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『天重』

 〜遠野秋葉の情景〜


               作:しにを



―――其の壱 「撓」


 肌寒いような気がする。
 夜も更け……、いや、もう夜明けを待つ方が早いかもしれない。
 まだこの時期は、早朝の寒さが際立っている。
 
 秋葉は軽く身を震わせた。
 無理も無い。
 寝台で、シーツと薄手の掛け具とに触れているとはいえ、身には何一つ纏っ
ていない。
 ぱっとふわふわとした掛け布団を剥げは、白い裸身が現れる状態。
 だが、それは秋葉に寒いなという僅かな思い以外には、不快な感情をもたら
さない。
 それどころか、むしろ喜ぶように寒いと小さく呟いている。
 そして寒さをしのぐ為に、暖を求める為に、秋葉は体を動かした。
 この広い寝台に寝ているのは秋葉だけではなかった。
 恋人が寒さに震えているのに、ありったけの薪木を積み上げ天まで炎で焦が
して尽くそうとしない不実な男が眠っていた。
 しかし秋葉はその男に文句を言うでもなく身を摺り寄せ、代わりに手を、胸
を、足を、ぺたんとつける。
 背中から抱きつくような形になる。
 広く温かい体を全身で抱き締める。
 そのやはり裸の体から、じんわりと熱が伝わる。

 じっと味わうように秋葉はしばらくそうしていて、ぽつりと呟いた。

「私、兄さんになら負けてもいいなあ……」

 志貴の背中に秋葉は額をつけたまま、独り言を続ける。

「負ける事、負けを認める事を許されなかったんですけど。
 でも、兄さんにならかまいません」

 どこか遠い夢を語るような口調。
 ありえざる事を告白する者の話し方。
 自分が口にした事を、他人の言葉のように秋葉は頭で繰り返す。
 驚きと笑み。
 そして、どこか呆れたような、嬉しいような不思議な表情を浮かべる。
 誇らしげな自嘲。
 そんな矛盾した事が成り立つなら、それに近かったかもしれない。
 
「ふふ、眠っている兄さんだから言えるのよね。
 まだこれまでの生き方、変えられそうにないですけど……」

 それだけを告白すると、秋葉は目を閉じた。
 志貴の存在を、体のみならず心でも感じながら。
 安らぎの表情。
 その顔は、何に守られるよりも安んじている表情を浮かべていた。

 
  了










―――其の弐 「嬉」
 
 
 志貴が手についたパン屑を叩いて居間に戻った時、秋葉は既に鞄を手にして
いた。
 兄の姿を見て、向き直る。

「お、もう行くのか」

 はい、と秋葉は笑みを浮かべて頷く。
 先程志貴が食堂に向かった時には、秋葉はほぼ食べ終えていた。

「今朝は早めに朝礼の際の準備があるんです。
 残念ですけど……」
「そうか。車に気をつけろよ」

 言いながら、まだ寝ぼけているかなと志貴は内心で舌打ちする。
 少々間の抜けた言葉。

「ふふッ、車ですよ、兄さん。それでは、行って参ります」

 秋葉はそれでも志貴の言葉に嬉しそうにして、出掛けの挨拶を済ませた。
 くるりと振り向くと、艶のある黒髪がふわりと弧を描く。
 スカートの裾も、わずかに膨れ、すぐに下へと下がった。
 ほっそりとした足首が、ちらりと志貴の目に映った。
 思わず見惚れながら、志貴は妹の登校姿を見送った。

 秋葉の後姿が遠ざかっていく。
 弾んだ歩き方。
 途中、一度くるりと振り向いた。
 まだ、兄が見つめていると確信した様子。
 だが、実際に志貴が手を振ってやると、嬉しさを隠さず笑みに変える。

 そして志貴は、自分も学校の支度をしようと戻りかけ、ふと足を止めた。
 しばらく前の生活が頭に浮かぶ。
 あの頃なら、まだ起きてすらいなかったかもしれない。
 秋葉がぎりぎりまで無理して出掛けるのを遅らせ、それでも僅かに顔を合わ
せる事もままならなかった。
 それに文句を言われる事を、理不尽のように感じていたあの頃。

「朝、ちょっとだけ早く目を覚まして、おはようって言って。
 毎日は無理にしても朝御飯一緒に食べて。
 登校までの時間、他愛のない話して。
 それだけで、一日中嬉しそうにしてるんだよな」

