ごかいもろっかいもありません
西紀 貫之
遠野の中庭は広い。
日差しも真夏の強さをまとい始めてきた七月の半ばに、遠野家の当主である
秋葉がその中庭での昼食を催した。
その準備のためか、もともとはテラスにあった丸テーブルを志貴が秋葉に指
示された木陰の下まで運んでいる。
「まったく、持ちにくいんだよなぁ」
物としては良いテーブルなのか、材質が木材のせいか、街中の飲食店で見か
けられるプラスチック製のテーブルよりも重く持ちにくい。
「だいたい、病弱な兄に対してひどい仕打ちだとは思わないか?」
志貴が芝生の上にテーブルの足を置き一息つきながら首を向けて訊く先に、
シックなワークドレスを着込んだ少女がバスケット片手に苦笑している。
「それでも、秋葉様には頼れる兄なのですから」
生真面目な印象を受ける、一見冷たそうな表情のまま、翡翠は足を止めて向
き直った。
「男手と言えば、このお屋敷には志貴さんしかいませんからね」
「だとしてもさぁ」と呟きながら、志貴は一声かけてテーブルを持ち直す。
「……まぁいいか。今日は珍しく秋葉が厨房に立つっていうんだから、これぐ
らいはしてやらないとな」
「そうですね。七夜姉さんと秋葉様の合作手料理が並ぶんですから、考えよう
によっては遠野家始まって以来のイベントではないでしょうか」
「イベントかぁ。まぁ、確かにこの家においてはそういうアットホームなイベ
ントなんて無かっただろうからな」
背中越しに振り返り、屋敷の裏を臨む志貴。
暗く古めいた屋敷の雰囲気を、初めに帰ってきたあのときのような重苦しさ
ではなく、今は落ち着いた安心感のようなものを感じるようになっている自分
に志貴は気づいていた。
かすかに微笑み、視線を戻しながら志貴は翡翠に問い掛ける。
「翡翠は何も作らないのかい?」
「…………」
「…………」
「…………」
「ご、ごめん」
無表情なまま無視を決め込んでいる翡翠の横顔に質問への拒絶を感じ、志貴
は消える様な声でそう言った。
「練習はしています」
「へ?」
さくさくと足を進めながら、バスケットに視線を落とした翡翠がそう呟く。
心なしか強く握っているのか、バスケットの網目がキュっと鳴った。
「お料理に関しては、まだ志貴さんにお出しできるものは作れません。ただ、
いつか志貴さんに食べていただけるように練習だけはしています」
口元をきゅっと引き締め、翡翠は志貴の瞳を見つめる。
志貴はそんな翡翠の瞳に言い難い愛らしさを感じ、思わずテーブルを離して
抱き寄せたい衝動に駆られる。
「そっか、そいつは楽しみだ」
「お待ちください」
「で、どんな料理なんだい? やっぱり基本的なとこで肉じゃがとかかな」
「……は、はぁ。まぁそう言ったところです」
スッと目を逸らす翡翠。
視線を意識していた志貴は疑問に思いつつも追及を止める。
「そ、そうか。楽しみだなぁ」
そこはかとない不安を抱えつつも、もう一声入れて志貴は汗のにじむ手でテー
ブルを持ち直した。
志貴の乾いた笑いと、翡翠の微妙な微笑が夏の日差しに消えていった……。
かなり大きめな、洋風の厨房が遠野家にはある。
一人では持て余しそうな設備だか、ここを切り盛りする七夜は手馴れた感じ
で作業をしている。
「はい、秋葉さん、アスパラに火が通りましたよー」
鍋の火を落とし、シンクに掛けてあるザルに中身を空けながら、七夜は右手
の秋葉に声を掛ける。
「あ……うん」
そこには頼りなげな顔つきで菜箸片手にフライパンと格闘している秋葉の姿
があった。
軽く塩茹でしたアスパラガスの湯きりをしながら、七夜は返す刀で冷水で冷
やし始める。そんな七夜の手際よさを感心したように秋葉は見ている。
「ほらほら、ベーコンがこげちゃいますよー」
「あ、あああ〜」
秋葉は染み出した油が熱でパチパチとはね飛ぶのを恐々と見ながら、長めに
握った菜箸をフライパンに突っ込む。火が通り、フライパンに少しくっついた
ベーコンをつまんで剥がしにかかる。
「熱っ」
はねた油の熱さを受けながらも、秋葉は逆に手を引かずに力任せに一気に引っ
