唇を奪われて? 

              阿羅本 景


「……そこにいるのはシロウですね」

 目の前にある布団がそう、喋っていた。
 訂正、布団が喋っているのではない。小山の様な布団を抱えたセイバーが俺に話
し掛けてきているんだけど、前が布団で塞がれているので顔は見えない。

 なので、三つ折りになった布団の山からスカートと脚が生えている感じで、声も
ぐぐもってあの鈴を鳴らすような声色が濁って聞こえる。でも、俺の前でぴたっと
止まったのは流石にセイバーらしい予測能力なんだろう。

「ご名答、って俺以外ここにいないから分かるか。で、それはどうした? セイバー」
「はい、天気が良いので布団を干そうと思いまして……宜しいでしょうか?」

 セイバーは布団の向こうからそう聞いてくる。
 宜しいでしょうかって、そりゃ……外を見るとうららかに晴れていて、もっと日
が上がると暑くなりそうなほどの陽気だった。それに、布団を干そうというセイバー
に押しとどめる理由もない。
 むしろこっちからお願いしたいくらいだ。でも……

「いや、セイバーがわざわざしなくても俺がするのに、今日は洗濯物ないから干場
は開いてるし」
「これくらい私が進んでやらねば、同居人としていろいろと申し訳が立ちません。
で、宜しいでしょうか?」

 ……セイバーに布団干しをやらせるというのは、やっぱり贅沢というか、とんで
も無いことをやらせている気がしないでもない。だってセイバーはその生前はブリ
テンの王なわけで、そんな王様に布団を干せなんていうのは贅沢を越えて冒涜の世
界に達している。
 そもそもセイバーと布団という組み合わせがどこか滑稽で、遠坂の家のあの豪華
すぎる寝台の方が似合う気がする。

「宜しいでしょうか?シロウ」

 で、宜しいでしょうかって……いいって言ってるのに、なんでまた訊いてくるん
だろう?
 この布団の向こうでどんな顔をしてセイバーは訊いてるんだろうか?いつもの澄
ました端正な顔なんだろうけど……

「ああ、もちろん。なんでそんなに何度も……」
「ですので、そこを通りますのでシロウ、少し避けてもらえませんでしょうか?」

 ――ああ、納得。
 何度もセイバーが訊ねるはずだ、俺がここに立ちふさがっていると布団を抱えて
いるセイバーが通れないから、俺がどかないといけない。俺とセイバーと布団でこ
の廊下に塞がっているというのは笑えない。

 ひょこひょこと布団が上下している。通せんぼされて焦れているのか。
 我が道を行くのを妨げられたセイバーのむくれる顔が思い浮かぶ。生憎綿と布の
固まりに妨げられて見えないけど。

「このまま私は物干場に行って干しますので、シロウ、ここを通してください。シ
ロウの分の布団もありますので」
「じゃぁ尚更だ、はい」

 セイバーの腕から、半分の布団を奪い取る。
 ばふっと布団を抱え込んで、その場で回れ右をする。軽くはないけどかさばるこ
れを抱えて歩き出すと、背中にセイバーの声がする。

「え――その、シロウ?」
「布団干しだろ? そんなに前が隠れるほど積み上げると危なっかしくて仕方がな
いし」
「心配は無用です、たとえ前が塞がれ視界が無かったとしてもこの屋敷の中で不覚
を取る私ではありません」

 そういうことには無闇な自信を窺わせるセイバー。
 聞きながらも廊下をつっきって、庭の物干し場に向かう。あそこにはサンダルが
一式しかないから先に着いた方がするのか、とか考えていると……

「半分は俺の布団なんだから、半分は持っても罰は当たらないと思うけど」
「そ……そうかもしれませんが、その、これは私の仕事ですのでシロウに手伝って
頂くのは心苦しくて……運んで頂くだけで結構ですので」

 声が何となく、後ろめたいセイバー。
 そんな布団運び一つで思い詰めることもないのになぁ、とも思うけども、セイバー
らしい律儀さがそれを善しはしないんだろう。いかにも四角四面なセイバーらしい
けじめを感じる。

 ……そういうところがセイバーの良いところでもある。もし同じ事を遠坂とやっ
たら、俺は二人分プラスαの布団を運び、シーツを洗濯し、最後にベッドメイクま
でする羽目になる。それもこの家と遠坂家の二軒分。
 咄嗟にお願いね衛宮君ちゃんとしれくれないと困るのは貴方でもあるんだし、と
か人の悪い笑みを浮かべる遠坂が……

「……今、凛のことを考えていませんか?シロウ」

 ――真後ろから刺す様な指摘を受けて、竦み上がった。
 な、なんでそんなことがセイバーに分かるんだろうか?セイバーは俺の顔も見て
いないのに。

「な、いや、そんなこと無いぞセイバー」
「今、歩調と呼吸が少し乱れました。シロウが凛の事を考えるときにはいつもそう
ですね――特に後ろ暗い事を考えている場合には」

 びしびしとセイバー師範の言葉が刺さる。
 あの竹刀を持ったら寸毫も動かぬセイバーにとってみれば、俺は頭の上に電光掲
示板を付けているみたいに分かりやすいんだろう。でもセイバーもそんな息吹を完
璧に習得できたわけではないというんだから、世界は広い。

 でも、後ろからくすりと、微かな笑いが聞こえる。
 あ、と――それが耳に入ると、体温が僅かに上がる。そんなセイバーの軽やかな
笑い声。背中を向けていてよかった、そうじゃないとその華やかなに我を失いそう
で。

 噎せる様に咳払い、そして

「あ、ああう、そりゃ遠坂は俺の弱点だから仕方ないんだって。いつか必ずギャフ
ンと言わせてやろうと思ってるけどもう一回転生して来世で戦いでもしない限り到
底……」
「いえ、そんな凛に頭が上がらないシロウというのも可愛いものですよ」

 ……か、かわいいと言われてしまった。
 年下の女の子、なのか同年代の女の子なのか、本当はセイバーの方がすごい年上
なのかもよく分からないけども可愛いって言われるというのは、その、困る。格好
いい男にはなりたくても可愛い男って一体何?って。