 どこか、罪を悔いるような表情。
 そして、そっと愛する少女の名前を口にする。
 短い一語に胸の中の想いをすべてを込めるようにして。
 そして、そっと慈しむように。

「秋葉……」

 
  了










―――其の三 「嘆」
 
 
 どうしてこんな話の展開にになったかな、と志貴は戸惑っていた。
 比較的和やかに、兄と妹としての関係を模索していたはずなのに、いつしか
志貴の言葉のそこかしこに対して秋葉は感情を害し始めていた。
 冷笑と底冷えする怒りの炎をちらちらと顔に浮かべ始めている。
 
「なるほど、兄さんの妹なるモノへの絵空事、いえ憧憬の姿はよく理解できま
した」
「ああ……」

 理解はしたのだろう。
 だが、納得した顔は断じてしていないな。
 そう見て取ったものの、志貴は曖昧に言葉を返すに留めた。
 賢明な事に。

「兄さんは私のこと、妹の癖して口うるさいとか、可愛くないとかお思いでし
ょうけど……」

 そこで、冗談にでもうんと答える事の愚かさは、志貴にもよくわかっていた。
 いや、それどころか僅かにでも顎が下げて肯定の意と誤解させぬように、必
死になってさえいた。
 それをちらりと秋葉は見る。
 その兄の様子にどのような感慨を抱いたのかまでは、志貴にはわからない。

「兄さんの一挙一動に熱っぽい目を向けて、いつも一緒にいようとして、兄さ
んの言う事ならどんな事だって喜んで従う……」
 
 そこまでは俺は言ってなかったけどなあ。
 そう思いつつ、かなり要約かつ歪曲された秋葉の言葉を志貴はやはり身じろ
ぎ一つしないで聞いた。
 秋葉はいったん言葉を切り、じっと志貴を見つめる。
 その瞳に志貴が息苦しくなった頃に、ようやく言葉次の言葉が発せられた。
 緊張感が解け、ほっと志貴は息を吐いた。

「そんな妹になるには、兄側の努力も必要なんですよ。
 私だってどんなにか……」

 秋葉の目が強い光を放ったように思えた。

 まずいな、と志貴は蒼褪める。
 怒られるのか。
 嘆かれるのか。
 それとも、ねちねちと責められるのか。
 いずれにしても歓迎せざる事であった。
 かと言って、踵を返して逃げ出す訳にもいかない。
 志貴は、びくびくと来るものに備えた。

 しかし、秋葉は言葉を飲み込んだようだった。
 志貴の怯えを見て、急にテンションが落ちていく。
 責めるどころか、力を失ったように肩が落ちる。
 どこか詠嘆の表情に取って代わる。
 そして出たのは、むしろ静か過ぎる呟きであった。

「わかっているんですか、兄さんは?」

 飲み込んだ部分の言葉は志貴にはわからない。
 だが、悲嘆のようにすら思える、その言葉に、志貴は肯定でも否定でもなく、
ただ秋葉の言葉というだけで頷いた。

 怒鳴られる以上に狼狽し、どうしたら良いのかわからなくなって。
 そんな自分をもどかしく思うと、さらに慌てる。

 それを見て、秋葉は僅かに、ほんの僅かに目を和ませた。
 兄が自分の為に自縛状態になっている事に、ぎゅっと噛み締めた唇から、ほ
んの少しだけ力を弱めた。

 何とも言えない沈黙が二人を包んでいた……。

 
  了










―――其の四 「隙」
 
 
 黄昏時。
 ソファーに腰掛け、志貴は動かない。
 いや、動けない。
 肩に当たる柔らかい重み。
 それが志貴を拘束していた。
 風がそよぐ。
 志貴の腕にさらりとした感触。
 そして芳しき香り。

 志貴は体を動かさぬようにして、そっと首だけ動かして顔の向きを変えた。
 秋葉を見る。
 それだけで痺れかけた腕も何も忘れ、志貴の顔は穏かになる。
 体を預けている秋葉の寝顔をじっと見つめる。
 人形のようだな、と志貴は思った。
 綺麗な手の込んだ芸術品の如き人形。
 しばし眺めると、人形は生命を得て、瞼を開けた。

