小言
大崎 瑞香




 目を覚ますと、哀しかった。
 何か夢を見ていたようだが、秋葉には思い出せなかった。
 ただわかるのは、泣いていたらしいということ。
 そして――楽しい夢を見ていたということだけ。楽しい夢だからこそ、秋葉にはとても哀しかった。ありえない夢でなければ、この頬を濡らす感触の理由はないのだから。
 寝ながら泣いていた、という事実は、秋葉の矜持を軽く傷つけた。
 頭が重く、まるで風邪を引いたよう。
 少しぼんやりと微睡んで、記憶から消えてしまった夢の残滓を掻き集めようと努力する。
 壊れた硝子の破片を集めるかのような、無駄な努力。集めたところで壊れたものは元に戻らないというのに。そういう努力は秋葉は行ったことはない。それがわかっていても、それを掻き集めたかった。
 それは――遠い夢。
 幼いころの、そして幼いころからの夢、だったから。
































 夏の日。
 まわりの木々の隙間から覗ける空はあまりにも高くて、あまりにも蒼くて、まるでそこだけを切り取ったかのような、そんな印象さえ受ける。
 まわりから蝉の合唱が降り注ぐ。
 木漏れ日の中、いつものとおり遊んでいる子供達。
 泥にまみれ、森をかけずり回り、そして屈託なく笑う。
 子供だけの特権。底抜けに明るい、耳にした者の心を和やかにさせる活気溢れるざわめき。
 しかしそれさえも、宵闇が忍び込んでくると、終わりを告げる。
 大人ならば一抹の悲しさを覚えるような黄昏の時。
 それさえも希望に満ちあふれる子供たちにとっては、ただの一時中断。
 また明日ね、というただの楽観的な希望が不可侵の約束となりえる――それは子供だけの特権だった。
 着物をきた腕白そうな少年が淡い黄色ときつい茜色に染まる中、目の前の可愛らしい女の子に告げる。

「僕が秋葉のお兄ちゃんになるよ」

 じいっとそれを上目使いで見ている女の子。長い髪を風が揺らしている。
 そして少し潤んだ涙目で、ホント? と呟く。

 怯えるような、縋るような漆黒の瞳の前で、少年は大きく頷く。
 元気いっぱいに、素直に、力強く。

「本当だよ。僕は秋葉のお兄ちゃんになるよ」

 遠くから呼ぶ声。心配性大人たちは子供を手放さない。なにかあったら大変だと捜し始める。でもそれは子供からみればだたのお遊戯。大人との鬼ごっこ。楽しく遊べる日々を、ただ受け取って、ただそのまま、純粋にそのことを楽しむ。

 少女はすっと近寄って、少年の裾を握る。そのしっかりと握りしめた指先はかすかに震えていた。
 少年は笑ってその手を握る。
 少女の体はびくりと大きく震え、おずおずとのぞき見る。
 少年ににこりと笑う。
 その純粋な朗らかな笑みを見て、少女は頬を赤く染めた。握りしめた指先の震えはさらに大きくなるが、少女の瞳は少年から逸らされることはなく、しっかりとみつめていた。

「…………………………約束よ…………」

 か細く震える少女の声に、少年は、心配性だな、と笑う。
 少女は震えながら近づいて、ありったけの勇気を振り絞って、目をつむった。胸がバクバクしていて、弾け飛びそうだった。
 少年はそんな可愛らしく震える可憐な少女に近づくと、その額に――――。
 かすかに触れたような感触に少女の体も心も歓喜に震える。

 遠くから大人たちの声。それはあまりにも、遠くて――。
 































 夏の約束。
 幼いころの契約。
 契約の証。
 セピア色の、でも色あせることのない思い出。
































「――――莫迦みたい」

 秋葉は口にして、顔を歪めた。本当に莫迦みたいに思えてしまったから。
 そこにあるのは夢の残滓。キラキラと眩いほど綺麗なのは――思い出だからなのだろうか?
 ベットの上で横たわりながら、見慣れた天井をぼおっと眺めた。
 まだ外は暗く、陽光は届いていない。でもカーテンの隙間から見える夜は色あせ、闇色から紺色、そして暗いけども空色へと変わろうとしていた。

 少年はそのまま親戚に引き取られ、想いを募らせたまま少女は夢見る乙女になった。
 そして再会した時には、少年は青年となっており、そして――。
 いつの間にか恋人をつくっていた。
 外国人で、金髪で、騒々しくて、でも綺麗で、無邪気で、朗らかな、まるで太陽のような女性だった。
 ずっと想っていた自分が莫迦のように感じられた。

 8年間も離れていたのだ仕方がないという思いもある。
 8年間も手紙ひとつよこさないのだから、脈がないのだと考えれば良かった、という考えもある。
 そしてあのときの約束は秋葉の兄さんになるということ。
 けっして恋人になるという誓いではないことはわかりきっていた。
 それでも。
 秋葉にとって、兄である遠野志貴だけがすべてだった。
 いつか王子様がなんていう少女趣味だったのかもしれない。
 遠野の家の因習に、鬼の血という業にがんじがらめに縛られ、息も出来ないほどの重圧に耐える日々。
 それも兄さんがいたから、と秋葉は思う。
 遠野志貴が、秋葉の兄さんがいつか帰ってきてくるから。
 だから耐えてきた。耐えてこれた。
































 でも兄さんには選んだ女性がいる。
































 わたし一人で勝手に好きになって、わたし一人で勝手に盛り上がって、わたし一人で勝手に失恋しただけ。



 ただ――――――――――――――――――それだけ。



 そう思うのがいやで、秋葉は天に向かって手を伸ばしてみた。
 蒲団の中から出すとひんやりとしていて火照った躰に心地よい。
 天井まで伸ばしてみたかったけど、届くことはない。
 その手に何も掴むことが出来ないのが、なんだか悔しくて、なんだか切なくて。また泣き出しそうだった。
 遠くから鳥のさえずり。
 カーテンごしにも感じられるまばゆい陽光。
 すでに夜は明け、世界は動き出そうとしていた。
 なのに、秋葉の心はただ重い。鉛のように重く、息を吐くのも辛い。


 ――もし兄さんが有間家にひきとられなかったら……もし……もしそうだったのなら、兄さんはわたしを愛してくれたのかしら?
































