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ヒメゴト

                     春日 晶

 

 げっほげほ。

 志貴の部屋からリビングまで、盛大な咳の音が聞こえてくる。

「姉さん、志貴様が……」

「翡翠ちゃんがきちんとお薬を飲ませるから大丈夫です。ね、秋葉様?」

「……ええ。病人は薬を飲ませて安静にさせておくのが一番です」

 身じろぎしたのは翡翠ただ1人、琥珀は飲み干されたカップを片付けていく。
 秋葉はちろりと時計に目をやりながら、紅茶で湿った唇をハンカチで拭った。

「後は任せたわ。兄さんをよろしくね」

「いってらっしゃいませ、秋葉様」

「志貴さんのことはご心配なく」

 使用人姉妹の綺麗に揃ったお辞儀に満足げな笑みを残し、秋葉は颯爽と退室
していった。
 普段通り、何事もなかったかのように。

「……もっと狼狽なさるかと思いましたが、意外です」

「あんなものですよ、秋葉様は……さ、そろそろお粥さんが出来ますから」

 ぱたぱたと厨房に戻る姉の後ろ姿に、恐らくこの屋敷で今日最初に狼狽した
であろう翡翠は溜め息をひとつ。

「……案外冷たいですね」

「いえいえ、火傷するくらいに熱いですよ。お薬と一緒に、気を付けて持って
行っちゃってください」

「……はい、姉さん」

 蓋の小さな穴からほこほこと湯気を出している、『お粥入りの小さな土鍋』。
 青や緑に色目も鮮やかな、琥珀特製『半透明の粉包み』。
 後者の怪しい感は否めないが、お盆に載せられたそれらのアイテムはきっと
志貴を快癒へ導いてくれることだろう。
 翡翠はもう一度溜め息をつきながら、ウィンクする琥珀からお盆を受け取る。

「押し倒されない限り、口移しでもいいですからお薬は飲ませてくださいね」

「……押し倒されてしまった時は?」

「そんな元気があるなら、土曜日で半ドンであっても秋葉様がお休みを認める
ハズがありません」

 ごもっとも。
 翡翠は妙に納得しつつ、にこにこと微笑みを崩さない姉に背を向けた。






「翡翠には苦労をかけるねぇ」

「いえ。本日は志貴様が大人しくなさっているので、思いの外に楽ですが?」

「ちぇ。そんな意味じゃなくってさぁ」

 お粥を冷まして志貴の口元に運びながら、翡翠は小首を傾げた。
 確か今の志貴の言葉は、『召し上がれ』『いただきます』のように対になる
答え方があったハズだ。
 それがどうしても思い出せず、つられて志貴まで怪訝な表情を浮かべる。

「翡翠? 次、次。あーん」

 翡翠は手が止まっていたことに気付き、慌ててレンゲを椀に戻す。
 幼い子供のように甘える主人に溜め息が出そうになってくる。
 でも志貴に溜め息を吹きかけるわけにもいかず、代わりにレンゲにすくった
熱々の流動食に吹きかけてやることにした。

「秋葉はちゃんと学校に行ったかい?」

「はい。変わりなくお出かけになられました」

「そっか。よかった」

 何がいいと言うのだろう。
 また首が斜めに曲がりそうになるのを堪え、翡翠はレンゲを志貴の口の中に
押し込んだ。

「……お薬はご自分で飲まれますか? 姉さんから、口移しをしてでも飲んで
いただくよう言われておりますが」

「ぶっ!? ……あ、ごめん。いや、自分で飲むから……うん、自分で飲むよ」

「かしこまりました。それではお飲みください」

 翡翠は残念そうに水差しの傍に紙包みを置いて、食器を片付け始める。
 志貴はしばらくカラフルな粉末を窓にかざしていたが、翡翠の視線に苦笑い
しながら一気に飲み干してみせた。

「うわ、苦っ……こりゃ、口移しでなくて正解だな」

「左様ですか。では、昼食は如何いたしますか?」

「何かあったら呼ぶよ。ご馳走様っと」

「……はい。かしこまりました」

 翡翠は志貴が布団を被り直した横で、薬を包んでいた紙片を回収する。
 そしてぺこりと頭を下げると、いつもより静かに静かに部屋を出た。
 志貴に意図が伝わらないのはいつものことだから、今更頬を膨らませる気も
起きないらしい。

