないわね。さて、
それならあと一時間でリンの目の前で酔ったふりしてシロウに迫っちゃおう計画の
打ち合わせよ」
「だ、だめですそーゆのはイリヤさん!」

 からかうイリヤと、まっかになって慌てる桜。
 二人の少女は、桜のまだ開かぬ蕾の下にいる。
 共に花咲くのはいつの日か――

《fin》