Ribbon

                       阿羅本 景


 少女は一人、卓袱台に座っていた。
 両脇に結った長い髪が床に着くほどに長く、艶やかに流れている。紅いセーター
は純和風の部屋では場違いなほどに鮮やかで、黒髪と紅がコントラストを為してい
た。
 秀麗な瞳が眺めるのは、古風な足つきTVのブラウン管。そこに映し出されるバ
ラエティ。
 が、彼女の意識はそこにはない。

 遠く、夜の帳の向こう。
 それは彼女が送り出した金髪の少女と短い髪の強情な少年のに向けられていた。
送り出した時には早い冬の陽は落ちかけていたが、今はすっかり星夜に包まれてい
る。
 ――聖夜なのに、雪はない。
 この冬木の町は年が暮れるまで雪は降らない。一月二月の厳冬の最中に、地を軽
く覆う程度に舞い降りるのみ。

「あいつら――なにしてるんだろ」

 そう、少女の紅い唇が囁く。
 聞く者はいなく、絞られたTVの音声が白々しく流れる。肘をついて頬を預ける
と、何度目になるのか分からない溜息を吐く。
 ――こんな吐息にまみれるなら、送り出さなければ良かった。
 微かに未練を感じるが、それに身悶えするのも性に合わない、故に息を潜めてじ
っと居間に佇み続ける――静謐さが乱されれば、少女の心が崩れてしまいそうだっ
た。

「………ん」
 顔を気怠く上げる。
 ドアのチャイムがなり、客の来訪を告げた。
 だがそれは彼女が親しんだ相手であることを悟ると、立ち上がることもなく待ち
続けた。足音が長い廊下を回り込む様にやってくるのを聞きながら――

「こんばんわー、メリークリスマスー! ……って、あれ? 遠坂先輩だけですか?」
「そうよ、士郎はお出かけ中。わたしは一人寂しく聖夜の夜をお留守番」
 答える遠坂凛の言葉には、僅かな自嘲が篭もっている。
 やってきた少女――間桐桜は紙箱を片手に呆然と部屋を眺めていた。通い慣れた
第二の我が家のような家に、艶やかで鮮やかで場違いな先輩が居れば、だ。
 くるくると左右を見、台所の中まで視線を向ける。やがて桜は軽く髪を触って気
遣いながら話し出す。

「あの、セイバーさんはどうしたんですか?」
「士郎と一緒よ」

 凛はそのことを、むしろ平然と口にしていた。
 桜の眉根が僅かに寄る。彼女が求めていた相手が出掛けていること、そのことへ
の失望か、あるいは求めても得られなかった落胆か。
 だが翳りは僅かに走っただけで、こまった笑顔をして少女たちは向かい合って座
る。

「もしかして、遠坂先輩は衛宮先輩を探してたんですか? それで先輩がお留守だ
からお戻りまでこちらにいらっしゃるのかなー? って思ったんですけど」
「留守番、って部分あってるわよ。セイバーと士郎を送り出したのは私だから」

 謎めいた言葉に、桜は首を傾げる。
 桜にはなぜ彼女がここにいるのかの理由が掴めなかった。もし留守なら上がり込
むのもおかしいし、送り出して留守番を務めているのも分からない。
 そんな後輩の表情の綾を凛は素早く読みとっていた。腕組みして長々と、仕方な
さそうに喋り出す。

「あの、どういうことなんでしょうか?」
「あの二人、わたしがセッティングしてあげないと二人でデートも出来ないじゃな
いの。なぁ遠坂、ヴェルデに遊びに行きたいんだけど、セイバーも行こうと思って
て、どうだ? とかね」

 凛は木訥な少年の声色を真似てみせる。
 それが迫真に迫っていたのか、くすりと桜も微笑む。そうですね先輩ってそんな
感じですね――と、思い浮かべて頷いていた。

「わたしにも美綴先輩経由でお誘いが来たりしますね」
「綾子と桜でデートか、どうもあいつはデートは二人っきりって習慣が頭から抜け
てるみたいね」
 頭がさがり、はぁぁぁ、とあきれ果てた息が漏れた。しばらく卓袱台の木目を見
つめていた凛が、すぱっと勢いよく頭を起こす。そして得々と人差し指を立てて―


「今晩は何か、桜も知ってるわよね」
「はい、クリスマスイブですね」
「イブに三人でデートなんて人を舐めるにも程があるわよ、だから私がざらっと馴
染みのレストランとか押さえておいてね、あの二人だけデートにしたってわけ」

 そう語る凛は、自分の計画に満足そうな素振りを見せていた。まるで自分の計画
通りに動く模型細工を誇る様な、笑顔。
 それを受ける桜の顔は、純粋に喜んではいなかった。凛に見せる八割の行為と、
二割の割り切れない想い。
 それは、間桐桜という少女の少し翳った在り方を引き立てる様でもある――

