tout va bien
　　　　　　　　　　　　　　　　　　斉東　深月

　大切な（つもりでいる）妹の叱言と嫌味の化合物を、どうにかいなしてから、
彼は屋敷を出た。
　冬晴れの薄青い空の色と、軽く刺すような冷えた空気が、今の彼には心地良
い。その原因が自分にもあるとはいえ、先刻までの茨の棘で覆われたような居
間よりは、遥かにましだと彼は思う。暖炉の火だけでは、暖かい家庭はできない。

「好きあってるんだから、しょうがないじゃないか……何だかんだ言っても、
子供なんだよな、秋葉は」

　本人の前では、到底言えない愚痴じみた一言を中空に放り投げて、遠野志貴
は、坂道を下っていった。

「あ、今日は早いんですね」

　チャイム２回で開いたドアの向こうには、彼がこの世で一番愛するひとがい
る。『この世で一番愛するひと』！以前の彼ならば、そんな歯の浮くような言
葉は、脳裏に浮かんだだけでも鼻で笑っただろうが、このひとを前にすると、
それ以外の形容が出てこない。出てきても、しっくりこない。
　あぁ、俺は、本当にこのひとを好きでいるんだな。と、いう感触を確かにし
ながら、志貴は柔らかく笑―――

「あの……先輩…それ……」

―――おうとして、できなかったのは、彼女の服装を見たからだ。

「はい？」

小首を傾げて、きょとんとした顔（彼が４番目くらいに愛している顔だ）をし
て、彼女は訊き返す。

「それ……いつ買ったんすか？」

　指差す先にいる、彼のもっとも愛するひとであるところのシエルは、黒のス
ウェットの上下に（一体どこで見つけたのか）迷彩柄の半纏という、色気もへっ
たくれもあったもんじゃない的スタイルで突っ立っている。

「あぁ、これですか。一昨日商店街で見掛けて、気に入っちゃいまして。日本
には良いものがあるんですねー」

　ようやく原因に気付いたシエルだが、それによって、胸中の甘やかな感覚を
微塵に打ち砕かれた志貴の心情には、気付いていないようだ。

「いやだから……どうしてそういうの着てるの？」
「え？あったかいからに決まってます」

　どこか噛み合わない会話が続く。

「それより、早く中に入って下さい。冷えますよ、今日は」

　心中、首を捻らんばかりの志貴に気付きもせず、シエルは笑んだまま、部屋
に招き入れた。

　シエルの部屋に入ってから、ようやく志貴は、理由の一端を察したような気
がした。
　寒いのだ。外気とさほど変わらない温度のように感じる。

「先輩、エアコン点けてないの？」

　彼女のアパートは、新築もいいところで、最初からエアコンが据え付けられ
ている。スウィッチひとつで、暖炉だけの志貴の部屋よりは、遥かに暖かくな
るはずだ。
　彼の当然とも言える問いに対して、シエルは、ちょっと顔を顰めて、

「経費節減、です」

とだけ言った。

「経費？」
「職場からの支給額が随分と減っちゃいまして。あ、そこ座ってて下さい。今
お茶入れますから」

　何でもないように語るシエルだが、聞いた志貴の側としては、平静ではいら
れない。彼女の特殊すぎる職場からの支給が、彼女の収入の全てのはずで、そ
れが削られるということは、彼女に死ねと言うに等しい。

「何か、あったの？」

　急須と湯飲みを持ってきた彼女に問い掛ける。

「何かあったというか、なくなったというか……」

　それで思い当たった。もともとシエルの仕事は、死徒の封印、殲滅であり、
もの街に来たのも、ロアという死徒を追ってのことだった。ロアは既に消滅
し、その後始末もほぼ終えて（と、シエルは言っていた）、そうなれば、彼
女の仕事は終わり、この街に居ることも―――

「あれ？」

　何かおかしい。このひとはまだ自分に隠し事をしているのだろうか？

「あのさ、先輩。ロアの件の残務処理は、もう終わったんだよね？」
「はい。あれの食い散らかした死体の後片付けは、先週完了しました。もうこ
の街には、吸血鬼はいませんよ」

　茶を注いだ湯飲みを、志貴に差し出しながら言う。

「変なこと訊くけど、どうして先輩この街に残ってるの？」
「いけませんか？残っていては」

　微妙に硬くなったシエルの表情を見て、慌てて言い足す。

「いや、そんなことない。俺も居て欲しいと思ってる。でも、仕事終わったら、
その、帰らなきゃいけないんじゃないの？」
「あぁ、そういうことですか。実は―――辞表を出しました」

