女の子にはひみつが一杯
阿羅本 景
志貴は夕暮れの道を歩いていた。背中から夕日を受ける志貴は、目の前のア
スファルトの道路に自分の長い影が記されるのを見つめている。一歩歩く毎に
影もまた一歩先を歩き、身長の倍もありそうな細長いシルエットが地面に記される。
鴉の鳴く声が、茜色の空に長く寂しく流れていった。
志貴は迷うことなく道路を歩いていた。学校からの帰り道の制服姿で、皮鞄
を小脇に抱えてすたすたと歩いていく。だが、志貴の足の向かうのは遠野邸の
屋敷に向かう長い坂ではなく、住宅街の細長い道であった。
区画の大きさもまばらで、時にはきちんと交差点になっていない五叉路三叉
路などを通り抜けていく。車に追い抜かれたりすることもなく、時折買い物か
ごに荷物を積み上げた主婦や散歩する老人などが志貴とすれ違うが、志貴も向
こうも特にはお互いのことを気にしない。
志貴が向かっていたのは、シエルのアパートであった。やがて入り組んだ路
地の末の二階建てのアパートに辿り着くと、開けっ放しのスチールの門を乗り
越えてちらりとポストを覗き、そのまま階段を上がっていく。
志貴は無言で二階の一室のドアノブに指を掛け、回す。
「あ……先輩、留守か」
ノブに硬い手応えがあり、ドアが開かないのを知った志貴は誰に言うともな
く呟く。そして、ポケットの中をごそごそと漁って、小さな蝦蟇口といっしょ
に鍵の束を引っぱり出す。
志貴が持っていたのはシエルの部屋の合い鍵であった。
つまり、シエルと志貴の関係は――そう言う関係に発展していたのである。
ロアを巡る戦いの末に結ばれたシエルと志貴であったが、シエルは仇討ちの
本願を果たした後も、教会の任務のために三咲町に残っていた。そして、志貴
もそんなシエルの部屋に出入りする仲になり、今では合い鍵さえ持つ仲になっ
ている。
もっとも志貴の場合には、自宅である遠野邸ではシエルと異常に相性が悪い
妹の秋葉が陣取っている為に、呼びたくてもシエルを呼べないと言う事情があっ
たのであるが……
志貴が指をひねると、かちゃん、と鍵のシリンダーが音を立てて回る。志貴
は鍵をポケットに仕舞ってノブを開け、身体をドアの中に滑り込ませる。
「お邪魔します……いや、ただいま」
志貴は一人でそう言い直して、玄関で履き物を脱いでシエルの仮寓に上がる。
ぷぅん、と匂うシエルにお馴染みの薫りを感じて志貴は思わず苦笑し、その
まま足をリビングに面したキッチンに向ける。
「先輩、またカレー作ってるのか」
志貴は鞄をテーブルの上に置くと、西日の射すの茜とステンレスの鈍い光り
に囲まれたキッチンに向かった。志貴が見ると、陽のないコンロの上に寸胴鍋
が蓋をされて置いてあるのがわかった。志貴がその中に入っているモノを蓋を
上げて覗くと――
案の定、カレーの黄土色の膜を被った表面がそこにあった。
これは作り置きのカレーであり、きっとシエルが数日間煮たり足したり寝か
したりを繰り返した逸品であろう。志貴は木箆でカレーの中身をかき混ぜ、ど
ろりとしたルーを確かめる。
「先輩が帰ってくるまでに、一煮込みしておくか……」
志貴はそう呟き、コンロの火をごく弱火に絞って点火する。そして他の洗い
物でも片づけようか、と思って流しを見ると、生憎洗い籠の中に食器もスプー
ンもすべて洗われ干されている。
このまましばらくリビングのテーブルに座り、テレビでも点けて待っていよ
うかと志貴は考える。だが、遠野家の生活ですっかりそういう中流庶民の行動
が抜け落ちてしまった志貴には、テーブルの上のリモコンに延ばす手が躊躇わ