「お大事に、志貴様」






 リビングに戻った翡翠は厨房から忙しなく動く音を耳にした。
 志貴が粥も薬も平らげた証拠を見せねばなるまい、と彼女も厨房へ急いだ。

「あら翡翠ちゃん、結構時間がかかりましたねー。まさか本当に口移しで?」

「……いえ、ご自分で飲まれてしまいました」

「あらあら、それは残念でしたね……っと、これでよし」

 いくつかの缶詰をテーブルに並べ、琥珀は次いで翡翠からお盆を受け取った。
 缶詰のラベルは……蜜柑に白桃、黄桃のシロップ漬け。

「翡翠ちゃんが食べられなかったのは姉としてほっとするやら惜しいやら複雑
な気分ですが、病人には色気より食い気があった方が安心ですからねー」

「……姉さん、これも志貴様に?」

 姉のからかいにめげることなく、翡翠はいわゆる『病人が欲しがるもの』を
早速志貴の元に持って行こうとする。
 琥珀は何故かその手をぺしっと叩き、冷蔵庫で林檎の選別を始めた。

「駄目ですよ、翡翠ちゃんは食いしん坊万歳なんですね……あ、皮剥きナイフ
を出しておいてください」

「私が食べるわけじゃないのに……」

 怒られた理由を模索して首を傾げつつ、言われた通りに小さなナイフを用意
する翡翠。
 翡翠がこれを使えばどうなるかは周知の通りだから、恐らく琥珀が使うもの
だろう。

「翡翠ちゃん、小皿と爪楊枝も出してくださいな」

 琥珀はぱくんと果物の缶を開いて、手際よくガラスの器に盛っていく。
 早く林檎を剥いて欲しいのに、と翡翠ははやる心を抑えて新しいお盆に皿と
爪楊枝入れを載せた。

「さて……後はこれを冷やして待つだけです」

「え? 姉さん、志貴様にお持ちするのでは?」

「志貴さんはお粥さんを食べたばかりです。それにちゃんとお薬を飲んだなら、
もうとっくに夢の中ですよ」

「あ……」

 飲んでから幾許かしか経っていないのに、琥珀は自信満々に言い切った。
 そこまで言うからには、それだけの混ぜ物をしてあるのだろう。

「お昼まで冷やしておきますけど、翡翠ちゃんが食べちゃ駄目ですよ?」

「もう、姉さんの意地悪」

 翡翠は改めて溜め息をつき、仕方なく普段の仕事に戻ることにした。






「…………」

 まだお呼びはかからないだろうか。
 志貴の着替えとタオルを抱え、翡翠はそわそわと落ち着きなく歩き回る。

「はぁ……翡翠ちゃん、何時間もそうしていて飽きませんか?」

 どこからか戻ってきた琥珀の溜め息で、翡翠は我に返った。
 よく考えたら最初に志貴の着替えを用意したままで、今日は何も仕事らしい
仕事をしていなかったのだ。

「だ、だって……姉さん」

「もうお昼も過ぎましたから、そろそろですよ。私達のお仕事はこれからです」

「え?」

 厨房へ向かった琥珀の声に、翡翠はいよいよかと胸を躍らせてみる。
 今頃果物のシロップ漬けはきんきんに冷えていて、志貴も喉を鳴らして喜ぶ
ことだろう。
 しかし琥珀はちょっと悲しそうに眉根を寄せて、肩まですくめてみせた。

「翡翠ちゃん、その着替えは今のうちに志貴さんの部屋に置いてきてください」

「え? ……あ、はい。姉さん」

 着替えか果物かの片方を先に置いてこなければ、両方を持って志貴の部屋の
扉を開けることは出来ない。
 そう理解した翡翠は、音を立てぬよう注意しながら小走りに志貴の部屋の前
へと駆け出した。
 そして扉を開ける間際に、当主の帰還の言葉を聞いた。

「ただいま、琥珀。兄さんの具合はどう?」

「お帰りなさいませ。朝から病人のように眠ってますよ」

「そう。少なくとも仮病ではなかったようね」

 今のうちに。
 姉の言葉を思い出して、翡翠は開きかけた扉の中を呆然と眺めた。
 熱は概ね下がったようだが、まだ志貴の額にはうっすらと汗の粒が浮かんで
いる。
 でも、着替えさせるのは多分自分ではない。

「……志貴様……」

 翡翠はそう呟きながら、机の上に着替えとタオルを揃えて置く。
 そのまま早々に退室して、重い気分でリビングに戻った。






「……まだお休みになられていました」

 沈んだ表情を見られまいと、気を張っていた翡翠は再び呆然としてしまった。

「そう。じゃぁ即刻叩き起こして、これをねじ込んできてくれる?」

 秋葉の手には、いくつかに切り分けられた林檎と皮剥きナイフ。
 それをはらはらと見守る琥珀。
 てっきり秋葉が交代で看病を始めるものだとばかり思っていた翡翠は、不覚
にも間抜けな声を上げてしまった。

「はい?」

「聞こえなかった? ええと……ウサギはこれでいいかしら、琥珀?」

「はい。私から見ればまだまだですが、志貴さんの目なら十分誤魔化せます」

「全く、琥珀はいつも一言多いのよ……はい、出来たわ」

 不揃いな大きさと形の林檎ウサギが皿に並べられると、琥珀がそれをお盆に
載せて翡翠に歩み寄ってくる。
 冷やした果実シロップ漬けと林檎。
 そして朝とは少々色味の違う粉包み。
 前者はともかく、琥珀が薬と自称する毒々しい粉末もやはりセットらしい。