「……………」

 それも藤ねえに士郎かわいいよ士郎ー、なんてからかわれるんじゃなくて、セイ
バーに。
 あの涼やかな美貌と黄金の気高さを持った、憧れるセイバーに可愛いなんていわ
れるのは……恥ずかしくて困る、布団をもって走って逃げて離れの押し入れに立て
こもってしまいたいほどに――

「何処に行くのですかシロウ?」

 どさどさ、という音を聞いて、反って振り返る。
 そこには布団を下ろして、俺を驚いた顔で見つめるセイバー――緑の瞳と合って
しまう。
 腰を屈めてこっちを見上げるセイバー。肩とか細くて、こうやって見つめている
と信じられないほど、可憐だった。

 いや、そんなことにいちいち惑ってしまう自分を叱咤する。
 でも何処に行くのかって、そんな真顔で聞かれても……
   
「……いや、だから庭の物干場に」
「それはここでしょう、そのままだとシロウは布団を抱えたまま居間にまで行くこ
とになりますが」
「あ、あれ?」

 確かにセイバーの言うとおり、俺は先に行きすぎている。
 先にセイバーは布団を下ろし、縁側に置いてあるサンダルに脚を通している。俺
だけ布団を抱えて暴走してしまったみたいだった。

 勝手知ったる我が家なのに、セイバーに指摘されるというこの不覚。
 可愛いものです、と言われたことで動転してしまったみたいだ。ううむ……でも、
あんなにほっそりしたセイバーにそんなことを言われて、かーっとしないほうがお
かしい。

 とんとん、とサンダルのつま先を合わせるセイバー。
 布団をセイバーの山の横に下ろし、セイバーの姿を縁側から見つめる。ブラウス
は日差しの下で白く、金の髪は柔らかく輝く様。セイバーは可愛いというか、すご
く……何気ない仕草ですら踊っているみたいに綺麗だった。

 見惚れている――胸の中に可愛いものですね、という言葉ばっかり回っている。
 それが血圧を高くして、どくどくと動悸がする。耳の奥で鋼を響かせるみたいな
綺麗なセイバーの声が、瞳には日差しの下で軽く伸びをする、しなやかなセイバー
の肢体。

「ん………ああ、良い天気です……」

 そんなセイバーの姿だけしか、見えていない。
 庭の壁も木々も、空の物干し竿もモノトーンなのに、セイバーだけは白と青と金
に彩られ、その姿は太陽と風に祝福されている。
 眩しいほどに美しい姿で、それを見ていると鼓動が高鳴り続ける。

 やっぱり、こんなセイバーが俺の家にいるというのが、やはり信じられない。
 瞬きをするのが怖い、一瞬でも目を離してしまうとすっと風に攫われて消えてし
まう、それほどに現実味がないほどに綺麗で――

「セイバー」

 声を掛けて、振り向かせようとする。
 いや、このまま振り返らずにセイバーは行ってしまったら、俺はどうするんだろ
う。握った爪が掌に食い込む。いや、いまここにセイバーが居るというのも身に余
るほどの奇蹟で、遠坂とつき合っているという奇蹟と、このセイバーの奇蹟が。

 だから、この手に余るほどの幸せ。
 それがいつの間にか抱えきれなくなって、零してしまうのが怖い――もともとこ
んな幸せを持っていちゃいけない俺なのに。

 なのに。

 ――ふわり、と金の髪が振り返った。

「どうしたのですか?シロウ」

 彼女は微笑みの中で、俺を見ている。
 縁側に差す日差しが眩しいのか、それともセイバーが綺麗すぎて眩しいのか、多
分どちらもある。金の髪と細い肩、緑の眼差しに紅い唇。そんな彼女は俺を見上げ、
笑いの中に少し心配そうに首を傾げている。

「先程から、どうも調子がおかしいですね。ここまで運んで頂いたのはありがとう
ございます、布団を干すのは私でも出来ますので、また後ほどにでも」

 セイバーはそういうと、礼儀正しくお辞儀をする。
 あまりにも綺麗に一礼されたもので、こっちも吊られて頭が下がる。頭を上げる
とすたすたと庭のセイバーが、歩き寄って布団を抱える。

 まず掛け布団から。それに、俺は立ち尽くしたまま魅入ってしまう。
 ……いや、頭の中から何をすればいいのかがすっぽりと抜け落ちている。手足に
どんな命令を動くのか、どんなプログラムを組めばセイバーと会話が続けられるの
か、それを必死に探ろうとするけども、セイバーばっかり見ていてすっからかんだ
った。

 息をするのも、忘れてしまう。

「…………」

 だって、仕方ないじゃないか。
 セイバーはあんなに綺麗で礼儀正しくていい娘なんだから、戸惑ってしまった。
いざ口を開けばからかいの一つも出てくる遠坂とは違う。遠坂にはもう俺は好きで
参ってしまってるからもうこてんぱんになってもいいんだけど、セイバーには……

 布団を運び、よっと放って物干し竿に乗せていく姿。
 あの魔力を使わないとセイバーはさして力持ちではないのであるけど、布団くら
いは平気だろう。一つ掛けては戻っていくセイバーを、黙って見続ける。

「…………」

 セイバーも俺を一瞥していたけど、静かに自分の仕事を続けていた。
 いかんな、このままだと馬鹿みたいに立ち尽くしている事になる。さっきセイバー
は不思議そうに俺を見ていたんだけど、やっぱりこうしているのが変だ、というこ
とか。
 そりゃそうだ、だって俺はセイバーの仕事っぷりをだまって監督しているみたい
で。

 ぽん、と膝を打って身体と心を動かそうとした。

「あー、セイバー、お茶入れてくる。何が良い?」
「? そうですね、日本茶がよろしいかと……干し終わったら居間に行きますので
先にシロウは」
「いや、ここでお茶にしよう」

 庭のセイバーに声を掛けると、布団の向こうから顔を覗かせる彼女。
 緑の瞳がこっちを窺っているけど、怪しんでいる訳ではないみたいだ――こっち
が言うことも随分突飛だから、驚いているみたいで。

「縁側でお茶ですか、それも風情と言うものでしょうね。お願いします、シロウ」

 その声を聞き終わると、俺はキッチンにすっ飛んでいった。
 そんな急ぐことはないんだけども、まるで切嗣と遊びに行く前みたいに気が逸っ
ている。大急ぎでポットのお湯を確認し、急須と湯飲みをお盆に並べ、戸棚からか
き餅を取り出して揃えてお茶は玄米茶、湯飲みを洗い暖めて篦でお茶葉を盛りつつ


 ――なんで、こんなに急いでいるんだろうか?

