煙草
作:しにを
手を伸ばしかけ、やめる。
しばらくまじまじとそれを見つめる。
そしてまた、手を……。
そんな事をさっきから何度となく繰り返していた。
目の前にあるもの。
それは、煙草。
何の変哲も無い、煙草の紙箱。
種類などは良く知らないけど、多分ありふれたものなのだろう。
既に口は開いていて、もう残りは少なくなっている。
こうしていても、独特の香りが漂ってくる。
もちろん、私には煙草を嗜む趣味など無い。
当たり前だ。
未成年で、法律上で禁じられている。
だいたいが私は煙草というか、あの煙は嫌いだ。
葉巻であれ紙巻きであれ。
仕事上でお客様を相手にする場合は灰皿を用意するが、身内や遠野グループ
での会合などの場合は禁煙を徹底しているくらい。
まして、本人が吸うなどとんでもない。
煙草を吸う事が格好良いなどと思うのは、むしろ子供じみた認識であると感
じる。
責任ある年齢となって自己判断で吸うのまでは咎めようと思わないが、少な
くとも浅上でそんな真似をする者がいれば、きちんと反省させるだろう。
うん?
そう言えば……。
お酒も未成年は禁じられていたような。
ちらりとそんな事を思うが、あれは別物。
少なくとも他者の健康を害する事は無いし……。
……。
言い訳だ。
悪癖ではあるだろう、私の飲酒行為は。
だも、お酒と煙草ではやっぱり違うと思う。
……言い訳ね、やはり。
とにかく、私は煙草が嫌いだ。
なのに。
なのに、さっきからその煙草に手を伸ばしてはやめるという事を繰り返して
いた訳だった。
手に触れて、そして躊躇って戻す。
何度も、何度も。
……馬鹿みたい。
自分でもそう思う。
他人から見たら、さぞや間が抜けて見える事だろう。
そもそも何で煙草を吸う者など皆無なこの屋敷に、こんなものがあるのか。
いつ久しくこの家では異物だった存在。
私が買ってきたものではない。
翡翠や琥珀に調達させたものでもない。
では?
答えはさして奇を衒ったものではない。
拾った。
ただ、それだけ。
この封を切られた残り数本となった煙草は拾ったものだった。
この遠野の屋敷で。
さっきまで兄さんがいた居間で。
何だろう、と拾い上げ、少し思考停止して……、そのまま自分の部屋まで持
って来てしまった。
少なくとも今日は、この家に一人も訪問客はなかった。
兄さんと私、琥珀と翡翠。
その四人だけ。
と言う事は、この煙草は誰かのものだという結論になる。
開けられ、本数を減じているという事は、つまり煙草を吸っていると言う事。
では誰だろう。
琥珀?
翡翠?
兄さん?
……。
琥珀と翡翠ではあるまい。
兄さんが戻ってきてくれる前から、二人ともそんな素振りは一度として見せ
た事は無い。
翡翠もあの同居人が吸っていた紫煙をあまり好んでいない様子だったし。
琥珀にしても、隠れてそんな真似をしているとは思えなかった。
もしも、この二人に喫煙癖があるとしたら、それがわかったら、かなりショ
ックかもしれない。
なら、消去法からすると兄さんという事になる。
それは……、ありえるかもしれない。
少なくとも一顧だにせずに可能性を打ち捨てられない。
男の人だし。
それに、これは偏見かもしれないけど……。
乾さんは、話してみると面白いし、兄さんが友達と言うだけあって決して外
観のままの軽薄な人ではないけど、平気でお酒や煙草は嗜んでいそう。
不思議とその姿は違和感と嫌悪感を感じさせない。
妙にはまる。
お姉さんがヘビースモーカーと言っていたし。
だとすると、良く一緒にいて、家にも入り浸っていた兄さんが、手を出して
も不思議ではない。
兄さんが煙草を吸っている。
それは、何故か心乱す事だった。
嫌がっているのか。
それともその逆なのか。
自分でもよくわからない。
兄さんが隠れて喫煙をしていたのを見つけたら、遠野家の当主として咎め、
叱らねばならない。
でも、こちらから……、そうだ例えば兄さんの留守に部屋を探すとか、そう
いった真似は出来ない。
さすがにプライバシーもあるし。
でも放任していていいのだろうか。
前に別件で、そんな事を琥珀たちに洩らした事があった。
あの時は止められたのよね、琥珀に。
何かが起こってからならともかく、志貴さんの内面に入るような真似はよろ
しくないですよって。
思わず頷くような口調。
……。
そう言えば、あの時、志貴さんに幻滅したくなければおやめくださいとも言
っていたわね。
軽く聞き流してしまったけど。
確か横で翡翠もしきりと首肯していたみたいだけど、何に対してのものだっ
たのかしら。
兄さんの部屋って、何も無いように見えるけど、何が……?