れた。
志貴がぐるりと辺りを見回す。西日の射す部屋の中は朱と茜のコントラスト
に彩られ、志貴一人だけしか居ないことに寂寞の念を強く感じる。志貴は今シ
エルがここにいたら寂しくはないのに……とかすかに感じていた。
志貴がシエル恋しさか眼を寝室に向けると、主のないシエルの寝室の扉が開
いていたのが見える。今、先輩は居ないか――と志貴が思うまでもなく、足は
ふらふらと寝室の中に向かっていた。
寝室の中は、キッチンのカレーの匂いとは異なり、リネンの薫りとシエルの
女性らしい薫りの立ちこめる部屋であった。ここで初めて志貴とシエルは結ば
れ、爾来二人の交渉はこの寝室を主として行われていたのであった。
ベッドカバーの掛けられたベッドにぽすん、と腰を下ろすと、志貴は部屋の
中を見回した。見慣れた光景であったが、こうやって一人でシエルを待ってい
る志貴には無性に目新しく見えることもある。
タンスと鏡台を志貴はじーっと眺めたかと思うと、ベッドの上からむくりと
立ち上がったかと思うと、すたすたとタンスの方に近寄っていく。
志貴は知らずタンスの観音開きの引き戸に指を掛け、衝動に駆られたように
こう思い始めていた。
――先輩のタンスの中って、どうなっているんだろう?
その中を何度も見たような気がするのだが、かといって記憶にないのが志貴
であった。夢の中でこうやってシエルの家捜しをする記憶がなきにしもあらず
であったが、その中でもなにを見たのかを覚えても居ないし、そんな夢はアテ
にならないこと至極である。
――気になる
こうして興味を持ち始めた以上。志貴には行動を抑えることは出来なかった。
幸いシエルは留守であり、返ってくるまでまだ時間はある、と志貴は踏んでいた。
もしかして、ずらーっと教会のカソックが並んでいるのかも知れないし、中
には自動小銃や対戦車ミサイル、はてまたあの物騒な改造超兵器・第七聖典が
ごろりとガンオイルにまみれて転がっているのかも知れない。
しかし、そんな疑問も指先一つの動きで解決する――
志貴の指はタンスの金具に掛かり、覚悟を決めるために一つ息を長く吐いた
かと思うと、意を決して引き開ける。
………………………………
「なーんだ、期待して損した」
志貴は思わずそんな感想を漏らしていた。引き開けたタンスの中には、学校
の制服や私服の上着やスカート、そしてブラウスやタイなどが吊ってあった。
確かに教会のカソックもあるが、全体としてはごく普通の女の子のタンス、と
言う感じであったのだから。
もっとも、一番下には訳の分からない武器や刃物の類が転がっているのがシ
エルらしい、とも言えたのであるが。
「先輩も、やっぱり女の子だったんだねぇ……」
志貴は独白すると、タンスの中をしげしげと眺める。そして、目線はそのま
ま下がり、タンスの下の引き出しに定まる。そして、うんうんと鹿爪らしく頷
いたかと思うと腕を組んで独語する。
「やっぱり、ここまで見たからには下まで見ないと気が収まりませんな」
志貴は扉を閉めると、今度はしゃがみ込んで引き出しの前に陣取る。まるっ
きり家捜しをする体勢の志貴であったが、そんな行動の疚しさを誤魔化すため
か、言い訳を小声でぶつぶつと呟きながら作業に取りかかっている。
「いやね、なにせあの先輩だからこう、イスラム過激派のアジトみたいに凄い
物があると思ったんだけどね……こう、女の子だなぁ、と言うのを見せられる
となんというのか、より先輩が可愛いと思うんだよねぇ」
――なるほど、じゃぁどういう風に思っていたんですかね?