 と、立ち返る。普通にお昼過ぎのお茶を用意しているだけなのに。
 ……急いでいるというか、気が逸っているのはもちろん一つだけしかない。セイ
バーとお茶をするから……いつも食後とか朝とかにしているんだけど、それが日常
の一ページでありながらも、セイバーと一緒にいると思うと心が逸る。

 つまりは、あれだ。衛宮士郎はいつもセイバーに恋しているから。

「…………」

 ことん、と急須の蓋を置いて、考える。
 それは不味いんじゃないんだろうかと――世間では二股を掛けているとか、浮気
をしているとかいうものだろう。

 いや俺に限ってはそんなことはない、と思うんだけど、どうみても二股を掛けて
いる奴はみんなこんな風に思っているに違いない。遠坂はパートナーと恋人と恩師
ともうどんな関係かを一言で言い尽くせないほどの関係で、セイバーは同居してい
て見惚れているし、いろいろ助けも助けられもしている仲だし。

 いや、二股ではない。俺の恋人は間違いなく遠坂だし、セイバーはその遠坂のサー
ヴァント。でも彼女は俺のことをまだマスターだと仰いでくれているし、それは俺
にとっても有り難い限りだった。これはセイバーと遠坂に粉を掛けて二股掛けてい
る訳じゃない……

「………いや、そういう筈なんだけど、違うかな」

 頭を掻きながらつい、電気ポットに相談してしまう。
 もしこんなヤツが傍にいたらきっと、どっちか片方に真剣になれと俺は説教した
ことだろう。一成なんかもしきりに説教してくるけど、あれははっきり言うと遠坂
嫌い故だし。慎二に至ってはあのどさくさの後に漂白した様に良い奴になってしま
って、ただにこにこしているだけ。俺はおろか美綴も歯ごたえが無いと言うほどで。

「…………」

 でも、この関係をどうこうっていうのは難しい。
 セイバーを現界させるためには遠坂が必要で、遠坂を補うために俺のパスも必要
で、それだけどセイバーが足手まといなんて事はまったくない。それにもし遠坂に
集中するためにセイバーを追い出したら、彼女は何処を頼るというのだろう。

 却下。
 そうなるとセイバーにこの家を預けて俺が遠坂の家に住む……

「ンなことしたら翌日に藤ねえが乗り込んでくるか、却下だ却下」

 おねえちゃんは遠坂さんと士郎の同棲なんかゆるしませーん!不純異性交遊はん
たーい!学生は清く正しく美しくおつきあい!とか。でも乗り込んできたらあら藤
村先生、私たちもう未来を誓い合った結婚を前提としたおつきあい何のですよねこ
れからは義理の姉とお呼びしますか?とか遠坂は反撃しそうな気がする。

「そうなると士郎ばかーセイバーちゃんをどうする気なのよこの不人情モノー!と
か噛みつかれるんだろうな、ああ、頭痛いや」
「士郎が不人情ねぇ、それはないと思うんだけど。むしろ情に厚すぎてお姉ちゃん
は心配だよう、だれかの連帯保証人とかに絆されてなってひどい目に遭うんじゃな
いかと」

 そうか、連帯保証人か、それには気を付けよう。
 でもすでに遠坂の負債というかそういうものを一緒に背負い込んでいる訳だから
一蓮托生……って、誰だ、ばりばりかき餅食ってるのは。

 ――振り返ると香ばしげな音を立てながら菓子を摘む、藤ねえの姿。

「………いつの間に湧いた? 藤ねえ」
「む、まるで私が士郎の家に自然発生するような言い方するわね士郎も。さっき上
がったわよ、セイバーちゃんは庭で遊んでるみたいだったし、おじゃましまーすっ
て言って」

 もう一個、ひょいと手を伸ばしてかき餅を頂いていく藤ねえ。
 なんかいつもながらに脱力気味で、ぱりぱりとつまみ食いをする藤ねえ。藤ねえ
が入ってきたことに気が付かなかったのか、俺は。

 はぁ、とため息を着く。鼻に玄米茶の炒った香りを感じて……

「いいねぇ士郎、玄米茶にかき餅、一杯ちょうだーい」
「……藤ねえの分あったかな、湯飲みとってきて」
「りょうかーい」

 藤ねえがゆるゆると、流しにあるマイ湯飲みを持ってくる。
 これもなんというか、黄色と黒の虎柄の大物で実に豪放だ。一人だけ著しくサイ
ズが違うのをもってくる藤ねえらしさというか。

「で、セイバーちゃんに士郎がどうして不人情になるって?」

 横から藤ねえに聞かれて、はて、どう答えたものかと……いや、そもそも何を悩
んでいたのか分からない。急須を回しながら入れ、藤ねえになんて言ったものかと。
 でも、横で藤ねえは得意そうに笑っている。

「ま、でも士郎がセイバーちゃんに不人情なことなんか出来るわけないわよ、おね
えちゃんが保証するから。むしろセイバーちゃんが困っていたらいいと言ってもお
節介焼くでしょう、士郎は」
「――図星だけどさ、藤ねえ」
「ふふふーん、やっぱりおねえちゃんの薫陶の賜物よね、女の子には優しくしなさ
いって口を酸っぱくして、ってなんで私のお茶を減らすのよー!」

 注ぎすぎた藤ねえの湯飲みからセイバーに移していると、横から抗議の声が。

「いやだって、藤ねえの湯飲み大きすぎだから注ぎすぎたんだよ、これ」
「それならお湯を注ぎ足してみんな一杯にしなさい、まったくもういった矢先から
女の子である私にはこんな仕打ちを……教育が間違ったかしらね、うううう」

 どうも藤ねえ的には、俺の育ちに悩みがあるらしい。 
 ……まぁどっちにしても藤ねえの責任でも功績でも無い気がする。確かに困って
いる人は見過ごせない質だけど、セイバーはそういう困った人、とも違う気がする。
 やっぱり恋しているということか、俺はセイバーに。
 
