聖夜が来る

                          阿羅本 景

 
 ドーナッツショップの中に、髪の長い彼女は居た。
 冬至は越えたが傾くことの早い太陽が、弱く朱を含んだ光をガラス越しに投げか
ける。

 四人掛けの座席を一人で占領し、机の上にファイルや参考書を広げている。指に
握られたシャープペンシルはノートの上に右上がりの文字を書き印していた。
 筆圧が高そうな、右上がりの神経質に整った文字。それを書く女性は定めし理知
と秩序を愛し、感情に乱れる事はないのだろうと思わせるものだった。

 その書き手の外見も、その印象を裏切りはしない。目を突くのは色の薄い長髪で、
腰まで滑らかに流れている。櫛通りが良さそうな、ストレートの細い髪。光線の具
合では灰鼠よりも銀髪と見えそうな色合い。

 細い顎の造りと鼻梁の線も整っている。何よりも銀フレームの眼鏡と、その奥に
宿る感情の読みにくい瞳が彼女の人となりを物語っている。
 美人ではあるが、男に可愛がられる系統の愛嬌がない。僅かに背を屈めてノート
と参考書に向かっている姿はなおさらそれに拍車を掛ける。
 もし出来心で声を掛ける男が居れば、彼女はレンズの奥の瞳で抉るように睨み上
げるだろう。その後に続く会話は、ガラスの向こうの新都の冬よりも寒々しくなる
ことは容易に想像が付く。

 ――それを皆が察しているのか、近づく男の影はない。ドーナッツショップの中
にはクリスマスツリーが立ち、クリスマスソングのポップスが繰り返し流れ続ける。
彼女はそれを右耳から入れ、記憶の回数をカウントしてから左耳で放出する。
 歌詞は彼女の脳裏で意味を成さないが、あまり心穏やかな内容ではない気がした。

「――五度目か、この歌も。ふう……」

 誰に聞かせることのない呟きだった。キ、とかすかな軋み音を立ててシャーペン
の歩みは止まり、彼女は机の上を目で探す。半分入ったコーヒー、空の皿とナプキ
ン、筆記用具の横に開きっぱなしの携帯電話。

 液晶の時計の指し示す時間は、彼女の定めた予定時間よりも前だった。親指と人
差し指がシャーペンを弾き、くるりとバトンのように回る。弾む細軸を彼女は宙で
掴み、屈んでいた背を伸ばす――

「あれ? 氷室、こんなところで受験勉強?」

 朗らかでもあり、意外の色を漂わせた声に氷室と名を呼ばれた彼女の眉が上がる。
視線は携帯から向かいの空席、そしてその傍らに立つ女性を捕らえて動いた。

 革のジャケットにジーンズ姿の快活な空気を漂わせる少女だった。瞳の鳶の色合
いが明るく強く、人柄の良さを伺わせる。彼女も容姿では人並みより恵まれていた
が、二人のベクトルは異なる。

 氷室鐘は鉱物的な美の世界であり、彼女こと美綴綾子は動物的な躍動の美で以て
図られる世界に居る。だが、お互いの持つ世界は隔絶したものではない。
 同じ穂群原学園三年女子、という共通点があるのだから、なおさらに、であろう。

「氷室ってあれだろ、別に家が五月蠅くて勉強出来ないから出張ってやるってタイ
プじゃないと思ったんだけどね」
「……そう思われていたのか、私は」

 まぁねぇ、良いところでしょ氷室の家もさ、と言いながら美綴は氷室の対面に座
る。トレイの上にはカフェオレとオールドファッションのドーナッツが乗っていた。
 参考書を押しのけてスペースを作る美綴の動きを、氷室は細い眉を寄せて観察し
ていた。はぁよっこらしょ、と漏らして左右を見渡す美綴綾子の一挙手一投足を見
逃すまいとする視線。

「それにここの方が騒がしい、市の図書館とかの方がいいんじゃないか? あ、あ
そこも最近居座って勉強してると怒られるのかぁ」
「静かだから勉学がはかどるというものでもない。人にはそれぞれ馴染む環境があ
り、それは音や人気に左右はされない――蒔の字が吠えまくるような環境は別だが」

