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病床にて

               作:しにを


 
かすかな違和感。
 いつもの目覚めとはどこか違う……。
 薄ぼんやりとした覚醒のさなかの奇異なる感じ。
 
 体が……。
 そうだ、体が熱っぽい。
 そして、何かに……、なんだ、何かされている。
 
 朝か。
 翡翠が俺を起こそうとして……、いや。
 うまく働かない頭で思考しつつ、瞼を上げた。
 
 ぼんやりと……。
 景色が……。
 それに伴い死の線が無数に世界をひび割れさせ……。
 片手で眼鏡を探す。

 あれ、無い。
 
「兄さん、これですか?」
「ああ、ありがとう」

 眼鏡をかける。
 世界はその脆弱さを束の間隠してしまう。
 堅牢と言えないまでも……って、今の?

「秋葉?」
「はい」
「おまえ、朝から何している……」

 言葉が途切れる。
 眼鏡を掛け、はっきりと捉えられた今の状況。
 自分の今の姿、そして秋葉の姿に、思わず絶句してしまう。

「あの、兄さん、違うんです」

 まじまじと目を見開き、秋葉を見つめる。
 その視線に対してだろう、秋葉も慌てた顔をする。

「……」
「だから、これは……」

 言葉がどっと溢れそうになり、かえって出てこなくなっているのだろう。
 ただ、訳も無く手を振り回すようにしている。
 秋葉にははなはだ珍しい姿。

 自分より狼狽した他人の存在に、こちらは落ち着きを少し取り戻す。
 あらためて目をあちこちにやる。
 自分と、そして秋葉と。
 先程まで眠っていた自分が、何故か胸をはだけさせほとんど半裸である事。
 傍に秋葉がいて、その胸板に手を触れていた事。
 そんな事を見て取る。

 そうか。
 これはあれだ。 
 眠っていて意識の無い兄の衣服を脱がし、淫らな悪戯をしている妹。
 無抵抗なのを良い事に、さんざん恥ずかしい真似を強行。

 ……いや、ありえない。
 秋葉がそんなおかしな真似するなんて。
 ひとつの可能性を脳裏から排除。
 改めて動かした視線が、秋葉の手に行き着く。
 濡れたタオル。
 そして、傍らの金属製の洗面器。
 
「なるほど……。秋葉、俺の体を拭いていてくれたんだろ?」
「え、は…はい、そうです」

 ぶんぶんと頷く。
 艶やかな黒髪が波打つ。
 そして見せつける様に、タオルを前に。
 必死なその姿に笑い声をあげそうになり、だけどこっちも必死に堪えた。
 努めて真面目な顔をする。
 口元がちょっと歪んでいたけど。

「そうか、ありがとう。ちょっとびっくりしたけどな」
「かなり汗をかいてらして、苦しそうでしたから……」

 上目遣いで俺の顔を見る秋葉。
 僅かにほっとした表情。
 でも少しさっきの狼狽が残っておどおどしている感じ。
 うん、本当に珍しいな、こんな秋葉。
 何となく妹の顔だなと思った。

「汗かいたまま寝てて、体冷やしてもいけないしな」
「そ、そうです」

 上半身を起こした。
 少しぶるっと震える。
 微かな寒気。
 体の火照り。
 汗ばんだ体。
 ちらりと、秋葉の傍らを見てから、パジャマとシャツを脱ぎ捨てた。
 そこにはタオルと一緒に替えの下着なども用意されていた。
 これは翡翠か琥珀さんだろうけど。

「兄さん、まだ熱があるのでしょう、早く寝てください」

 俺が上半身裸になると、小さく悲鳴じみた声を上げて顔を背けたが、またぞ
ろ秋葉はこちらを向いている。
 そしてそのまま裸で入る俺に、当惑したように声を掛けた。

「ああ。でもどうせなら、全部拭いてくれないか。
 気持ちよかった気がするし」

 秋葉は困った顔をして、自分の手とこちらの顔を見つめる。
 手を動かしかけて、止めてしまう。

「拭いてくれよ、秋葉」

 努めて自然に。
 変に頼み込むように話すと、かえって反発されそうだから。
 当たり前の顔をして。
 むしろなんでしてくれないんだと、軽く非難すらするように。

 果たして……。

「はい、兄さん」

 弾んだ秋葉の声。
 うん、と頷いて秋葉に身を委ねた。
 濡れタオルの少し湿った冷たい感触。
 心地よいという事は、やっぱり熱が下がっていないんだな。
 不調を当たり前にしていたから、久々の風邪にもあまり自覚が無い。