「うん……」
「目が醒めたのか、秋葉?」

 もぞもぞと動く秋葉に声を掛ける。
 秋葉は、きょとんとした不思議そうな顔で、覗き込む兄の顔を見ている。
 志貴とまっすぐに見つめあう。
 その吸い込まれそうな瞳にどきどきとしつも、志貴は視線を外せない。
 そして、秋葉はぱっと顔を輝かせる。
 まさに花咲くような満面の笑顔。

「あは、兄さんだあ」

 言うなり、体を伸ばすようにして、志貴の胸に頬を寄せる。
 そのまま、ぐりぐりと顔を埋めるようにして、また、目を閉じたのだろうか?
 ぱたりと体から力が抜ける。
 志貴と密着して体を預けたままで、すぅーとまた小さな寝息を立てる。

 志貴は硬直し、少し斜めの体勢のまま硬直していた。
 秋葉を揺り起こしたものか。
 それとも、自分も横たわるべきか。
 そんな事を考える余裕もなく、ただ、秋葉の体の重みを感じて停止していた。

 
  了










―――其の五 「絶」
 
 
 諦観。
 立腹。
 侮蔑。
 悲嘆。
 
 その他、諸々の感情が渾然となっている。
 秋葉の想いを忠実に反映して、表情が次々と変わる。
 しかし、やがてそこから一つの表情が現れ出た。
 断固たる意志を示す表情が、秋葉を支配する。

 背筋を伸ばし、
 まっすぐ前を見つめ、
 ゆっくりと右手を前に突き出す。
 人差し指を伸ばし突きつける。

 弾劾。

「もう、兄さんには愛想が尽きました。
 とっとと何処にでも荷物をまとめて出て行ってください」

 必要以上に大声を上げるような、無様な感情の迸りは無い。
 声は張りがあり、多少大きくはあったが乱れてはいない。
 間違い様の無い意志を伝える、抑圧された発音の制御。
 
 そして必要最小限の言葉を発すると、後は黙る。
 ただ、瞳に言葉ならぬ言葉を宿して。

 弁解を許さず、
 懇願を拒否し、
 ひとたび口にした事を曲げる意志は無いと雄弁に語っている。

 この秋葉を前にしては、あらゆる言葉を無駄と悟るしかない。
 言われるままに従うしかないだろう。
 ……。
 ……。
 ……。


「あのー、秋葉さま、そう言うことは、ご本人の前で仰ったらいかがです?」

 ぴりぴりした雰囲気に首をすくめ、そして秋葉の足元に転がるずたずたにな
った枕を眺め、琥珀は言葉を口にした。
 いつもと変わり無い様でいて、何気なく一歩分後ろに位置して。
 笑みを含んだ話し方ながら、幾分小声になって。

 秋葉は顔をそちらに向ける。
 琥珀がさらに半歩下がりたくなる顔をしている。

「何を言ってるの、そんな事出来るわけないでしょう」

 そして、目の前の琥珀ではなく、そこにいない何者かを睨み、そしてぶつぶ
つと文句を呟く。
 琥珀はここにいても仕方ないなと判断し、生暖かい笑みで、はぁと相槌とも
つかぬ返答をした。

 
  了










―――其の六 「呆」
 
 
 クリスタルのグラスが傾く。
 濃い紅蓮が流れ、器から消えていく。

「ふぅ……」

 とん、とグラスがテーブルに置かれる。
 飲み干してなおグラスに残る芳醇なるワインの香り。
 その芳香のエキスたる液体を味わった故の、溜息か。
 いや、秋葉の顔を見るに、別の原因による嘆息のようであった。

「なんだ、秋葉だけ辛気臭い顔して」

 それを見て取ったのか、志貴が近づく。
 秋葉は、にこやかに見えなくもない顔で兄を迎える。
 その向こうでは、「あー、志貴さん、いっちゃたー」等という呂律の回らな
い声が聞こえる。

「だいたいだな秋葉は……」

 志貴がいつになく言葉を次々と口にする。
 愚痴と直接的文句とを中心とした、あまり意味を読み解く事に意義が無い話
がだらだらと、しかし絶え間なく続く。
 うんざりとしつつも、秋葉は、黙って聞いていた。
 合い間に、酒瓶を傾けつつ。
 しかし秋葉の気分を反映して、美酒は何の味もしなかった。