 それも慣れつつある、困ったものだ。氷室の口はそう呟く。声に苦慮よりも、微
かに乾いた寂寞を漂わせる。
 横に望むガラスの窓に隙間があり、冬の風が口を細めて彼女たちの首筋にその冷
涼な風を巻き付かせるような、その声の持つ温度。
 紙ナプキンにドーナッツをつまみ、口に運ぼうとしていた美綴の瞳に疑問の色が
掃かれる。だが、それは微苦笑に押し流れ、唇はそんな笑みのままにドーナッツを
くわえる。

「そうねぇ、受験かぁ。いや今宵この時ばっかりはそれを忘れようと思ってたのに、
氷室女史は備えに怠りないことで」
「君は特に心配するほどでもあるまい。なんといっても文武両道で名高い美綴嬢だ
から、願書を出した大学も判定では問題はないのだろうからな」
「あっはっは、文の達人の氷室にそー言って貰えると有り難いね」

 女史、といわれた事に皮肉でやり返したつもりの氷室だったが、美綴にけたけた
と楽しげに笑われて腕組みする。背中が伸びて、背もたれのクッションを窪ませる。
 今日の彼女は何処かが違うな、と。会話のない仲ではなかったが、いつもは美綴
は憤懣の駆動力を湛えていて、氷室は冷徹なブレーキ役を以て任じていた。そこに
は常にアクセルを床に打つほど踏みたがる馬鹿者がぷっぷくぷー! とか言いなが
らはしゃいでいるからであり……

 氷室の眉の上に、痙攣じみた震えと影が走る。

「……どした? 氷室。あたしの後ろに血まみれの殺人者が居る様な顔して?」
「いや、なんでもない。それに血まみれの殺人犯ぐらいでは私は動じないつもりだ
が」

 蒔寺楓と居る事に慣れすぎ、差し向かいで美綴と話すことに困惑しているという
事は口にもしたくない氷室であった。
 その言い様に口を開けてぽろりとドーナッツの破片を零した美綴だったが、やが
てううむ、と頷く。

「そうか、まぁ殺人犯の幽霊が出るマンションでも平気で暮らせる女だからね、氷
室ってば理知と鉄の理性の人って感じで」
「……だからクリスマスイブなのに一人寂しく受験勉強に精を出しているんだやー
い情のない冷めた湯たんぽ以下の名字通りの生き方の寒い女、と言いたいのかね美
綴綾子」

 フルネームまで呼びきる氷室の口調は平坦で滑らかで、なまじ明瞭な言葉故にそ
の奥に宿っている感情の鋭さが透けて見えそうでもあった。

「そういう君とて寂しくクリスマスイブを過ごすことには代わりはあるまいそれと
もなにか寂しいクリスマス負け犬同士仲良くしましょうとでもいうのか友人の遠坂
嬢はロンドンにまた消えたのだからな彼女の秘かな惚気に辟易しているのだろうそ
れに後輩の間桐嬢もああ見えてモテモテで」
「喋る時には抑揚と句読点つけなさいって、一体なにをアンタが怒ってるのか分か
らない……あー、その、ねぇ」

 氷室の突き技の様な言葉の羅列をかわして、美綴は苦笑する。だがその苦笑は、
カップに口を着ける頃にはなんとも楽しそうな笑いのほころびになる。
 氷室が冷めた湯たんぽなら、美綴はコートの中に新聞紙に包んだ焼き芋を抱え込
んでるような、暖かさと美味の期待に心底満足を憶えている、そんな顔。

 ――冷静になれ、何をそんなに熱くなる?
 と氷室は自分に言い聞かせる。深呼吸は二度、そして冷めたコーヒーを口に流し
込むと、苦さが神経の高ぶりを押さえ付けていく。

「……私とて、クリスマスイブは一人で過ごす訳ではないぞ? 一応、予定は入っ
ている」
「実家で祝い事? それともいつもの仲間内?」
「その、見切ったぞ氷室女史いかにも浅薄な手だな! といいたげな剣士の視線は
止めてくれないかね。ふう」

 溜息一つ。美綴はうんうんそれは悪かったねぇと零す。
 そして、お互いにカップを掲げて飲み物を一口。
 コーヒーと、それをミルクで割った飲み物が二人の少女の喉をシンクロして下る。

