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初秋

                          折野 町

 蝉の亡骸が、日陰の道端に落ちていた。

 炎天の中で精一杯に命を燃やし、瞬く間に役目を終えた者を静かに日陰は覆
っている。それはまるで、地に倒れた小さな骸を優しく弔っているように見え
た。
 夏を彩る使者が舞台から姿を消し、空は気づかぬうちに手の届かない高さへ、
あっという間に距離を変えてゆく。

 アルクェイドが雑踏の中に少女の姿をふと見つけたのは、そんな季節の午後
の事だった。

「あれ?…あそこにいるのは……」

 ぽつりと呟くと、足を止めた。軽く意識を集めてもう一度目指す方向を見る。
駅前から吐き出される人の波に混じる少女を確認すると、アルクが頷いた。

「やっぱり、妹じゃない」

 腰まで伸びる黒髪。流れる髪は夏の陽を弾き、漆黒の中に溶かれた藍色が光
を受けて煌く。長い睫毛に覆われた瞳は涼やかな色を湛え、真っ直ぐに前を見
つめている。淡い桜色の唇は、固く閉ざされたまま。
 
 半袖の制服から、透くように白い腕がすらりと伸びている。皺一つ無い制服
の裾を翻しながら、颯爽と人込みの中を歩いてゆくのは紛れもなく遠野秋葉だ
った。
 
 凛として足早に歩く姿に、すれ違う人々が思わず道を空ける。横顔の美しさ
に、誰もが後を振り返った。暑苦しい人波の中を平然と歩き続ける秋葉を見て、
アルクがふん、と鼻を鳴らした。

(またあんなに澄ました顔で歩いちゃって)

 するりと人の間をすり抜けながら、秋葉に向かって声をかけようと片手を上
げた。
 その瞬間、秋葉が駅前広場にたどり着くと一台のタクシーに吸い込まれた。

「ん…?」

 ドアが閉じられると、音もなくタクシーは滑り出す。車が広場を抜けようと
するのを見て、アルクが首をかしげた。

(あんなものに乗って、一体どこ行くんだろ。家に帰るんじゃないの?)

 広場を出る直前、タクシーのウィンカーが灯った。点滅する光に、アルクが
驚いた。それは明らかに、屋敷とは反対の方角を指して瞬いている。車が光の
方向へ曲がろうとした時、アルクの踵が軽く地を蹴った。

(ふーん、面白そう。………あたしも一緒に連れてってもらおっと)

 走り出したタクシーと共に、アルクがふわりと宙に飛んだ。スピードを上げ
る車の後を、風になった白い影が建物づたいに追い始めた。


 晩夏の青空が、どこまでも広がっている。

 抜けるような空の下には、いつもの見慣れた街並みはない。ただ一面にある
広大な敷地。草いきれの中に見渡せるのは、建物ではなく整然と並ぶ石造りの
墓標だった。
 
 陽射しを受けて輝く墓石の群れ。その中のひとつに、じっと佇む秋葉の姿が
あった。

 水に濡れた石の前に、線香の紫煙が揺らめく。墓の両脇を鮮やかに彩る花の
色に、秋葉が目を細めた。
 静かに手を合わせる。沈黙の中に、蝉の声だけが響き渡っていた。やがて顔
を上げると、墓に向かって語りかけた。

「ひと月ぶりです。お元気でいらっしゃいますか。――――――――お母様」

 優しい声が、響いた。だが目の前にある石は、当たり前のように黙ったまま
でいる。話しかける声も素通りするように思えて、秋葉が少しだけ哀しげな顔
をした。

 母の記憶は、ほとんどない。
 
 無理も無い。自分が三つを数えた時、母はこの世を去った。もともと身体の
弱かった母は、自分を産むことで持てる命の全てを使い切ってしまったようだ
った。産後もずっと床に伏せったままの母に、抱かれた記憶はない。その手の
感触も、顔も、声すらも覚えていない。
 目の前にある冷たい石だけが、自分に残されたただ一つの母の証だった。月
に一度、命日にはこうして母の前に顔を見せる。そうでもしない限り、自分の
中にある母との糸が断ち切れてしまいそうだったから。

 しばらく無言で墓石を見つめていた秋葉が、ふと口を開いた。

「…また今日も、あの人を連れて来ることができませんでした」

 憂いを帯びた眼を、長い睫毛が覆った。哀しげな笑みが、口元に浮かぶ。

「声をかけようと何度も勇気を振り絞るのですが、やっぱりできません。知ら
せない方がいいのでは、と 思ってしまうんです。迷ったあげく、こうして今
日も一人です。……本当に意気地なしですね、私は」

 自嘲する唇が、やがて歪んできた。ぐっと唇を噛みしめた後で、ぽつりと呟
いた。

「ごめんなさい、お母様」

 俯くと、再び黙り込んだ。寂しげに立つ姿を、離れた所にある木陰から白い
影がじっと見つめていた。



「……それは、本当の話なのか。アルクェイド」

 聞き終えるなり志貴の顔がみるみるうちに硬くなった。黙ってアルクェイド
が頷く。マンションの一室に、重い沈黙が流れた。額に手を当てると、志貴が
考え込んだ。

(どうして。どうしてそんな大事な事を)

