駘蕩

                         阿羅本


 遠野秋葉の黒髪が、枕の元にゆるく弧を描いて広がっている。枕に横向きに
頭を載せた秋葉は、薄目を開いて辺りの様子を半分眠ったような瞳で眺める。

 雨戸は閉め忘れており、障子がこの部屋と庭とを隔てる唯一の障壁であった。
そこからまだ低い朝の太陽の気配と、白む外の空気の気配が伝わってくる。季
節は春、庭の外には花と緑が着実にその生命の季節を迎え始めている。
 秋葉は板張りの天井とおざなりな感じの和室の電灯を見るでもなく見つめていた。

 ――朝――

 こうやって朝を迎えて何日目になるのか。
 すでに秋葉の記憶が曖昧であった。

 いつもの生活のリズム故か、秋葉は朝に目が覚めるのは早い。浅上女学園が
県外のために、かなりの早起きを習慣にしていたからであった。一時は市内の
高校に転入していたときもあったが、秋葉はまた浅上に復学し、いつも通りの
生活を送っていた――

 それは志貴を失った、傷心と寂寞の日々。

 志貴は四季と戦い、自分を救うために忽然と消え去った。一人残された秋葉
の怒りにも似た寂しさはいかばかりのものであったのか、今の秋葉には思い出
したくないものがあった。

 秋葉は思いでの中の不安が伝染する思いで、軽く身体を震わせる。秋葉の手
が剥き出しの自分の肩を掴み、まるで心臓が苦しむかのように身を屈め、心の
痛みに震えた。秋葉は手を伸ばし、救いの手を同じ布団の中に求める。

 秋葉の指が、それに触れた。
 それは、人の体温であった。秋葉は手を伸ばしてその暖かい身体を掴み、自
分の身体を寄せていく。

 僅かに腰で止めるばかりとなった襦袢は乱れ、秋葉は裸のその薄い胸を、暖
かい人の背中に押し付ける。体温が体の中に蟠った苦しさや寂しさ、寒さを溶
かしていく――そう秋葉には感じられ、目を閉じて再び微睡みの中に堕ちよう
とする。

 秋葉の胸を寄せているのは――遠野志貴の身体であった。

 埋められない心の中の空白を、心の中で血を流しながら耐えていた秋葉。
 しかし、ある日に前兆を境とし、秋葉が志貴の生を確信してから後に、待ち
望んだ志貴は帰ってきた。

 そして、それからというもの――

「兄さん?」

 志貴が眠りに落ちていることをその安らかな寝息と鼓動で感じる秋葉は、
その声を聞かれていないと知りながらも、小声で話し続ける。
 秋葉は頬を志貴の首筋に寄せ、短い髪に隠れた志貴の耳に唇を付けて囁く。

「もう……私を残して逝かないでください……」

 幾度、この言葉を口にしたのであろうか?
 でも、その度に秋葉は瞳が潤むことを禁じ得なかった。秋葉は流れる涙をそ
のままに、志貴の身体を、まるで己の中に溶かしこんでしまいたい、と言うほ
ど愛しげに抱きしめた。

 ――兄さんと、ずっとこうしていたい

 秋葉の心の中にあるのは、そんな言葉ばかりであった。まるで壊れたオルゴー
ルの様に、ゆっくりと秋葉の中では志貴を恋いる言葉が繰り返されていた。
 秋葉の腕は志貴の胸に回り、胸元のえぐれた疵痕をさする。

 秋葉が志貴の身体を抱きしめ、涙を流しているその時――
 ほとほと、と外の障子が鳴った。

「……秋葉さま?」

 聞き慣れた声を耳にして、秋葉は志貴に回した腕を未練深げに解き、ゆるゆ
ると身体を起こした。

 秋葉の上半身は裸であり、腰にしどけなく襦袢を止めていた帯が解けまとわ
りついている。布団の上に腰を下ろした姿勢の秋葉は、障子越しの光の中で己
の裸身と、そこに残された志貴の愛の跡を見つめていた。脚の間の茂みと、僅
かに汗を掻いた身体。