　至極あっさりと言ったひとことだが、聞いた志貴は床から腰を浮かせてシエ
ルに詰め寄った。

「じ、辞表って、仕事辞めるってこと？」
「はい。そのつもりで」ずずず。何と言うこともないという顔で茶を啜って応える。
「どうしてさ？」
「言わないと、判りませんか？」

　もじっ。彼女の躰から、そんな音がしたような気がした。表の顔は屈託がな
くて、裏の顔には揺るぎがない。そんな彼女に似つかわしくない、少し伏せた
眼とほのかに赤らんだ顔。志貴は、その意味するところを完全には推測できな
い。それは、彼女とは躰まで交わした仲だ。多少己惚れてもみたりする。しか
し、仕事を捨てるほどに想われているという自信など持てない。

「えっと、その……そういうこと？」
「そういうことですっ」

　上気したような頬のまま、シエルは真横を向いた。


「それは……嬉しいな…うん、素直に嬉しい。でもさ、辞めちゃったりしたら、
いろいろ、まずくない？」

　彼女の職場である、埋葬機関というところが、どういった環境かなんて、
志貴はほとんど知らない。さして知りたいとも思わない。だから、イメージ
がかなり先行している。彼の頭の中では、完全秘密主義の、かなりにシビア
な組識、ということになっていて、正直「辞めます」「はいどうぞ」と円満
退社ができるようには思えない。極論だが、機密の漏洩を防ぐべく、闇から
闇に葬り去られるんじゃないかとも想像していたりする。

「まずいらしいから、辞めさせてくれなかったんです」溜息を、ひとつ。
「へ？」

　話が見えなくなる。

「ロアも滅んだし、わたしも普通の死すべき身体に戻れました。他にも…そ
の…いろいろ思うところあって……とにかくあそこにいる理由なんてほとん
どないんですよ」

　ずずず。再び茶を啜ったシエルに釣られて、志貴も湯飲みに口を付ける。

「だから、これを機会に、辞めようとしたんですが」
「辞めさせてくれない、と」
「ええ。以前の無茶な身体じゃないから、もう任務も果たせないと、そう言っ
たんですが。あちらさんは、わたしのここにいろいろ詰まってるものがもった
いないらしくて」

　軽く自分の頭をつつく。

「それって、魔術関係の？」

　志貴の聞いた話では、彼女はロアの貯えていた魔術知識が、ほぼそっくりそ
のまま残っているそうだ。もっとも、彼女自身はその知識を使うことを嫌って
いる。

「そうです。わたしを手放して、協会辺りに掠め取られるのが余程悔しいみた
いです。あの人非人は」

　シエルの眼差しが、急に剣呑な光を帯びたのは、眼前の志貴に対してではな
く、恐らくはこの場にいない何者かに向けてだろう。

「とにかく、向こうとしては、わたしを手放したくはない。とはいえ、やる気
のないわたしを任務に就かせられない。で、とりあえずは飼い殺しって次第です」
「それで、経費削減ってわけか……」
「神の恩寵も、わたしにまでは回せられないとのことで」
「らしくないよ。そういう言い方」
「そうですか？」
「そうだよ」

　志貴が案じているのは、皮肉じみたシエルの口振りだけではない。それ以上
に、その少しだけ沈んだような表情が気になる。口元だけは、微笑んでいるが、
眼鏡の奥の双眸は、苦い何かを堪えているように見える。
　話題を変えたくなって、別のことを訊くことにした。

「じゃあ、これから、先輩どうするの？その、仕事とか」

　志貴は、話を逸らしたつもりだったのだが、尚更にシエルの痛いところを突
いたらしい。彼女の瞳が、重さを増した。

「特に、決めてないんですよ。まだ」
「本当に？」

　即座に言ってのけた、志貴の声が、彼女には疎ましかった。

「こういうときだけ、鋭いんですから、ほんと、時々憎らしくなります」

　深く息を吐いて、身体の力を抜く。知らない内に、いくらか力んでいたようだ。

「俺に言えないこと？」
「そういうことじゃないです」
「だったら、どうして？その…先輩のことは俺にとっても……あぁっ！もう！
要するに、先輩は俺の大切なひとなんだから、困ってたら、何か助けになりた
いんだよ！そりゃ頼りにはならないだろうけど、でも何かできるかも知れない
じゃないか」