 もう少し強くてもいいんだけど。
 そっと俺の体を拭く秋葉を見る。
 丁寧に一生懸命してくれている。
 ……まあ、いいか。

 背に当てられた秋葉の手が、妙に意識させられた。
 柔らかくて、少し冷たい手が、いつまでたっても少しくすぐったさを感じ
させた。

 数分で、秋葉からの体拭きは終わった。
 濡れタオルでのそれは。
 続いて大きなバスタオルで多少の肌の濡れを拭き取られる。

「兄さん、これを」
「ああ、サンキュー」

 洗いたてのシャツがふんわりと心地よい。
 パジャマのボタンは、秋葉に任せた。
 と言うか、とられてしまった。
 世話を焼くのが楽しそうなので、とても断われなかったし。

「これで良いですね。
 さ、我が侭言わないで、早くベッドに横になってください」
「はいはい」

 何となく、子供に言い聞かせる調子の秋葉に従う。
 再びベッドに仰向けになると、秋葉が布団を掛けてくれた。

「いつも兄さんがこんな素直ならいいのに……」
「いつも秋葉がこんなに優しいといいのに……」

 見つめあい、そして笑う。
 こちらは本当に笑い、秋葉は少し苦笑いっぽい。

「あ、でも秋葉にこんな事されるの珍しいな。
 ちょくちょく見舞いには来るけど」
「私の仕事ではありませんから」

 え?
 少し意外な言葉。
 もしかして、嫌々?
 そうは見えないけど、この言葉は……?
 疑問符が頭の周りを舞う。

「兄さんの世話をするのは翡翠の役割で、病気になった者を診るのは琥珀の仕
事です。
 私が横からでしゃばる訳にはいかないんですよ」

 俺の疑問に気づいたように、秋葉が説明する。
 なるほど。

「私だって、本当は兄さんのお世話をしたいです」

 残念そうに言う。
 素直な……言葉。
 こっちが少しだけ赤面してしまう。
 熱が出ていて紛れただろうか。

「今は?」
「たまたま翡翠も琥珀も用事で出掛けましたから」
「一緒に?」
「はい、時南先生の処に行くのと、兄さんに何か滋養になるものを買ってくる
そうです。
 気を使わせましたね、あの二人に」
「……そうだな」

 二人がいなければ、秋葉が病人の世話を焼く事が出来る、いや、しないとい
けない。
 だから、あえて二人して不在になった。
 琥珀さん辺りの気遣いだろうか。

「あとは……、林檎でも剥きましょうか?」
「いや、いいよ」
「なら……」
「何もしなくていい」
「そうですか。では……」

 立ち上がりかける。
 見るからに名残惜しげ。
 何と言うか、感情がストレートだな。
 それとも、いつもこうなのだろうか。
 俺が捻くれて受け止めているだけで。
 発熱して少し頭の働きが悪いから、そのまま秋葉を見ているのだろうか。
 いや、そんな事はいい。
 秋葉が出て行ってしまう。
 
「秋葉、忙しくなかったら、もう少しここにいてくれないか。
 眠くなるまで、付いていてくれたら、安心できそうだ」
「そうですか?」

 こんな事が、嬉しいのか。
 いや、俺も嬉しいな。

「ええと、ほら急に何か欲しくなるかもしれないし」
「そうですね、肝心の時に兄さんのお世話が出来ないと、妹として失格です」

 そうだなと答えると、秋葉は再びベッド脇の椅子に腰掛けた。
 少し背を丸めるようにして、俺を覗き込む。





 それからしばらく、何もせずにただ、のんびりと過ごしていた。
 時たま言葉を交わす。
 静かで、穏かで、珍しい時間。

 秋葉の友達の話をされて。
 そして話題がまたこの家の事になって。
 ふと、洩らした言葉に秋葉は眉を僅かに上げた。

「翡翠だけじゃありません、琥珀も、もちろん私も心配しています」
「うん……、わかっている」

 いつも感じている。
 秋葉や、翡翠、琥珀さん。
 皆に世話を掛けて、そしていろいろと甘えてしまっている。
 そんな事をぽつりぽつりと口にする。

「だいたい、風邪引いたのだって……」
「兄さんが就寝時間も過ぎているのに、こっそりと家を抜け出したからですね」
「う……」

 しまったな、薮蛇だ。

「そして何処で何をして来たのか、ずぶ濡になって……。
 冬だったら風邪どころか、肺炎にでもなっていたかもしれませんよ
 私たちがどれほど心配したかわかりますか?」
「冬なら、そのまま帰って来たりしないさ」
「どうだか……」