 こっそりと、藤ねえを盗み見る。

「ん?どうしたの?士郎?」

 藤ねえはかき餅の袋を抱え込んで、おやつに興じている。
 どうも悩んでいる弟分よりも、かき餅の方が重要な様だ。それにがっくりくるよ
りも、ああ、藤ねえは変わらないなぁって、感心して。

 湯飲みと、量が減ってしまったかき餅の皿をお盆に並べる。
 そして、キッチンから縁側に向かおうとして、何気なく訊いてみた。

「……なあ、藤ねえ」
「おやおや、今日はいたく士郎のお悩みのようね、おねえちゃんが悩める少年少女
の質問にはどどどーんと大人の風格で答えてあげるから、さぁ恥ずかしい質問をな
さいな」

 ……って、目を爛々と輝かせているといいたくない気で一杯になる。
 でも、言い出してしまったからには訊かないと……

「藤ねえから俺とセイバーって、恋人に見える?」
「え? ええ? う、ううーん」

 つい口にしてみてから、こっちも顔が熱くなりそうな質問だった。
 藤ねえも余裕の構えが急に頼りなくなって、湯飲みを手にわたわたと落ち着きが
ない。まぁそうだ、もしそういうことを訊かれたらこっちだって慌ても困りもする。
 
「……変なこと聞いた、御免」
「ううん、でも士郎とセイバーちゃんって恋人同士って感じじゃないなぁ。遠坂さ
んと士郎だとこう、いよういようお二人さん熱いねぇ恋人同士だねぇバカップルだ
ねぇって、囃したくなるけど」
 ……いや、そういうことを学園で言わないで欲しい、心の底から。
 でも、藤ねえからは恋人同士に見えないって。こういうのは俺がどうこうという
より、女性の藤ねえが見るほうが正しく掴んでいるんだろう。
 そういわれると、ほっとするんだか残念なのだか、曰く言い難い。

「……いや、遠坂と俺ってそんなに恥ずかしいカップル?」
「すっごく。もうセイバーちゃんと桜ちゃんと三人で士郎を盗られちゃった乙女ズ
のパジャマパーティーをやって遠坂さんを仲間はずれにして憂さ晴らししたいほどー」

 それはそれで楽しそうで、俺が中身を聞いたら寿命が短くなりそうなパーティー
だな。
 それにセイバーや桜はともかく、藤ねえは乙女って範疇か、歳を知れ歳を。
 ――なんて口にするとお茶を届けに行く前に命を落としそうだから、ぐっと我慢
した。

「そうか……うーん、いや、さんきゅ、藤ねえ」
「士郎とセイバーちゃんって、姉弟みたいだよ? 結構似てるもん、一緒にいると。
あ、でもセイバーちゃんと士郎が恋人同士になっても面白いかもー、三角関係? 
三角関係ねロマンスね、もう修羅場になって傷ついたらお酒でも飲みながら慰めて
あげるから、もうががーんといっちゃいなさーい」

 もふふふふ、と楽しそうにかき餅をくわえて笑う藤ねえ。
 ……この姉貴分の無反省というか、無責任な発言には頭がずきずきする。藤ねえ
に掛かってしまえば形無しというか、敵わない。

 ぷい、と背中を向けて。

「勝手に言ってろ。そんなことにならないって」
「もちろん、士郎はそんな器用なことが出来る男の子じゃないって知ってるもーん」

 からかわれてるんだか、励まされているんだか、なんとも分かりにくい藤ねえの
声。
 恋人同士には見えないというのは、ちょっと安心した。もしすごく恋人同士に見
える、とか言われると困ってしまうし、引き返せない関係に嵌り込んでるんじゃな
いかと心配になる。

 ……艶やかで美しい遠坂と、清楚で綺麗なセイバー。
 遠坂と俺が恋人で、セイバーと俺が姉弟みたいなら、いいんじゃないのかって。
 でも、廊下の角を曲がるとそこには――

「お待ちしていました、シロウ。大河が来ていたようですが」

 縁側に端座する、セイバー。
 正座して、背筋がきりっと伸び、隙もなく緊張もなく、自然体だけど美しい。
 そんな彼女が俺を見て、穏やかに相好を崩している。見ていると、この先に近づ
くと清冽な空気を俺で汚してしまいそうで、怖くなる。

「……ああ、いや、ちょっと藤ねえと下んないことを喋ってて遅くなった」
「下らないことはないと思いますが、どんな話であれ大河とシロウの会話は無駄な
ものはないと。お互い偽ることの少ない良い人柄です、なれば無目的な会話であっ
ても無価値な会話はないことでしょう」

 そう褒めてくれるセイバーは、金に柔らかく輝いているみたいだった。
 お盆を下ろして、すこしセイバーと距離を開けて胡座を掻く。行儀が悪いけど、
道場じゃないからこれくらいは許されてもいいと思うし、一緒に並んで正座なんか
してたらどうかなりそうだ。

 脚が痺れるとかじゃなくて、俺の頭と心臓の方が。

「……頂きます、シロウ。陽が落ちる前に埃を払って引き込めばいいのですね」
「あ、ああ、それは俺が……まあいいか、一回セイバーにお願いしたんだから布団
入れを頼むよ、俺の部屋には積んでおいてくれればいいから」
「了解しました、ああ……」

 何事もない、平穏な会話を続けていった。
 セイバーが湯飲みを手に取り、飲んでいる。白い指が磁器の蒼い肌の上にあるけ
ども、セイバーの指の方が綺麗に見える。睫の長い目蓋を閉じて静かに嘆息を漏ら
すセイバーは端整で、美しかった。

 自分の湯飲みはそのままお盆の上。
 はぁ、と心地よさそうに息を吐くセイバーの唇が、ひどく紅くて悩ましい。ぶる
ぶると頭を振らないと、そこに吸い寄せられるみたいで。

「ああ、良いお茶です。こちらも頂いて宜しいですね?シロウ」
「……………」

 なにか答えようとしたけど、頷くばかり。
 セイバーの指がかき餅を持ち上げて、ぱりんと噛む様をやっぱりじっと目で追っ
てしまう。動きのいちいちが綺麗で、ああやって柔らかい唇と綺麗な歯に噛まれる
かき餅に嫉妬しそうになった。

