Syunsuke
「大分伸びて来ましたね、髪」
洗髪を手伝ってくれながら、琥珀が言う。
「そうね。思ったより早かったわ」
もとの長さになるまで戻らないと誓ったのに、結局耐えられず、私は遠野の屋敷に戻っている。だけどまあ、兄さんに迎えに来させることには成功したから、良しとしよう。相変わらず浅上での生活は忙しく、兄さんは気紛れでだらしがないから、一緒に暮していても共に過ごせる時間は短い。それでも、近頃は週末だけは私と居てくれる。
「それにしましても、秋葉さま。土曜の晩ぐらい、志貴さまとご一緒されればよろしいのに」
兄さんと一緒に何を? 夕食にはちゃんと同席していたのだし。
一瞬、きょとんとしていたら、琥珀が少し人の悪い笑いを浮かべて言う。
「お風呂ですよ、お風呂」
なっ……
「そんなこと、出来ません! 大体、あんな大雑把な人に髪を任せたり出来ますか!」
夢想だけならしたことのある状況をあっさりと口にされ、私は思わず声を荒げていた。
「あら、愛する方に任せられなくて、他に誰に任せられるんです?」
そりゃ、私だって、兄さんが髪を洗ってくれたら嬉しいと思うけど。
「出来るわけ無いわ」
到底そんなことをしてくれる人だとは思えないもの。
それに、その、一緒にお風呂に入るなんて恥ずかしいこと――
「お教えになればよろしいじゃありませんか。ふふふ、それとも、私の方で教えて差し上げておきましょうか?」
「琥珀!」
まったく、琥珀は時々こんな冗談を言う。
それでも、兄さんの手で髪を洗ってもらったら、どんなに気持ち良いだろうって。考えるだけでうっとりとしてしまった。
琥珀もそれ以上は妙なことを口にはせず、風呂から上がる。
「では、明日の朝までこちらからは秋葉さまの部屋には参りませんので、御用の時は申し付けくださいね」
華やかに、悪戯っぽく笑い、琥珀は立ち去る。最後にちらりと見た視線が何か気にかかったけど、判らなかった。
部屋に戻った私はベッドに腰掛け、つい、そのまま後に寝てしまう。
髪、乾かさないと。思いながらも、さっきの言葉を反芻していた。
兄さんとお風呂に。
ふふふ、そういえば、前には一度拒んだのだった。今度、同じことをねだって来たときには許してあげましょうか、兄さん? 私の髪、ちゃんと洗って下さるんでしたらね、なんて。
想像の中でなら、そんな時でも私はイニシアティブを握っていられる。きっと実際の場面では、ほとんど成すがままにされてしまうだろうにも関わらず。
暑い。ふふふ、暑いのは風呂上りだからじゃないわね。頬が真っ赤になっていそうだと気付いた途端に恥ずかしくなって、誰が見ているわけも無いのにうつ伏せになる。布団に顔を埋めて、腕で隠す。まったく、ひとりで何をしているのだろう。
一緒に入浴していたら、こんな風にひとりで待たずに済むのか。
起き上がり、鏡台に向かう。ブローぐらいは琥珀にしてもらえば良かった。
こんなこと、頼んだら男の人は面倒がるかしら。うん、でも、兄さんなら嫌な顔をせず手伝ってくれると思う。ただ、頼まなければ絶対気付いてくれないだろうとも思う。
二人で風呂に入ったら、後で男性を待たせることになりそう。いっつも兄さんは待ってくれないけど、髪が乾くまでは駄目ですからね。
あ、枝毛――。
手を止めて、切り取る。幸い、それ一本だけらしい。傷んだ髪を屑篭に捨てようとして、また手を止めた。傷んではいても、黒い。そう、赤みの無い、漆黒の髪。遠野の血に目覚めた時には朱く染まってしまった髪も、今は元通りだ。
昔から、あの人は自分勝手で、約束は破ってばっかり。結局、初めて結ばれた時の約束さえ守らず、兄さんは私に命を返してくれて、お陰で私は元に戻れた。