ぺがした。
「あ」と声をあげたときには遅く、半ばから千切れたベーコンが菜箸の先に引っ
かかってじゅうじゅうと熱の余韻で音を立てていた。
「秋葉さん、急がないと他のも剥がしにくくなりますよ。もう火を落としてい
いですから、チャッチャとやっちゃいましょう」
「わ、分かったわ」
秋葉はコンロの火を落とし、幾分和らいだ熱の中にもう一度菜箸を突っ込み、
ベーコンを油きり紙の上につまんで並べていく。
秋葉は一息つき、その上からもう一枚油きり紙をかぶせて軽く手で押さえつける。
「ふう、なんとかなったわね」
秋葉の呟きに、七夜が寄ってくる。
「できましたか?」
「ええ、なんとかね」
手元を覗き込み、七夜はにっこりと微笑む。
「もう油は切れてますね。あとは刻むだけですが、秋葉さんやられます?」
包丁を使うかどうかの問いだ。
「当然。ここまでやったんだもの、やらせてもらうわ」
「ふふふ、さぁどうぞ」
差し出された柄を取り、秋葉はまな板に乗せたベーコンの束に挑みがかった。
「あーあー、危なっかしいなぁ」
「それでも、私よりかはお上手です」
志貴は重ねた椅子を抱えながら、厨房を覗き込んでいた。
同じく傍らで控えている翡翠も、ちょっと覗いて複雑な表情で秋葉の奮闘を
評価した。
「しっかし、いつもは背筋を伸ばして『お兄様、遠野家の人間として恥ずかし
くない生活をしてくださいねっ』とか言ってる秋葉のあんなに危なっかしく頼
りない姿を見られるとはなぁ」
声真似までしてしみじみ感動する志貴。
「いやはや、眼福眼福。さ、行こうか翡翠」
「…………」
「翡翠?」
「……はい、行きましょう」
風がそよいでいるとはいえ、昼に差し掛かると日差しは力強さを増して降り
注いでくる。
保温された鍋や、パンにレタスと言ったサンドイッチの材料やら、サラダや
らオレンジジュースやらが載ったキャリアーを押しながら、志貴は日差しに目
をしかめる。
「おっと」
芝の凹凸に車輪がとられそうになり、慌てる志貴。
さすがに中身をぶちまけてしまうと、今回ほどヤバい日は無い。
「しかし、秋葉の危なっかしいとこ見て不安だったけれど」
志貴は鍋のふたを開けて、湯気の立つ野菜スープに目を細める。
「美味しそうな匂いだなぁ」
鼻をひくつかせ志貴に、テーブルクロス他、食器を運ぶ翡翠は苦笑混じりに
頷いた。
「きっと、秋葉様も志貴さんに食べてほしいと思っているのでしょう」
「秋葉が?」
「はい」
ある確信をもって翡翠は首肯した。
「秋葉様は厳しいことを仰いますが……志貴さんを愛しておられますから」
志貴はギョッとした。
「愛って、翡翠」
「まさか『兄妹愛』とは思いませんよね?」
「お、おいおい」
遠野秋葉と遠野志貴の間に血縁関係は無いものの、志貴自身は秋葉を妹とし
か認識してはいなかった……はずであった。秋葉にしても、志貴への感情は同
じ物であったと志貴は感じている。成長期や思春期を経て再開したときも、お
互い兄妹の間柄で接していたはずである。
あの事件のときも……その後も。
「志貴さんは、秋葉様の気持ちを知らなさ過ぎではありませんか?」
志貴も翡翠も足を止めて向き合う。
「登校時間の限界まで志貴さんの傍に居たがった気持ち、分からなかったとは
言わせませんよ」
「……ま、まぁ」
ひとつため息をつきながら、翡翠は眉根を寄せて志貴を見る。
「志貴さん」
「ん?」
「私は……翡翠は貴方のものです。ですが、志貴さんはたぶん」
そこでひとつ息を吸い、今度は少し微笑みながら翡翠は空を仰いだ。
「……皆のものなのでしょうね」
「はぁ?」
呆ける志貴。
それに構わず翡翠は微笑みながら歩き始める。
「おいおい、それってどういう意味なんだ?」
「……知りません」
自分で気付いて下さい、と、翡翠はため息混じりに呟いた。
薄いハムを何枚も重ねて挟んであるサンドイッチを頬張りながら、志貴は木
陰にそよぐ風を心地よく感じて目を細める。
「良い風だなぁ」
サンドイッチをつかんだ逆の手で冷えたミルクに手を伸ばしながら、志貴は