 ああ、どうにかしている、食べ物に嫉妬するだなんてのめり込みすぎというか、
正気を見失っているというか、落ち着かないと駄目だ。とにかく黙ってるとセイバー
に変なことを考えちゃうから、どこかに話して意識を逸らせないと駄目で……いや、
何かあるのか、それは。

「セイバー、詰まらないことだけど、訊いて良いか?答えたくなかったら答えなく
て良いけど」
「???」

 いきなり、訳の分からない訊ね方をしてしまう俺。
 ああ馬鹿、こんな迂遠な訊き方をしたらセイバーだって警戒するだろ、それにセ
イバーだってさっきからおかしな俺に心配してるみたいなんだし。

「……その訊ね方では、シロウも余程訊ねにくい事柄を抱えられているのですか?
 むしろ、シロウこそ迷いがあるのでしたらお尋ねにならなくても、私は気に病み
ませんが」
「いや、いい。セイバーは俺たちが恋人みたいだって思うか?」

 ――馬鹿、藤ねえに訊くのと話が違うんだぞ。

 言ってしまってから、頭の中でそんな悲鳴が上がった。
 咄嗟に瞳を逸らしてそっぽを向く、だってこんなことを訊いてじっとセイバーを
見つめるほどに肝っ玉があるわけじゃないし、きっと俺も真っ赤でひどい顔をして
いるんだろう。それにセイバーはこんな事を訊かれれば、困り切って怒ってしまう
に違いない。

 ああもう馬鹿、勝手に緊張して勝手にこんなことを訊ねて勝手に恥ずかしがって
いれば世話はない――

「コイビト、ですか?」

 セイバーの澄んだ声色で恋人という小恥ずかしい言葉を聞いて、頷く。
 その言葉の方が、世にある呪文よりも余程魔法じみている。くにゃりと空気が曲
がって温度が高くなって、俺の存在が堪らなくなっていくみたいだった。

 息が小刻みになっているのを、押し隠すのが精一杯。
 もしそうですね、私とシロウは恋人のようですね、と言われれば歓喜のあまり、
自分が何をするかを押さえきれなくなるのは間違いない。それが遠坂に対する裏切
りになったとしても、その喜悦を堪えることはできない、でもそれが嬉しいのか、
それとも怖いのか。

 違います、と否定されれば……それは安堵の反面、何処にやったらいいのか分か
らない哀しさに蝕まれるだろう。その激情も、あの美しいセイバーを汚してしまい
そうで。

 俺の吸う、吐く息がない。

 でも、セイバーから聞こえたのは済まなそうな息だった。

「…………申し訳ないのですが、世事に疎い私には恋人らしいというのがよく分か
りません」

 ……いや、そうなんじゃないのかと思った。
 俺だってなにしろどういうのが恋人っぽいのだか、はっきり言いにくい。お堅い
し道徳規準も時代精神も違うセイバーに至ってはこんな曖昧な定義を共有できるも
のとも思えない。
 からっからの喉が、はぁぁ、と貯めていた空気を吐く。肩から力が抜ける。

「だ、だよなぁ。セイバーの時代の恋人らしいって言うのはどういうのか分からな
いし」
「……あの頃は恋というのは狂気と魔術の代物でしたからね、いろいろとそのとば
っちりで悩まされたものです。よもやシロウの言う恋人らしいというのはそのよう
な関係を差しているとも思えませんが」

 ようやくセイバーの顔を眺められる様になって、窺うと昔を思い出したのか困り
切った顔をしていた。
 ……確かに円卓の騎士が恋に落ちると、決闘とか強奪とかとんでもないことにな
っていた。あれも恋の姿に間違いないと思うんだけど、俺の聞いている恋人らしい、
というのがそんなドラマチックなものである筈もない。

 でも、そんな物思いを振り払って訊ねてくるセイバー。眼差しはあくまで穏やか
だった。

「そうですね、シロウと凛のような雰囲気が恋人らしいというのですか?」
「……そうだ、と言いたいけどはっきりいって違うと思う。遠坂には俺は虐められ
ているし、搾り取られている、罵られてるし、これが平均的な恋人の姿だというの
はいくらなんでもないと」

 遠坂と俺がセイバーの前で繰り広げるあんなことやこんなことを恋人らしい、と
はいえないだろう。あれは不出来な弟子とおっちょこちょいの師匠の掛け合い漫才
だ。腕を組んでキスして甘い語らいをする恋人らしさとは似ても似つかないから、
もっと遠坂とそういう風にするんならまず……

「――――シロウ」

 セイバーが、湯飲みを下ろしてゆっくりと。

「キス、してみませんか」

 ……………そう、キスしたりとか。

 いや、待て、俺は今何を考えている。
 キスするのが恋人みたいだからってセイバーとキスしてみようだなんてそれは本
末転倒だし、いや、セイバーの方からキスしてみないかって言われてるんだぞ、今
は。

 そんな――

「……………え?」
「……その、私にもシロウにもどういうものが恋人らしいのかよく分からないので、
多少なりともそういう真似事をしてみれば分かるものかと……シロウ、私はおかし
な事を言ってますか?」

 言ってると思うけど、どこがおかしいのか判別できない。
 耳と頭の間に出来の悪い硝子が填っていて、なにを聞いているのかはっきりしな
い。とにかくセイバーはキスしてみないか?と俺に訊いていて、俺は呆然としてい
る。そこから先に頭が動かないし、頭ががくがく震えている感じがする。

 セイバーも、ほんの少し潤った瞳と、ほんのりと紅くなった頬で。
 それがいつもの綺麗なだけのセイバーでなく、指を伸ばして触れたくなるほどに
愛らしい。 

「……セイバー、その、キス?」
「あ、あの、申し訳ありません。シロウが凛に操を立てているのであれば、サーヴ
ァントであるこの私がそのような主を蔑ろにする淫らがましい提案をすることは万
死に値します。もしシロウが私とキスをしたいと言われるのはともかく、私からそ
のような誘惑を持ちかけようなどと言うのはおこがましくも汚らわしく――」

 顔を紅くしたまま、セイバーが落ち着き無く言葉を積み重ねていく。
 たしかに凛のことを考えればこれは浮気の誘いであって、危険な誘惑であった。
でも、よりにも寄ってセイバーの口からこんなことを持ちかけられると、誘惑とか
たづけていいのかどうか自信がない。