「……実典貸そうか?」
「――――」

 差し向かいで交わされた、居合い抜きのような一撃。
 氷室の眼鏡の奥の色が一変する。硬く理性の門戸を下ろした瞳が、感情の波濤に
押し流されて砕かれる。
 髪の毛が逆立ち眉がびくびくと動き、口がコーヒーを噴き出し肺腑は噎せそうに
なる。だが、そんな困惑の体を一呼吸で収めた氷室は流石、というべきか。

「クリスマスの到来と共に頭の中にも幸せな小人さんがやってきて惚け始めたのか
美綴綾子、小人さんが人口爆発で国外脱出を図るほどに程に増殖しているのは蒔の
字だけで十分だと思うのだが」
「なんか氷室に言わせると蒔寺の脳内細菌っぷりがひどいわね……まぁ湧いてても
おかしくないけどさ。ざんねんながらあたしには居ないよ、そういう楽しいものは?」

 まーそれでもあんたも蒔寺に容赦ないわねぇ、と呆れる美綴に、三年も付き合え
ば今更遠慮するものでもない、と言い切る氷室。

 しばし言葉が途絶え、男性ボーカルのクリスマスソングが流れる。愛しい君がや
ってくることを待つ歌。
 その歌詞ににへら、と笑いを浮かべながら美綴は続ける。オールドファッション
のドーナッツは三分の一だけ残って皿の上にある。

「……」

 何故、このように美綴綾子は余裕なのか。数ヶ月前にはクリスマスを呪いをすれ
喜ぶ事はない交際環境だと確認したのだが、まさかな……と氷室は心中独白する。
だが、その心を読ませない表情の静寂さ。
 それを彼女流の話の促しだと思ったのか、余裕の笑みを浮かべたまま美綴は語り
始める。

「ほら、実典のやつもいろいろクリスマスイブで頑張ってるらしいのよ、バイトと
かいれてねー」
「ほう、あの少年も熱心な……それとレンタル契約がどう絡む?」
「落ち着きなさいって」

 まぁまぁでもやんなっちゃうわね、とひらつく美綴の手の平が物語ってる。ゼス
チャーは続いてお姉ちゃんも困ってるのよこれが、と物語続ける。

「アタック掛ける相手は誰だか分かる?」
「二年の間桐嬢だな。あの遠坂嬢がえぐい仮装で人気取りに走った学園祭のミス穂
群原投票を、彼女が僅差で差しきるとは思わなかったな」
「ああ、あれで衛宮の家はしばらく大変だったそうよ。なんとか戦争の再来とかウ
ツワが満ちるとかおじいちゃんが死んじゃうとかロリっ娘大活躍、とかなんとかと
か、うんうん」

 戦争? ウツワ? と不思議そうに呟き返す氷室。聞き返し様にも、頷く美綴が
それを熟知している素振りもない。
 そして、話題は衛宮士郎の家の大喧嘩ではない。あの家には教育者の藤村先生が
居るので大過はないだろう、教育者といってもあれは端くれの類だが――そんな所
感を氷室は胸中に仕舞い込む。

「まぁそれで、我が弟は弓道部部長様である学園のクィーン・間桐桜にクリスマス
イブの夜を一緒に過ごすことを夢見て克己精励勇戦奮闘していたわけだけど」
「その口調だと瓦全ではなく玉砕に終わった様だな」

 あーわかるぅ氷室? とけたけた笑う美綴。

 その笑いの屈託の無さに、美綴御典への同情にも似た感情を憶えそうになる氷室
だった。ふう、と唇の片隅から吐息を漏らす。

「間桐は衛宮にくっつきっぱなしでね、今年は遠坂先輩が居ないからラッキーです!
 とか張り切ってて……エアメールで英国に密告ってやろうかしら、先輩として世
間の厳しさを後輩に叩き込むべく」

 くっくっく、と暗く楽しく笑う美綴に、氷室が窘めの合いの手を入れる。

「間桐嬢の恨みを買うと骨髄に達しそうなので止めておいた方が良い。あの衛宮か
ね……セイバー嬢もこの冬も在留中なのか?」
「うん。セイバーさんも衛宮と今晩は一緒らしいねぇ。両手に華とは衛宮のヤツも
贅沢ってもんよ」