まあ、部屋の詮索は捨て置こう。
……今は。
それより、これ。
兄さんが吸っていたと思しき煙草。
私は、ちょっぴり、興味を抱いたのだ。
兄さんが吸っているなら……。
そんな変な事を考え始めている。
それと、煙草を大人の行為とする子供じみた考え方については侮蔑するけれ
ど、大人の女性の煙草を吸う佇まいといったものは、ちょっぴり憧れないでも
ない。
イチゴさんと言っていたっけ。
乾さんのお姉さんの事を話す時の兄さんは、他の人に対するものとはまるで
態度が違う。
翡翠や琥珀、それに私も含めて、身内に対して触れる時の兄さんになる。
ある意味、家族たる私たちよりも近しい様子に見える事もある。
煙草を吸う女性、兄さん好きなのかしら。
……。
どんななんだろう。
最初は煙に咳き込むだけと言うけど。
まさか。
やらない。
そんな、真似。
でも。
どうだろう。
1本だけ、試してみるのは。
馬鹿な真似。
うん。
自覚はしている。
平気だ。
きっと火を点けて、咥えてみて、すぐに吐き出す。
……。
ライターもある。
ええと。
ああ、一本手にとって。
このままだと。
火を。
火を点けちゃう。
ライターを手に。
するの?
本当にするの?
手が震えている。
ドキドキしている。
兄さん。
秋葉は悪い子になりそうです。
あ。
ああ……あっ。
ダメ。
やっぱり火は点けられない。
もう、片付けよう。
変な気の迷い。
もう、これでおしま…
「秋葉、扉開いていたけど……」
え?
ええっ?
に、兄さんの声?
何で、どうして?
驚いて声も出ない。
返事が無いのに構わず、兄さんが部屋に入って来た。
そして……。
何か喋りかけて口を開いたまま、ぴたりと動きを止めている。
時間が止まったみたい。
でも、目だけが変化。
大きく見開き……。
私もだ。
凍りついたみたいに身動きできていない。
声も出せない。
あ、兄さんが動いた。
「秋葉、おまえ、何してるんだッッ!!」
怒鳴り声。
びくんと体が竦む。
兄さんがこんな声を出すなんて。
それも、私に。
え、怒っている。
凄い目で私を見ている。
動けない。
動く事が出来ない。
兄さんが近寄る。
こっちに近づく。
手が伸びる。
恐い。
叩かれるの?
兄さんに、叩かれるの?