 だって、あの清らかなセイバーがそんな誘惑だなんて――あり得ない。
 だから、本当に興味本位でキスしようと聞いてみたんじゃないのかと。心臓がま
た、落ち着き無く胸の中で血を送ってはね回る。
 目の奥がじわっと紅く滲むみたい。セイバーとキスする、その言葉だけで唇に、
優しげな幻覚が宿りそうだった。

「――ああ、シロウ。私はつい日々の平穏に流されて気が緩んでしまったようです。
シロウには凛が居て、私はそれに仕えるべき存在に過ぎません。それなのにふしだ
らな泥棒猫の様にシロウの寵を奪い取ろうとする真似はこの身の名誉を汚すばかり
か、疑いなきまったきの凛とシロウの仲を引き裂く奸計と思われても仕方ありませ
ん。許して欲しいとはいいません、この恥辱は我が身を茨の鞭で懲らしめてでも―
―」
「いや、そんなことはしなくて良いから。それよりも、セイバーは……キス、した
いのか?」

 そんな言葉で、セイバーの何時までも回り続ける言葉を止めてしまった。
 質問というより、俺にもセイバーにも致死性の毒をもったガスを吐いてしまった
みたいだった。それはお互いの神経に回って、合わせた目は離せなくなる。

 その毒が回りきる前にセイバーは、僅かに瞳を逸らして……

「はい………」

 と、消え入る様に頷いた。
 反則だ、そんな――セイバーくらい可愛くて綺麗な女の子に、そんな恥ずかしそ
うにキスしたいなんて言われて逆らえる男が居るはずがない。甲斐性とかそんなこ
とじゃなくて、こんな可憐なセイバーがキスしたいって言っているんだ。

 耳が血の早瀬に埋まって、聞きにくくなる。
 でも、セイバーの密やかな囁きだけは聞き逃さなかった。

「シロウと凛がキスをしているのは……知っていました。お二人ともかくいう仲な
のでそうする当然だと思っていたのですが、それがどのような味がするのかと……
知らぬ方が良いのかも知れません。でも、シロウ、私が唇を許すとすれば貴方にし
か許したくはない」
「…………」
「貴方が私のマスターであること、いやそれ以上にシロウであれば、私は知ること
の無かった恋の味を味わうことが出来るのかも知れないと」
「…………………」

 さっきから、KOしそうな反則の連打ばっかりセイバーが繰り出してくる。
 唇を許すのは貴方だけ、恋の味を知ることが出来る、そんな言葉は毒よりも麻薬
に似て、その言葉が無ければ血が流れなくなって死にそうになる。セイバーの俯き
気味な頼りない姿、声は僅かに震え、膝の上で握り合わせた手が弱々しく震えてい
る。

 セイバーがこんなに切なげなのに、俺は何をしているんだろう。
 ただ胡座を掻いたまま、セイバーに惹き付けられっぱなしで……ふらふらする意
識を、言葉で結びつけておかないと気を失いそうで。

 だから、俺は――

「俺こそ、セイバーが許してくれるんなら、したい」

 もう、言葉がそこで要らなくなった。

 セイバーの伏せられた瞳。僅かに前髪が動き、緑の瞳が上がる。
 お互いに身体を寄せていく。俺が身体を崩し、セイバーも正座から身体をこちら
に進めていく。床板に触れた手が重なると、セイバーの繊細な指が心地良い。

 手を握る。セイバーの手が緊張しているのか、少し震えて涼しい。
 額と、鼻と、唇が近寄る。腕を伸ばして抱きしめたいほどの距離で、熱く燃える
俺の肌の熱さが、セイバーにも伝わっているのかも知れない。
 瞳に移る、セイバーの物憂げな美しさ。額に掛かる髪はあくまで軽やかで、伏せ
られた緑の瞳は怯えながらも求めてきて、つんとした鼻や薔薇色の頬は滑らかで、
唇は綺麗な形で潤っている。

「シロウ……」

 囁く声は、薫風の様にくすぐったい。
 お日様の下でキスするのに、真夜中の逢瀬の様な密やかな雰囲気。
 セイバーを唇を盗む、そんな興奮が胸の中を熱くするけど、盗むんじゃなくてあ
くまでお互いにお互いを確かめるためだって、汚らわしいものはなにもないキスな
んだって。

 そうじゃないと、セイバーに失礼だった。
 俺の唇は荒れていてごつごつしていて、柔らかく優しいそうなセイバーの唇には
不似合いな気がする。でも、他の触れる唇なんか俺にはないんだし、それよりも何
よりもセイバーの唇に触れたかった。

 握り合わせた指が、きゅっと締め付ける。

「…………あ」

 柔らかく、触れた。
 唇を合わせている。僅かに触れあわせるほどに。もっと寄せてセイバーの柔らか
さを味わいたいけど、これ以上強くしてはいけない気がする。指と指、唇と唇が重
ね合わさって、俺とセイバーを繋げている。

 口付け、接吻、キス。
 敏感で、柔らかくて、特別な器官を触れあわせている。いつも食事をしたり話を
したりするときに見ている唇が、重なり合うとそれが特別な意味と感覚を持ってい
るみたいで。
 優しく触れているのに、吸い付いているみたいな。繊細な感覚が頭の中まで染み
る。

 鼻の先が僅かに触れる。
 目を閉じて、セイバーの唇に集中する。でもキスの気持ちよさは分かっていたけ
ども、これが恋人同士のキスかっていうと――

「あ……は、あ……」

 セイバーが身を引いた。
 俺も追い掛けずに、同じく身体を起こす。握り合わせた手はそのままで、つい唇
を撫でてしまう。キスは終わったのにまだ柔らかい感触が残留しているみたいだっ
た。

 セイバーも、あの細い指を唇に当てて、目を細めている。
 お互いに、不思議なキスの味だった。優しいんだけど甘くなくて、清らかなんだ
けど切なくない。キスしてしまった、って分かるんだけどそれ以上に興奮で頭がく
らくらして、堪らなく相手が欲しくなる――そんな遠坂相手のキスとは、このキス
は違った。