「そりゃ、恐いところもあるけど不思議な先輩って。いろいろ昔にあったけど、
今ではすっかり角が落ちてかわいいんだよねぇ……」
志貴はタンスの引き出しを開けて中を探っていく。畳まれたシャツなどを持
ち上げてまるで何かを隠していないかを探るような仕草を見せる。そして引き
出しを仕舞うと、こんどはその下の下着類の引き出しを開ける。
「うわ、ガーターストッキング……先輩もこんなのを持っているなんて……今
度こういうのでお願いしたいなぁ……しかしまぁ、いろいろあるもんですな、
女の子の下着というのは」
――それはもう、女性の嗜みですから
「やっぱりねぇ、でも先輩も制服も良いけどカソックの時もまた別の魅力があ
るんだよね。あ、一番良いのはやっぱりベッドの中だけど……時に思うんだけど」
志貴の指が、コツリと「それ」に触れた。
志貴は下着の間に、硬い感触を感じて違和感を覚える。
それの指触りに志貴は一瞬眉根を寄せる。
そして、下着の下に潜ったそれを、右手の指先で握って形を確かめようとす
る。そんなことをしている間にも志貴の口は動き続ける
――はい、何でしょうか?
「いや、疑問に思ってたんだけど、これは俺の独り言の筈だよな」
――なるほど、で、それが何と?
「んー、いままでこうやって合いの手を入れたりしているのは、一体誰なのか
なぁという当然かつごく一般的な疑問なわけで」
志貴の指は、それをしっかりと掴んでいた。タンスの前でしゃがんだまま、
志貴は間抜けなことを口にしながら首筋の後ろに凍るような悪寒を感じる。と
もすると笑い出して後ろに転がりそうになる震える膝と太股をぴしゃぴしゃと
叩きながら、志貴は話し続けていた。
「もしかしてこれが俺の分裂した人格だったりするとかなり問題な訳で」
――ああ、そのことだったら心配要りません
「そうか、安心した。ということはこの声の主は俺の内面じゃないんだ……」
――ええ、遠野くん。そんなことをするのは一人しか居ません
「やっぱりねぇ……先輩」
まるで、時が止まり、空間は凝固し、差し込む夕日さえも飴色の固体のよう
に感じる一瞬。しゃがんだまま背を向けるという、殺してくれとでも言ってい
るような体勢のままの志貴は、次の行動を取り始めるタイミングを伺う。
一方、志貴の背中に立つ影も、眼の前の無防備な体勢の志貴をどうしてくれ
ようかと迷っているようであった。そう、いくらでもなんでも出来るので、む
しろ迷いが生じている。
「女の子の部屋の家捜しとは、いい趣味ではないですね?遠野くん」
今度は耳にしっかり伝わってくる声に、志貴はごくりと唾を飲む。正に萎え
んとした膝に全体力を注ぎ込み、手に握ったそれを掴んだまま、こう言い返す。
志貴の膝が上がり、素早く立ち上がり振り返る。
「まぁ、そうでもないよ、先輩――」
まるで居合道の抜き打ちのような、一閃
志貴の目の中に、冷たい憤激を宿したシエルの眼鏡の光が映る。
「―――――!」
シエルは腕を振りかぶり、志貴を力一杯ひっぱたこうとする。シエルの膂力
で思いっきり一撃をくらえば、志貴は間違いなくひねりを加えて一回転しなが
ら壁に叩きつけられるであろう事は間違いない。
だが、振りかぶるというシエルの動作は志貴を見くびりすぎていた。なにし
ろ無防備な体勢で背中を晒す志貴の反撃をまったく予期していなかったのだから。
シエルの怒りの一撃が飛ぶ一瞬の隙を、志貴は見逃さなかった。志貴は振り
向きざまに右手で掴んだそれを、シエルの顔面に突き付けるという攻撃に移っ
ていた。
シエルは思いもよらぬ志貴の攻撃に、咄嗟に眼を見開いて見極めようとする
が――
その次の瞬間
「?!☆※?↑↓♂?♀!★?!!」
〈続く〉
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