草が潰れる音が聞こえる。
 捻り擦るようなそれは様々な感情を含んでいた。
 不安、焦燥、苦悩……
 その表情を見ていないのに、彼女には手に取るように解る。

 そして馬を駆り、木々の間を駆け抜けてゆく。
 遠く、遠く。
 小さくなってゆく音に耳を傾けながら、緩やかな吐息。
 背中を支える大樹は優しく、疲弊した肉体を受け入れてくれる腕のようだ。
だが、気を緩めるわけにはいかない、緩めるのは吐息だけでいい。これ以上だ
と意識が沈んでしまうだろう。

 と。

 森の外の大気が変化する。
 遥か彼方から、何かが流れてくる。どこか粟立つように震える空気の気配を、
頬で敏感に感じ取った。
 これは、よくない風だ。
 おそらくは、十二回目の戦いの際に生じた堕気。無念を抱きつつ死んだ者が
呼び起こす混沌の大気は敵軍のものか、それとも自軍のものか。
 木々の合間を縫うように押し寄せる黒いそれに対し、彼女は落ち着き払った
様子で思考する。

 ―――ヴェディヴィエールは大丈夫だろうか。

 それは託した剣についてではない。
 押し寄せる混沌を上手く抜けられたかどうかという心配。

 彼が二度にわたり嘘をついているのは彼女にも理解できた。
 聖剣を棄てることに躊躇いがあるのは解る。通常の兵ならば、まずこの命は
受け入れられることができないだろう。例え王の命だとしてもだ。
 しかし、真面目な彼のことだ。必ず、彼女の命を全うするであろう。

 ――――。

 思考が風の音によって遮られた。
 ざわめく葉が擦れ、幾重にも重なった警戒の波音を立てる。
 近づく堕気は予想以上。鞘も失い、聖剣も部下に託し、傷だらけの肉体では
耐え切ることは不可能だ。このまま呑まれてしまうのか。

「案ずることは無い。この程度の堕気ならば、打ち砕く―――」

 男の声が聞こえる。
 それは、どこか懐かしい。
 いつ聞いた声なのかははっきりとは思い出せなかった。
 さらに男は告げる。

「―――ふん。並みの呪いを含んだ堕気ではないな。ここまでくると瘴気に近
い……人にしてこれほどの呪いとは魔に近づいたということか、抑止力として
英霊が呼ばれるわけだ………」

 重い瞼を開けてみるが、靄がかかったように視界は覚束ない。
 ただ一瞬、見慣れた後姿が見えたのは気のせいか。

「ここで迎え撃つ。ああいった堕気は人の餓えを促し、飢饉を持ち込む魔とな
るものなのだがな、どうもお前を狙っているらしい……血のつながりが無いと
はいえ、肉親相手に随分と恨まれたものだな」

 男の言葉はどこまでも皮肉めいていたが、それに反論する気力も無く、彼女
はただ耳をかすのみ。
 やはり、どこかで聞いたことがあるような気がするのだが。

「―――さて」

 男は押し寄せる堕気を見やる。
 事も無げに一言。

「時間が惜しいわけではないが、本気でいこうか」

 何か、男が呟く。
 告げるのではなく、自らに言い聞かせるようなそれ。

「―――身体は剣で出来ている」

 さらに、紡ぐ。
 だが意識の混濁した彼女には、それ以上は上手く聞き取れなかった。

 そして世界は相を変えてゆく。
 無数の剣が突き刺さった、墓標の如き丘に。


『夢の残滓、果て無き空の果て』
                      10=8 01


 蒼天は遠く、それでいて近い景色が遥か先まで広がる。
 視線を仰ぎから下へと流し、校舎の屋上から広がる世界を一望すると見慣れ
た景色がそこにあった。
 穏やかな空気に包まれているようなそれは、まさしく平和そのもの。

「なに、ぼーっとしてるのよ士郎。こっちは準備で忙しいんだから、のんびり
していないで手伝いなさいよ」

 背後から投げかけられる声は遠坂のものだ。
 照りつける八月の日差しに文句を言いながらも、その手際はよく着々と準備
は進められている。俺が手伝うようなことは何もないのではないだろうか。
 むしろ、手伝って邪魔してしまいそうだ。
 こういった大掛かりなものは俺の専門外だし。