 そして、目を声のした方に向けると、障子越しに人影が浮かび上がる。
 縁側に膝をつき、障子の前で秋葉の声を待つ琥珀の姿であった。

「……秋葉さま?」
「琥珀……何の用?」

 秋葉は普通に答えたつもりであったが、ひどく気怠げに声は和室の中を響く。
 その声に、障子越しの琥珀の影が僅かに動いた――ような気が秋葉にはした。

「おはようございます、秋葉さま。本日は水曜日ですので、登校のお支度を」
「……」

 琥珀の声に、秋葉は身動きをしない。
 ただ、まだ眠そうな瞳で室内を眺め、乱れた布団や枕、そして志貴の横向きの
寝相の背中を見つめると、秋葉の喉は自然と動いた。

「……今日も学校はいいわ、琥珀。下がって」

 秋葉の声はそう命じていた。
 その声は、決意に満ちたものや意志を感じるものではない。ただ、駘蕩たる
春の空気の中でとろけ、輪郭を失い、染み込んでいくような声であり、聞きよ
うによっては――退廃的で淫靡な声色であった。

 琥珀は障子の向こうで、身動き一つしなかった。
 姿勢を変えず影も動かさず、琥珀は再び主である秋葉に尋ねる。

「しかし、秋葉様。もう今日で学校をお休みになられてか三日目です。そろ
そろいらっしゃいませんと、学校の方からも……」
「だから、琥珀……私はいかない、と言ったのが聞こえなかったの?」

 いらだつ秋葉の声が琥珀を遮ると、二人ともしばし言葉を発するのを止め、
障子越しに対峙する。

 秋葉は、志貴がシエルに伴われて戻ってきてからと言うもの、まるで立て篭
もるようにこの離れの中に志貴と共に留まっていた。そして、昼夜を問わずに、
愛しい恋人であり、兄である志貴との痴態に耽っていたのである。

 それは、今の秋葉のしどけない格好からも一目瞭然であった。障子越しに気
配を察する琥珀は、敢えて和室の中に踏み込み、秋葉の姿を見ようとはしない。
 秋葉は学校を休み、ひたすら志貴の身体を貪り、また志貴は秋葉の身体を味
わい尽くしていた。二人ともまるで、肉欲に狂う痴愚に成り果てたかのように――

 翡翠や琥珀の差し入れる食事だけを摂り、二人は眠るとき以外はお互いを求
めあっていた。ある意味新婚の夫婦のようであったが、周囲の世界を遮断して
この部屋から出ていこうとしない二人には、病的なものを感じさせる。

 清々しい早朝だというのに、この部屋の中には――爛熟しきった肌の薫りが
立ちこめていた。

 秋葉と琥珀が障子を隔てて対峙するのは、今回が初めてではなかった。
 この数日、秋葉は志貴の元を離れようとはしない。

 琥珀はしばらく縁側に端座して言葉もひとつ立てなかったが、やがてすくり
と縁側に立ちあがる。立ち上がった翡翠の和服のシルエットが障子に映った。

「それでは、本日もご体調の不良と言うことでお伝えしておきます。
 食事は、私が運びますが……よろしいでしょうか」

 障子の向こうからは答えはない。琥珀は障子の向こうにしずしずと頭を下げ
ると縁側の石に揃えてあった履き物に脚を通し、庭に立つ。
 琥珀はそのまま離れから去っていくかと思われたが、しばらくは脚を止めて
障子の、またその中の秋葉と志貴を透し見るような瞳を見つめていた。

 琥珀の唇は一文字に結ばれていたが、それがやわらかく開くと――

「秋葉さま?翡翠ちゃんも秋葉様のことを心配して居るんです。
 ですので、志貴さまとご一緒に、外に……」
「……そうね、考えておくわ、琥珀」

 やる気のない秋葉の答えが僅かに障子紙を震わせた。
 琥珀は、それ以上何も言わずに――去っていった。

 一方の秋葉は、縁側から琥珀が去るのを見守っている。
 そして、琥珀に投げやりに言葉を返すと、布団の上で腰を下ろしたまま這う
ようにして志貴に近づく。

「……秋葉、お前」

 低く甘い志貴の声を感じ、秋葉は驚いて兄の背中を見つめる。
 今まで眠っていたはずの志貴が、ごろりと身体を横に倒して秋葉の方に向い
た。上半身は布団の上から覗き、胸元の大きな傷が明かりの中で痛々しい。