「あの……遠坂先輩はなぜそんなことをされたんですか?」
「クリスマスプレゼントってこと。わたしから士郎にはセイバー、セイバーには士
郎を、ってね。今日くらいは生誕節の夜を楽しんでらっしゃい――」

 それは高慢のようで、声色はどこか切ない。
 桜の目に映る凛はそんなセイバーや士郎を振り回して弄ぶ気ままな女性ではなく、
送り出してから今までじっとこの今で煙っている、素直になれない少女の面影の持
ち主であった。

「お互いにクリスマスプレゼントですね」
「そうそう、そうでもしないと遠坂、凛、どうしましょうって言ってばっかりだか
ら、これからは二人でデートでも何でも出来る様になればいいと思って」
「それで……姉さんはいいのですか?」

 訊ねる声色は、僅かに温度が低い。
 感情が弾まない、静かな声。それは足音を殺して懐まで踏み込む声であった。訊
ねられた凛の心理的な障壁を一歩で乗り越え、素の彼女に尋ねようとする声。

「…………」

 それでも、遠坂凛という少女は怯まなかった。
 長い黒髪を指で梳くと、指に巻き付ける。だが指を離してしゅるりと伸びた髪に
目もくれず、強い瞳で答える。
 だが、声と顔はあくまでも戯けるように――

「送り出してから馬鹿やっちゃったって気が付いたわよ。あの二人で遊ばれたらわ
たしは一人寂しいクリスマスじゃないの、って」
「あの、先輩は教会のミサとか行かれないんですか?」

 からからと笑う凛に、控えめに訊ねる。
 桜は僅かに顎を引き、華麗な先輩の姿を眺める。孤独を感じはしない強さ、自分
と異なる強さを持った憧れの人。そして……

「あの教会は立ち寄るものじゃないわよ、まったくあの神父が普通にミサをやって
たのが信じられないし」
「そうですね、今度の神父様はいい方だそうですのね……先輩、今から行きますか?」

 桜は凛にそっと伺いを立てる。だが、彼女も予想した通り、帰ってきたのは、
首を横に振られる凛の仕草だった。落胆もなく、僅かに目を伏せるだけ。

「……ちょっと出掛ける気にはなれなくてね、ごめんなさい、桜」
「いえ、良いんです。それよりも先輩にご予定がないって言うのが驚きました」
「そういう桜こそ、誘ってくれる男はたくさん居るんでしょ?」

 訊ねる声はからかうようで、桜がすぐに頬を真っ赤に染める。そして凛の目の前
で肩身が狭そうにもじもじした後で、すっと肩を落とすと――

「残念ながら、居ませんでした」
「わたしもよ。ま、掛けてくれるとしたらあいつくらいなんだけど、私が送り出し
ちゃったからね――」

 しっぱいしっぱい、と舌を出して笑う凛。
 桜は戯ける先輩の姿を眺めていた。だが、辿り着いた時に見た悄然たる姿から、
それが本心ではないという感触を掴んだまま、喋り始める。

「そうですね……じゃぁ、二人でクリスマスイブをお祝いしませんか? ケーキ、
安かったから買ってきたんです」

 箱を掲げて桜が微笑んでみせる。
 深山のフルールの紙箱で、かすかに甘い砂糖とチョコレートの薫りが漂う。相好
を崩してそれを眺める凛。

「またクリスマスで気張りすぎね、フルールったら。ま、かき入れ時だから夜にな
ったらバーゲンセールにするくらい作らないと、商売にならないってことね」
「予約しなきゃ駄目かな、って思ってたんですけど、ちゃんとあって良かったです。
ブッシュドノエルとかじゃなくて、チョコクリームケーキですけどいいですか?」
「んー……」

 箱を開いて、小さめの一ホールを取り出す桜を見て僅かに考え込む。腕組みして
指でとんとん、と二の腕を叩いていたが、やがて凛は弾ける様に笑う。

「お日様が落ちてから甘いものを食べると太っちゃうけど、今日だけは例外よね」
「はい、わたしも先輩とご一緒にイブを過ごせるのは嬉しいです!」

 ケーキを前にした桜が、嬉しそうにはしゃぐ。
 その様子を微笑ましく眺めていた凛は、あることに気が付いて目を細める。顔は
笑ってる、でも口元は笑っていない。
 それは、何かを言いたくて、言い出せない仕草。
 唇がわななく、わずかな時間――そして


「……………うれしいです、姉さん」


 その言葉に、凛は視線を反らしそうになった。
 姉さん。そう言われてもなおも笑う妹の姿を見つめるのは苦い行為だった。見た
目は変わらないが、砂糖の入らないビターブラックのチョコレートの様な、桜の滑
らかな笑い。