「誰の為にここまでやっていると思ってるのよ、あんた」
「いや、そりゃあ俺のためにやってくれるのは嬉しいけど……遠坂、別に俺は
そこまでしてもらわなくても十分なんだけど」
「いいじゃないの。一時的とはいえど、師弟関係にあったんだから面倒くらい
見させなさいよ。大体、士郎の独学に任せると危なっかしいったらありゃしな
い」

 おお。
 口は悪いけど、遠坂が優しい言葉をかけてくれている。
 珍しいこともあるものだ……いや、まてよ。

「で、本音は」
「もちろん、対価は貰うけど」

 あっさりと答える遠坂。
 本音を隠す必要も無いのか、しれっと言ってのける。
 言われた方にしてみればとんでもない事この上ないのだが、それも遠坂らし
い切り替えしなので何も言い返せない。むしろ清々しいくらいだ。

「けど、本当にこれで成功するのか?」
「さあ?」
「さあ? って……お前なぁ」

 一面に書き記されているものは何らかの魔術文字らしいが、突っ込んだ専門
知識に疎い俺には解読はできない。それを直径3メートルほどの魔法陣にびっ
しりと書き込む遠坂。
 自分にはこれがどういう効果をもたらすのか理解できていないが、遠坂いわ
く―――

 士郎の背中を一押しするものよ。

 ということらしい。
 俺の背中を一押しする魔法陣……さっぱり意味が解らない。
 まさか、遠坂が俺をここから落そうとするために、背中を一押しする魔法陣
を書いているわけではあるまい。遠坂だったらそんな無駄なことはせずに、俺
の背中を勢いよく一蹴りしている。

「まあ、ともかく……もう一つ訊いていいか?」
「いいわよ。別に疑問に思うことなんて無いんじゃない?」
「あるから聞いてるんだよ……なんで、わざわざこの場所でやんなくてもいい
んじゃないのか?」
「じゃあ、衛宮くんはわたしの家でやろうっていうの? 下手したら何が起こ
るのか解らないようなことを。この場所を選んだのは、何かあってわたしの家
の家財道具を破壊したとき、衛宮くんが弁償するなんていう事態にならないよ
うにっていう、わたしの優しさなのに……」

 にこやかに遠坂は切り返す。
 何が起こるか解らないことを校舎の屋上でやるのも、さすがにどうかと思う。
 まあ、言い返しても無駄だだろう。
 確かに大掛かりでスペースを取りそうだし、人目をはばかる魔術の実験には
休日の屋上はもってこいの場所であろう。

「―――で」

 俺は遠坂に呼ばれただけなので事情はほとんど聞いていない。
 ただ、日にちと場所を指定されただけ。
 正直に言わせてもらうと、怪しげな魔法陣に、人目を避けた休日の屋上、教
えてもらっていない事情とくると、いくら遠坂でも………いや、相手が遠坂だ
からこそ不安だ。
 普段はそうでもないのだが、こいつの本性や、時折に窺えるとんでもない行
動力は不安材料としては十分すぎてこちらから拒否したい。

「一体、何を始めるっていうんだ?」
「そんな一歩引くことないじゃない……大丈夫、士郎にとっても有益なことだ
から」

 そう言って笑顔を浮かべる。にやり。
 あの表情は危険だ。絶対に何か企んでいるに違いない、意地の悪い笑顔。
 不安を増しつつも訊く。訊かずにはいられなかった。

「で、結局は俺をどうするってんだ、遠坂?」
「士郎の目覚めかけたものを、引き出そうって訳」
「はぁ? 俺の目覚めかけたもの……?」
「そう―――」

 一拍。
 そして俺を見据える。
 そこにあの笑顔も無く、ただ鋭く真面目な表情のみ。
 遠坂凛の魔術師としての表情。

「士郎の固有結界」

 固有結界。
 使用者の心象世界を現実世界へと具現化させる結界であり、主に精霊や悪魔
のみの能力とされている。だが、一部の上級術者は長い年月をかけて、この秘
術を完成させるという。