 ………………やっぱり、莫迦ね。



 その薄い唇に自嘲の笑みを浮かべた。でもその瞳にはやさしい光を湛えている。
 この愚かしさが、なぜか愛おしい。
 愚かしい想いだということはわかっている。
 意地っ張りなわたし。
 もし――――――もしわたしがほんの少しだけ素直だったら、兄さんはわたしを愛してくれたのかしら?
 あの一番を選ぶことのない、残酷なまでに優しい人の一番になれたのかしら?
 もしずっと側にすることができたのなら、兄さんはわたしを選んでくれたのかしら?
















 一番になりたかった。
 そして想うままに、感じるままに、兄さんに甘えたかった。触れたかった。笑いあいたかった。愛し合いたかった。
 アルクェイドを見つめる熱い眼差しで見つめて欲しかった。
 アルクェイドに囁く低い声で睦言を紡いで欲しかった。
 何もかも、遠野志貴というものを、その存在すべてを、秋葉の独り占めにしたかった。
















 でも、それは――――――ありえない夢。
 残酷なまでに嬉しくて、切ない夢。
 愚かしいのに、ありえないとわかっているのに、それに縋ろうとする莫迦な――――――わたし。



 秋葉はかぶりをふるとベットから起きた。
 カーテンごしから溢れる光の氾濫がまぶしい。光に包まれて、空気はすでに熱い日中を想わせるほどの熱を持ち始めていた。うだるような熱さを予感させる。窓の外の木々は、陽光をあびて、青々としているのは、見なくてもわかった。
 秋葉は背伸びをする。
 心地よい一日のはじまりの中、着替えはじめた。
 森から聞こえる鳥たちの囀りが心地よい。
 どこからか入り込んできた風が薫り、肌をすべるように撫でていく。
 髪の毛を丹念に梳く。いつもならば琥珀に手伝って貰うのだが、彼女がくるのを待つこちともできない。早く志貴に逢いたいから、秋葉は自分で梳きはじめた。
 光沢を帯びた流れるような黒髪が艶めかしい。一櫛いれるたびに、その腰のある鴉の濡れ羽色はいよいよ艶めいていく。
 寝間着を脱いで畳むと、浅上のセーラー服に着る。タイを曲がらずにきちんと締め直す。きっとしまって、今まで重かった体も頭もゆっくりと軽くなっていく。
 体に流れる血管に熱い血が流れはじめ、胡乱で朦朧としていたものが明確になっていく。意識もすっきりとはじめた。
 着替え終われば兄さんに逢える。そう思うだけで、心がそわそわとせわしなく浮き立ってしまう。
 現金なものだと思うけど――――――仕方がない。それが遠野秋葉というものなのだから。



 さて、また今日に兄さんを叱らないと。



 そう考えて、苦笑した。そんなことでしか接することができない自分が悪いのか、それともそうしか接しさせてくれない兄さんが悪いのか――。



 でも兄さんが悪いんですからね。
 遠野家の長男として、しっかりしてくれれば秋葉は何も言わなくてもいいのですから……。



 毎朝、逢えただけで、こんなに嬉しい。楽しくて仕方がない。
 逢えなければ、淋しくなるばかりだというのに。
 そして小言をいえるのはわたしだけ。
 秋葉だけ。
 たとえ恋人のアルクェイドさんでも、先輩のシエルさんでも、琥珀も、翡翠もできないことができるのは、このわたしだけ。当主のわたしだけ。
 昏い身勝手な愉悦だと思う。
 でも、それしかないのだから仕方がない。
 遠野志貴を、兄さんを、こんなことでしか、つなぎ止めることが出来ないのだから。こんなことでしか、縋ることでしかてきないのだから。



 ――――また鬼妹と思われるのでしょうね…………



 ため息ひとつ。
 それでもいいと思っている自分に、苦笑してしまう。
 それに。
 鏡の中、眩い朝日の中、一分の隙もなくセーラー服を着た髪の長い夢見る乙女を見つめながら、囁く。
 ひそやかに、
 ひめやかに。
 でも、はっきりと。
 言い聞かせるかのように。
 あどけない笑みを浮かべながら。



「秋葉の兄さんはあなた一人だけなんですから……」



 もし秋葉を愛してくれなくても。
 もし他の女性と添い遂げたとしても。
 秋葉が遠野の血のため他の男性と結婚したとしても。
 兄妹という関係は生涯、消えることはないのだから。
 たとえ結ばれなくても、
 契ることなんてなくても。
 それは、生涯、添い遂げるのと同じ。
 それは、たった一つの我が儘。
 それだけが、秋葉の望み。
 だから今日も秋葉は遅刻ギリギリまで居間で待ち構えていて、寝坊してくる愛しい兄さんを叱りつける。
 また今日も、兄さんは! と小言をいう。
 だらしない兄さんを叱るという、当主として、妹としての権利。
 たったそれだけのために、秋葉は今日も居間に向かう。
 愛しい志貴に対して告げることができない想いを胸に抱いて。


≪おしまい≫
9th. June. 2003 #107

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