いや、あの時、兄さんは約束をしてくれなかったんだ。そして多分、それが正しかったのだろう。二人とも今、こうして生きていられるのだから。そして、私は黒髪で居られるのだから。
屑篭に入れるに忍ばず、くるくると指に巻きつけ、捩って輪にして、鏡台の引出しに落とす。翡翠が掃除して捨ててしまうだろうが、それは構わない。所詮はただの髪の毛、私の感傷に過ぎないのだから。
――――コンコン。
ドアがノックされた。
「秋葉?」
幸い、髪はもう乾いている。うん、梳かすぐらいなら、ねだってみても良いだろう。
「兄さん? どうぞ」
「うん」
ゆっくり扉を開けて、兄さんは部屋に入ってくる。立ち上がって出迎え、ソファに案内した。私も正面に腰を降ろす。
「まったく、トイレじゃないんですから、二回きりのノックなんて止めてくださいといつも言っているでしょう?」
思ったより早かったのが嬉しくて口元が緩んでしまいそうだから、つい憎まれ口になる。
「ははは、普段トイレぐらいしかノックなんてする機会はないからさ」
いつもなら怯えるように返事をする兄さんも、こんな場合だけは私の感情が判るみたいで、落ち着いた様子だった。いい加減に着た寝巻とか乱れた頭とか、相変わらずだらしない。
「風呂上りといっても、どうして服装ぐらいきちんと出来ないんですか」
ああ、甘えた笑みを浮かべてしまわないためにはもうしばらく文句を並べないと駄目みたい。
「風呂の後はリラックスの時間だよ。四六時中そんなに緊張してたら千切れてしまうじゃないか」
「兄さんは緩みすぎなんです。一体いつ緊張されてるんです?」
ああ、駄目。
兄さんの返答も、私の更なる返答も、まるでいつも通りの戯れ合いだから、毅然としているのには役に立っていない。
「相変わらず秋葉は隙が――」
ちょっと驚いた顔をして、兄さんは言い淀んだ。何か変なものを見たかのように、視線が私のお腹の辺りで止まっている。
私が失態に気付くのとほとんど同時に、兄さんが笑う。
「ははは、秋葉でもそんなことあるんだな、珍しい」
顔を上げたら、立ち上がって傍まで来ていた。逃げようとしたけど間に合わない。パジャマの裾を兄さんが掴む。
ほんとに、こんな時だけ素早いんだもの。
「いやっ……ん……」
捲くれ上がってお腹が出てしまうけど、そんなことは問題じゃない。まったく、何でこんなこと。鏡台にあれほど向かっていて気付かなかったなんて、そこまで私は上の空だったのかしら。
前開きのパジャマのボタンを掛け違えて、ひとつずつズレていたのだ。
「待ってください、直します!」
手を振り払おうとするけど、放してくれない。
「だーめ、そのままで居ないと帰るよ」
「なんで、そんな!」
恥ずかしいこと。
「恥ずかしいのは自分のことを棚に上げて説教した罰だよ。それにね――」
意地の悪い笑いが解けて、優しいものに変わる。
「一週間、張り詰めて過ごしてたんだろ? 良いじゃないか、それは秋葉のリラックスの証ってことで」
それはまあ、その。でも……
「こんなだらしのない……」
のぼせたみたいに顔が熱かった。兄さんは私の隣に座り、私の両手を捕まえている。細いけど、やっぱり男の人の手だから、掴まれてしまったら逃げられない。
「どうしても、直したい?」
「それは、もちろんです」
必死で硬い表情を作って言う。でも、兄さんのこの笑いは何か企んでいる。
「じゃあ、俺が直してあげる」
そう言って、胸元のボタンに手を伸ばしてきた。
「そんな、自分で直せます!」
払い除けようとした手を掴み、いきなり額をくっつけて来て、言う。
「妹の面倒を見るのは、お兄ちゃんとして当然だろう?」