 だが。

「俺が固有結界を……本当かよ、遠坂」
「嘘をついてどうするのよ。まあ、わたしだって士郎が固有結界を使えるなん
て信じられないけど」

 遠坂には口惜しげな様子が見て取れた。
 それもそうだろう、固有結界といえば世界を侵食するほどのもので、魔術の
中でも上位に属するもの。それが魔術師の中でも優等生である遠坂ではなく、
一介の魔術使いである俺に――魔術師とは遠坂の前ではおいそれと語れるはず
がない――その一端が見えたとあっては快いものではないだろう。

「だけど、俺が出来ることなんて強化とか投影くらいだぜ。固有結界って……
なんか飛躍しすぎっていうか……」

 俺だって自分の分相応くらいは自覚しているつもりだ。
 そりゃあ、固有結界には興味が無いわけではないが、自分にそれが使えるな
んて実感は皆無である。
 大体、遠坂はどういう理屈から俺と固有結界を結びつけるのか。

「呆れた……自分でも気づいていないの?」

 あの聖杯戦争から半年。衛宮士郎は相変わらず正義の味方を目指している。
一日の終わりに迎える修練も怠っていないし、道場で剣も振るようになった。
手の空いたときには藤ねえに相手をしてもらっている。
 魔術の修練は強化と投影のみとなっていたが、たまに遠坂に立ち会ってもら
ったりして魔術のことを教えてもらったりしていた。こちらはこちらで興味も
あったし、向こうからも拒む様子は得には無い。

 ああ、つまりはその際に遠坂は気づいた訳だ。
 なんとなく話が見えてきた俺に、遠坂はさらに続ける。

「あなたの強化や投影は、何か別の魔術が劣化して使われているの」
「つまり、その劣化した魔術が固有結界?」
「そう。まあ、あくまでも推測の域を出ないんだけどね……先週に何種類か投
影してもらったでしょ。アレを一通り比べてみたけど、士郎は剣の投影に特化
しているわ」

 言われて、成る程と思う。
 魔術の鍛錬の時も何かと剣をイメージすることは多いし、他の投影に比べて
剣の投影は大分楽だったような印象もあった。
 つまり、その内面の剣をイメージし、投影できる―――しかも偽物とはいえ、
外見のみではなく特性も複製が可能だ。
 内面世界を外面に投影する。まさに固有結界の特性に非常に近い位置にある
といっても過言ではあるまい。

 遠坂が手伝ってくれるのは純粋に魔術師として固有結界に興味があるのだろ
う。

「けど、さすがに無茶だろ―――」
「最初から期待してないわよ」
「うわ0.3秒で否定かよ」

 しかしそれも当然。
 存在する世界を自分の内面で侵食するのが固有結界だ。これの発動だけでな
く、維持にどれほどのエネルギーが消費するのか予想はつかないが、世界を侵
食するほどなのだから半端なものではないことくらいは予想できる。

「だから、後押しするんでしょ」
「ああ、そのために魔法陣やら何やらで俺の後押し……か」

 ようやく得心がいった。
 とりあえず、安堵のため息を零す。
 すると遠坂は目ざとく俺を見ると、

「あら、どうしたの? そんな安心したような表情しちゃって」
「いいいいや、べ、別に後押しして屋上転落とか考えていないぞ!」
「……はぁ。士郎って解り易いわねー」

 などと吐息と呆れ顔、そして面白いものを見る表情と一変させる。
 だがそれもここまで。

「それじゃあ、始めるわよ。何がどうなるかは予想がつかないけど。まあ、士
郎だから大丈夫でしょ」
「随分と投げやりな言い方だな……」

 文句を言いつつも、言われるままに魔法陣の中に座する。

「じゃあ士郎。とりあえず、何か剣を一本投影して」
「―――解った」

 頷き、瞳を閉じる。
 まずは魔力回路のスイッチを入れることから。銃の撃鉄をイメージして躊躇
も迷いも無くそれを落す。カチリという音、それが確かに脳内へ響く。
 次はイメージ。闇の中に浮かぶのは銀の糸。それがややあってから幾千にも
幾重にも絡み合い、一つの形を形成する。まるで織物を編むように糸は収束し
結び合う。