 今は酒宴の最中であった。
 そして既に酩酊している者が三人。
 翡翠は、眠ってはいないものの、とろんとした瞳で座り込み、何を訊かれて
も、頷き肯定の言葉を口にしていた。
 琥珀は、笑っていた。普段とは違う笑い。含み笑い。思い出し笑い。ほくそ
笑むと言うに相応しい笑い。
 志貴は、雄弁になっていた。
 何故、自分だけ酔っていないのだろう?
 疎外感を覚えつつ、秋葉はそんな疑問を抱いた。
 そして、溜息。
 そんな顔を志貴がじっと見つめていて、また支離滅裂な説教じみた言葉を述
べ始めた。

「兄さん」

 堪りかねてたしなめようとすると、志貴は気を害した顔で秋葉を軽く睨む。

「なんだ、兄貴に口答えか?」
「な…」

 生意気だぞと言わんばかりの志貴の表情に、秋葉は怒りを浮かべかけ……、
 意志の力で止めた。
 相手は酔っ払いで何言っているかわかっていないんだから、と声に出さず幾
分苦々しく呟いて。
 それは知らず、一見殊勝な態度になったとも見える秋葉に、志貴は満足そう
に頷く。

「大人しくしていれば秋葉は凄く可愛いんだから、勿体無いぞ、うんうん」

 そして、秋葉がどきどきとするほど顔を近づける。

「え……、それ、本当ですか?」

 恐る恐ると言った様子で秋葉は尋ねた。
 志貴は、大きく頷く。

「ああ。綺麗だし、何より可愛い妹だぞ。そりゃ口うるさかったり、ちょっと
待てと言いたくなる事はあるけど、俺も心配させたりしてるから……。
 とにかく秋葉は可愛いぞ、うん」

 さっき酔っ払いで何言っているかわかっていないとか言ってなかったかしら?
 そんな冷静さは頭の片隅に追いやられ、酔っ払っているが故に真実を吐露し
ているのだという判断に取って代わる。

「は、はい、兄さん」

 秋葉は本当はいい子なんだぞー、などと自分で言っては頷き、頭まで撫ぜよ
うとする兄を、秋葉は至福の表情で見つめていた。

 
  了










―――其の七 「名」
 
 
 「兄さんでは、ダメね」

 重々しいと言っても良い、宣言じみた言葉。
 沈思黙考してじっと動かず、それ故に生気には乏しいものの彫像めいた美を
形作っていたのだが、それを発すると共に、人に戻る。
 すっかり湯気の消え去った温い紅茶を啜る。
 白い喉が小さく動く。

「兄さんでは、ダメ」

 もう一度呟く。
 しかし今度は、どこか考え込むように。

「そう……」

 立ち上がる。
 拳が握られる。
 顔には深い決意を湛えた瞳。

「もう、ただの兄妹ではないのだから、相応しい呼び方を。
 そうよ、私と兄さんに似つかわしい……」

 部屋を歩き回る。
 虚空を見つめ、口を閉じて。

「志貴さん」

 そっと呟く。
 首を傾げ、もう一度。
 間を置いて、また、口を開ける。

「志貴さん……、ダメね、どこか他人行儀だし。
 やっぱり名前だけの方が」

 ぶつぶつと呟き、また部屋をぐるりと回る。

「志貴…………」

 頭を振る。

「ダメ。全然ダメだわ。
 ならば……、そうね……、名前でなくてもいいんだ」

 言いかけ、躊躇う。
 そして、口をぱくぱくさせ、開く。

「あなた」

 沈黙が支配する。

「いくら何でも……、早いわよね?
 兄さんと私が、でも……、あなた。
 きゃあ、ダメ。真顔でこんなの言えないわ」

 真っ赤になって、ソファーに身を沈め、足をばたばたとさせてしまう。
 普段の秋葉を知る者なら、間違いなく自分の目を疑うはっちゃけた姿。


「…………」

 志貴は、扉を開けて秋葉に何か呼びかけ、すんでで口を押さえた。
 そして細心の注意を払って閉じると回れ右をした。
 小さく溜息が洩れた。

 
  了










―――其の八 「憶」
 
 
「思えば数え切れないほど秋葉を怒らせたよなあ」
「そうですね」

 穏かな昼下がり。
 何をするでもなく、ただのんびりと過ごしていた志貴と秋葉。
 ふと、秋葉の顔を眺めながら、志貴は思い出したように呟いた。

「でも、その都度許してくれるんだな、秋葉は」
「それは、ずっと兄さんに怒った顔見せている訳にも……」

 語尾がごにょごにょと消えていく。
 そんな妹を、志貴は素直に可愛いなと思う。
 そして、これまでの事を思い出す。
 ああ、こんなにも秋葉に心配かけたり、怒られたりしたなあ、と今さらなが
ら自分でも驚く。
 いや、今でも時々は……、すまん、秋葉。
 内心で詫びた。

