これは没で途中で書くのをやめております。未完成であり、ほんとうに没の作品ですので、その点を留意してお読み下さい。



無慈悲な銀の瞳
 
 逃げていた。
 それはまるで負け犬のように逃げていた。
 息を荒げて、怯え、涙をながし、心を昏い恐怖に鷲掴みにされたまま。
 口から漏れる言葉にならない悲鳴。
 悲鳴をあげ続けないと気が狂いそうだった。
 顔は歪み、目はうつろで狂気の輝きをはなとうとしていた。
 
 早く、早く、早く。
 
 血走った目を見開いて、きょろきょろさせる。右に、左に、上に、下に。
 
 どこへ。どこへ。どこへ。
 
 わからなかった。見慣れたはずの景色が歪んで見える。
 いつも歩いたはずの町並み。煉瓦で舗装された道をとにかく走る。
 もう心臓はなっていないのに、脈打つ音が聞こえる。
 頭の中でどくんどくんと荒い息とともに響き渡る。頭が割れそうだ。
 割れてしまいそうだ。それよりも早くしないと。
 
 とにかく、見覚えのある角を曲がり、見覚えのない道へと飛び込む。
 とたん、月が目に飛び込んできた。
 街灯は少なく、暗闇が支配し、影が横行する裏路地。
 両脇の塀で切り取られた闇よりもなお暗い夜空に、月が浮かんでいた。
 その夜空に浮かぶ銀の瞳は無慈悲な光を湛えて、彼を見ていた。
 
 その月に怯えて、鼓動がとまる。とまるはずがないのに、それが強く感じられる。
 
 見られているという脅迫概念。つけられているという脅迫概念。不安、怯え、恐慌が入り交じったドロドとしたくろいものが彼の心を呑み込みすりつぶしていく。ごりごりと擦られ、ぶちぶちといって弾けていく感じ。
 膿のたまった血袋が弾け、中からじゅくどゅくとこぼれおちるような、感覚。
 こぼれおちるのは彼という人格。それがじくじくと傷つき、したたり落ちていく。
 
 むせかえるような匂い。
 いつもの、土の匂いはなかった。
 むせかえるような鉄臭い、独特の匂い。
 壁も、道も、土も、草木も、石も、空気も、なにもかもその匂いを放っていた。
 鼻につく。空気さえもその匂いでいっぱいで、肺の中さえそれで満ちあふれてしまう。
 ゾクゾクと寒気さえ覚える。
 背筋に幾度もゾワリとした者がはいずり回る。
 ざわざわと肌の下をなにかがはいずり回る、おぞましい感覚。肌がぺろりとむけてそこが膿みだしたような、狂いそうな恐怖。
 
 一面、真っ黒だった。闇がそこに物質化して、うずくまっていた。厭らしく身をよじり、唸っていた。
 それがモゾモゾと蠢き、時折はじける。
 
 ひぃと彼は息を呑んだ。
 あまりにもおぞましい。
 彼には耐えられない。
 耐えきれない。
 
 せっかく――せっかく、せっかく、ここまできたのに。
 
 何が間違いだったのかわからない。
 闇がざわめく。低い唸りをあげて、彼の心を圧迫する。呑み込み、すりつぶし、喰らいつくそうかとしている。じりじりと焦げ付くような厭らしい感覚に肌が粟立つ。
 
 その闇の中に飛び込む。
 でないと、この闇よりもおぞましいものがくる。
 早く逃げないと。
 
 闇は一声に飛び立つ。
 それは、蠅、だった。
 壁に、地面に、木に、草に、窓に、塀に、石に、葉にたかる何千匹もの蠅。
 それらは蠢き、手をこすりあい、飛び立ち、ぶーんと唸る。世界すべてにたかり、貪るかのように覆い尽くしていた。
 
