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 初めてだもの
                         からたろー
 

 夕方。

 遠野秋葉は、寮の自室の窓を背に、独り立っている。
 授業から戻ったばかりなので、制服姿のままだ。

 その時。
 遠慮がちに、ノックの音が響いた。

 同室の月姫蒼香や三澤 羽居ではない。
 蒼香なら、普通にドアを開けて普通に入って来る。
 羽居なら、『たっだいま〜』とか叫びながら飛び込んで来る。


 3秒間。


 たっぷりと間を取って、遠野秋葉は廊下に向かって声をかける。

「どうぞ」
「……失礼します」

 遠慮がちな声で返事があった。
 そして、ゆっくりとドアノブが回り、すうっとドアが開かれる。

 ドアの陰から顔を覗かせたのは、瀬尾 晶だった。
 まずは小動物のように落ち着かなげな視線で部屋中をスキャンし、それから
ようやく秋葉を――秋葉の顔ではなく、喉仏のあたりを見た。

「あ、あの……遅くなって済みません、遠野先輩」

 秋葉が晶に何か用がある場合、普段であれば生徒会室に呼ぶ。
 秋葉は生徒会の仕事は生徒会室で、必ず下校時間までの間に済ませるのだ。
 仕事を自室に持ち帰ることを無能の証と考えているかのように。
 だから、晶が秋葉に自室に呼ばれたことは、これまでになかった。
 わざわざ自室に呼び付けるということは――
 よほどのことが持ち上がったのか。
 それとも、プライベートなことなのか。
 いずれにしても、晶にとっては不安な材料ばかりだった。

 特に、後者については。


 晶の不安を知ってか知らずか、秋葉は素っ気なくうなずいた。

「授業のためでしょう?気にすることはないわ。
 そんなことより。
 いつまでそこで話しているつもり?早く入りなさい、瀬尾」
「は、はい」

 晶は音を立てないように静かにドアを閉め、改めて秋葉に向き直った。
 そのとたん。
 晶の背後で、ガチャリ、と重々しい金属音とともにドアが施錠された。

「え……っ?」

 寮の各室のドアはオートロックではないはずなのに、なぜ?
 うろたえた晶は、閉じたドアと秋葉とを交互に見た。

 晶の位置からでは完全な逆光なので、夕日を背にした秋葉の表情は見えない
はずだった。
 だが、その瞬間。
 晶は、確かに見た。
 秋葉の口元が、邪悪な笑みの形に緩むのを。
 そして。
 秋葉の長い黒髪が、風もないのに、ざわ、と揺らめくのを。


 そこにいたのは、いつもの遠野秋葉ではなかった。


 鬼が、そこにいた。


「………!」

 思わず硬直した晶に、秋葉がいつもと変わらぬ口調で声をかけて来る。

「瀬尾、何をしているのかしら?早くこちらに来なさい」
「は、はいっ」

 条件反射に支配されて、晶は即答した。
 そのとたん――

「瀬尾」

 秋葉が、単に既知の事実を確認する口調で訊く。

「貴方、兄さんと付き合っているわね。――私に隠れて」
「え……い、いえ……」

 真っ赤。
 晶自身にも、顔にぼわっと血が上っているのがわかる。
 こんな状態では、何をどう否定しようと、説得力などない。
 こんな状態では、否定しても意味はない。