 普通ならここで怒りを現しそうなものだが、美綴は口を細めてひゅー、と音にな
らない口笛を吹く。
 その様子に、氷室は目を細める。

「で、だ。御典のロンリークリスマスは姉としてもいたたまれない憐憫の情を催す
わけで、氷室あんたけっこー御典に構ってたじゃないの、だからほら、付き合って
あげるとかさ」
「ようやく話が繋がったか、だから姉が弟を私にレンタルすると……君は何気なく
ひどいことを言っているという自覚はあるのか、美綴嬢」

 話の経緯に納得しつつも、頬の辺りにうっすらと不満の色を漂わせる氷室。微か
に顎を引き、眼鏡越しの強い視線を対面に浴びせている。
 だが、相変わらずのほほんと楽しげな美綴の構えは変わりはない。

「そう? 御典も『あの変人の先輩も結構胸とか合って、それでも俺をからかって
きてどうすれば良いんだろう姉ちゃん』とか尋ねてくるから、満更でもないと思っ
たんだけど」
「胸か。見ているのは主に胸か美綴少年は真面目そうな顔をして秘かにエロスの素
質があるのかそれは姉の薫陶だな姉の人並みなサイズの胸が弟のエロスを育んだの
だな風呂上がりに無防備な恰好でうろついたりして」
「また句読点が無くなってるよ氷室。エロスの素質って、まぁ御典くらいの歳の男
の子はしたい盛りで仕方ないと思うよそりゃ、エロ本見付けると怒るし」
「それは怒る、やはりひどい姉だな君は。だが美綴少年の趣向がどんな傾向だった
のか興味はある」

 憤りながらも身を乗り出す氷室に、美綴は呆気にとられた顔になる。判断停止の
空白の表情を浮かべた後で、氷室鐘のいうところのひどい姉は天井を見上げ――

「んー胸は大きい方が良いらしいね」
「それは私にとって喜ぶべき事なのか、それとも身の危険を憶えるべき事なのか?
 それとも間桐嬢の影響かね?」
「どれでも良いんじゃないの? まーほら、氷室がエロスに目覚めつつある御典を
イブでぱくっとやっちゃっても姉としてはほら、はっはっは弟よ世の中そんなに恋
愛関係では望み通りに素敵に行くようには出来てないのだぞーと説教して威張るこ
とが」
「…………」

 そこまで演説した時に、美綴は目の前の氷室が文字通り氷の様な空気を漂わせて
いる事を知る。眉が吊り上がり、頬が痙攣したいが出来ない様な、恐ろしげな震え
を示す。

「――――ふ」

 氷室の瞳が、邪悪の叡智に輝いた様に美綴には思えた。
 何故だろう、この瞳は何処かで見た気がすると美綴は思う。気のせいかそれは眼
鏡という共通項があったような、形を成さない記憶の破片がチャリチャリと頭蓋の
中で音を立てる……

「……」

 氷室の手が、時計代わりになっていた携帯を拾い上げる。ボタンを叩くのを美綴
は見ている、アドレスから何処の番号を呼び出しているのだか……
 携帯を耳に当てた氷室の視線は嫌な凄みに輝いていた。携帯の向こうが答える前
の、僅かな、緊張に満ちた間。

「……ああ、衛宮か? いや、終業後に突然の電話で済まない。同居のライダー嬢
はそちらに……」

 次の瞬間、美綴の上背が伸び、携帯をひったくっていた。続けざまに携帯の「切」
ボタンを押し、蓋を閉めてどんとテーブルに押しつける。

「――ふふふ」

 携帯を奪われた氷室は、笑ったままだった。
 美綴の心臓が事象に遅れて鈍く強い鼓動を拍つ。記憶と印象が言葉で繋がった。
それは、彼女の天敵の見せる雰囲気と、眼鏡で繋がる目の前の同級生が持つそれが
同一のものに見えたからだった。