 目を逸らせば、楽になれる。
 慰め労いの言葉を掛ければ、楽になれる。
 抱きしめれば、楽になれるのだろうか――
 彼女が覚えたのは、そんな迷いであった。そして、迷いは素早く彼女の心から洗
い流される。

 浮かぶのは毅然とした笑顔。
 その言葉に、泣いてはいけない、悲しんではいけない、一時の慰めは永い侮辱と
なる。それを知るからこそ、彼女はにこやかに振る舞う。

「――もちろん知ってましたよね、姉さんも」
「知らないのはあいつくらいじゃないの? セイバーもうすうす気付いてるみたい
だしね……」

 ふう、と諦めた様に肩を落としてみせる凛。
 笑う桜だが、瞳は優しくはない。それは助けを求めて縋るような、無明を彷徨う
瞳。そして灯火はこの姉に翳され、仰ぎ見て羨むような――

 強く笑顔を作る凛と、弱く微笑む桜。
 だが、空気は震えれば裂けそうに脆い。
 泣いたり叫んだり出来れば楽になる、楽になれても何も残らない、聖夜の夜の沈
黙。

「……わたし、家ではクリスマスのお祝いをして貰いました。お爺さまは優しくて、
プレゼントをしてくれました。兄さんも昔はわたしの靴下に小さなプレゼントを入
れてくれたりしたんです、でも」

 語る言葉は光の射さない水面のごとく。
 冷たく滑らかで、そしてどこまでも沈んでいけそうな深さ。それは凛をして足を
漬けるのも躊躇うほどに、侵しがたい。
 口を開けば、溺れる――凛は唇を噛む。

「でも、もらったクロゼットに仕舞っておきました。嬉しかったから、ずっとその
ままの形で置いておいたんです。だからプレゼントをされてもなにを貰ったかは知
りません。何を貰ったのか知ったのは、衛宮先輩が初めてでした」

 もう一つの、求める灯火。
 彼の名を語るのを聞いた時に、凛の心の中がちくりと痛んだ。そんな灯火を、自
分は彼女から奪ってしまったのだろうかと――

「先輩はアルバイトから帰ってきて、桜、余り物だけどいいかってタッパーからチ
キンを取り出したんです」
「――あいつらしいわね」
「びっくりしました。夜まで留守番お疲れ様、お腹空いてるんだったら食べろって。
で、こんなプレゼントで済まないなって――あのときは嬉しくて、ちょっと冷めて
たけどぜんぜん気にならなかったんですよ」

 卓袱台の下で、凛は拳を握った。
 今まで知ることを己に禁じた、妹の姿。それが蝕まれて傷つき切った姿ではなく
――仄かで暖かな笑いが許されていたことの切ない苦悶。
 それが、姉妹で同じ男性を見ていたという――呵責。

「それから、先輩はクリスマスにはなにか持ってきてくれたんですよ。今年こそは
先輩にお返ししようと思ったんですけど、今晩はお出かけした」
「…………」

 桜の弱々しい笑いは、凛の心を綻びさせそうだった。
 自分の行いを責めているのではない。むしろ声を出して詰られた方がすっきりす
る。今の自分は持たざる妹の微かな幸せを奪ってしまった、持てる悪の化身の様な
自己嫌悪を嗅ぎ取らされる。

 だが、桜が気付いた様に手を振る。
 姉の機嫌をそこねないように、精一杯の親しさを込めた笑い。

「でも、姉さんと一緒にクリスマスをお祝いできたのはほんとうによかったです。
いつか、忘れちゃった昔みたいにできたらなって――だから姉さん、一緒にお祝い
しましょう!」

 ぱん、と手を叩いて桜は楽しそうに振る舞う。
 だが、それを聞く凛には打てば響く様に喜べないはしない。こう思うことは覚悟
はしていた、だが永い苦しみより、ささやかすぎる幸せは絶えられないほどに染み
る――

 だから、自分が全て受け止めるべきだと。
 こんな事を聞くと、彼女の愛する相手は苦しむから。
 だから、自分がみんなを幸せにしないと駄目じゃないのよ――凛はそう、信じた。

 今このときも幸せな聖夜を過ごす彼と彼女のために。
 自分の前にいる、指先ほどの幸せを噛みしめる妹のために。
 そして、強くあろうと誓った自分自身のために。

「わたしケーキ切ってきますね。姉さんはお茶淹れて頂けますか? それでクリス
マスのティーパーティーにするんです。本当はシャンパンが有ればよかったんです
けどね、あ、未成年でお酒は藤村先生に怒られちゃいますね」