「う……は、はい……」

 かろうじて、うなずいた。

「………………」

 秋葉が真っ直ぐ晶の顔を見た。
 晶は、耐え切れず下を向いた。

「………………」
「………………」


 沈黙が下りた。





 ゴゴゴゴゴ…………






 ゴゴゴゴゴ…………
 そんな擬音でも聞こえて来そうな、重苦しい静寂。





「瀬尾」

 沈黙を破ったのは、秋葉だった。
 晶はおずおずと答える。

「は、はい……」
「貴方、もう兄さんに抱いてもらったのかしら?」

 秋葉は、いきなりそんなことを尋ねた。

「えっ……!」
「あら、聞こえなかった?」

 目を丸くした晶に、秋葉が意地悪く笑いながら質問を繰り返す。

「貴方、もう兄さんとセックスしたのかしら?」

 晶はぶんぶんと首を横に振って全力で否定した。

「い、いえっ!まだそんなことしてませんっ!」

 必死に否定しようとして墓穴を掘るのは、こういう場合のお約束だ。

「あら驚いた。まだだったの」

 薄く笑って呟く秋葉の表情には、美人だけになおさら凄みがある。

「でも、『まだ』ということは、これからするつもり、ということね」


 ――ゆらり。


 竦み上がる晶をよそに、秋葉が、ゆっくりと窓辺から離れた。


 かつん。


 硬質な靴音を響かせて、秋葉が晶に向かって歩き出した。
 窓から離れたので、晶にも秋葉の顔が見えるようになる。
 秋葉は――笑っていた。


 かつん。


 楽しげな微笑を頬に貼り付けて。

 秋葉が晶に近付いて行く。

 ゆっくりと。

 鬼が。


 秋葉の歩みに合わせて、晶は無意識に後ずさりした。
 だが、すぐに背中がドアにぶつかった。

 逃げ場は、ない。


「瀬尾?なぜ、逃げようとするのかしら?」

 秋葉が不思議そうに小首を傾げて尋ねる。

「やましいことは『まだ』していないんでしょう?」

 笑いながら。

 愉しげに笑いながら。

 冷やかに笑いながら。


 かつん。


 秋葉が、近付いて来る。


「あ、あのっ!……遠野……先、輩?」
「何かしら?」
「あの……月姫先輩と三澤先輩は……?」

 晶は一縷の望みを託して尋ねた。
 しかし。

「蒼香と羽居なら、消灯時間まで戻らないわよ」

 あっさりと晶の希望を挫いた秋葉が、ふと素に戻って続ける。

「羽居が用事で家に行くからと言って、蒼香を無理矢理連れて行ったわ」

 そう言って、呆れた、といいたげに肩をすくめた。
 次の瞬間。
 秋葉が、室温を氷点下に急降下させそうな笑みを浮かべる。

「だから安心なさい、瀬尾。邪魔は入らないわ」

 ――訊くんじゃなかった。

 晶の脳裏に巨大なゴシック体の文字が、ネオンサイン付きで点滅した。



 かつん。


 秋葉が、立ち竦む晶に迫る。

 晶がかつて志貴から――本気になった遠野志貴から感じた、純粋な殺気。
 それと同じ物が、秋葉から吹き付けて来る。
 もちろん目には見えないが、物理的な圧力として感じ取れるほどに。
 そして今回、志貴の時とは違い、秋葉の殺気は直接晶に向けられていた。

「あ、あうあう……」

 晶は怯えた子狐そっくりに、がくがくぶるぶる震えるばかりだ。

「ねぇ、瀬尾?」

 秋葉が、がくがくぶるぶる震える晶の目の前で立ち止まった。

「やましいことがないのに、なぜ貴方はそんなに怯えているのかしら?」
「す、済みません遠野先輩……」

 半ば反射的に晶が謝罪した。
 間髪を入れず秋葉が切り返す。

「やましいことがないなら、なぜ貴方が謝る必要があるのかしら?」
「済みませ――あ」

 ぎく、と固まった晶を、秋葉は面白そうに見た。

「――そう。やはり私の思っていた通りね」
「はい?」
「準備に手間取りはしたけれど、その甲斐はあったようね」
「じ、準備…って……?」

 独りで合点が行ったように呟いている秋葉に、晶が恐る恐る尋ねた。

「ふふ」

 秋葉はすぐには答えず、右掌で、ひた、と晶の頬に触れた。
 晶は動けない。
 秋葉の掌が頬をつつっと下へ滑り、晶の下顎を持ち上げる。
 そっと。
 あくまでも軽く。
 しかし。
 それだけでも、逃げる術はないと晶にわからせるには充分だった。

 そうしておいて、秋葉が晶の耳元に口を寄せ、楽しげに尋ねる。

「知りたい、瀬尾?」


                                      《つづく》