「う……その、セイバー、どうだった?」

 まだ手を繋いだままで、恥ずかしげもなく訊ねてしまう。
 そんな女の子とキスしてどうだったなんて訊ねるのはルール違反も良いところだ。
俺だってセイバーに聞き返されたら困るし、事細かにこんなキスを評価できるはず
もない。

 セイバーはちらちらと俺の顔を見ている。
 最初は神妙に、そして目が思い出した恥ずかしさに逃げる様に動いていた。ゆっ
くりと俺の指を説くと、む、と膝の上に手を置く。

 正座に戻って、なにかを反省するみたいに目を閉じるセイバー。
 お互いにしばし、遅れてやってくるガチガチの緊張からリラックスしようとする。
そしてセイバーがしおしおを語り始める。

「……初めて唇を合わせるキスは体験しました。ですが……おかしなものです、シ
ロウ。確かに敏感で感じやすいものだったのですが……まるで肉親にキスしている
みたいでした」
「いや、なんかその言いたいことは分かる……」

 そういうことだ。

 期せずして二人とも、キスの感じは一緒だったと言うことだ。恋人の気分が味わ
えるかも知れないと思ってキスしても、俺にとってのセイバーとセイバーにとって
の俺がそういうものじゃないから、恋人の味がしないのは当然というか。

 キスは魔法の筈だったけど、それは恋愛という世界の魔法がキスであって、キス
が恋愛全部を生み出してくれる訳じゃない。だから、俺もセイバーにキスしている
ときはどこか、従姉妹か姉かにキスしてるみたいだった。

 ものすごい愛情は感じる。でも、奪ってしまいたいほど欲しくはない。
 それがセイバーの、あの可憐な姿に重なるみたいだ。凛々しく清らかで、俺の守
り手で、それだけど守ってやらなきゃいけない彼女。

 遠坂みたいに、欲しくて混じり合いたくて堪らない、という相手じゃない――

「……すごく気持ちよかったけど、やっぱりそういうものと違う感じがした」
「はぁ、それでは私と同じですね、やはりもっと恋人の気分を込めてキスしないと
いけないものなのでしょうか?」

 そんな風に悩んで訊かれても、正直答えられるもんじゃない。
 第一、話が違ってきている。そもそも恋人気分がキスすれば分かったかも知れな
いのに、恋人のキスを味わうために気分を作る話になってしまっている。

 それの根っこは、俺とセイバーが恋人同士に見えるかどうかって他愛のない話で。

「いや、やっぱり俺とセイバーはこういう関係なんじゃないかな。キスしてもキス
しただけで、やっぱり俺にとってのセイバーはセイバーだし、セイバーにとっての
俺は俺しかないわけで、だから遠坂と俺みたいにセイバーがなる訳でもないって」
「……そうです、シロウは私のマスターであって、その……恋人というのは違いま
す。それでは凛に申し訳が立たないことが多すぎますから」

 なんとなく、二人とも口を揃えてお互いに謝っている。
 でも、唇にはまだセイバーの感触がのこってる。これは仕方ない、だってあんな
にセイバーの唇が優しくて繊細だったんだから。でも、この唇が恋の味に甘く溶け
ることはしばらく無いだろうと、不思議に確信が持てる。

 軽く指で拭って、湯飲みを手に取る。
 温くなったお茶で洗い流して、飲んでしまう。腹に隠してしまえば、この

「なんだな、藤ねえとキスしたって恋人の気分にならないのと同じか」
「……言い得て妙ですね、シロウ。なるほど、私であれば……いや、そんなことを
すれば周囲になんと思われるか……ああ、乱心したなどと言われては我が恥……」

 セイバーも我が身に喩えているみたいだけど、一体誰を想像しているんだろうか?
 かなり深刻に悩んでいるのできっと、とんでも無い相手なんだろうと思う。まさ
かあの魔術師マーリンとかじゃないだろうな……それは深刻にもなるということか。

 そうだよなぁ、藤ねえとキスして恋人気分になったら大変だって――

「……ふふふふ、それはね士郎、おねえちゃんの本当のキスを知らないからよー」

 吹いた。
 思いっきり、飲み込んだお茶を噴水の様に逆流して

「しっ、シロウ!? それに大河も!」

 廊下の影から、きゅぴーんと目を光らせて笑っている藤ねえ。
 なんだその本当のキスっているのは……というか!

「ぐえっ! ふ、藤ねえいつの間にそんなところにいやがるっ!」
「ん? 士郎がお茶持って言ったから一緒におやつにしようかと思ったらまっさか
ぁ、縁側でキスしてるんだもん士郎とセイバーちゃんがー、もうあんな事訊いた矢
先にキスだなんてすっごく積極的でお姉ちゃん恥ずかしくて照れちゃうー!」

 そんなことを言いながらいやんいやんと身を捩っている藤ねえ。
 何処が恥ずかしくててれてるだ、あれは得物をゲットした喜びの余り奇っ怪な踊
りを踊っているにすぎない。それに今なんと言ったか、キスしてるって……

「み、見たのですか大河!」
「あ、セイバーちゃん気が付いてなかったのか。セイバーちゃんほどの達人が士郎
とのキスに夢中で気が付かないなんて、やるものねらぶらぶ士郎……」

 顔を半分覗かせたまま、感心していやがる。
 でもにやにやと笑い崩れていて、もう面白いモノを見ちゃってしかたないなーお
姉さんは、といいそうなこの、ぶるぶる震える満面の笑み。まずい、あれは嵩に掛
かって攻める構え、まさに虎に翼。

「……でも、二人ともそのまま縁側で組んずほぐれつになるんじゃないのかってち
ょっと心配してたんだけどね、ぱっと離れて顔を紅くして、もう初々しくてお姉さ
んこんな清純なカップルっぷりに嬉しくなっちゃって、もう眼福眼福」

 ……う、ううう、笑って、あんな十年に一度の勝利の笑いに酔ってやがる。
 セイバーもただならぬ苦境を察したらしい。額に脂汗が浮いているのもはっきり
見える。きっと俺はもう死にそうな顔をしているだろう。