 走る。
 闇に広がる道に確かなものが走る。
 神経に電流が弾け飛び、織込まれた剣が色彩を帯びてゆく。

 ここまで投影が上手くいくことは早々無い。
 内心で歓声を上げるが、それとは裏腹に、もっと深い部分では真冬の湖のよ
うに静かに澄み渡っていた。
 周囲の世界が一気に隔離していくような感覚。
 八月の陽射しの暑さも、輪唱する蝉の鳴き声も収縮し、水面の中に沈む。

 一面に敷かれた魔法陣のおかげだろうか、投影の負担のようなものはまった
くといっていいほど感じられず、むしろ遠坂の言葉の通り背中を押されている
ようだ。追い風に吹かれているというのがしっくりくる。

 いける。
 そっと心の中で呟く。

 イメージをさらに深く、強固に固定。
 バックアップによる余裕があったからだろうか、漠然と剣を想像していた脳
裏にさらに深いイメージが投影される。

 その内面の剣は記憶の中に。
 胸の内の水面がゆっくりと波打つ。
 覗き込めば、そこには一振りの剣が完成されているのが窺えるだろう。
 それは、衛宮士郎という男の記憶であり、その湖に沈んでいた思い出でもあ
る。
 記憶の中に存在する記録ではない。
 これは、俺にとって大切な―――

「……よし」

 短く、遠坂が呟くのが聞こえた。
 そこで改めて外界の様子を肌で感じる。
 だが、そんなものは気にも留まらない。

 沈んだ剣が輪郭を露にし、その装飾が再現される。
 騎士剣ではあるが、実用性よりも見た目の豪華さに重点を置かれたそれ。だ
からといって、ただ装飾を派手にしただけのものとは一線を引き、その豪華さ
を纏って存在するに相応しい美しさがあった。

 求める剣が完成したことを確信する。
 後はそれを手に取り、世界へと投影するのみ。
 蒼く、静寂を打った湖の水面に手を伸ばした。指先が触れると同時に緩やか
な波紋が生じ、幾重にも円を描く。
 その澄み切った表面の奥には剣が一振り。

「―――――っ!」

 不意に、水面にその剣を携えた少女が戦場の荒野を眺める風景。
 その幻視は一瞬だけで、指を半分ほど入れた先にはもう映ることは無かった。
 躊躇わず。
 湖の奥へと手を伸ばし、掴む。

 途端に、湖の水が存在を消失させる。
 掌の中には確かな柄を握る感覚。それが、記憶とイメージに沈めていた意識
を急速に現実へと引き戻しているようであった。

「え、え? これ……」

 遠坂が何か言っている。
 俺に対してではない、何か動揺しているような、眉根を寄せているような雰
囲気だ。
 ぼんやりとした中で手の中に剣が握られていることを確認。それを深く握り
締めて感触を確かめ、投影が成功したのだと確信した。

「遠坂っ、成功したぞ……って、こ、れは」
「……し、士郎」

 そこで初めて外界の様子に気付いた。
 遠坂が驚いていた理由を一見して確認できる。

 剣の墓場とでも言えばいいだろうか。
 何種類もの剣が霧に包まれた大地に突き刺さっていた。屋上の床などではな
く、しっかりとした大地に。それは墓標を思わせ、一瞬だけ身を引く。
 何故か、ここを知っているような気がして。

「―――――」

 だが、そんなものは些事に過ぎない。
 俺が身を震わせたのは。
 朝靄のような霧が晴れた向こう側の光景を見たからだったのだから。




 最後の堕気が剣戟によって霧散する。
 弾け飛ぶような昇華の音を耳にしながら、彼女は安堵に身を任せた。
 これで後から来る兵も、ヴェディヴィエールも堕気に身を犯されることはな
いだろう。

「まあ、この程度か」

 男は何の感慨も無く振り返った。
 そこには、ただやるべき事を為した、という程度のものしか含まれていない。

 まるで夢のようだ。
 男の存在は先程見た夢を思わせる。
 記憶には存在していないのに、意識の中では懐かしさを感じている不可思議
さが、まるで曖昧な夢のようであった。
 視界を覆った朝靄がそれをさらに霞ませてゆく。

 ぼんやりとした光景は本当に夢のようであった。あまりにも曖昧であるため
に、意識しているのにすぐに遠くへいってしまうのではないかと思わせるそれ。
 自分だけがどこかへ隔離されたような――おそらくは現実へだろう――そん
な浮遊感にも似た感覚のまま、出きる事といえば目の前を見つめるだけだ。