 その蠅の中を彼は一気に駆け抜ける。
 蠅が一声に飛び立ち、闇がぶーんと唸った。蠢き、たかるおぞましい蠅の群。
 蠅にぶつかる。顔に、目に、鼻の穴に入り込んでくる。
 吐き気を覚え、胃の中のものを吐き出す。それさえもすぐに蠅がたかり、貪ってしまう。
 髪に、指に、肌に、耳に、唇に、喉に、肘に、胸に、脇に、膝に、脚に、脛にたかられしてまう。
 黒いものに彼は覆い隠されてしまう。
 いそいでかけぬける。胃が痙攣し幾度もすっぱいものがこみ上げてくる。口からそれを垂れ流しながらも、そこから逃れようともがいた。
 もがき、あがくほど、それは飲みほすように、貪るように、蠅はたかる。手をこすり、首をかしげ、その触口でなめ、ぶーんと羽ばたく。
 両手でふりはらい、脚を一歩でもすすめ、目にもたかる蠅を拭う。苦しくて息を吸うと、そこからも蠅が入り込む。舌の上にさえたかる蠅。
 蠅、蠅、蠅。
 黒い蠅がなにもかも覆っていた。
 
 それでも、なお、彼はあがき、逃げ続けた。
 これよりも怖いもの。おぞましいもの。苦痛をもたらす者が迫っているのだ。
 
 早く、早く、早く。
 
 
 
「ああ、そこまでにしておいてくださいね」
 
 
 
 冷たい透き通った声が闇に響き渡る。低く狂気と狂喜がまじった、おぞましいのに、透き通った声だった。
 とたん、彼はとまるる蠅にたかられながらも、まるで操られるかのように声をした方に顔をゆっくりとむける。その動作はまるでゼンマイ仕掛けの人形のように、ぎこちなかった。
 
 そこにはこの闇に、この蠅の大群の相応しくない、白い法衣。あまりにも白すぎて、目が痛いほど。
 白いカソックを着た妙齢の女性がそこに立っていた。首にかかった銀のクルスが月光をうけて、いやに輝いている。
 
 カツンカツンと靴音が響く。はいずり回る蠅を踏みつぶし、すりつぶしながら、彼女は笑いながら近寄ってくる。
 
「わたしはとても苛立っています」
 
 言葉とは裏腹にすごく穏やかな、とろけるほどの笑み。切れ長な瞳は和み、薄い唇にはやさしそうな微笑み。
 
「わたしの自由時間がどれだけ少ないのか、ご存じですか?」
 
 蠅が飛び立ち、まるで蜃気楼のように彼女の姿を歪める。しかしそれでさえ、そのカソックは汚れがないかのように白く輝き――まるで光を放っているかのようだ、と彼は思った。
 
「本当に激務なのですよ、わたしの職場は」
 
 まるで世間話をするかのように、ゆっくりと歩いてくる。蠅がぶーんと唸り、闇は悲鳴を苦しげに上げていた。
 
「わたしの部下は役立たずばかり。わたしをねぎらう精神もなければ、敬う精神も持ち合わせていません。本来ならば彼らはわたしに平服し、赦しを乞い、その聖なる職務のためにその血一滴残らず差し出さなければならないというのに。まず奉仕の精神について、主が諭した“愛”について、何十時間も語り合いたいものです」
 
 まるで彼を抱擁し、慈しみたいかのように、両手を上げた。
 彼は視線を彷徨わせる。恐れるかのように、怯えて、後さずりした。
 
「そうしたら、こんな事件」
 
 忌々しそうに、溜め息とともにつぶやく。はしたなく舌打ちしそうな勢い。なのに、その顔は晴れ晴れとしている。
 
「本来なら騎士団が行う役目なのに、出払っていて、しかもわたしの部下も出払っています。雑務におわれているわたしにも現場の雰囲気を味わうようにという主の思し召しなのでしょうか?」
 
 まるで雑談をするかのような話し方。なのに、その声は冷たく響く。
 蠅がさえばなす世界に虚ろに響く。
 カツンカツンという靴音。惨く冷たい、でも澄み切った涼やかな声。
 彼は後さずりして、いやいやと首をふる。
 
「でも、とても嬉しいことが一つだけあります。なんだかわかりますか?」
 
 聖母の笑み。子供を慈しみ、祝福する笑み。なのに、目は――。
 
「死徒を手引きした“人間”がいるということです。これは大悪人です。罪人であり、咎人です。ああ、主はそれでも愛せとお言いになるのでしょうけど、すべては免罪符でゆるされますから、きっとこのことも主がお許しになられるに違いありません」


 没にした理由。

 ひとつはナルバレックの魅力がきちんとかけてないこと。
 もうひとつは、もっとセクシャルな方が良かったから。
 結果『神の猟犬』へと書き直しとなりました。