まったく、大失態だ。ここに来てやっぱり主導権を奪われてしまった。
「どうするの? 直して欲しい? そのままで居る?」
どっちにしても恥ずかしくてならない。顔を背けていたら、掌に指先を当ててくすぐり始める。
「きゃははっ」
引っ張って逃げようとしても、無駄だった。
「相変わらず敏感だな、秋葉」
「やめってっくださいっ、兄さんっ、ふふふふふふっ」
「直すかそのままかどっち?」
なんで、そんなことにそんなに拘るんですか。
「それとも、直すなんてまどろっこしいことしてないで、脱がしちゃった方が良い?」
しれっとそんなことを言いながら、掌を責めるのを止めてくれない。ともかく、くすぐったいのから逃げようと、私は言っていた。
「直して、下さいっ!」
「ん、何をかな?」
「ボタンですっ!」
ようやく兄さんの指がストップした。
「はぁ、はぁ」
解放された手を擦り合わせながら、息を整えた。
「ほら。ボタンもちゃんと止められないんだからなあ、秋葉は」
今だけは事実ながらも、勝手なことを言いつつ、兄さんは首の前に手を伸ばしてくる。優しい手つきで一番上のボタンが外される。脱がされたことも裸を見られたこともあるのに、やっぱり恥ずかしい。体の前で交差していた腕を退けられて、まったく無防備になった。
肌蹴たパジャマの前から風呂上りの肌が覗いているはずだと思って、もっと上気してしまう。
「意地悪っ」
意味もなく、そんなことを呟いた。
一番上のボタンを留め直してくれる。それから、その次を外す。不意に指先が乳首に触れる。その感覚に、覚えず悲鳴を上げていた。
「ひゃっ」
「あ、どうかした?」
わざとらしく兄さんが言う。黙っていたら、二度三度と突付いて来る。
「止めてくださいっ」
「ああ、いや、こんなところにもボタンがあるのかなって思ってさ」
馬鹿らしいことを言って笑っている。
「……もう良いです、自分で直しますから」
呆れて言うと、酷くがっかりした表情を見せてくる。
「そうか。じゃあ、俺は帰るから」
「なんで……そんなっ」
こんなに求めているのは、私だけなんですか?
生地の上からでも判るようになっている乳首にもう何度か触れた後、次のボタンを留め、そこからは余計な悪戯をせずに全部直してくれる。
「ほら、ちゃんと確かめて着ないと駄目だぞ?」
ええ。そうですね。こんなに守勢に晒されないためにも。
「はい。ありがとうございます、兄さん」
「良いさ」
そして、あまりの態とらしさに、二人して吹きだした。
手を伸ばして来て、頭を撫で始める。下に滑り降りて、髪を弄る。
「一週間、お疲れ様、秋葉」
それから、頬にちょっとだけ、キスしてくれた。
実際、平日は忙しくて――いや、それより、日常的に享受しすぎると溺れて駄目になってしまいそうで――二人きりで過ごすことはあまり無い。
だから、この夜は。
「兄さん。今週は何か、私に報告すべきことはありませんか?」
何でも良いですから、私に話してくださることは、ありませんか?
「遠野家の当主様に報告かい? そうだな……」
――胸に触れられたのはともかく。
まあ、これぐらいなら、ギリギリ“仲の良い兄妹”で済むぐらいかしら。
――いや、駄目かな。でも。
私が貴方の妹でなく、女になって。
貴方が私の兄さんではなく、志貴になるのは。
もうちょっと遅い時間から、ですね。
<END?>
どーも、こちらでは二度目のSyunsukeです。
純情ってなんじゃろ? と悩んだ挙句、「○ェラまでさせておきながら純情秋葉(w」というテーマで書き始めたはず。なのにこの激甘っぷりは一体^^;
時期的に間に合い、純情認定もOKそうなら、続きを投稿させて頂きますね。そう、土曜日の真夜中に、とでも称して^^