 男がこちらを見下ろし、何か告げてくる。

「これで俺の役目は終わりだ。まあ、ここでお前と逢えたのも何かの縁だろう
な………」

 そのまま踵を返す、それと同時に剣の墓標が連なっていた荒野の風景が一瞬
にして元の森林へと戻ってゆく。まるで、視界全体を塗り替えられたかのよう
だ。
 ますます夢じみている。
 以前まで見ていた夢……あの不思議な夢には、これに似たようなことがあっ
たような無かったような……
 思い出そうと記憶の中を手繰るが、早々に思い出せないのが夢というもの。
 何か、大切なことのような気がするのに。
 思い出せないのは、歯がゆい。

 あの男の後姿。
 見覚えがある気がするのに。
 いや、むしろ男自体に見覚えがある気がする。
 それに加えて、彼からは何か誰かに似ている雰囲気を思い出させた。
 ぼんやりと、霞む視界に輪郭が浮かぶ。

 確か。
 自分よりも少し年上の。
 確か。
 目の前の彼ほど背は高くなく。
 たしか。
 その少年は―――名前は。


 夢の意地の悪さが恨めしい。
 大切な名前のはずなのに、大切な人の顔なのに、大切な人の事なのに。
 そのどれもが、曖昧な靄に沈んで見えない。
 それは虹を必死に掴もうとしているようであった。

「―――なっ」

 突如、男が驚愕の声を零す。
 その異変には彼女も気付いていた。
 元に戻りつつある光景が急激にブレたのだ。上下に空間が震動するような錯
覚を感じ、さらに同時に何かに掴まれたような違和感。
 そう、違和感だ。
 絶対に在りえないことが在りえてしまった、そのことに対する矛盾が世界に
歪みを生じさせ、ギシギシとした耳障りな不可がかかる。
 その違和感の元はすぐに解った。一際、歪んだ場所があり、そこが鉤を引っ
掛けたようにここを留めている。明確な出来事は理解できないが、感覚的な部
分ではそのように理解することができた。

 視線だけをそこへ向ける。
 男も身構えたようにそこを見据えた。

 風が流れ、靄が晴れ、姿が露になる。
 そこには、一握りの剣を携えた少年と少女。
 それだけで全て解した。

 嘘のよう晴れ渡る夢の光景。
 何故、とは訊かない。

 ただ、夢の残滓のようにそれを受け入れた。




 矛盾が重なることは希だ。
 今回の事態もそういうこと。目の前の赤い外套を羽織った男――忘れるはず
もない――の能力が、俺の固有能力と共感したらしい。非常に二人の特質は近
いところにあるらしく、奴の能力は固有結界。こちらの能力も、まあ初めて試
したとはいえ固有結界。奇しくも同じ能力というわけだ。非常に近いというよ
りも、むしろ重なっていると言っても過言でないほどの共感性は、俺と奴の固
有結界を繋げる結果となった。

 同じ固有結界が別の人物によって存在する矛盾。心象世界を写すものが固有
結界だから同一というのは、まず在り得るはずが無いのだ。
 だが、現に起きている。

 塗り替えられる前の世界をAとするならば、塗り替えられた後の固有結界が
Bとなる。ここで、世界――時間の流れを含めた極大のものAにおいて、もう
一つ固有結界Bが生じるとしよう。同じ世界にBが二つ。それが何の関係性も
無く独立しているとは思えない。
 そもそも、固有結界それ自体が世界を塗り替えた心象世界――独立したもう
一つの世界と言ってもいいほどのものなのだから、Aという世界を飛び越えて、
B同士で結合してしまったということだろう。

 それが現状。
 もっとも、それは遠坂が後で自分なりの解釈を加えて導き出した推論だが。

 だが、そんなことなど今の俺にはどうでもよかった。
 目の前で、大樹にもたれる小柄な身体。
 流れるは流麗な金細工の如き髪。
 零れた吐息は弱々しく、儚い。

 未練なんて無い。
 遠坂にははっきりそう言ったし、俺自身そのつもりだった。
 でも、どうだろう。こうして、現に目の前にすると、こんなにも彼女と出会
えたことが嬉しくて仕方が無い。胸の内から何かが決壊してしまいそうなほど
に、満たされてきている。
 驚くような、夢から醒めたような彼女の表情。
 ややあってから、ゆっくりと……だが確かに彼女は呟いた。

