睦言
大崎 瑞香




「兄さんは……まだ、かしら?」

 長い黒髪の少女はやや苛立ちを含んだとがった声で使用人に尋ねた。
 割烹着を着た赤毛の少女は、はい、まだですねー、と肯定した。
 そう、とため息にも似た声を吐き出して、黒髪の少女はまた紅茶を一口、口に含んだ。
 甘く気品のある薫りが鼻腔をくすぐっていく。
 いつもならば、それを優雅に楽しむのが常。鼻をくすぐる芳醇な薫りと口の中に広がる滋味を存分に味わうのか、この屋敷の主である少女の楽しみだった。しかし今はそれを心から楽しむことが出来ない様子だった。
 少し苛立たしげに、その髪を掻き上げる。長い睫毛の瞳を気怠げにけぶらせて、窓から外を眺めた。

 夕暮れ。
 天空も、大地も、そして緑の木々も、なにもかも燃えているかのような色に染まっている。切ないような、淋しいような橙色に染まっている。影が紅く燃えた大地の上に長く伸びていた。
 なんとなく、窓を開けてみたくなって、開けてみた。

 蝉の声が飛び込んできた。合唱であり輪唱であるこの夏の風物詩は、この時刻になってもやむどころかますます勢いづいていた。
 うだるような熱もむっと入り込んでくる。この黄昏時になっても、まだ昼の暑さは逃げず、地面に渦巻くように漂っていた。
 そんな熱を孕んだ風が入り込んでくる。
 少女の白い肌をすべって、ほんの少しだけ熱さをしのいでくれる。かるく浮いた汗を絹のハンカチでぬぐうと、目を凝らした。
 ここからははっきりと見えないが、門には小豆色のエプロンドレスに身を包んだ娘が、彼女と同じように彼の帰りを待ちわびているのだろう。

(――もうこんな時刻なのに……)

 少女は可憐な桜色の唇をすこし歪める。

(――――もう2時間よ、まったく兄さんったら……)

 黒縁眼鏡をかけている愛しい男性の面影を思い浮かべると、すねるように言った。2時間も待たされているのだから、拗ねる資格は充分だといわんばかり。
 しかし実際のところ、その黒縁眼鏡をかけた朴念仁と称される男性にこれっぽっちも非はない。
 たまたま少女が学校を予定時刻よりも2時間も早く帰ってきただけである。
 少しでも愛しい人の側にいたいと思って、急いで帰ってれば、目的の人はまだ帰ってきていない。
 少しでも早く話がしたくて。
 ほんの少しでも早くその姿を目にしたくて。
 とにかくその声を聞きたくて。

 ―――――――――――――――――――――なのに、屋敷にいないのだ。

 ただの肩すかしであり、自分勝手な感情だと少女もわかっていたが、箸が転がってだけで笑ってしまうような年頃の乙女心はそうはいかない。子供っぽい感情だとはわかっているのだが、拗ねるのをやめることはできない。

 (――――莫迦ね)

   と自嘲の笑みを浮かべる。しかしその貌は端麗のままで、その笑みは儚く、たおやかであった。
 莫迦だとわかっていても、愚かだと知っていても、それでも目は時計を何度も確認してしまう。ついつい外をみてしまう。
 せっかくいれてもらった紅茶の味もわからない。

 唐変木。
 朴念仁。
 愚鈍。

 想い人を罵るいろんな言葉を思いつく。
 でもその言葉の前には『愛しい』とか『可愛らしい』とか『大好きな』という形容詞がついてしまう。
 愛しい朴念仁。
 可愛らしい朴念仁
 大好きな愚鈍。
 …………ややシュールであるが、彼女にとってはそうではないらしい。こんな言葉でさえ、彼のことを想えば愛おしくなる。
 屋敷に帰ってくると、いろんなコトがあるというのに、彼のことだけに一杯になってしまう。あふれてしまうほど。当主として、学生として、いろんなことがあるというのに、彼女の心はそれに囚われて引きずられてしまう。

 少女の世界は、窓からの光によって宵闇色に染まっていた。
 電気をつければこんな光を追い払えるのは知っているけれど、そうする気にはならなかった。この淡い橙色と燃えるような赤色と、昏い宵闇色に包まれて待つのは、なんとなく心地よかった。
 待ち人が来ないのは辛いけど、まっている時間さえも愛おしい。
 胸の奥がぎゅっと締め付けられる時間。
 そわそわとして、せわしいくせに、なぜかゆったりとして、愛おしさが募っていく時間。

 ほのかに香る紅茶の薫り。
 時を刻む音。
 蝉時雨。
 熱い風。
 葉擦れの音。

 またチラリと時計を見て、窓の外を盗み見る――この『待つ』というたゆんでゆるるかな時間の流れ。

 そんな時、彼女はいつも夢想する。
 その夢の中での愛しい恋人は、信じられないほど素直だ。朴念仁でも、鈍感でも、唐変木でもない。洗練されていてスマートだ。まるで恋愛映画か恋愛小説にでてくる登場人物のよう。