 それよりも、だ。美綴は呻る。どうしてあたしとライダーさんのことを嗅ぎつけ
ている!? と。

「おや、衛宮は突然電話が切れて驚いていると思うのだが。君も突然荒っぽい真似
をする」

 反撃が効いたことに得心の笑みを浮かべる氷室が、仄めかすように嘯く。一方の
美綴はぜいぜい、と荒い息を吐く。
 そして、気付け薬のようにカフェオレを飲み干す。

「ななな、なんで氷室がライダーさんのことを知ってる? それに衛宮の家の電話
番号も!」
「それは学生名簿に載ってるではないか。それにだ、君の天敵の情報を逐一知らせ
てくれる探索感度は高いが知能指数の低い物好きが居るからな。由紀香はその報告
の度に胸を痛めるのが問題だ」

 困ったものだよ、と嘆く氷室だが、瞳には報復の悦びが満ちていた。キリキリと
いう美綴の歯ぎしりも、勝利を言祝ぐ旋律として彼女は聞いているのだろうか。

「あんのやっろ……卒業までに心臓を素矢で射止めてケリ着けてやる……鎮西八郎
為朝ばりの強弓を用意しないと」
「とにかく、美綴少年を食っちゃえとかからかうものではないよ美綴嬢、処女の私
に向かってそのような物言いは、あれだ、君と違って困る」
「あたしだって処女だよバリバリの!
 うふふ、でもそれも今晩でお・さ・ら・ば、さようならあたしの華麗なリボン付
き包装紙!」

 公衆の面前で互いの貞操については口にするとはなんと破廉恥な、と思った氷室
だったが、目の前でクラッカーでも弾き出しそうな美綴の言動に絶句する。

 ……それは、あれだ。

 クリスマスイブにこの氷室鐘に内緒で美綴綾子は素敵でロマンチックなロストバー
ジンを決めようと言うのか誰がそれを許した、いや私や誰かが許可するというもの
ではないが、その前兆くらいは欲しいぞ、と。
 はぁーっはっはっは、と笑う幸福の結晶体の如き美綴。いつもは凛々しい眉が今
ばかりはだらしなく下がる。

「そういうわけでこの美綴綾子様は清しこの夜に皆様に幸せを振りまくサンタクロー
スの心境にいたく共感して、恵まれない男女に幸せのお裾分けをしたい気分なのね
ぇこれがまた、あはは」

 目尻が落ちて、笑み吊り上がる唇の端と繋がって円を描くかと思うほどの美綴の
幸せ一杯の笑顔。
 私は惚気られて当てられているのか? 氷室はその脳細胞に問う。彼女の頼りに
する叡智を為す脳シナプスの結線は、マイクロセカンドで返答する。

 ――すでに当てられまくってますよ氷室鐘、と。

「……上機嫌の理由はそれだったのか、美綴嬢」
「でもさ、氷室に今晩に先約があるって言うのなら無理は言わないし、御典も一発
逆転のチャンスもあるから、姉は暖かく広い心で見守る所存だけど、どう?」
「一つ、尋ねて良いか?」

 咳払いをしようとした氷室だが、それが喉に絡まって満足に吐き出しきれない。
動揺しているのか私は、と内心を叱咤しつつ、聞くべき命題を定める。
「ん? 何?」
「美綴嬢、君の今宵のお相手は……」

 それが全て、美綴綾子に呈される前に。
 ひょいっと横から伸びた手が、皿の上に残った三分の一のドーナッツをつまみ上
げる。

「……!?」

 それは革のフライトジャケットの腕だった。
 背の高い男性の、そこから伸びる力と意思に満ちた指。それは悪戯そうにドーナ
ッツをつまみ上げると、口に運ぶ。
 精悍でありながら、掴み所を悟らせない男の笑み。他人のドーナッツをつまみ食
いしながらも、それが当然に思える立ち居振る舞いの余裕。
 氷室は彼を見上げて、ああ、と唇を動かす。上背のある彼はウィンクすらしてみ
せる。

「よう! 待たせたなぁアヤコ。お、眼鏡の彼女もご一緒? 黒豹の彼女元気して
る?」
「やだなぁランサーさん、こんな時に蒔寺の馬鹿のことなんかどーでも良いじゃな
いですか」
「……そう来たか」