「し……シロウ?」
「セイバー………」

 彼女に近づく、ふと横で赤い外套の男――アーチャーとすれ違う。
 互いに言葉は無い。だが、それでよかったと思う。この偶然に対して、お互
いがお互いに言うべきことなど何一つ無い。

 そのままセイバーの元へとたどりつく。
 彼女は顔を上げ、一瞬だけこちらを窺うと、微笑に表情を変える。
 傷ついた体、疲弊した様子、そこから零れる微笑みは胸を穿つようだ。

「セイバー」
「んっ、しろ、う……」

 掌をそっと頬に当てて、汚れを拭ってやる。
 何か言うべきだったのだろうが、何も言うべきことが思い浮かばない。
 俺に出来ることは、このくらいだけ。

「シロウ……その剣は」
「あ、ああ、これ……投影したやつだよ……半年前に一回だけ投影したことが
あったけど、あれ以来だ。あの時は無我夢中だったけど、今回は意識して出来
た」

 遠坂のバックアップのおかげだけれど、と一言付け加えて肩を竦める。
 セイバーはまじまじとその剣を見つめていた。
 手渡してやり、その隣へと背中を預け、天を仰いだ。
 固有結界が反映されているせいか、青空のはずの天は茜色。

「そうですか……あれから半年も」
「あ、ああ、そうだけど……そうか……そうだよな、半年だ」

 セイバーが戻るのは死の直前。
 俺にとっては半年前にしても、彼女にしてみればつい昨日のようなことなの
だろう。それが、何故か歯痒い。その時間の差が残酷な壁のように二人の間に
聳え立っているように思える。

「シロウは、半年はどのようにお過ごしでしたか?」

 何を言うべきか窮していた俺に、静かなセイバーの声が重なる。
 どこまでも穏やかで、つい先日まで王として戦地を駆け抜けていたとは思え
ない。

「ああ、その……さ。あんまし変わらないかな。相変わらず正義の味方目指し
て、日々鍛錬の毎日だよ」
「いいことです。努力を怠れば積み上げたものが終わってしまいます。それが
続けられるシロウは立派です……」
「そ、そうかな……ああ、そうそう。イリヤの奴がさ、藤ねえの家で結局は厄
介になることになってさ」
「タイガの家に? しかし、大丈夫なのですか?」

 怪訝そうに眉根を寄せるセイバー。
 その気持ち、心から良く解る。

「いや、お前の危惧も尤もだ。まあ、二人とも仲良くやってる。それに桜とも
イリヤは仲がいいし」
「珍しいですね、性格的に考えても仲違いしそうなものですが」
「だろ。まあ、最初はそう思ってたけどさ……これが凸凹コンビみたいな感じ
で、なかなかいいんだ」
「そうですか、それはよかった」

 そっと笑顔を浮かべる彼女。
 誰かのためでなくては笑顔を浮かべられない彼女。

 自然に掌を彼女の掌に乗せていた。

「―――温かい」
「そ、そうか?」
「ええ、シロウの気持ちが……伝わってきます。あなたは、わたしの鞘ですか
ら」
「え……でも鞘は――」

 言いかけて止めた。
 彼女の言わんとすることに気付いたからだ。
 俺はセイバーの鞘。
 セイバーが刃なら、衛宮士郎は鞘。
 それは俺の内に鞘があったとか、そういうことじゃない。
 もっと観念的で、確かな感情に基づいたもの。

「この剣……カリバーンですけど」
「ああ」
「これを抜いたときから……わたしは」
「……ああ」
「…………シロウ」
「ん?」
「今の話……聞かなかったことにしてください」

 まだ途中なのに? と視線で尋ねるが、彼女はそっと剣を見つめたまま。
 しばらくの間だけ待ち、ああ、とだけ答えた。
 ゆっくりと、セイバーが口を開く。

「答えは、あの時にもう出ていましたし」
「……そうか」
「はい」

 剣をセイバーはこちらへと返すのを受け取って、傍らへと置く。
 ふと、向こう側を見やれば、遠坂とアーチャーが何やら話し込んでいるのが
見えた。あいつらはあいつらで、何か語ることがあるのだろう。