 千本もの真紅の薔薇を両手一杯にもって。
 真摯な趣で。

   愛している。
   綺麗だよ。
   可愛いよ。
   ラヴ・ユー。
   大好きだよ。
   君だけなんだ。
   ジュデーム。
   もう君しかいない。


 と愛の言葉を紡ぎ、彼女に跪き、懇願し、哀願する。
 心からの言葉。溢れて出てしまったかのような、純粋な気持ち。
 彼女の心を得るために吐き出された切ない言葉の数々。

 そんな二人に用意されているのは、幾千もの薔薇の花びらが敷き詰めた部屋。芳しい芳醇な香りに包まれながら、口説かれるという愉悦。その部屋の中央には、冷たく滑らかな絹のシーツにつつまれたふかふかのベットだけ。愛の巣だけ。

 そんな中で。
 その唇で幾億回も名前を呼び。
 その瞳に浮かぶ賞賛の輝きを浮かべ。
 愛を請うのだ。
 彼女に。漆黒の髪と白磁のような肌をもつ乙女に。
 ただ、ひたすらに。

 そして、それほどの心のこもった愛の囁きの前に彼女も翻弄され、その身を愛しい人に歓喜とともに委ねるのだ。
 その男の鋭く射抜く線の前では、躰を熱くさせる愛の言葉の前では、衣服なんて無意味。
 衣服をはぎ取られて、裸にされていく、めくるめくような恍惚。何もかも隠すところなく、ありのままの自分という存在を相手に晒して、相手にも晒してもらって。愛する人と抱きしめあって、愛を睦ぎあって、一晩中、そう夜明けまで愛の悦びにひたりたい。
 熔けるほど、蕩けるほど。
 とろとろになるまで。
 睦言に埋まりたい。睦言で躰をいっぱいにしたい。いっそ溺れてみたかった。
 心も、体も、なにもかも、愛しい人の、言葉だけに、愛だけに、恋だけに、心だけになりたい。

(それだけになれたら――――倖せなのでしょうね)

 なのに、そんなことがありえないことを彼女は知っている。
 愚鈍、唐変木、朴念仁と称される男がそんなことをするわけはないことを知っている。
 惚れた相手が悪かったのかも知れないけど――彼女には彼しかいらなかった。
 彼だけいけばいい。
 夢に出てくるような男性はしょせん理想であって、愛しくて恋しくて切なく乙女の可憐の胸を揺さぶる人ではない。

(――だって、好きなのは…………兄さんなのですから)

 ガチャリと扉が鳴った。
 気がつくと世界は闇色に閉ざされていた――もうそんな時刻。
 そして扉の前には、少しばつの悪そうな顔をしている愛しい朴念仁。

「……ずっと待っていたって聞いたけど……」

 黒縁眼鏡の奥の瞳には夢想した時のような賞賛の輝きではなく、少し怯えたような輝き。
 内心ため息をつきながら、彼女はいつもの口調で――ほんとうはこんな口調じゃなくて、甘えるような声で語り合いたいのに――いつもの口調でしゃべりはじめる。

「まったく、兄さんったら……」

 なんでそんな瞳で見られるのかと、彼女はすごく不満に思う。
 天の邪鬼で誤解されやすいけど、気が強くて誰より臆病なのに。
 昔とまったく変わっていないのに――――兄さんったら……。

 仕方がないわ、と彼女は目の前のすまなそうな顔をしている愛しい男を見ながら、思う。
 どんなに不器用でスマートに振る舞うことができないのは知っているから。
 愛したのはそういう人なのだから。

 彼女はやさしく微笑む。

「お帰りなさい、兄さん」

 自然に柔らかい声が出ていた。いつもの咎めるような、小言をいうような口調ではなく、甘く、やさしく、柔らかく、そっと触れるような、声。

「ん――――ただいま」

 にこっと笑う。その笑みに、兄さんって卑怯ね、と思った。

(こんな顔されたら、わたし……なにも言えないじゃないの)

 薔薇の花束なんて贅沢はいわないから、待つ恋人に花の一つくらい持ってきてもいいのに。
 もう少し、もうちょっとだけ、ほんのちょっとだけでいいから、夢の中のようでもいいのに、と不満に思いながら、愛しい人へと彼女は歩き始めた。

「挨拶はそれだけですか?」

 わざとからかうように、揶揄するかのように囁く。
 見つめている先は愛しい人の顔。瞳。唇。
 すこし驚いた顔を見せて、そして彼の方も近寄ってくる。
 彼女は愛しい男性の首に、やさしく手をかける。
 彼は愛おしい女性の腰に、力強く手をまわす。
 溶け込むような闇色の中。
 遠くから虫の鳴き声。
 弱くなった蝉の声。
 窓の外にはまたたく星の煌めき。
 恋人どうしには、ぴったりな世界。
 そして――寄り添いあう二人の影。

 睦言を語り合うには、それだけで充分。







≪おしまい≫





あとがき(言い訳)

 ゴメンなさい。18禁にする予定だったのに、秋葉の乙女回路ラブラブ全開120(%)に撃沈してしまいました(爆)
 こういうのを書くとホストクラブに入れ込む女性がでてくるのもわかるなぁと思ってみたり。

16th. June. 2003 #108


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