 なおもぶつぶつ言う秋葉をやんわりと宥める。
 秋葉は先日の事を思い出したのだろう。
 非常に文句ありげで、でも病いの身と思って矛先を納めた。
 ちらちらと刃の部分が見え隠れしていたけど。
 ごめんと、小さく謝る。
 秋葉の目が柔らかくなる。

「私たちを安心させたいなら、ちゃんと……」

 言葉に反して、言い方は普段と変わらない。
 うんうんと逆らわず頷くと、秋葉は今度こそ文句を言う口を止めた。

 じっと、俺の顔を見る。
 俺も秋葉を見つめる。
 緊張感。
 いや違う。
 少し張りつめているけど、そんな厳しいものではない。
 その形容しがたい何かはまたゆっくりと霧散した。

「とにかく……」

 秋葉が無言でいる事に絶えがたくなったのか、言葉を口にした。
 見つめ合っているのは変わらない。
 真面目な秋葉の顔。

「私は、兄さんに早く元気になってもらいたいんですから」

 最後には「私たち」ではなくて「私」に変わって事に秋葉は気づいていただ
ろうか。
 俺は、気がついた。
 それ故にくすりと微笑んだ。
 鈍感だの、朴念仁とか言われているけど、こういう処もあるんだぞ、秋葉。

「なんです、兄さん」
「いや、ごめん。
 そうだな、早く良くならないとな。
 翡翠や琥珀さん、それに何より……」

 目をしっかりと秋葉に向ける。
 ごまかしに言葉を口にした訳では無い。
 秋葉がどぎまぎとするほどにまっすぐと見つめる。

「秋葉の為に」

 俺がそう言葉にすると、秋葉は常の落ち着きを無くしてしまった。
 真っ赤。
 わたわた。
 うろたえている。
 何と言うか……、可愛いな、こんな秋葉も。
 
「も、もちろんです」
「じゃあ、また少し眠るよ」
「はい」

 俺の言葉に、ほっとしたように秋葉は立ち上がった。

「ありがとうな、秋葉」
「え? はい」

 秋葉は柔らかく笑みを浮かべた。
 その顔が、少し変わる。
 悪戯を思いついたといった顔。
 少し琥珀さんを思わせるような……?

 え、ええっ?
 秋葉が大きく上半身を倒した。
 寝ている俺に覆い被さるかのように。
 秋葉の顔が、俺に近づき……。

 とん。

 当たった。
 秋葉の額が、俺のそれに。
 ちょっとだけ接触して、すぐに離れる。

「な、な、な……」

 声にならない。

「うん、まだ少し熱があるご様子です。
 兄さん、ゆっくり休んで下さいね」

 秋葉はそう言うと、すっと背筋を伸ばした。
 俺を見て、笑っている。
 してやったり、そんな笑顔だと思う。

 よく見なかった。
 軽く咳をして、それを言い分けにしたように、毛布に包まった。
 顔を隠す。
 頬に急に血液が集まったよう。
 どきどきと鼓動も速くなっている。
 これは、風邪のせいではない。
 
 うう……。
 さっきまでは、こっちの方が余裕ある態度だったのに。 

「……おやすみなさい、兄さん」

 その声に毛布の中からもごもごと答えた。
 何言っているかわかっただろうか。
 
 立ち去る気配。

 小さくドアの音がする。
 ほんとに微かな……。
 音を立てないように閉めたのだろう。
 
 また、病室に静寂が戻った。
 決して冷たくは無く。
 どこか暖かい静かさ。


  Fin











――――あとがき

 純情秋葉第四弾。
 やっと、まっとうなの書いた気が……。
 実言うと最初に考えたの、これでした。
 だけど、同じような構図で春日さんに先に。
 没にしようかともとも思ったのですが、いろいろ手を入れて完成させました。
 何しろ貧乏性なので。

 しかし秋葉って書いていて疲れないなあ。
 志貴との会話とかなら、幾らでも書いていられそうです。

 起伏の無い一情景ですが、この秋葉も秋葉らしいと思って頂ければ幸いです。


  by しにを(2003/7/9)