「…………」
「…………」

 会話が途絶える。
 特にこちらから話すべきことがなくなってしまった。
 このまま無為に時間を潰すわけにもいくまい。遠坂たちは話す内容に事欠か
ないのか、淀みなく会話を続けているようであった。それを羨ましく思いつつ
も、必死に話題を探す。
 話題とは探すものではなく、初めからあるもの。
 そんな言葉をどこかの本で読んだのを思い出す。だが、初めからあるものが
皆無な立場としては何とかして見つけ出したいものであった。

「あ!」
「どうしました、シロウ?」
「ちょっと待ってろ」

 初めからあるものを、探し出した。
 そういえば、今日は遠坂に呼ばれた際に長丁場になるだろうと覚悟して、予
めに弁当を作っていたのだった。案の定、弁当箱を入れた袋は突き刺さる剣の
一つに並ぶように置かれていた。これも一緒に固有結界に引き込んでしまった
らしい。
 弁当箱を携えて戻ってくる。

「ほら。弁当……一応、用意したんだ」
「シロウ……そんなに、わたしは年中空腹というわけではありません」
「そ、そうか」

 憮然とした様相のセイバー。
 それもそうだ、今日の弁当は気合を入れて作ったから好都合だと思っていた
が、それもこちらの都合に過ぎない。

「でも―――」

 と、彼女は一拍呼吸を入れる。

「少しなら、食べられます……」
「無理しなくていいぞ……」
「大丈夫です。むしろ、少しでも食べておきたい……」

 弁当箱を開けて、今朝作っておいたサンドイッチを一つ取り出す。ハムと玉
子、野菜からなる基本的な一品だ。
 セイバーの口が小さく開き、一口。
 ゆっくりと、味わうような咀嚼の後に、喉元が嚥下の上下を見せる。
 ん、という息を飲む気配。
 俺は用意しておいた水筒の紅茶を注ぎ、セイバーの口に運ぶ。
 安物の紅茶だが、セイバーは満足したように頷いて、喉へ流し込んだ。

「……おいしいです、シロウ」
「そ、そっか……もっと食うか?」
「いえ、申し訳ないですが、今はこれくらいで……」
「解った……おかわりもいっぱいあるから、心配するなよ」
「そんなに食い意地張ってたように見えたのですか、シロウ?」
「い、いや、そーゆー訳じゃないけど……まあ、美味しく食べて貰えるのは嬉
しいから」

 セイバーは満足そうに微笑むと、軽い吐息を零す。
 その唇は薄く淡い色合いを含み、緩やかな呼気。
 それは、どこか儚いものを思わせる、つたないものであった。
 今にも崩れそうな硝子細工のような呼吸に、彼女の胸がゆるゆると上下する。

「空が……さっきまで青かったのに」
「夕焼けとは、違うみたいだな」
「………シロウ。空の果てを、考えたことがありますか?」
「空の果て?」

 亡、とした瞳で僅かに蒼穹を見上げる少女。
 その視線を追うように俺も蒼を視界に捉えた。

「わたしは……あの果てに、もうすぐ……」

 思い出す。

 彼女は、最後の戦いを終えて、後はその生を終えるだけだと。
 セイバーが王としてすべきことは終わり、残りの時間はもう少ない。
 そのことに気付き、俺は思わず身を強張らせた。
 だが、胸の内に去来した感情を押し留め、意識しないようにして笑顔を作る。

「―――空には、果てなんか無いんじゃないのか」
「え?」
「果てが無くて、どこまでも、どこまでも遥か向こうまで広がっているんだと
俺は思う………それでも果てがあるとしたら、きっと、どこか別の時代、別の
場所で、誰かが同じ空を見ているんじゃないかな。それが、空の果てだと思う
……思いの届くその先が」
「そうか……そうですね」