「それで安心感があるかもしれないな。最後にはって」

 いつでも、どれだけ激怒しても、それで二人の関係が断絶する事はなかった。
 兄であり妹であり。
 互いを愛する恋人同士であるのだから。
 
「でも兄さん、私は幾らでも兄さんのした事を許しますけど」

 秋葉が志貴を見つめて言う。

「うん?」

 もう心配かけないで、かな。
 何度となく交わした約束。
 破られるが故に、数多く交わされる約束。
 また破ってしまうかもしれない、でも、秋葉のことを俺は……。
 愛する少女の声に耳を傾けつつ、志貴は思う。
 そして……。

 秋葉「どれ一つとして忘れてはいませんから」

 志貴の思考が停止した。
 長い長い数秒間が過ぎ去るまで。

 
  了










―――其の九 「怒」
 
 
 志貴が何か言うたびに、先程から秋葉の表情は険しくなっていた。
 普段なら、秋葉の不興を察した琥珀が水を入れるか、志貴自身が折れるので
あるが、環境改善の意志に燃えていた志貴はひたすらに秋葉に向き直っていた。
 まだ、比較的理性的に言葉のやり取りがされていた時はよかったが、志貴の
素行の問題になると泥沼化していた。

 そして、ついに秋葉の臨界点を突破してしまった。

 ソファーから身を起こすと、秋葉はテーブルを砕かんばかりに、両の手をば
んと叩きつけた。
 そして、志貴を正面から睨み、声を上げる。

「兄さんなんて大っ嫌いですっっっ!!!」

 じんと耳がおかしくなるほどの大声。
 秋葉は体内の空気を全て吐き出したように声を失い、志貴もまた言葉を発し
なかった。
 静寂。
 沈黙がその場を支配する。

「あ……」

 秋葉の震える声。
 衝撃を受けたように、顔色が変わっている。
 唇が小さく震えている。
 
「その、私……」

 さっきの激した顔も、声の響きも、既に跡形も無い。
 むしろ弱々しい表情であり、話し方となっている。
 自分の言葉に、自分自身がいちばん衝撃を受けた姿だった。

「うん?」

 しかし、志貴は秋葉の絶叫じみた声に仰け反ったものの、秋葉のような激変
はまったく無い。
 それを秋葉も見て取る。
 自分の言葉にショックを受けて志貴が呆然としているのではないと、秋葉は
判断した。

「なんで兄さんは平然としているんです?」
「え、だって……」

 底冷えするような秋葉の声に、志貴はびくんと反応するものの、状況を理解
できないでいた。
 その事が、秋葉の怒りを掻き立てていく。

 「だってじゃありません!!
  兄さんなんて大っ嫌いですっっっ!!!」

 
  了










―――其の十 「冷」
 
 
 浅上女学院の生徒会室は、普段とは違う雰囲気に満ちていた。
 雑談を交えての作業の賑やかな感じ、やや脱線がちではあっても建設的な議
論の喧騒、討議の詰めの緊張感、重要事が無い時の穏かな空気、そんなものと
は明らかに異質。
 重苦しい。
 どこか居心地が悪い。
 
 その発生源は、二人の少女だった。
 遠野秋葉と瀬尾晶。
 秋葉の見る者を怯えさせる怒りと慈悲を感じさせぬ表情、そして晶のこの世
の終わりのような哀れな顔。
 それが、同室の者たちに、出来れば外に出たいなあと思わせ、同時に自分が
その最初になるのを躊躇わせていた。

「反省はしていると言うのね」

 秋葉が瀬尾の細々とした言葉を遮るように口をはさんだ。

「大事な会議中に居眠り。
 それだけならまだしも、あんな恥知らずな寝言まで……。
 反省はしているのね?」
「はい……」

 力無く晶は頷く。

「そう、瀬尾、あなたが真っ当な常識を持っていて助かったわ。
 もしかして、人としての道からじっくりと説かねばならないかと心配してい
たから」

 にこりと笑っただろうか。
 しかし晶は、その眼がまったく笑っていない秋葉の笑い顔から、寒気しか感
じなかった。

「なら、どうして、居眠りなどしたの?」
「それは……」

 言い掛けて晶は言葉に詰まる。
 秋葉は促さない。
 声でも、仕草でも、表情すら晶の言葉をただ待つ風情を保っているだけ。
 それ故に、晶はいっそうに焦り、混乱し、唇を震わせる。