「………何が望みだ、藤ねえ」
「え? やだなぁ別に遠坂さんに士郎とセイバーちゃんがキスしてただなんて、そ
んなこと教えるつもりは無いよー?」
「大河、このことは是非とも凛には内密にお願い致します。私は決してシロウを凛
から横取りしようなどと言う気は無いのです。誤解を招く言動をされた場合には例
え大河と雖も容赦は……」

 セイバーが立ち上がり、じりじりと居合いの構えで構えている。
 まずい、ここでそんな強気にに出ると藤ねえは何をするか分からない。大人しく
懐柔すればまだしも、高圧的に出ると行動が斜め上に出る。

 だから、ばっと腕を出してセイバーの行く手を塞ぐ。

「シロウ!?」
「藤ねえもセイバーもよく聞いてくれ。今晩は肉だ、それもステーキなどに挑戦し
てみたりする。サーロインでミディアムレアなどと頑張ってみたいという気にもな
っている」

 ――しばしの沈黙。

 後ろのセイバーは唾を飲み、
 目の前の藤ねえはふんふん、と勝利を噛みしめながら目を細くしている。
 こんなふうに、懐柔に走らないといけない自分が情けなくもあるけども、遠坂に
知られて弄られるのに比べれば肉で済めば安いもんだ。

「だから、これ以上何も言わないでくれ……藤ねえ」
「……その提案は私は非常に嬉しいのですが、シロウ……それは……」
「ふふーん。お肉なのは嬉しいけどね、でもね、お願いを聞くには士郎もう一つ私
のお願い聞いて欲しいなぁー」

 しゅぱっと手をにぎって小首を傾げて、可愛らしそうな素振りを作る藤ねえ。
 女ってヤツは信用できない、遠坂だって藤ねえだってかわいこぶりっこするとき
に限って、心の中で鎌首を擡げてる。今の藤ねえはさしずめ喉を鳴らす猛虎だ。

「……赤ワインが欲しいとか?それも考える」
「ううん。士郎士郎
 お姉ちゃんとキスして」

 …………くにゃっと曲がりながら、なにか今とんでも無いことをこの大河が口走
った。
 藤ねえが笑いながら歪んでいるのか、俺の視界が勝手に歪んでいるのか。

 だけど、俺が何を言ったかは定かではなく、聞くのは背中のセイバーの悲鳴。

「な、何を言うのですか大河!」
「だって士郎ったらさっき、私とキスしても素敵な気分にならないなんてしつれー
なことを言ってるんだもん。お姉ちゃんのキスを甘く見ないで欲しいわね、もう士
郎を大人の魅力でめろめろにしてやるんだからー」

 うわ、今聞いたことも信じがたいのに、藤ねえが目をきらきらさせながら俺に近
づいてくる。それなのに俺は動けないで、こんなキスしようと迫ってくる藤ねえの
まえにただ無力に座り込んでいた。
 虎がこう、むちゅーっと俺にキスをしようとにじり寄ってきた。それなのに、動
けない。

 確かにそんなことを言った。でも、藤ねえとキスするだなんて言うのは――

「ま、待て、藤ねえ。そんな俺とキスなんかしたら、だめ、ダメダメダメダメエエ
エエエー!」

 だ、駄目に決まってるだろう、藤ねえとキスだぞキス、接吻、そんなの駄目ーー!。
 でも、藤ねえはなんで?って小首を傾げていた。

「なんでそんなに嫌がるのかなぁ、昔士郎とキスしたことあったのに嫌われるとさ
みしいなー、遠坂さんの所にいって士郎に嫌われちゃったって絡んでこようかなぁー」
「待ってください大河、昔よくキスしたというのは本当ですか!?」

 いやセイバー、止めてくれるのは有り難いけど、突っ込むポイントが違う。
 それにそんな、昔キスしたことなんか記憶にないぞ!捏造されたか俺の記憶!憶
えのないキス話に脇の汗に濡れて滲みそうなほど。

「そうだよー、ボロボロになっても強情張って帰ってくる士郎にえらいえらいって
褒めて、むちゅーって。でもなんかすぐごしごしって拭かれちゃったし、ありがた
がれもしなかったけど」
「…………」
「……うわ、そんなことあったのか。くっそ藤ねえに初キス奪われたただなんて」
「だから、士郎、んーっ!」

 迫る唇。

 藤ねえが唇を突き出してダイビング。
 その狙いに俺の唇があるのに、避けるだなんて行動の選択肢になくて――

「だっだっ、駄目です!」

 いきなり身体毎、1メーター横にずれた。
 俺が居たはずの空間を、まるでウマヅラハギみたいに唇を突き出して藤ねえが突
進していった。なんで藤ねえを避けてワープしたのか?それは、セイバーが力任せ
に……

 ごろん、と藤ねえが顔面から庭に落ちていく――おお、見事な前回り受け身。

「ぬぁああああ! じゃ、邪魔するのねセイバーちゃん!」
「もちろんです、シロウとキスして良いのは凛だけです。たとえ姉だとはいえ大河
にシロウの唇を易々と許しては主従の示しが着きません!」
「そういうセイバーちゃんだってキスしてたのにー、私にもちょっとお裾分けしてー」
「うっ、うう、それは……駄目です! もしシロウの唇を奪いたかったら私を倒し
てからにしていただきたい!」

 俺をぎゅーっとだきしめて、セイバーが牙を剥いて叫んでいる。
 いや、守ってくれるのは有り難いんだけど、胸が頭にあたって……なんか犯罪的
に柔らかくて気持ちいい。あ、まずい、頭くらくらしてくる。

「せ、セイバー、当たってる当たってる!」
「何がですかシロウ?私の何が当たっていても構いません、今はシロウは大人しく
守られてください」
「ふふふ……セイバーちゃん?そんなに真剣になるとその可愛いシロウの唇奪いた
くなってくるわね……うふふふふふ」

 俺を挟んでじりじりと対峙するセイバーと藤ねえ。
 なにか、なにか俺の唇を回ってとんでも無いことになっているーーーー!

「ふ、藤ねえもセイバーも落ち着け、俺とキスなんかして嬉しいのかー!」
「もちろん、もういじめっこの遠坂さんから士郎の可愛い唇を奪い返してやるんだ
もーん!」
「なりません! 士郎の唇はその、あ、あんなに気持ちいいのに!」
「おーちーつーけーぇぇぇぇ!」

                                   《お
しまい》