　語気を強めて、髪を掻き毟る志貴の姿は、彼女にとって不快ではなかった。
　シエルとて、志貴のことを、誰より大切だと思っている。身も蓋もなく言っ
てしまえば、愛している。どうしようもなく愛している。それをはっきり顕わ
せないのは、彼女の照れと、後ろめたさ。
　それだから、肝心なときに、言えないことがあったりする。
　それだから、どう言えば良いのか、判っていてすら、言えないでいる。

「最初は、いろいろ考えてもいたんです。働きながら、ケーキ職人になる修行
をして、休日には遠野くんと逢って、今まで見てこなかったものを見て、して
こなかったことをして、そんな風に生きていけたら、って」

　これからのことを話すのに、シエルは、まるでそれが過ぎ去った日々である
かのように言った。有り得ない過去を振り返り、懐かしむ眼をして言った。

「良い考えだと思うけど、どうしてそれが……」
「迷っちゃいました」

　シエルは笑った。力ずくで笑顔にした。

「わたしが、そんなに幸せになって良いのか。そんな陽の当たる場所で生きて
良いのか。迷って、それで、判らなくなりました」

　笑わないと、笑っていないと、きっと何かが溢れ出してしまう。

「ね、遠野くん。わたし、そんな普通に生きてて良い人間じゃ、ないです、よ…ね……」

　笑うことばかり考えて、だから、泣いていることに気付いてなかった。


　志貴には、何も言えない。崩れかけた笑顔のままで、涙を流すシエルを前に
して、口にする言葉を必死に探す。

「わたしは、嘘吐きで、穢れた存在です。それはもう、どうしようもないこと
なんです」
「違うよ。絶対違う」

　不思議と力強い物言いに、シエルの胸の奥に響くものがある。痛みか、そう
でない何かが。

「思い付きの慰めだったら、止めて下さい。聞く方がつらいです」
「先輩が、本当に嘘吐きで穢れてるんだったら、そんな顔して言わないよ」
「え？」彼女は今、自分がどんな顔をしているのか、判らなくなった。
「そんな―――何もかも背負い込んじゃうような顔で、何言ってんだよ。そん
なに―――」
「あ―――」

　志貴の手が、シエルの腕を掴み、そのまま自分の胸元に引っ張り込む。

「自分が嫌なの？俺はシエルが、こんなに大事なのに」
　彼が彼女をこう呼ぶときは、「本気で恋人をやってみせる」という意志の顕
われ。それが判ったから、ようやくシエルは、涙を止めることができた。

　しばらく無言だった志貴が、不意に口を開いた。

「嘘は、いけないことなんだ？」
「はい……」
「穢れているのは、いけないことなんだ？」
「はい……」
「じゃあ何か？みんなが本当のことだけ言って、本当のことだけでできた社会
が、理想の天国か？それでみんな綺麗で幸せになれると、シエルは思うか？」
「それは……でも、嘘はやっぱりいけないことだと思います。嘘だと知れたと
きに、必ず誰かが傷つきます」
「そんな何もかも引き受けるなよ！誰かの嘘や、誰かの傷まで、シエルが背負
うことなんてないだろ？」
「わたしが…そこまでしているように見えますか？」
「そうとしか見えないんだ」
　志貴の声が硬くなって、背中に回した腕に力が入る。
「だいたい、何が清らかで、何が穢れてるんだ？シエルが穢れてて、俺がそう
じゃないとしたら、その違いは何だ？境界線はどの辺にあるんだ？」
「そんな……」
「誰も彼も、どっかに穢れを持ってんじゃないのか？」
「それでも…わたしは自分を許せません。遠野くんが許しても、わたしが自分
を許せないんです」

　志貴には、シエルの言葉に対して、言うことがなくなった。『俺が許す』と
いうのは、彼が思っていたことだが、彼女はそれでも許せないという。
　そんな彼女を、そんな日々を、彼は望んでいない。それが明白なのに、今の
シエルに言う言葉もない。
　だから、探してみた。
　あの嵐のような秋の日々のこと。出会ってから、シエルを愛するようになる
までのこと。愛してからの徒然のこと。そういうことたちを思い浮かべながら、
志貴は、その記憶の中にある欠片に触れた。
　あぁ。
　あぁ、そうなんだ―――

「だったら、俺も穢れる」

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　《つづく》