「自由時間に何をしてもそれは、瀬尾、あなたの自由だわ。
 だけど、勉学や公的な業務に支障をきたすようだと……」

 やれやれと言った様子で秋葉は、沈黙を破る。
 晶は自分が喋らずにすんだ事に対し、僅かにほっとした顔をする。
 だが、秋葉の思わせぶりな言葉が途中で止まり、じっと自分を見つめたまま
になっている事に、さらに追い詰められた小動物の顔になってしまう。
 一方、狩猟者は、じっと獲物の様子を見極めている。

「あらあら、もう、泣きそうな顔?
 まるで私があなたを苛めているみたいじゃない」

 おかしそうに今度は笑ってみせる。
 晶のみならず、周りの生徒会役員も、震えるような笑い声。
 懸命に晶は許しを乞うた。
 ほとんど意味の無い、謝罪と慈悲を乞う言葉の繰返し。

「許してください、ね。
 ふふ、必死な顔。真剣に反省している……みたいね」

 晶の顔が真剣この上なしな表情を浮かべ、何度もぶんぶんと縦に振られる。
 秋葉は表情が読めない顔で、それをじっと見つめる。
 沈黙。
 そしておもむろに秋葉が口を開くのを、晶は僅かな期待を滲ませて見つめる。

「生憎だけど、それはダメ。
 みっちりと骨身にしみる程、教育的指導をしてあげるわ。
 例え何があろうと、邪魔はさせない」

 激していない平静な、それだからこそ鉄のような意志を感じさせる物言い。
 そして面白そうに、しかし冷たい表情で笑みを口元に浮かべる。
 まさしく凍りつきそうな笑み。

「懲罰する側が言うのは何だけど、同情するわ、瀬尾。
 だいたい…え、電話?」

 鳴り響く部屋の電話を取った生徒が、恐る恐ると言った様子で秋葉と晶の会
話に割り込む。
 秋葉は、別人のようにいつもの顔に戻り、その受話器を握った少女に向き直
った。
 この部屋の電話は、直接に外部との交信は出来ない設定になっている。
 基本的に外部との連絡の際には、職員室や寮の限られた電話を用いねばなら
ない。
 それ故に、秋葉は中断を躊躇した。

「自宅からなの? ええと、取り込んでいるから後で掛け直すと伝えてもらえ
るかしら」

 少女は同意して頷く。
 秋葉は柔らかく笑みを浮かべ、感謝の意を表わす。
 そして、改めて晶の顔を見つめ……。
 電話を持つ少女の言葉にがばと振り返る。

「え、何ですって?
 お兄様って、兄さんから掛かって来た電話なの?」

 動転した顔で、受話器に手を伸ばし、それでは外とは話せないと気づく。

「すぐ行きますって、言っておいて」

 奇異と言うより呆然とした面々を気にとめず、秋葉は部屋を飛び出した。
 廊下から、たんたんと響く音が伝わる。

「……た、助かったのかな?」

 残された晶は、ぽつりと呟いた。
    







―――あとがき

 何だろう、これは……と首を傾げられた方が多いかと思いますが、これはあ
えてダイナミズムなストーリー構造を廃し、あえて断片的な幾つかの光景を描
く事により効果的に……、すみません、嘘です。
 
 自サイトで普段、数行の会話+αの形式の「天抜き」なる代物をちょぼちょ
ぼ書いておりまして、それをもう少し膨らませてみたらどうかなあ、などと考
えてみて実行した産物です。
 そういう意図なので、ネタも基本的に使いまわしだったり。
 ……自分の処でやれ? ごもっとも。

 ちなみにタイトルは、「天抜き」から十個だから天十で、当て字使って食べ
物題名にしてしまおうという頭の悪い付け方で「天重」としました。
 特に深い意味は、さらに変換掛けて「テラホークス」とかいうタイトルにし
て数人くらいしかわからないだろうとほくそえむ……、いやいや。

 ちょっと箸休め程度にお読み頂ければ幸いです。

   by しにを(2003/6/17)