 氷室は低く独語した。
 ランサーという名の、謎の男性。いつの間にか住み着いて冬木の町に馴染むフリー
ター。神出鬼没で腰が軽く、かつて氷室も声を掛けられた事もある。
 彼と美綴綾子……いつの間にこんなに接近してたとは。気を巡らせていた自分と、
早期警戒機である蒔寺楓すら迂回されたことに腹立ちも憶えない。
 一筋伸ばした後ろ髪をひょいと踊らせながらランサーが、店内の時計を眺めて言
う。

「分単位の待ち合わせとやらは苦手なんだがね、アヤコとの約束となればこっちの
流儀に合わせるさ。ま、小僧の言う『でぇとの許容範囲』とやらには間に合ったな」
「いえ、あたしも来たばっかりですから……ね? どう? 氷室ぉ?」

 立ち上がって、ランサーのフライトジャケットの袖を抱く美綴。おう、お嬢ちゃ
んの前で大胆だねぇとにやけるランサー。
 氷室の表情が凍る。それ怒りではなく、理解と感情の収支決算を合わせるまでの
処理待ち時間の印であった。

「……」

 いや、お幸せに。そう他人事のように――実際に他人事なのだが――言いたくな
る衝動と、何故そうなった? という堪らない好奇心が疼く。

「んでだ。このお嬢さん、独り身なのか?」
「そーそ、弟貸してあげようかって言ったんだけど、お眼鏡に適わないらしいの」
「あー、アヤコの弟ってあのひねくれた餓鬼か。女の趣味悪そうだったなぁ、いや
はや俺を見習えって教えてやりたいねぇ。この嬢ちゃんも姉貴ももったいねえなぁ」
「やだもうランサーさんったら……」
「いやさ、アヤコもそーだけど今日ばかりはあの教会のお嬢も宗旨の祭日だからか
ら慈悲心を起こしたのかね? いろいろ話通してくれたのは」

 ランサーの女性センスを見習うととんでもない非業と悲劇になる……と指摘でき
る輩は、残念ながらこの場にはいなかった。はぁ、と頷く氷室と、嬉しさ愉しさに
あまり耳に言葉が入ってない様子の美綴だけ。
 氷室が腕組みし、座席に深く腰を鎮める

「美綴嬢、その……今日は座布団一枚、君に進呈だ。持ってくる山田君はいないが
気を悪くしないでくれ」
「なんか蒔寺みたいな納得の行ききってない誉め方だね。それでもね、あたしの聖
夜の幸福はそれも許しちゃうわけ」

 ぎゅーっと逞しい腕を抱き、頬を寄せる美綴。
 羨ましいとは思わないぞ、と氷室は思う。それよりも、何故この様な急接近が実
現したのか。

「……」

 沈思黙考する氷室の前で、腕を組みながらジーンズのカップルが行く。氷室は手
を挙げて見送ることもしない。

「これは……一体……なんだ」

 何か、ファクターがある筈。それもかくも早く交際を導くのは押しつけがましい
善意ではない、おそらくは体裁の良い悪意だ。だがそれを持つ者が何処にいるのか?
 教会のお嬢……とランサーは言っていた。

「……調べるか? いやだが時間がないな。それにあの二人がどうなったところで、
私に利害が生じるものでもない」

 ぶつぶつと呟き、氷室はテーブルの上を眺める。
 まだ教材の類が散らばって、残された美綴のトレイと共に四人座席を一人で占領
していた。

「……蒔寺に後で教えれば、面白いことになるか。しかし、今は於くべきか」

 溜息と共に、氷室鐘はシャープペンシルを指にする。今の優先課題はこちらにあ
る、と彼女は判断する。

 だが、しかし。
 利害が存在し、放置する事の出来ない輩が存在する。
 それは一人ではなく二人で、表向きは女性の姿を取り、何よりも神速と直線的な
吶喊を信条としていた。

「――――っ!?」

 氷室の瞳は、期さずしてそれを見た。
 なぜか入り口ではなく、反対側のキッチンからやってきた。鳴り響く悲鳴と怒号
と異様なのは。

 ――足だった。

 赤藍色のズボンと、トゥチップの付いた革靴。
 それがドアを蹴り飛ばし、躍り込む。店内の空気が一瞬止まり、クリスマスソン
グの放送すら驚愕に竦んで止まるかと思われた。