「はい、翡翠ちゃん。林檎の色が変わる前に早く」

「あ……は、はい」

 目をぱちくり瞬かせていた翡翠は、姉に急かされて階段を上っていく。
 シロップ漬けはどうとでもなるけど、この林檎ばかりは代えが利かないから
至極慎重に。

「ああ、ちょっと待って」

「はい、秋葉様」

「林檎のこと、私が剥いたって兄さんには言わないでね」

「……はい。かしこまりました、秋葉様」

 翡翠は何だか申し訳ない気分になりながら、お盆をしっかりと支え直した。
 志貴のことを心配していたのは、何も自分だけではなかったのだ。
 ただ、秋葉も翡翠と同じかそれ以上に不器用なだけ。
 翡翠は軽く溜め息をついて、早速林檎ウサギを届けに向かった。






 秋葉に言われた通り、翡翠はまず志貴の唇の間に林檎ウサギをねじり入れた。

「……ふぐっ?」

「お加減は如何ですか、志貴様?」

 ぼんやりと薄目を開けた志貴は、口の中のものが林檎だと理解すると静かに
租借を始める。

 しゃくしゃく、しゃく。ごくん。

「……翡翠か。誰かと思った」

「秋葉様の言い付けです」

「秋葉? あいつめ、病人に何てことを言うんだろう」

「それと色が変わる前に食べていただくようにと、姉さんの言い付けです」

 よくよく眺められたら、琥珀が剥いたものではないとバレてしまう。
 翡翠は例の通りだから、残る候補は秋葉しか残らない。
 秋葉へのちょっとした姉の心遣いを感じつつ、次々と林檎をねじ込んでいく。

「ちょっと、翡翠……んぐ、早」

 志貴は目を回しつつ、間断なく襲いくる林檎ウサギをどうにか胃袋に納めて
いった。
 林檎を半分だけ食べさせると、翡翠は一旦お盆を机の上に置く。

「……ああ、志貴様。申し訳ありませんが、シーツを取り替えますのでその間
に着替えをどうぞ」

「え? うん、お願い」

 のっそりと身を起こした志貴がじっとり湿ったシャツを脱ぎ捨てた途端。

「……きゃー」

 ぱたり。

「……な、何事?」

 翡翠は直立の姿勢のまま床に倒れ込み、続いて誰かがばたばたと階段を駆け
上がってくるけたたましい音。

「何事ですか、兄さん!」

「あちゃー……志貴さん、翡翠ちゃんに何したですか? えっちなことですか?
変態さんなことですか?」

「え? いや俺は何も別に……」

 志貴がいくら言い訳しようとしても、倒れた翡翠の前で半裸になっていては
どうしようもなかった。
 秋葉がじろりと志貴を視殺している傍らで、琥珀は落ち着いた様子で翡翠を
担ぎ上げた。

「どっこいせ……困りましたね、秋葉様。私は翡翠ちゃんの介抱をしなければ
いけませんが、どうやら志貴様には看病役と監視役が必要みたいです」

「……全く、兄さんは油断も隙もないんだから」

 秋葉は吐き捨てるようにそう言うと、まだ残っていた林檎の皿を手に取った。

「妙な真似をしないよう、私が見張っておきます。琥珀は翡翠を休ませてやり
なさい」

「はいー。すみません、秋葉様」

 どこか楽しそうに返答しつつ、琥珀は妹を担いでとことこ部屋を後にした。






「もう起きてもいいですよ、翡翠ちゃん」

「……姉さん」

 志貴の部屋から十分に離れた頃、翡翠は狸寝入りから目を覚ました。
 志貴や秋葉はともかく、姉までは騙せなかったようだ。

「翡翠ちゃんにしては上出来です。花丸をあげましょう」

 琥珀の背に揺られながら、翡翠はちょっぴり双眸を細めた。
 惜しいことをしたけれど、あの判断は間違っていなかったのだ。

「秋葉様は恐ろしく意地っ張りですから、こんなことがないと堂々と志貴さん
の傍にいられません。難しいお年頃ですよ」

「はい」

 考えるに、志貴は翡翠だけの志貴ではない。
 そして琥珀も、翡翠だけの姉としてこの屋敷にいるわけではないようだ。

「さて……お2人の邪魔をしないように、こっそり休憩しましょう。たまには
日本茶でも如何ですか? 秋葉様みたいに熱いところをひとつ」

「はい、姉さん」

 翡翠はサボタージュの提案に素直に頷きつつ、姉の背に顔を埋めた。






<続きません>