寝言
大崎 瑞香




「兄さん、きいているんですか!」

 秋葉の叱り声は片手にもつブランデーグラスの中の琥珀色の液体を大きく揺らした。
 志貴はしぶしぶとそこに座った。ソファーの上に正座してちょこんと座る姿はなんとも可愛らしい。本来ならば男性に使うべき形容ではないが、肩をすくめ、黒髪の少女の前で縮こまるかのようにしているのは、なんともユーモラスであった。
 背筋を伸ばし、うっすらと酷く冷たい微笑を浮かべた様は、あるで悪の組織の女幹部だな、と志貴は思った。
 しかし我が妹ながら、なんでこう薄ら笑いを浮かべながらブランデーを飲む姿が似合うのが、とても不思議だった。猫嫌いでなかったら、膝の上に毛の長い白猫でも撫でているのではないか? とさえ思ってしまうほど。

 それにお前、未成年だろ、と志貴は目の前の飲んべえに言いたかった。
 酒豪と呼びなさいとなんて言っているけど、志貴からすれば飲んべえとかザルとかタガが外れたで充分である。

 しかし言ったら最後。百億の言葉となって打ちのめされるのが目に見えている。しかも冷たく一言一言が的確に急所を正確に的確に抉るのだ。そんなのに耐えられそうもないし、また耐えたいとも思わない。
 兄として情けなくもなるのだが、出来のいい妹をもつということはこういうことなのだと、諦観した。

 生返事ばかりしていたので、なにを秋葉が語っていたのか志貴は覚えていない。覚えているのは舌を刺激し喉を灼くアルコールの味ばかり。最初の内はまだ香りや味を楽しむことはできたが、今ではアルコールのひりつくような感覚だけ。喉元どころか顔全体が熱い。酔って顔まで真っ赤になっているのがわかる。まるで顔が腫れ上がっているようだ。

に、い、さ、ん!

 ややカン高い尖った声に我に返る。
 チラリと見ると、妹姫は背筋をすっとのばし、ブランデーグラスを片手に腕組みして、見下ろしていた。
 逆光でかなり―――――――――――怖い。

「あーはいはい、秋葉」
「はい、はひとつです」
「――――――――――――――――はい」
「だいたい兄さんは……」

 話なんてきかず、目の前の秋葉を観察する。
 軽く酔っているためか、志貴の瞳には秋葉は色っぽく映っていた。その程度しか酔いを見せていないのは、さすが秋葉というべきか。感心するところではないと思い直して、あらためて見直す。
 白い肌は酒精のためかほのかに桜色に染まり、艶めかしい。それと対照的な黒い髪が揺れて、ほのかに香りを放つ。漆黒の瞳は酔いのためか潤み焦点が合わず、ぞくぞくするような流し目となって志貴を捉えていた。桜色の唇にグラスを寄せて琥珀色の液体を飲む。ごくりと鳴る喉がなり、嚥下していく。なぜかぞくりとした。そして吐き出される吐息は熱く――蕩けていた。

 酔って熱いのか、首の紅いリボンをゆるめ、第一ボタンを外していて、そこから伺えるぬめるような白い肌。いつもの毅然とした凛々しい秋葉を知っているだけに、それだけで妙に色っぽく感じられる。
 思わず志貴の方が気恥ずかしくなってしまった。見ていてなぜかドキマギしてしまう。秋葉は見慣れているはずなのに。そう思いながらも、志貴は視線を逸らした。

 眼鏡の端から、こくりこくりと船をこぐ翡翠と、ごろりと横になって一升瓶を抱えたまますぅすぅと寝息をたてる琥珀が見えた。
 屍累々という言葉をなんとなく思い浮かべてしまう。なぜかその言葉がツボにはまって志貴はくすりと笑った。

「何が可笑しいのですか、兄さん!」
「あー秋葉。もう夜も遅いし、明日もあるし、翡翠も琥珀さんも寝ちゃったし――」
「そんなこと、関係ありません! それに誰もみんなに明日はあるのです。そんなこと理由になりません!」