 納得がいったように微笑むセイバー。
 そのまま虚脱したように力を抜いてゆく。 

「……………」
「―――セイバー?」

 穏やかな彼女の様子。
 話しかけてみるが、答える様子は無い。半分まで閉じかけた瞼をゆっくりと
落してゆく。
 無理をさせてしまったかもしれない。
 全ての役目を終えて、その責務から開放された彼女に自分は鞭打っていない
だろうか。
 こちらの気持ちとは別に、セイバーの瞼を閉じた表情は安堵。

「――――」

 その顔が、あまりに心地よさそうだったから。
 一言、おつかれ、と呟く。

 そしてそのまま、緩やかな呼吸の彼女にくちづけ。
 抵抗は無い。
 その代わりに、受け入れる様子も無かった。
 ただ、穏やかに眠るセイバーへ唇を重ねただけ。
 愛を確かめ合うわけでもなく、ただ彼女がそこにいることを実感したく、そ
れだけの為の口唇と口唇の触れ合い。

 ぎゅ、と掌が握り返される。

「………シロウ」
「ああ、どうした?」
「これは………夢ですよね」

 そっと、大樹に身を任せたまま呟く。
 閉じられた瞳からは何も窺えないが、その表情からは穏やかなものが感じら
れる。
 ややあって、俺は答えた。

「―――ああ、そうだな。これは夢だ」

 そう、夢でいい。
 この別離に未練が無くとも。
 出逢えたことがどれだけ嬉しくても。

 やはり悲しいから。
 別れはいつだって辛いから。

 だから、夢でいい。

「―――この手のぬくもりがあるから。夢でも、セイバーを感じられる」
「わたしも……シロウを感じている」

 強く握り締めた掌が、緩やかに解ける。
 舞散る花びらのように、指と指との編み細工が離れる。

 腕を落すセイバー。
 俺は踵を返し、遠坂を見やる。

 そこにはもう赤い外套の男の姿などなく、ただ舞い上がる粉雪のような輝き
が霧散しているのみ。
 還ったのか、と素直に納得した。
 繋がりの一方を無くした世界はすぐに消えてゆくだろう。
 ましてや半人前の俺の固有結界だ、長持ちはしまい。

 剣の墓標が、蜃気楼のように消えてゆく。
 不可思議なグラデーションを見せて、茜色の空から蒼へと戻る。





「士郎……もう、いいの?」
「ああ、そう言う遠坂はどうなんだ?」
「わたしは、大丈夫。そんなヤワじゃないし」
「そうだったな」

 微かに潤んだ瞳をそっと天へと仰がせる。
 乖離されてゆく世界に対して振り向きはしなかった。
 手の中のぬくもりで満たされていたから。
 これ以上は、溢れてしまいそうだったから。

「―――士郎?」
「……大丈夫………大丈夫だから」

 空は青く、蒼い。
 雲一つ存在しない天空は遥か彼方まで続く。

 どれほどの時代を経ても。
 どれほどの距離を経ても。

 あの青空はどこかに繋がっている。
 金細工のように美しい髪の騎士の場所にだってきっと。


 だって、空に果てなど無いのだから。


                        <了>


「後書」

 今ここに、士郎×セイバー派に殉じると宣言します。

 それはさておき。
 今回のSSはFateものということで。セイバーと士郎の再会を書いてみ
ました。そもそも本編の終わり方が綺麗なために蛇足にすぎない内容で申し訳
ないです。

 Fateは、最初から最後までセイバーさん最高。
 こんな調子で、SSでも士郎とセイバーを! な状況です。
 凛グッドですら、もっとセイバー寄りで(むしろセイバーと結ばれて!)セ
イバーENDにしてほしかった。とか悶える始末ですし、桜ルートのセイバー
では血涙を流しっぱなしでした。さすがに、プレイする気力が一気に急降下し
たなぁ……

 ちなみに「無限の剣製」の繋がりに関しては、つたない嘘設定で申し訳あり
ません。二人を再開させるにはどうするべきか考えた結果がこれでした。
 考えてコレかよ。
 そして、弓兵の参上は月姫研究室のFate雑記の10を参考にして、身勝
手に自分解釈を加えて頑張ってみました―――駄目っぽいですが。

 何はともあれ。
 ここまで読んでいただいた方々、本当にありがとうございました。

 ではでは
 士郎×セイバー派な、10=8 01(と〜や れいいち)でした。


BGM:約束された勝利の剣(Fateより)