「ここに残留思念の反応が……こっちか!」

 同性が聞いても勇ましく、そして理解不明なほどの緊迫感に包まれた声だった。
それが真っ直ぐに氷室鐘のシートに向かう。なぜか並ぶテーブルを飛び越えて、定
規で最短距離を引いた様に直線で。
 スーツの美青年、いや、短髪異装の女性。ダスターコートにスーツ、そして黒革
の手袋が厳めしい。

「!?」

 店の奥に巡らせた氷室の視線が、けたたましい足音に引き付けられて逆の入り口
に転じる。

「アヤコの香りが……遅かったか!」

 それに続いて入り口からやってくる、紫の長髪の美女。恰好はラフだが紛う方無
き美貌、その彼女も苛立ちと憤激に冷たく引き結ばれて、緊急事態の空気を漂わせ
ている。
 呼ぼうと思ったが未遂に終わった彼女が何故。ライダーの到来に氷室は絶句し続
ける。

「……」

 乱入者二人はアイコンタクトを交わす。
 多くを物言わずとも、何が起こったかを理解し伝え逢う視線の交錯。そして、彼
女たちは大股に歩く。 

「……あー」

 最新戦闘機に囲まれた哀れな輸送機のように、困惑し硬直し進路を失う氷室。冷
たく怒れる女たちは、氷室の座る四人座席の横に立つ。
 店内の注目が、一点に集中する。いつもは人目に怖じない氷室も、我を忘れそう
になる。

「「ここに――」」

 異口同音に喋る。

「ランサーはいませんでしたか? 口車に乗せられ騙されて何処かに向かいました
か?」
「私の愛しいアヤコがランサーに拉致されたのは本当ですか」
「拉致? 私のランサーがそのような貴女やアーチャーの如き不埒な真似をするわ
けがありません、失礼な物言いは謹んで欲しい。そういう貴女こそ属性が……」
「バゼット、これは貴女の管理不行き届きでもあります、この問題は……」
「……居たぞ。二人とも拉致とか口車とかそういう感じではなく、如何にもクリス
マスのカップルのように出ていったのだが」

 今にも口論が始まりそうな女の形を取った脅威に、氷室はあくまで冷静に応える。
だが、胸の中の心臓が人生で一番激しく、気味悪く鼓動していた。
 県大会決勝のミスの許されない三回目の試技だって、こんな質の悪い緊張を生ま
ない――いや、違った。
 今、それよりも質の悪い代物が彼女を炙っている。

「――――」

 顔面に二対四本の視線が刺さった。
 今ので四回死ねるな……そう、他人事の様に思う氷室。
 目の前の女性たちは震えていた。たとえるならそれは怪電波で共振している、と
いった具合に。

「……恋人同士、の、ように?」
「ふ、ふふふ……そうですかランサー。つまみ食いのお仕置きでセイバー相手に百
戦錬磨の私に、そのような挑発をするとは」
「これは……あの性悪修道女の差し金。間違いない、彼女ならやりかねないし、そ
れを愉しみにする歪んだ性根が宿っている」

 性悪修道女、という言葉に氷室は耳を傾け、それがランサーの言葉と合致すると
――新都の教会を預かっている、カレンという修道女の事かと思う。

 氷室はまだ知らない。
 聖夜にかこつけて聖母の微笑みでランサーと美綴の逢い引きを仲立ちし、ユダの
喜悦でその二人を思慕する者の受難を愉しむ趣味があることを――

 すぱぁん! と革手袋がミットの様に打ち鳴らされる。空気が震え出す威力の波
動が、店内を恐怖で支配する。
 ひぃ、とテーブルの下に潜り込んだ客が悲鳴を漏らす。

「ランサーも……せっかく私が今晩仕事を空けてホテルを予約したのを忘れて、若
い娘といちゃつくとは……」
「この期にいたってツンデレ気取り片思いの惚気ですか。彼は据え膳食わぬは何と
やらの犬っころです、説教するだけ無駄……だがアヤコが連れて行かれたとなると
今宵ばかりは貴女と私の利害は共通する。同盟を組みましょう、バゼット・フラガ・
マクミレッツ」
「ええ、こちらも蛇の様にしつこく絡むカオスティックな手下が必要だと思ってい
たから、喜んで……ライダー?」
「………」