 秋葉お前にもあるんだろう、明日。

 言いたい。言い返したい。
 でも、ぐっと堪える。堪え忍ぶ。
 睨んでくる妹に曖昧な笑みを浮かべる志貴は、上司に睨まれたサラリーマンのようだった。
 なんでこんなに媚びへつらうんだろうか? ふと志貴は疑問に思う。
 たしかに秋葉は当主だ。言っていることは――酔ってなければ――正当性のあるものばかりで整合性もとれている。ぐぅの音も出ない意見を立て板の水の如くさらさらといわれては、志貴には反論さえ許されない。
 高慢さがとても似合う高飛車な秋葉の前にただ志貴は口をつぐむ。
 胸をはってそりかえり、薄ら笑いを浮かべる秋葉。
 その胸はやっぱりないなーと不謹慎なことを考える。といういうより志貴は考えないとやってられない。時計を盗み見るともう午前3時。これで朝起きられずに遅刻したら、やっぱり怒られるんだろうなぁ、とすこし鬱になる。

「――今、なにか不遜なコトを考えましたでしょう?」
「いえまったくです、秋葉さん」
「いーえ」

 秋葉はぐいっと近寄ってくる。
 アルコール臭い息がかかるほど。とろんとした瞳には陶酔したような輝き。口元には薄ら笑み。

「兄さんは、いつもいつもいつも、わたしのことをそんな風に思っているのですから――秋葉は鬼妹だって」
「そんなことはないよ、秋葉」

 必死に否定する。思ったのは悪の秘密組織の女幹部だけどな、と心の中で補足する。
 こんなことを明言してしまったら、明日からの生活が、いや命があやうい。生存本能が告げる警告に従って志貴はやや引きつった笑みをうかべて、必死にうち消す。

「いーえ。ぜ、っ、た、い、にそう思っているに違いありませんから」

 聞き入れてくれない酔っぱらいに志貴は肩を落とす。せめて目覚めたときには記憶がありませんように、と神に祈るしか残されていなかった。

「だって――――――いつも、いつも、兄さんはわたしの言う事なんて聞いてくれないじゃないですか」
「そんなこと――――」

 志貴はあわてて、秋葉を見ると言葉を詰まらせた。
 秋葉が泣いているのだ。
 ぽろぽろと堪えられない涙が瞳からこぼれ落ちていた。

「兄さんのことをこんなに大切に思っているのに。兄さんにしっかりして欲しくて言いたくもない小言をいっているのに。なのに、なのに兄さんはいつもわたしのいうこと、ちっとも聞いてもくれないんですから」

 綺麗な雫が頬を伝わって落ちた。

「それは確かに秋葉は五月蠅いです。やかましいと思っているのかもしれません。でもそれはすべて兄さんのことを考えているからなんです」

 見開いた瞳は潤み、志貴をじっと見ていた。

「体だって丈夫じゃないのに、いつも無茶ばかりして。体側類のならば早く家に帰ってきて休んで朝早く起きて、健康的な生活をすればいいんです。そうすれば少しでも体がよくなるのに。なのに兄さんったら…………」
「……秋……葉……」
「朝からいつもアルクェイドさんとシエルさんとの騒動に巻き込まれていて、ぐったりしていて。それじゃあ兄さんの体がよくなることなんてありません。はっきりあの方たちにもいうべきなんです。自分のことばかり考えているばかりじゃなくて、兄さんのことを少しぐらい考えなさいって」
「…………」
「わたしは兄さんが大切なんですよ。こんなにも大切に思っているのに――――」
「すまない、秋葉」

 志貴は殊勝にうなだれて秋葉に謝る。

い、い、え

 秋葉は座った目のまま、一言一言区切るようにはっきりと言った。

「兄さんはわかっていません! えぇえぇぜったいにわかっていません! わかっていたらあんなことなんてしませんから!
 ――――兄さんは遠野家の長男なんです。秋葉のたった一人の『兄さん』なんです」

 秋葉の顔がアルコール臭い息がかかるほど、ぐっと近寄る。
 酔ってとろんとしているくせに座った目。
 泣いているのに、見開いていて、しっかりと志貴を逃さない。
 思わず腰砕けになって引こうとする志貴を秋葉は逃がさない。

「どうして、いつもいつも勝手に出かけて、門限を破ってばかりで、欲しいモノがあれば言えば買ってさしあげるといっているのに小遣いばかり欲しがって……わたしだけではなく翡翠は琥珀にまで迷惑をかけて……かけっぱなしで……」

 涙の雫で潤んだ漆黒の瞳に志貴は囚われる。

「そうです! いつもいつも翡翠や琥珀にまで迷惑をかけて……」

 ぴたりと心を指先で押さえつけられたかのような言葉に志貴は何も云えない。ただ何か言いたくて言葉を探すが、それは言葉になるまえに消えてしまって。思いだけが空回りしていた。
 そしてようやく、すまない、と一言だけ絞り出した。