 桜は立ち上がり、ケーキをキッチンに持っていこうとする。口調が急いでいて、
僅かな沈黙でも絶えられない様に矢継ぎ早に言葉を並べていた。
 だが、凛が口を開いて静かに告げる。

「そう。あいつに貰ったのは形に残らないプレゼントばっかりだったの?」
「……そうです。でも、幸せはわたしの中にずっと残ります」

 上げ掛けた腰を桜は下ろす。姉の口調が固く、聞き方によっては挑発じみている
ことを、だがそんなしゃべり方しか時には出来ないことを、知っている。
 桜は、姉の言葉を待った。真意はこの先に秘されている、自分に真摯ですらある
真っ直ぐな瞳を注ぐ姉の凛をを――

「ならよかった。ちゃんと分かって形が残るプレゼントを桜にあげるのは、わたし
が初めてなのね」
「はい――?」

 凛が腰を上げるのを、桜は頷きもせずに見つめる。
 卓袱台を回り、自分の後ろに回る姉の姿。首を回してそれを眺め続けようかと思
ったが――見ない方がいいのだと分かる。

 背筋を伸ばして、待つ。
 姉が何をプレゼントしてくれるというのか――

「――――」

 さらり、とこすれる様な音がする。
 自分の髪に触れる、姉の指。細くしなやかな指は髪に結んだリボンを、ゆっくり
と解く。それが過去の戒めから自分を解き放ってくれるように――

 髪からリボンが解かれる。
 代わりに別のリボンが結ばれる。仄かに温かく、いつも求めて得られぬ暖かさの
篭もった、大きめのリボン。指が離れるのを待って、それにゆっくり触れようと…


「……」

 指が迷う。触れてはそれが消えてしまう様な気がしたのだから。だけど、一度握
って力を込めるとゆっくりと、それと摘む。
 間違いはない――

「これ……姉さんのリボンですか?」

 慌てて振り返った桜は、いつも結っている髪を下ろしている凛を見つめる。ロン
グで流れる長い髪の姉は、今まで見たこともなく、また見たいと願っていた優しさ
を満たした姿で、居た。
 そして、手には青い昔のリボンを手に。 

「それ、上げるわ。クリスマスのプレゼントには見窄らしくてごめんなさいね」
「そ、そんなことありません!」
「代わりに――桜のこのリボンを、わたしにプレゼントとして貰えないかしら?」

 切れ長の瞳が、瑞々しい唇がゆっくり笑う。
 桜は一瞬、言葉を忘れた様に呆然と見上げるだけだった。何度かの瞬きの後、今
度は言葉が胸から溢れかえる。

「え? だってそれ姉さんの――」
「昔に桜に上げたじゃないの。だから桜のもの――取り返したいってことじゃなく
て、桜からわたしにくれたら嬉しいじゃない?」
「そうなんですか――それでしたら喜んで!」

 姉の笑顔に、桜は綻ぶ様に笑う。
 蕾が綻ぶ様な、萌え出る笑顔。それは姉の咲き誇り微塵の翳りもない笑顔に勝る
とも劣らない、

「ま、わたしにもプレゼントくれるやつはいたけどね、それって今のセイバーに役
に立つのばっかり。だから初めて貰って嬉しいプレゼントね、これ」
「あ……あ、はい!」

 零れる笑いと、明るい雰囲気。
 居間に聖夜の幸福が、今し方遅れて辿り着いた様な華やぎ。この少女達の持つあ
ってきかるべき幸せさが、部屋を満たしているような
 
「さて、そのケーキまでわたしがもらったら、プレゼントの貰いすぎになるわね」
「え、でもわたしと姉さんしか……」
「それに、二人でまるまる一ホール食べたらセイバーにも恨まれるわよ。貰うべき
相手あってこのプレゼント、ならばあの二人が戻るまで待ちましょ――」

 凛が元にいた場所に戻る。そして桜のものだった青いリボンで、器用に後ろに髪
をまとめて結い始めていた。
 見つめる桜が、くすりと口元を隠して微笑む。

「帰ってきたら先輩、どうしてリボンがひっくり返ってるのか驚くでしょうね」
「なに、今まで幸せにセイバーとイブを楽しんでいるんだから、帰ってきてさん
ざんわたしと桜で悩ませてあげなくちゃ。あの二人にどこかに泊まり込む甲斐性は
ないから、もうすぐ戻ってくるわよ」

 ふふん、と自信ありげに笑う凛。

「じゃ、お皿は四人分用意しますね?」
「そうね、わたしも取って置きの雲南を出しましょう。そうそう、桜」

 立ち上がる凛が、優しく桜を見つめる。
 はい、と応える桜に――


「遅ればせながら、メリークリスマス」
「はい、姉さん、いえ遠坂先輩!」

                                                   《fin》