違った。
兄さんは私から煙草を取り上げた。
乱暴でなく。
むしろ、そっと優しいくらいに。
煙草とライターを自分の方に置くと、兄さんは静かに口にした。
「見損なったぞ、秋葉」
「あの、兄さん……、その……」
萎縮して言葉が上手く出ない。
「言い訳は後で聞く。
何度もこんな真似していたのか?」
「え?」
「俺の知らない処で今までも煙草吸っていたのか、と訊いている」
「ち、違います。初めてです。
信じて下さい、兄さんに嘘なんて言いません」
「……」
じっと兄さんは私を見つめている。
無言。
不安になるほど長く。
「そうだな、嘘は言ってないみたいだな。
こんなもの、どうしたんだ?」
「拾ったんです」
「……拾った?」
「はい。
居間にありました。兄さんのものかなって、私……」
「俺は煙草なんて吸わな……」
話しながら、兄さんは紙箱を手にする。
表面と裏を見て……怪訝そうに動きを止めた。
「あれ?」
「どう……なさったんです?」
「これ、イチゴさんのだな。何で……?」
ううむ、と唸って首を傾げる。
細まった目が開く。
「あ、宿題したの片付けた時、まぎれたかな。
旅行のおみやげとか貰って帰って、さっき居間で琥珀さんに渡そうとして鞄
を引っくり返して探して。
うん、そうだな、そうとしか考えられないな」
納得したように、頷く。
ふーん。
そういう事なんだ。
「兄さん、煙草をお吸いになったんじゃないんですね?」
「当たり前だろ」
何を言っているんだ、そう言いたげな顔。
「そんな事より、おまえの事だ。
こんなの持ち込んだのは俺の責任だけど……」
また、兄さんのお小言が始まる。
神妙に私はそれを聞いていた。
そう、やっぱり兄さんは煙草なんて吸わないんだ。
そうよね。
何を考えていたんだろう。
それで、妹が喫煙なんかしたら……。
少し背筋が寒くなる。
兄さん、私の事不良だと思わなかったかな。
隠れて何をしているかわからないって。
それで、嫌われたら……。
いや、それは嫌。
でも、そう……、でも。
兄さんはそれで私を見捨てたりはしないわよね。
心配して、悩んで。
私を更正させようとして。
そんな作品あったわね。
それで、心配がやがて愛に変わるとかいう他愛も無い……。
でも、頑なな心を開いた……とか。
どうだろう?
……。
何を考えているの、私は。
でも、イチゴさんかあ。
どんな人なんだろう。
宿題とか言ってたけど、その人も一緒だったんだ。
煙草吸って……。
それは嫌がらないのね、兄さんは。
むしろ好感持っているみたい。
勉強教えたりしたのかしら、年上の魅力で……。
まさか、兄さん。
いえ、そんな事はないわ。
でも……。
「秋葉……」
「へ、ひゃい、に、兄さん、何ですか?」
ああ、つい意識が変な方へ。
兄さん、怒っている。
もう……、馬鹿。私の馬鹿。
「何ですか、じゃないだろう。聞いているのか、秋葉」
「は、はい。すみません」
「謝ると言う事は、やっぱりぼんやりしていたな。
俺だって似合っていないとは思うし、こんな事言いたくはないけど、年長者
として、秋葉の兄として、きちんとお説教するからな」
厳しい顔……、なのだろう、これは。
でも、目は戸惑いつつもしっかり私を見つめている。
私はしおらしい顔をしつつも、内心で喜んでいた。
兄さんからお説教。
兄さんに叱られる。
なんて珍しい。
ごめんなさい、兄さん。
今度はきちんと全部受け止めます。
謝って、それからちゃんと誤解を解こう。
どうして、こんな真似をしたのか。
そして、兄さんに許してもらおう。
なんて目新しい。
私が兄さんに謝る。
許しを乞う。
頭を下げる。
ごめんなさいと言う。
そんな事に何で心躍るのだろう。
ふふふ。
少し見当外れに私への言葉を紡ぐ兄さんを、私はおとなしく見つめていた。
この気持ちを外に出さないように少し苦労しながら。
Fin
―――あとがき
純情秋葉第五弾。
少し変なスイッチが入ってしまうお馬鹿さんテイストな秋葉です。
こういう間抜けさも、秋葉の可愛さにつながると思うのですが。
月姫&空のメインキャラだと、一子さんと橙子さんという年上お姉さん系キ
ャラしか煙草咥えていないというのも、深読みすると楽しいかも。
二人とも姉だし……。
良くわからないお話ですが、お読み頂き、ありがとうございました。
by しにを(2003/7/10)
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