「ほんとうに、ほんとうにそう思うのならば……翡翠にも琥珀にも……そして……そして……」

 熱に浮かされたような瞳。
 心まで濡らすような、しっとりとした瞳。

「……秋葉にも……もう少し……もう少しだけ……やさしくしてください……」
「……………………秋葉」

 そう一言漏らすのが精一杯だった。
 とたん――――突然重くなる。
 秋葉は寄り添うように躰をあずけ、志貴の胸に頭を押しつけた。
 ほのかに薫る秋葉の薫り。
 ふわりと胸にあたる重みと温かさ。

 「…………秋葉」

 志貴は思わず抱きしめたくなる衝動に駆られた。
 胸にある熱さ。重さ。香り。
 安心させたくて、やさしくしたくて……ただ抱きしめてあげたくなった。
 それが正しいのかどうかわからない。
 ただそうしたくて、そうしてあげたくて。
 だからまた、秋葉、と呼びかけた。
 返事はない。
 そっと覗いてみると、うっとりとした表情で目をつぶり。息を立てていた。
 …………。
 …………。
 …………。
 …………息をたてて?

 またそおっと見てみると、秋葉は寝息をたてていた。

「……もしもし……秋葉…………秋葉さん……………………秋葉さーん……」

 返事もなく、目覚める気配もなく、すやすやと眠ったまま、嬉しそうに微笑んでいた。
 イタズラ半分にその紅く染まった頬をちょっと押してみる。
 ぷにぷにしていて柔らかい弾力。
 くすぐったそうに顔を撫でて顔をしかめる。
 なんとなく可愛らしい。
 やれやれと思いながら、寝やすいように躰をそっと傾けてやる。
 胸に感じる秋葉の重みと温かさ。
 秋葉の寝顔をたのしんだ。
 すぅすぅと寝息を立てる姿は今までの女幹部から――――無邪気な天使のようだ、と思った。
 無邪気な天使という言葉を思いついてしまった自分についつい苦笑する。
 それでも。
 その寝顔はそれほど可愛らしく、無邪気で、安らかで。
 いつもはしなやかで鋭い、つんつんとした感じなのに、こうしてみると秋葉はやっぱり女の子なんだな、と志貴はしみじみと思った。
 上から見下ろす暴君さながらの秋葉なのに、その寝顔はあどけない。
 そして肩の細さに志貴は驚いてしまう。
 こんなに細かったのかとしみじみ思う。
 こんなに細い肩をしている年下の女の子に心配をかけているのだなと思うと、猛省したくなる。
 よくよく考えれば翡翠にも琥珀さんにも心配と迷惑をかけっぱなしだな、と思う。
 遠野家の長男、秋葉の兄さん、という秋葉の常套句がまったくもって正しいのだと志貴は感じた。

「……そうだよな……秋葉……もうちょっとしっかりしなきゃなぁ……」

 秋葉の流れるような黒髪を梳きながら、志貴は囁きかける。

「――――俺は秋葉に兄貴なんだから、な……」

秋葉はくすぐったいかのように躰をよじり、そしてその可憐な唇で寝言を紡いだ。

「――――――……………兄さん……」

 甘い吐息とともに吐き出された寝言。


 ああ――――――――――そうだな


 素直にそう思った。

「もっと秋葉を大切にするよ……」

 そして志貴は目を瞑る。
 とたんアルコールによって意識が溶け始める。
 睡眠へと吸い込まれるかのように落ちる心地よい瞬間。

 ――――――大切なたったひとりの、妹、だからな……。

 そう心の中で呟いた。


 そうして志貴も寝息をたてはじめる。
 秋葉に寄り添って。
 二人、仲睦まじく。
 まるで本当の兄妹のように。


≪了≫

あとがき

 秋葉4模様です。
 今回のテーマは「せつない秋葉」もありますけど、「こんないい娘だったんだ」というのもありました。そこで秋葉の魅力を書こうと思って考えてみて、思いついたのは「5つ」。

    ・小言 アルクェイドとつき合う志貴を見ている秋葉
    ・睦言 志貴とつき合うラブラブな秋葉
    ・戯言 トゥルーエンド後の秋葉
    ・寝言 家族 ( 妹 ? ) としての秋葉

 これらを書きたくて今回の「〜言」シリーズにまとめてみました。

 ちなみの残りの1つは、志貴に組み敷かれて甘くわななく可愛い秋葉(爆)でしたので、「〜言」シリーズにいれませんでした。

 PS.門限破り(タイムアップなのに送りつけるという暴挙)、すみません。

2nd. July. 2003 #111

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