誰ともなしに呟いた。
右手にサンドイッチ、左手にミルクカップでモグモグ食べている志貴を、秋
葉は少し困ったような顔で一瞥する。
そんな秋葉の文句を言いたそうな視線に気づいていても、志貴は敢えてそれ
に気づかない振りをした。
以前ならトゲのある言葉で注意もされた志貴だったが、去年の一件以来、秋
葉は志貴に『遠野家』を押し付けるようなことはしなくなっていた。志貴自身
それを秋葉の遠慮と感じていたし、実際秋葉も志貴に……遠野志貴ではなく七
夜志貴に対しての後ろめたさなものがあったのだろう。
「兄さん、行儀悪い」
「……おお、すまん」
何気ない注意に、素直に頷く志貴。
ミルクカップを置き、志貴はフと風にそよぐ秋葉の長い黒髪に目をとめる。
「しかし秋葉」
呼ばれ、野菜スープに差し入れた匙をいったん置いてから、秋葉はゆっくり
口元を拭いて志貴に向き直る。
「なんですか?」
「秋葉の髪の毛って、長くて綺麗だよな」
ガチャッ。
言った矢先に、翡翠の手元がビクンと震えた。
「あらあら、翡翠ちゃんったらもう」
「……」
秋葉は志貴に言われ、少し呆けたように目を丸くする。
縋るような視線を志貴に投げかけるが、当の志貴は秋葉の黒髪をまじまじと
眺めて、あまつさえ手を伸ばそうとしている。
「ちょ、ちょっと兄さん」
秋葉も拒絶は軽く、毛先をなでるような志貴に任せている。
「俺はこんなに伸ばしたことないからなぁ」
「と、当然でしょ。兄さん、男の人なんだもの」
秋葉は、その「男の人」と言う所でペチっと志貴の手をたたく。
「いつまでも女性の髪の毛を触らないの」
「あー、すまん」
「女性にとって、髪の毛は特別なのよ。異性が簡単に触れていいものじゃないの」
「そうか。じゃぁ触らせなきゃいいのに」
「そ、それは」
志貴の言葉に、詰まる秋葉。
「あらあら、秋葉さんは志貴さんに触っていただきたいんですから」
「七夜も何言うのよっ」
「はははははは」
「兄さんも良く分かってないのに笑わないの!」
「…………」
翡翠は無表情にお茶を啜っている。
午後の日差しも少し傾きかけたころ、四人は熱い紅茶を嗜みながら、偶にそ
よぐ風を感じつつ取り留めのない会話を愉しんでいる。
「しかし、兄さんも顔色が良くなってきたわよね。少し前までは本当に病弱少
年だったのに。……ふふ、最近は熱も貧血もないんだもの」
「おいおい、無ければ無いでいいもんじゃないか」
「無ければ無いで寂しいものよ? ……翡翠なんか特に、看病できないものね」
振られた翡翠は、少し心外そうに居住まいを正すと、紅茶を口に一言呟いた。
「子供みたいに甘えられるので、少しイヤではあります」
静かな時が、流れた。
「そ、そう。兄さん、甘えるんだ」
「どんな風に甘えるんでしょうねえ」
「あー、話を変えようよ。ね。うんうん」
「添い寝を切望されたことも……」
「あーあーあーあーあーあーあー」
「「……まぁ」」
七夜と秋葉の声が重なる。
慌てた志貴と、少し意地悪くなった翡翠。達観的に微笑む七夜。
「んふ。……楽しい」
そして、素直に笑える秋葉。
昼食からのお茶会が終わるまで、四人は気持ちから寛げる時間を共有し、自
然な、兄妹や家人という関係ではなく、四人という関係で打ち解けていた。
「で、片付けもあるわけね」
「当然でしょう?」
またもテーブルをテラスに担いで行く志貴。
翡翠も七夜も椅子を二脚ずつ持ち、秋葉はワゴンを押している。
「まったく、男の人って食事は上げ膳据え膳が当然と思ってるんだから。少し
は七夜や翡翠に感謝しなきゃだめよ」
「してるってばぁ」
「どうでしょうか」と、翡翠が横目で呟く。
「でも、志貴さんはそれでいいんですよー」
おっとりと七夜がフォローする。
「どこがいいのよ、どこが」
「ははははははは」
「兄さんも良く分かってないのに笑わないの!」
「でもさ」と、志貴はテーブルを持ち直し、秋葉に笑いかける。
「またやろうな、昼ご飯とお茶会」
「……うん」
(To Be Continued....)
|