 歯がゆさと悔しさが混じったような気分が、志貴を包み込んだ。今すぐにで
も秋葉に向かって問い詰めたい気持ちを、押さえ込むのに必死だった。

「あの妹のことだからね、何か言えない理由があるんだと思うけど」

 その言葉に、志貴が顔を上げた。アルクの顔をじっと眺めると、不思議そう
に言った。

「アルクェイド。ところで、どうしてお前この話を俺にしてくれたんだ。黙っ
ていれば、ずっと分からなかっ ただろうに。それに、この話はお前には関係
のない話じゃないのか。どうして、話してくれたんだ」
「え……?」

 問われたアルクが、今度は不思議そうな顔をした。何かを考えている様子だ
ったが、やがて真面目な表情ではっきりと答えた。

「―――――嫌なの」
「は…?」

 怪訝そうな顔をした志貴に、アルクが腕組みをしながら言葉を続けた。

「このまま黙ってるとね、何か敵の弱みを握ったみたいで嫌なの。戦いは対等
じゃなきゃ面白くも何とも無いわ。
 ムキになって怒ってる妹の顔をみるのは楽しくて好きだけど、泣いている顔
なんて、見たくもないから」

 眉一つ動かさず自分を見つめる志貴を見て、アルクェイドが軽く微笑んだ。



 暦が、九月の終わりを数えた。

 墓地に流れる風は肌寒く、この場所をいっそう寂しげなものにしている。所々
に咲く彼岸花が、殺風景な景色に彩りを添えていた。鈍色の墓石に、花の朱色
が鮮やかに映えている。

 人気のない墓地に、足音が鳴る。両手に花と手桶を持った秋葉の姿が、今日
もまた見えていた。目指す場所へと近づいた時、目の前の光景に大きく目を見
開いた。

「おいっ!そこは他人様のお墓なんだから上に座ったりしちゃダメだってば!
何度言ったら分かるんだ!」
「だーって。志貴はやることがあるからいいけどさ、わたしはヒマなんだもん。
疲れちゃったよ」
「いいからそこをどけっ!バチが当たるぞ!」

 アルクェイドが、知らぬ他人の墓の上に座って笑っている。それを必死に追
いつつ、目指す墓を掃除している志貴の――――兄の姿がそこにあった。手か
ら桶と花が滑り落ちると、勢いよく秋葉が駆け出した。

「兄さんっ!!」

 必死の表情で近づいてきた秋葉に、志貴が手を振った。

「あ、秋葉。やっと来てくれたか」
「な、な、何を言って…ど、どうしてここが、ど、どうして、何で…!!!」

 訳が分からずに、思わず志貴の服を掴むと叫んだ。ちらりと志貴が横を見る
と、少し気まずそうな顔で答えた。

「や、それはまあ…色々とあるんだが…何だ。その…こいつが教えてくれて…」

 つられて横を見ると、アルクが墓の上から秋葉に向かって笑顔を向けている。
その顔を見て、愕然とした。

「な、あな…た…また…こんなことを…」

 わなわなと震えると、長い黒髪にざっと朱が流れ始めた。それを見て慌てて
志貴が口を開いた。

「そ、それより秋葉。どうして、この事を教えてくれなかった。どうして、こ
んな大切なことを」

 その途端、秋葉の顔が曇った。志貴から目を逸らすと、辛そうに眉を顰めた。
何かを口ごもっている様子だったが、言いにくそうに小さな声で呟いた。

「…兄さん。そのお墓を見て、何も気がつきませんでしたか」

 全員の目が、墓石に注がれた。石に刻まれた家の名は、遠野とは違った苗字
が刻み込まれていた。

「母は私を産んだ後も、床を離れることが出来なかったそうです。病が重いと
知った父は、すぐさま母を実家に下がらせ、亡くなった後は即座に離縁したそ
うです。…お分かりですか、兄さん。母は、母は遠野家の当主の妻でありなが
ら、私を産んだ母でありながら、遠野の墓に入ることすら許されませんでした。
父にとって母は跡継ぎを産ませるための道具に過ぎなかったんです。用が済ん
でしまえば、それで終わりの存在だったんです」

 血を吐くような言葉を、志貴は黙って聞いていた。秋葉はなおも言葉を続け
る。

「…私がこの事を知らされたのは、父が死んでからでした。この事実すら、父
は隠し通そうとしたんです。それ以来、毎月の命日にはこうして母に会いに来
ています。それが、せめて私に出来ることだと思ったから」
「ならどうして、俺がこの屋敷に来てからも一人で隠そうとした?」