 志貴は片手で枕元の眼鏡を探り、指に引っかけて横たわりながら掛ける。

「兄さん……起きていたんですか?」
「ああ、今日は珍しくな……背中を秋葉に抱きつかれた辺りから」

 志貴は戸惑いを隠せない秋葉の声を聞きながら、布団の上に上体を起こした。
秋葉と志貴、二人は少し歪んで敷かれた布団の上に身を起こし、向かい合う格
好となる。
 秋葉は、話を聞かれたことに動揺を感じていた。指で髪をつい弄ってしまう
秋葉に、志貴は訥々と語りかける。

「話、聞いてたけど……琥珀さんにあんな風に言うのは良くないと」
「でも……私は兄さんと一緒に居たいんです。駄目ですか……兄さん」
「それは、まぁ……俺は嬉しいけども、秋葉も学校があるんだし……」

 剥き出しの肩を知らずに震わせて語る秋葉に、志貴はつい言い淀んでしまう。
 志貴にも、死地を彷徨い愛する秋葉と邂逅出来たことに限りない喜悦を感じ
ていた。だが、戻ってきてから、志貴の肌を求める秋葉にも違和感を感じていた。

 まるで子供のようにむずがる秋葉。
 あたかも――秋葉の心の中で、秋葉を秋葉たらしめていた何かが折れてしまっ
たような。

 自分にすがりつき、泣きながら求めてくる秋葉は愛しかった。
 だが、今の秋葉には脆く、崩れてしまいそうな危うさがある。志貴は軽く溜
息をついて、秋葉の細い貌を見つめる。

 ほんの少し朱が交じったように見える、黒い瞳には涙が溢れていた。

「秋葉……琥珀さんも翡翠も心配して居るんだから、せめて屋敷に戻って……」

 だが、それ以上志貴は喋れなかった。
 秋葉はやおら身を起こすと、素早い動きで志貴に覆い被さっていた。予期し
なかった動きに志貴があっけに取られている間に、秋葉は仰向けの志貴の腰
の上に乗っかるような体勢で、志貴の顔の両脇に腕をつく。

「秋葉?」
「兄さん……私がこんな風になってしまったのは、兄さんのせいなんですよ」

 秋葉は志貴の上から、その長い髪を垂らしながら囁く。
 秋葉はほとんど裸であったし、志貴も似たような格好であった。秋葉の薄い
胸からすべやかなお腹、そして両足の付け根の茂みにまで至る光景が志貴の視
界の中に一望に収まっているが、視線を秋葉の顔に戻した志貴の頬に、ぽとり、
と一滴の涙が落ちる。

 頬を伝う秋葉の涙に志貴が黙していると、秋葉の声が続く。

「兄さんが、私をこんな風な、弱い女にしてしまったんです……
 兄さんが戻ってきて、兄さんの腕に抱かれて、私は昔の強がっていた秋葉に
戻れなくなって……ここから兄さんを外に逃がすともう会えないんじゃないかっ
て……だから、ここから出ることが出来ないんです。おかしいでしょう?兄さん」

 秋葉の瞳に志貴は一瞬、光のない闇が広がったかのような錯覚に陥る。秋葉
の声は切々と志貴に語りかけるようでありながら、秋葉自身に対して説いて聞
かせるような色を秘めていた。

「秋葉……もう、いい」

 志貴はこれ以上、秋葉の苦しげな、悲しげな声を聞くつもりはなかった。
 志貴は腕を伸ばして秋葉の脇の下を通し、背中を触れて自分の元へと抱き寄
せる。秋葉は一瞬腕に力を入れてこらえるような様子を見せたが、すぐに身体
を志貴の元へと投げ出す。

 眼鏡を掛けた志貴の顔と、秋葉の貌が急接近する。
 秋葉は両手でそっと志貴の眼鏡を外し、血のように紅くみずみずしい唇を、
志貴の唇に宛う。秋葉の腕は、志貴の頭に回されて接吻をより深めようとして
いた。

 秋葉の舌が、志貴の唇を割る。ぬらりと湿った暖かい舌と舌が、絡み合いお
互いの舌と口腔、唇を貪り合う。
 しばし二人は抱き合ったまま、鋭敏な口と舌のもたらす快感に酔っていた。
朝陽が徐々に昇り、南側の戸の障子が明るく光を受けて、灰色から白く転じて
いく間も――

(To Be Continued....)