 顔を見合わせ、冷え冷えとした笑いを買わす諍い女。
 氷室が思わず目を背けるほどの、痛い笑みと凍みる執念が織りなす同盟の儀式だ
った。差し出した革手袋を握るライダーの握手が、まるで家鳴りのような有り得な
い軋みを上げる。
 手を離すと、二人は顔を上げる。

「さて、あの二人はこちらに向かったのか」
「善は急げ、といいます。きっと彼女はこの計画のために、二重三重に妨害手段を
巡らせているでしょう。差詰め金髪少年王となにか旦那の事で握らされた若妻気取
りの魔女か」
「まったく、あの性悪娘を生んだ親の顔が見てみたい」

 ――案外顔見知りかも知れないな、とも言えない。

 それにどう答えることも出来ない氷室は、口をぱくぱくさせる。図らずも疑問の
解答は瞬時に与えられたが、巻き起こる事態は誰にとっても嬉しくない香りに包ま
れている――

 敢えて言うなら、哀れ、と。

「あの……」

 喋り掛けた氷室は、睨み下ろされて閉口する。
 いやいろいろと構図は分かりましたが、今はクリスマスなので少しぐらい色恋に
弾む人々を寛容と隣人愛を以て当たるべきではないのかと。であるからして、その。

「……余計な話かも知れないが、お手柔らかに」
「そのつもりです、ええ、アヤコにはねっとりと優しくもっともっとととお願いさ
れるまで。犬畜生はどうなるか約束の限りではありませんが」
「私のランサーを舐めないでほしいな……それに私が怒ってるのは泥棒猫ではなく、
物忘れの激しい彼の方。彼女の誤解は……初回の誤解は十分に慈悲の心を持って考
慮します」

 これ以上は聞かない方がいい。そう念じて氷室は視線を下げた。
 それを合図にしたように、足音も高くバゼットとライダーが歩む。聖夜に望みを
果たすべく、魔術の徒と神の裔が女性の姿で肩を並べて進撃する。

 それを、凡人である氷室鐘にどうしろというのか――そこまでは彼女は真相は知
らないが、立ち入ってはならない危険と禁忌は痛いほど感じていた。

「……」

 音が、空気が戻る。
 クリスマスソングがドーナッツショップの空気を再び緩める。客も店員も、今の
は一体なにが発生したのかを小声で語り合う。
 そしてその嵐の中心にいた氷室は、それの友人や知人と見なし恐れる視線に、居
心地の悪さを感じる。神経が太く硬い彼女であっても、逃げ出したくなる痛さ。

「……仕方ない」

 軽く周囲に頭を下げて見せ、氷室はサイドバックに机の上の文具を締まっていく。
騒がしくおかしな事になった、今日はここで切りあげだ、と。
 クリスマスソングが耳に入る。この歌は六回目のカウント、歌詞は……クリスマ
スの一人身の寂しさと、恋への望みに彩られている。

「今の私にはお似合いだな、まぁ……今年のクリスマスイブはこれで満足しよう」
 

 サイドバックに仕舞い込んで、傍らのコートに腕を通して肩に掛ける。
 予約していたケーキを回収してから、約束通り三枝由紀香の家の集まる。蒔寺楓
はシャンパンを持ち出してくると言っていたが、彼女の実家には大吟醸の清酒はあ
れどもそんな洒落たものがあるのか、などと考える。

「……さて」

 マフラーを首に巡らせ、自分に絡みつく店内の視線を断ち切って歩き出す。ドア
の外に出れば、微かに凍えを憶える冬の風と、夜の前兆たる暮色の西空を氷室は知
る。
 眺める彼女の横顔に、微かに笑顔が浮かぶ。
 ……メリー・クリスマスか。いずれ避けがたい友と別れが来る前に、祝福された
夜の一時はしばし歓談と歓喜に酔いしれよう、と。

 ――聖夜が来る。
 それが恋人の聖夜に代わるのは、いずれのことか。それを吸い込んだ冷気と共に
胸に納めて、氷室鐘は街を歩き出した。

〈fin〉