 きっと秋葉が顔を上げると、志貴を睨みつけた。

「何度も何度もお話しようと思いました!……だけど、だけど出来ませんでし
た。だって、私の母がそんな扱い を受けた人だったなんて、兄さんに聞かせ
て喜ぶと思いますか?遠野の家にはまだそんな話が残っていたのか、どこまで
も不幸な血を引いた家柄だと、これ以上兄さんを悲しませてどうするんです!
兄さんに暗い顔をさせ るのは、もうこれ以上……だから…だから私は……だ
けど…」

「―――――馬鹿」
「え……?」
「馬鹿だと言ってるんだ、秋葉」
「な……」

 あっけにとられている秋葉を横に、志貴が墓の前にしゃがみ込むと用意して
いた花を手向けた。線香に火を灯すと、墓前に供える。流れる煙に、刻まれた
名前が霞んだ。墓をみつめたまま、志貴が話し始めた。

「秋葉。俺はまだ、お前に遠野家の人間として認めてもらえないのか」
「そ、そんな事…」
「なら知らせてくれ。俺はこの屋敷に来て色々あってから、遠野家の人間とし
て生きていくことを決めた。この先、たとえどんな事があったとしても、過去
に何があったとしても全て受け入れていく覚悟を決めたんだ。秋葉のお母さん
がどんな人生を送ったとしても、俺が遠野家の人間である以上、秋葉のお母さ
んは俺の母親だ。
 自分の母親の事を知りたいのは当然じゃないか。違うか?」

 秋葉に向かって振り向くと、志貴がにっこりと微笑んだ。

「有間の家を出て屋敷に来てから、俺はもう『遠野志貴』なんだよ。秋葉」

「あ………」

 秋葉が口を両手で覆った。小刻みに身体が震えている。志貴が立ち上がると
秋葉の肩にそっと手を置いて、一緒に墓の前に座らせた。

「なあ、改めて母さんに紹介してくれ。長いこと留守をしてしまった、お前の
『兄』を」

 優しく肩を抱き寄せると、何度も秋葉が頷いた。墓石に向かって、秋葉が微
笑みかけた。

「お母様。やっと、やっと兄さんを連れてこれました。遅くなってごめんなさ
い。志貴兄さんです。…ちょっと 頼りなくて、危ないこともしでかすし、目
が離せない人ですけど。でも、でも…これまでも、そしてこれからも、ずっと
私の側にいてくれる、たった一人の…」

 秋葉の眼に、光るものが滲んだ。大粒の雫がひとつ頬を伝わり落ちると、笑
顔が崩れ始めた。

「たった…ひと…りの。だい…すきな、いちばん、いちばん大好きな、わたし
の兄さんです」

 声が、震えた。両手で顔を覆うと、嗚咽が肩を震わせた。肩を抱く志貴の手
に、力が込められた。

「ほら、泣くな。母さんの顔が曇って見えなくなるだろ。母さんの喜ぶ顔を、
ちゃんと見てあげなきゃ」
「はい…はい、兄さん。兄さん…」

 身体を寄せあう二人の背中を、じっとアルクェイドが見守っていた。やがて、
ふわりと身体を浮かすとその場を静かに後にした。


(今回は貸しにしといてあげるわ、妹)
 
 誰もいない墓地の通路を、ゆっくりと歩いてゆく。陽は早くも傾いて、茜色
の帳の中に墓地全体が包み込まれ始めていた。景色に似合わない鼻歌を歌いな
がら行くアルクの背中に、突然声が飛んだ。

「待ちなさ…いえ、待って!」

 振り向くと、秋葉が息を切らせて立っていた。荒い息をつきながら、アルク
を見つめている。

「何よ。まだ何かあるの?」
「え。いえ、その……あの……」

 その顔は耳まで赤く染まり、眼は潤んでいる。恥ずかしそうに俯くと、小さ
な声が唇から漏れた。

「き…今日だけは貴女に感謝します。…あ、あ…ありが、とう」

 消え入りそうに俯く秋葉の顔に、アルクが手をかけた。指先で顔をつ、と上
げさせると

「なにメソメソしてんのよ。そんな顔、見たくもないわ。泣いてばっかいるん
なら、志貴は頂いちゃうからね。
いいのかな〜?それでも」
「なっ…!何を言ってるんです!兄さんには指一本触れるなといつも言ってる
じゃありませんか!!」

 瞬時に顔色を変えたのを見て、アルクが満足そうに笑った。

「そうそう、その顔が見たかったの。怒ってる顔が一番可愛いよ、妹は。じゃ
ね」

 アルクが地を蹴ると、白い影に変わって消えた。呆れ顔でそれを見ている秋
葉の後ろから、志貴が近づいて来ると秋葉に声をかけた。

「アイツはもう行っちまったのか?…そっか。じゃあ一緒に帰ろうか、秋葉」
「ええ、兄さん」

 秋葉が眼を細めた。道端に伸びた二つの影が、並んでゆっくりと動き始めた。

 
 そしてその翌月。
 
 墓地に向かう秋葉の手から、手桶と花が消えた。その代わりに、温かい志貴
の手がしっかりと握られていた。